111話
兵之助は様々なことを想い巡らせるうちに居ても立ってもいられず、床から起き上がり、暗闇の常夜灯として灯している行灯の元に行き、油皿の灯芯に紙撚を近づけた。
ちりり──
かすかな音を立て心細く火が灯る。そしてそっと蝋燭に移した。ほわっと玉のような明かりが広がり、それを燭台に立て、文机に置いた。兵之助は筆を取り書を認めた。隣には幸吉の最期の文を置いて……。
僅かばかりの灯りを元に、兵之助は念じながら書に心を込めた。
──天にましまし、幸吉の想いが通ざらんことを……──
神経を尖らせるように文字、一字一字を描く。闇夜の暗さは蝋燭の灯りだけでは勝てぬ。しかし、兵之助の想いは、まるで暗闇に浮かび上がるようだった。そのすべてに注がれた想いは刻が過ぎるのを忘れさせた。
チュンチュン──チュンチュン──
曙を告げる雀の声が、願いを認める兵之助の耳をくすぐった。
「もう、明け方か……ここまで時間が掛かるとは……」
障子を開けると薄明かりの中、まどろんだような空が高く広がっていた。
「ほんによう晴れとる、空は高いぞ……幸吉よ……お前はそこで見ているのか? 学舎が建つのを……」
兵之助の手には先ほど認めた文。それは丁重に蛇腹に折り畳み、文の表面はこう書かかれていた。
──伝八殿 机下 祈筆にて候──
そして、背面に『兵之助』と自らの名前は書かず、『風月同天』と書いた兵之助だった。この詞を認める際、兵之助は二人は若き日、貧しさも、希望も、夢も、共にしたことを思い出していた。
早朝に宗光がやってきた。これから伝八の元へ伺うため。
「宗光殿、朝早くからご苦労さま。これを伝八に合わせて届けておくれ。それと儂の名前は出さぬがよい……今はまだな。出せばあやつのこと、きっと頑なに断りを入れると思うがゆえ……なにせ、「兄者の商才は恐れ入るが、心は信じられん」と言われた身だからな。きっと、伝八のこと、その恨み忘れてはおるまいて……」
「そうまで思われるなら他をあたればよいかと思われますが……」
宗光が提案したが、兵之助は横に静かに首を振った。
「ならぬ……幸吉が願う学舎『仁巡孝院、恩雪庵』は伝八が手掛けてこそ、その輝きを増す……」
しっかりと兵之助は強い意思で宗光を見た。
「そしてその想いを儂、個人での伝八との確執でご破算になることは耐えられぬ。お頼み申す、宗光殿──」
「あい分かり申し立た……兵之助殿。幸吉殿の名にかけてその想い届ける所存です」
そう伝えると宗光は覚悟を決め、伝八の元へ向かった。