109話
京に戻ると朱鷺は兵之助に旅路の詳細を話した。話を聞き肩を落とす兵之助。
「何故、若き幸吉が旅立たねばならぬ。この親不幸ものが……」
言葉とは裏腹に拳を握り締め座した腿を拳で打ち付けた。跡目を継がせようとした矢先の出来事。兵之助の辛さを朱鷺は痛いほど感じていた。しかし、朱鷺はそれでも前に進む。幸吉の詞を心で感じているからだ。
「父上……幸吉殿の願いを聞いてくださらぬか。あの耶三淵の地に子どもたちの学舎を建立することを……」
一心に朱鷺は頭を下げた。兵之助は腕を組み考え込んだ。
「それと……これを……」
朱鷺は幸吉が認めた文を畳に置き、すっと兵之助に差し出した。兵之助はゆっくりと拾い上げ封を開く。まともな筆や炭はなく、なんとか書したことがわかった。
──お館さま
この文、お館さまの御目に触れん頃には、某は最早、はかなくも現世を去り、風塵と相成っておるやもしれませぬ。突然の別離、深き悲しみを御心に抱かせかせしこと、どうか、御許し下さいますよう伏してお願い申し上げ奉ります。
お館さまには、これまで親不孝の数々を重ね、まことに御心お労れ致し奉りました。若き日の未熟さゆえ、家道の外れ、己が夢ばかりを追いし愚かなる一子を、されどお館さまは、ただ静かに、然れど温かき御目にて見守り、御導き下さりし。その御恩、たとえ魂魄と相成るとも、忘れることはございませぬ。某が『孝』の心、お館さまに捧げしものに他ならず候。
まことに、某は、比類なき良き妻を得申しましたる。朱鷺は、某が心の奥底までをも理解し、いかなる時も傍らに寄り添い、支え続けし、何物にも代え難き光にございます。然して今、その胎には、お館さまにとって、まばゆき初孫の命が宿りておりまする。願わくば、この小さき命の息吹を、心待ちにして下されば、幸甚に存じ上げ奉ります。
お館さま、某が最後の、そして切なる願いにございまする。かの耶三淵の地に、幼き子らのため、学舎を建立したく存じ上げます。かの地は、某がお雪婆より、人生の灯火となる教えを賜り、多くの智慧を育みし、忘れ得ぬ故郷にございまする。某には、最早その夢をこの手にて叶えるは叶いませぬ。されど、願わくば、後に続く子らが、某が如く迷い、彷徨うこと無く、己が道を、光明を信じて歩めんよう、学びの場を与えてやりたき所存。お館さまの大いなる御力を、何卒、この夢に注ぎ下さいますよう、心よりお願い申し上げ奉ります。
然して、お館さま。某は、この世に一片の悔いも残さず、安らかなる心にて旅立つことが叶い申しました。それも偏に、お雪婆の深き「仁」の御心に触れ、愛しき朱鷺と、然してお館さまとの、かけがえなき絆を感じることが叶うたゆえに。まことに短い生涯ではございましたれど、某が心は、この上なく満たされておりまする。どうか、某が命を預けし妻と子を、然して、未来への希望たる学舎が夢を、お館さまのその広き御手にて、慈しみ、守り育て下さいますよう。それが、某にとって、何よりの供養、何よりの喜びと相成りまする。
尚、学舎の名は、『仁巡孝院 、恩雪庵』と致し、創始者は『お雪』と定めにございます。
お館さま、どうか、永く御健やかにて。 幸吉──
兵之助は文を丁寧に納め、静かに目を閉じた。
「朱鷺よ、相分かった」