第66話 シエルの願いごと
「ねえ、リーゼ。これが宝珠で、願い事を一つしか叶えられないのなら、君は自分の呪いを解いて、人生をやり直したいって、願いたいんじゃないのか?」
きつい口調。
けれど、シエルの瞳はゆらゆら揺らいていた。
(……違う)
そうだ。
決して、怒っているわけではないのだ。
シエルは、リーゼのことを心配してくれている。
(私なんかに、そんな……)
今まで、自分にそんな感情を寄せてくれる人はいなかった。
きっと、この先も二度と現れることがない。
……こんな気持ちを与えてくれる人なんて。
「……ね、願いませんって! 願い事の仕方は、殿下にしか伝わっていないのでしょう? だったら、私は相応しくなかったということですから。……私は殿下を信じています。貴方様の願いが叶って、国が良くなる方が嬉しいのです」
「私は、そこまで信用してもらえるような大層なことを、君にしていない」
真顔で断言する彼が愛おしくて、リーゼは、くすりと笑ってしまった。
「殿下は「手」を……繋いでくれましたから」
「手?」
「殿下が私の手を取ってくれた。あの時、私の願いは、叶っていたんですよ」
目を閉じて、リーゼはあの時の甘い感情を反芻していた。
辛くないわけではない。
宝珠に願い事をして、王都に戻ってしまうシエルと、二度と会うことはないだろう。
できることなら、また会いたかった。
……だけど。
魔力の源が消えて、呪いが解けたとしたら……?
リーゼ自身、どうなるか分からない。
老いた姿で、彼と共にいる方が悲しいではないか。
(そうよ。だから、これで良いのよ)
思い出だけで、充分。
決して叶わない淡い感情を切り捨てる為にも、シエルに宝珠を使ってもらうのだ。
リーゼの覚悟を決めた表情に、シエルも察するものがあったのだろう。
しばらくしてから、短く……。
「……分かった」
低い声で、彼は頷いた。
「でしたら、私、下で待って……」
自分がここにいたら、シエルが集中できないだろうと、リーゼは気を利かせて、今、上ってきた階段を下りようとしたのだが、すぐさま、シエルに腕を強く引っ張られた。
「殿下?」
「駄目だよ。君はちゃんと見届けなければ」
「いや、でも……」
「これは、私の命令だ。君は私の隣にいるように」
――命令……。
彼が強制的に、リーゼを従わせようとしたのは、初めてだった。
シエルの気迫に困惑しながら、リーゼは彼の傍らに立った。
それを見届けると同時に、シエルはそっと跪き、淡い光を放ち続ける「舌」に手を添えた。
ぽうっと光が四散して、周辺にまで輝きが伝染していく。
……この魔力の反応。
(やはり、ミゼルは殿下を呼んでいたんだわ)
シエルはうっとりするほど、朗々とした声で呪文のように姓名を告げた。
「私はシエル=アスクロット。魔女ミゼルの遺言により、宝珠に願いを託すため、この地に参った」
リーゼも厳粛な気持ちで手を組んで、目をつむる。
――が、しかし。
「私の願い事は一つ。ここにいる、リーゼ=レインウッドに掛けられている大魔女ミゼルの魔法を解くこと」
「………………はっ?」
「リーゼ=レインウッドを……。彼女をこの城から出られるように、人として当たり前の幸せを得られるように……自由にしてあげて欲しい」
「何を……?」
目の前が真っ暗になった。
「何を仰っているんですか! 殿下!?」
リーゼは動転しながら、シエルの背中を揺さぶった。
「駄目です。早く訂正を!」
今なら、きっと取り消せる。
素早く、言い変えれば良いのではないか?
しかし、シエルはぶれなかった。
リーゼが止めに入っても変わらずに、彼はまるで予めそれを決めていたかのように、言葉を紡いだのだった。
「……リーゼを、ここに来た十八歳の頃の肉体のままで、外の世界に触れさせてあげたいんだ」
「ル、ルリっ!」
堪りかねて、リーゼが叫んだ。
けれど、ルリも動いてくれなかった。
ああ、そうだ。
そういう、使い魔だった。
おろおろしているうちに、シエルは淀みなく、すらすらと言い切ってしまった。
「もう一度、リーゼ自身の人生を送ってもらたい。私の願いは、それだけだ」
「殿下!」
すべては、あっという間の出来事だった。
「な……ぜ?」
二人の間に、静寂が戻ってきた。
――やってしまった。
でも、目前の宝珠には異常がない。
(もしかしたら……まだ)
今なら、願い事が変更できるのではないかと、リーゼが思った矢先……。
舌の部分に音を立てて無数の罅が入り、やがて無惨に砕け散ってしまった。
一瞬、強烈な光がリーゼの全身を包みこんだが……。
「ま、待って!」
こちらが狼狽している間に、目に見えない粒子となって、陽光の中に溶けていってしまった。
「………………ああ」
永い沈黙を経て、微風がふんわりと吹き抜けていった。
ルリの姿が何処にもない。
消えてしまったのか?
それとも、何処かに隠れているのか?
全部夢だと思い込もうとした。
――だけど。
何もかも、現実の話だった。




