第27話 喋る猫
(えっ、ここ結構な高所だよね?)
どうやって、この猫がそこに辿り着いたのか、いつからそこにいたのか、皆目分からないが、シエルは物言いたげな猫のアイスブルーの瞳にほだされて、ゆっくり窓を開けた。
「何度か呼んだのに。王子様はお仕事に集中しているからさ」
「いや、えっ。……あれ? 君、言葉?」
「そんなことどうだっていいの!」
猫は尊大に怒鳴った。
中性的な声は、何処かで聞いたような気がするが、シエルは思い出せない。
「リーゼが大変。とにかく、見に行ってよ。みんな酷いんだから。ルリも頭にきたんだ」
「……ルリ?」
「ルリって、ミゼルが名付けたの。いいから、来て」
「いや、でも。……私は」
「来いって、言ってるの」
毛を逆立てた猫に観念したシエルは先導されるような形で、普段行かない使用人たちが働いている一階の広間から、台所周辺をさすらう羽目になってしまった。
「不味いですよ。殿下がこんなところに来られては……」
そうかもしれない。
使用人たちは、悪い病気が蔓延していることもあって、シエルが来ることを迷惑がっている。
(早く引き上げないと。かえって、皆に迷惑じゃないのかな?)
気後れしてい落ち着かないシエルの横を、盥と手拭いを持って、走っていくリーゼがいた。
「……リーゼ?」
「隠れて!」
「うおっ! 猫が喋った!?」
シエルの護衛の方が喋る猫に驚愕して、腰を抜かしそうになっていた。
ルリに言われるままに、シエルは柱の影に隠れて、リーゼの姿を目で追った。
一体、自分はこそこそ何をやっているのか。
けれど、ここまで来て手ぶらで帰る気にはなれなかった。
リーゼの顔色が悪い。
真っ青ではないか……。
懸命に働いている彼女に、使用人の娘たちが遠巻きに仕事を押し付けている。
それを涼しい顔で引き受けながら、リーゼは奥の使用人部屋の方に消えていった。
彼女の持ち物からして、シエルにも想像くらい出来た。
通常業務に加え、病人の世話まで、彼女がさせられているのだ。
(どうして、リーゼがこんな目に遭っているんだろう?)
一体、彼女は一人で何人分の仕事をさせられているのか?
そして、どうして、レイモンドも誰も……猫以外、そのことをシエルに伝えて来なかったのか?
よろけながらも、懸命に働こうとしているリーゼの後ろ姿に、シエルは胸がじんと熱くなるのと同時に切なくなった。
「殿下……。どうして、こんなところに?」
レイモンドが棒立ちになっているシエルの存在に気づいて、慌てて片膝をついた。
視線を逸らしているところを見ると、命令違反の自覚くらいはあるようだ。
「お前は私の命令を忘れてしまったのか? レイモンド」
「いえ。それは、覚えていますが、使用人に殿下の命令を強制するわけにはいかず……。それに、病人の看病は、リーゼ自身が言い出したことです。その、魔女の召使いだけあって、なかなか病に詳しいようでして、皆、有難がっていると申しますか……」
「レイモンド。不名誉な言いがかりをつけられたら、誰だってそれを偽りだと証明するために躍起になるよね。リーゼは、病人の世話をすると申し出るしかなかったんじゃないの?」
「それは……その」
レイモンドが、口ごもりながら顔を上げた。
彼を罰したところで、何が変わるわけでもない。
すべて、シエルのせいだ。
分かってはいるけど、無力な自分に腹が立つ。
「私は、皆にとって都合の良いことだけ命じるだけの人形なのかな?」
「殿下?」
命令すら、都合良く捻じ曲げられてしまうくらい、シエルには力がないのか……。
「リーゼに、謝らないと……」
ルリが、耳をそばだてている。
この猫が、ミゼル時代からの魔物だというのなら、それこそしっかり筋は通さなければならないはずだ。
(彼女の話していたことに、偽りなんて、何一つなかったんだ)
シエル自らが出向いて、リーゼに謝罪する。
そこだけは譲れなかった。




