第四話 時間と空間の狭間より
「ヤマネさん、これ何だと思います?」
割烹着姿のお菊さんは、手に持っていた花瓶の口をヤマネ君の方に向けながら、そう尋ねました。
お客様から頂いた花束を生けようと、倉庫から花瓶を出してきたのですが、厨房にある掃除用の流しで全体を洗おうとした時に、花瓶の中が不審なもので埋まっているのを見つけたのでした。
「何ですか?って、うげ~っ、気持ち悪~い!」
覗き込んだヤマネ君は、一歩後ずさって、お菊さんと目を合わせました。
白い花瓶の中には透明な液体と、それに浸かった細い木の枝か、草の茎が束になったようなものが、びっしりと詰め込まれています。
「お菊さん、まだ水は入れてませんでしたよね」
「はい。でも、すでに入っていました」
「しかもその花瓶、さっきまで横にして置いてましたよね」
「ですね。今横にしても、もっと傾けても液体は出てこないようです。何故なんでしょう?」
お菊さんは、思い切って花瓶を逆さまにしてみましたが、やはり液体がこぼれることはありませんでした。
「表面張力とか……あり得ないよね。となると、それって本当に水なのかなぁ」
花瓶の首は長く、口の直径は六センチ程度。指は入っても手までは入らないサイズです。
「気になりますよね。私が指で触ってみてもいいですか?」
その液体に触れる行為が危険なものであったとしても、アンドロイドのお菊さんの方がヤマネ君よりもリスクは低いと考えられます。
「待って、待って、待って。その前にまずは、何か棒みたいなもので突っついてみましょう」
「それもそうですね。では、菜箸はいかがでしょう」
お菊さんは、花瓶をテーブルに置くと一本の長い箸の太い方を突っ込み、その先で茎のようなものにも触れてみました。
二人は向かい合った姿勢から頭頂部をくっつけて、テーブルに置いた花瓶の口を同時に覗きながら、その状況を観察しています。
「液体は水のような感覚です。細い枝の束のようなものは、思ったより柔らかいですね。木の枝というより草の茎のような感じです」
束になっているとはいえ、細い茎の先を箸でつつくのは少々難しいようです。
「奥の方はどうなってるのかな。箸で奥の方を探れますか?」
「やってみます。奥の方は……」
お菊さんが力を込めて菜箸を束の中に押し込もうとすると、突然茎の束全体が奥へと押し込められたのでした。
二人が驚き「あっ」と声を上げると同時に菜箸から力を抜くと、茎の束はすぐに元の高さに戻ってしまいました。
「動いた」
「動きましたね。そして元に戻りました」
「お菊さん、もう少しやってみて下さい」
「わかりました」
お菊さんは、今度は箸を二本に持ち変え、再び力を込めてみました。
「花瓶の奥に押し込めているわけですから、つっかえてもよさそうなものですが、奥に押し込むほどなぜか逆に軽くなってくるような気がします」
「どういうこと?」
「どういうことでしょうか?」
菜箸をそのまま押し込んでいった次の瞬間、花瓶の奥底の方から光が発せられているのを、二人の目はしっかりと捉えました。
「今なんか光らなかった?」
「光りましたね」
「もう少し押し込めそう?」
「それが、押し込むほどに束がバラけてきて、上手く力が伝わらなくなるんです」
「なるほど~。でも、もう一度あの光を確認したいなぁ」
「私もです。何とかやってみましょう」
二人は頭と頭をくっつけた状態で互いにバランスを取りながら、花瓶の中を探り続けたのでした。
それと時を同じくして、実は不思議な出来事が、城内のまったくの場所でも起きていたのです。
ムスターハ城の裏側、公爵家用に設けられた、もうひとつの玄関にて。
外回りから帰ってきた公爵と秘書のウサミさんを出迎えていたのは、メイド服のお露さんでした。
「おかえりなさいませ、リアン様」
「出迎えありがとう」
そう言いながら被っていた白いシルクハットを、お露さんに手渡そうとした時です。
公爵のすぐ脇から、前方を指すウサミさんの腕がにゅっと伸びてきたのでした。
「閣下、あの花瓶……」
「うん?」
「花が動いています」
指差された花瓶を見ると、確かに活けられた花が、束のまま突き上げられるような感じでワサワサと揺れています。
「本当だ。動いてるねぇ」
「まさか、中に何か生き物がいるとか?」
「危険な物かもしれません。ウサミさん、リアン様をお願いします。私が確かめて参ります」
「わかりました」
花瓶に近づいたお露さんは、まず全体的に異常がないかを確認しました。
白くて首が長い花瓶です。口径は六センチ程度でしょうか。
左手で花瓶の肩を押さえ、右手で花束を掴むと、そのまま垂直にゆっくりと引き上げていきます。
「…………花束の茎には、何も……ついていないようですね」
花束を回しながら、全方向からじっくりと観察してみましたが、それ自体に動く仕掛けのようなものはありません。
花束に問題が無いということは、動く原因はおそらく花瓶の中にあるのでしょう。
お露さんは右手で花束を取り上げると、そのまま飾り棚に置かれた花瓶の口を覗き込みました。
「きゃーーーーーっ!」
その瞬間、お露さんは悲鳴を上げながら、仰け反るようにして飛び上がったのでした。
ウサミさんはすぐさま花瓶に向けて銃を構えると、お露さんが花束をばら撒きながら尻もちをつく前には、臨戦態勢を整えています。
そしてそのすぐ後には、叫び声を聞いた警備担当のお岩さんも駆けつけてきました。
「どうしました!」
「あっ、お、お岩さん。中に目が。花瓶の底から四つの目がこちらを見ていました」
元はといえばアトラクションの幽霊役で人を脅かしていたアンドロイドのはずですが、驚きのあまり尻もちをついてしまっている姿は、幾分ナンセンスにも感じられます。
ただ、その程度では壊れたりしないのは、間違いなく彼女たちが機械として優秀だからと、一応フォローはしておきましょう。
「花瓶の底から四つの目?ですか」
座ったまま花瓶を指差すお露さんに代わり、今度はお岩さんが慎重に花瓶へと近づくと、そっと中を覗き込んでみました。
「えー、水の向こう側に白い光が見えます。距離的には花瓶の底よりずっと向こう側から照らされているような感じです。四ツ目は見えません」
「そんなはずは……」
お岩さんに代わって、ウサミさんも花瓶の中を覗いてみました。
「確かに、お岩さんの言う通りですね」
「いえ、確かに見たんです」
アンドロイドの心がどうなっているのかは分かりませんが、お露さんは深呼吸をして心を落ち着かせてから、再び花瓶の中を覗き込んでみたのでした。
「目なんかない、目なんかあるはずがない…………。ほらーっ!やっぱり見てるーーー!!」
それを受けて即座にお岩さんが覗いてみましたが、先程同様に白い光が見えただけでした。
「アンドロイドの君が見間違うわけないよ。きっと何か、その目が消えてしまった理由があるに違いない」
公爵も同じように覗き込みますと、やはり四ツ目はありませんでした。ただ、花瓶の底にはまだ謎の光があります。
「とりあえず、この光の正体は確認したいな。ひとまず厨房に行って、花瓶の水をすべて流してみよう」
公爵に促され四人で厨房に行ってみますと、そこにはテーブルの上の花瓶を挟んで向かい合わせに立つヤマネ君とお菊さんが、怯えた表情で硬直していました。
「閣下~。この花瓶の中に何かいます。さっき何かが怖い目でこっちを睨んでたんです~」
厨房にて検証した結果、同形同色で一対の花瓶は、それぞれ謎の原理により内部がつながっていたのでした。
菜箸より長い棒を一方の口から差し込みますと、もう一方の口からその先端が飛び出してきます。
ですので、一方の花瓶を覗くと、もう一方の花瓶の中からの景色が見られるのでした。
つまり、ヤマネ君とお菊さんが見ていたのは、玄関用の花瓶に生けられた花の茎。そしてその奥に見えた光は、それぞれの部屋の照明だったわけです。
「空間がねじ曲がっているというか、超小型のワームホールのような。どうやったらこんなものが作れるんだろう?」
「宇宙人の仕業でしょうか?」
ヤマネ君はそう言いましたが、否定できる要素はどこにもなさそうです。
「でも、なぜ花瓶なのでしょう。これはどこから持ってきたの?」
ウサミさんの問いに、お菊さんが答えました。
「倉庫です。閣下の所蔵品の棚から選んできました。以前、倉庫の中のものは自由に使ってくれて構わないと仰ってましたので」
「うん、それは問題ない。ただ、その中にこんなものがあったなんて知らなかった。一体いつ紛れ込んだんだろう」
「それも宇宙人の仕業ですよ」
「ワームホールという言葉の響きには、どうしてもSF的な趣を感じてしまうね。ヤマネ君の言うことも、あながち間違いではないかも知れないよ」
「宇宙人が城の倉庫に、自由に出入りするのは、警備上問題があります」
ウサミさんの意見には警備担当のお岩さんも同意しているようですが、そもそも誰も宇宙人の仕業とは考えていないはずです。
「ところでさぁ、みんなに聞きたいんだけど。この花瓶、片方を割ったらどうなると思う?」
そのことについてはもちろん全員が考えていました。ただ、貴重な研究材料が失われてしまうことも大事ですが、それ以上に、何が起こるかわからないことの方が心配なのです。
「選択にしよう。A:何も起こらず、もうひとつの花瓶は元に戻る。B:もうひとつの花瓶も割れる。C:空間をねじ曲げていたエネルギーが解放され大爆発が起こる」
全員、一斉にCの札を上げました。
「なるほど、その点では一致してるんだね。まぁ、みんなの命を危険にさらすわけにはいかないから、今は止めておこう」
「割るつもりだったんですね」
「それ以外に確かめる方法はなさそうだと思って」
そう言いながら公爵が残念そうに両手の平を見せた時です。
「きあぁぁぁぁーっ!!」
ウサミさんの悲鳴が厨房に響きました。
足首に妙な感触を覚え、ウサミさんが自身のズボンの裾を上げると、そこにはなんと黒褐色にツヤめく全長三センチほどの楕円形の生命体がへばり付いていたのです。
楕円形の本体を囲むように曲がった長い髭のせいで、その体は実際よりもずっと大きく感じられます。
多くの生物が絶滅した大災厄さえも生き残った最強の昆虫。強靱な体を持つそれを、世間一般では"G"と呼称していました。
飲食店においては、お客様に悟られないために"五木さん"とか"お嬢様"などと呼ばれることもあるそうです。
慌てて足を振りGを払い落とすと、ウサミさんは四つん這いになってテーブルの上に避難しました。
「新聞紙、新聞紙!」
「スリッパ、スリッパ!」
「殺虫剤、殺虫剤!」
それぞれが対G殲滅用の武器を探す中、お岩さんが両目からレーザー光線を発射して、瞬時に息の根を止めたのでした。
「すごい、お岩さん」
「こんなこともあろうかと、瞳の色を髪に会わせて赤にした際にオプションで付けて頂いていたのです」
「ありがとう、お岩さん。助かりました。それにしても、ついにこの城内にまで……」と言いながらウサミさんがテーブルから降りようとした時、うっかり足が花瓶に触れ、そのまま床に落としてしまったのでした、
誰かが「あっ」という声を出すより前に床に落ちる花瓶。
ガシャンと音が出るのと、破片が飛び散るのとではどちらが早いのでしょうか。
しかし、そのどちらかが知覚されるより先に、突如その場に白衣を着た中年男性が出現したことに、一同は驚愕したのでした。
「うわっ、痛ててててっ」
男性は尻餅をついたまま両腕で姿勢を保っている状態ですが、その状況に理解が追いつかない一同は身構えることしかできません。
当然のことですが、それはこの男性にとっても同じことです。
「うん?ここは、ど~こだ~?そんでもって……君たちはだ~れだ~?」
見覚えの無い連中に囲まれ、身構えながらも現状を把握しようと周囲を見渡しているその男性を、公爵は知っていました。
「そんな、まさか……」
すぐさま男性の正面に進むと、立ち上がりやすいように右手を差し出したのです。
「まさかとは思いますが、リヤマ先生ではありませんか?」
「?」
その手に掴まって立ち上がりながら、男性は自分の名を知っているらしいこの人物をについて、頭の中を検査していました。
「閣下、リャマ先生なんですか?この方が。いつもお話されている」
「そうだよ、ヤマネ君。私と私の父が大変お世話になった方だ」
「閣下?」
「はい、私です。ジャン・リアンです。亡き父ロボロフに代わり爵位を受け継いで、今は私がムスターハ公爵となりました。リヤマ先生、お久しぶりです」
久しぶりという言葉と見覚えのある容姿から、リヤマ博士は自分の身に起こったことをすぐに理解しました。
「リアン君だと?あぁ、確かに面影があ~る。そしてロボ君が亡くなった…………?」
「はい。先生が姿を消されてから五年後のことですが」
「私が消えてから五年後に亡くなった……ということは、今は?」
「それからさらに十年が経っています。つまり十五年間、先生は花瓶の中にいらしゃったことになるかと」
「う~む。現実なのだろうが、まだ受け入れられる気持ちにはなれそうにない」
お露さんは、立ち上がったリヤマ博士の白衣についた汚れと、花瓶の破片を払って落としました。
誰もがすぐにでもこの男性の話を聞きたいところなのでしょうが、状況整理のためか苦悶の表情を浮かべる様を見たら、声を掛けるのを躊躇ってしまうのは仕方がありません。
しばらく沈黙が続いた後に、博士は思わぬひとことをつぶやいたのでした。
「ひとまず実験に関しては成功したということか」
「実験?先生は実験をなさってらしたのですか?」
「いや、そうじゃない。そもそも実験をするつもりなどなかった……」
お菊さんはその破片を片付けようと、ロッカーからホウキを取出しました。
その間リヤマ博士は、床に散らばった花瓶の破片をじっと見つめています。
「実験などするつもりはなかったが、予想外の事態でそうせざるを得なかったんだ。しかも花瓶から抜け出す方法を用意していなかったというお粗末な有様さ」
「そうなんですか」
「うーむ、うーむ、うーむ」
唸ってばかりいる博士に対しウサミさんは、割れなかった方の花瓶をリヤマ博士に差し出しました。
受け取った博士は、花瓶の状態を改めて確認しています。
お岩さんは、焦げたGを広告で包んで始末をしていました。
「先生。ひょっとしたらそれは、時間的、物理的に閉ざされた空間を作るという実験でしょうか?」
「違う。違うぞリアン君。その逆だ。空間と空間を平面的につなげることで、一瞬で移動できるゲートを作ろうとしていたのだ」
「なるほど。ということは、先生が閉じ込められていた空間は、その副産物のようなものとか?」
「いか~にも。さすがはリアン君。理解が早い。早すぎる。で、それはそうとて、ここはど~こなんだ~?」
「ここは最近完成したばかりの私の居城、ムスターハ城の厨房です」
「ムスターハ城!?」
「はい」
「ということはもちろん、テロリストの心配はないな」
「テロリスト?」
「私自身のことを言えば、つい今しがた警報が鳴って、研究所内にテロリストが侵入したのを確認したところだった。逃げ場など無かったので、一か八か、実験用に準備していたこの花瓶の中に逃れたってわ~けだ」
「そういうことでしたか!」
「で、テロリストたちはどうなった?」
「十五年前、研究所が襲撃された事件についていうならば、犯人たちは捕まりました。ただ、先生の行方については彼らも知らなかったんです」
「さもありなん」
「まさか先生が、花瓶の中にいらしゃったとは……」
「お釈迦様でも気が付くまい」
「そうでしょうね」
「伊弉諾、伊弉冉尊でも気付くまい」
「はい」
「YHW……」
「先生、そこまでにしましょう!」
公爵は両手を前に出して、博士の言葉を遮りました。
「ただ、この中では時間が経過しないというのはハッ~キリした。そして出るにはこの閉ざされた空間に、外部より穴を開けてもらうしかないということもな~」
「中からはどうすることもできないということですね。時間が止まっているわけですから」
「時間とエネルギーの相対関係ということか。まさか十五年も経過していたとはな。あるいは十五年程度で幸いだったというべきか……。そういえば、どうしてあの花瓶は割れたんだ?」
「すみません。私が手を滑らせてしまったんです!」
その瞬間、全員の視線がウサミさんに集中しました。
リヤマ博士以外は真相を知っているので、ウサミさんの発言に嘘が含まれているのはもちろん承知しています。ただ、その上で皆は首を縦に振っているのでした。
「謝る必要などあろうはずがな~い。君のおかげで、私は閉鎖空間から抜け出すことができたのだから」
リヤマ博士は、ウサミさんに向かって大袈裟に合掌すると、続いて深々と礼をしたのでした。
「いやいや、ありがと~う。という君は、そもそもだ~れなんだい?」
「閣下の秘書兼ボディガードをしております、ウサミと申します」
「そうか。恩人ウサミさんには、いずれお礼をさせてもらうよ」
「いえ、そのような必要は……それよりも、博士が入っていらっしゃったその空間は、簡単自由に作ることができるものなんでしょうか?」
「いや、それほど簡単でも自由でもないが?」
「そうですか、大きな物を持ち運ぶのに便利かなと思ったのですが」
「ふむ。私は空間と空間をつなぐ実験をしていたのだが、副産物として生まれたこの亜空間にも使い道がありそうだな。内部の時間は止まったままだし、うまくすれば冷蔵庫の代用品くらいにはなりそうだ」
その時、戸惑うウサミさんの脇から、ヤマネ君がスルリと現れました。
「ところで、閣下」
「何だい、ヤマネ君」
「リャマ先生は、この後どうされるのですか?食材の調達を一名分増やす必要がありそうだと思ってるんですが」
「たしかに」
その意見を受けて、公爵はリヤマ博士に向き直りました。
「先生、紹介します。彼はこの家の料理人兼ボディガードのヤマネ君です」
「よろしく、ヤマネ君」
「こちらこそよろしくお願いします」
「ちなみに私はピーマンとセロリ、ゴーヤ、グリーンピース、干しぶどう、パイナップル、しいたけ、レバー、馬肉、羊肉、貝類やカキ等々についてのアレルギー持ちだ。パクチー、トウガラシ、ミョウガ、生のトマト、なまこ、あわび、ウニ、納豆、ホルモンもだ。調理の際はよく気をつけてくれたまえ」
「リャマ先生~、それは一般的に好き嫌いというのでは?」
「何を言うんだ、ヤマネ君。私はこれらを口にすると、脳内にじんま疹が発生して数時間は何も考えられなくなるんだぞ」
「閣下、この方は本当に科学者なんでしょうか?」
「もちろん!それはそれはとても立派な科学者だよ」
そう言われたリヤマ博士の鼻は、自身の拳二つ分高くなっています。
「ふっふ~ん」
公爵は、リヤマ博士が好き嫌いを基準に行動する人で、事ある毎に周囲が振り回されたのを思い出したのでした。
「それはともかくリヤマ先生、よろしければこの城に滞在して頂けないでしょうか。ゆくゆくはいずれかの場所に先生の研究室もご用意したいと思うのですが」
「ほほう~、驚くほどの好待遇じゃないか。願ってもないと言いたいところだが、その前に襲撃を受けた研究所が、どうなったか教えてくれないか」
「博士が行方不明になったのをきっかけに、研究チームは一旦解散となりました。今は各自がそれぞれ違う場所で別の研究をしています」
「そうか。とりあえず、みんな無事ならそれでいい」
「はい」
ある日ある時、突然、未来の別の場所に跳ばされたにも関わらず、それでも一瞬で状況を把握し、受け入てしまえるというのは、リヤマ博士のずば抜けた洞察力と胆力ならではかもしれません。
「それに、先生はすでに死亡認定されていますから、財産はおろか住むところもありません」
「財産なんてもとよりなかったはずだが」
「えぇ、先生の口座に残高は無かったと伺っています」
「一切合切この実験に注ぎ込んでしまったからな」
「で、いかがでしょう?先生さえよろしければ、ここにしばらく滞在して頂きたいのですが」
「本当にいいのか~い?」
「もちろんです。今、我々がこうしていられるのも、先生のおかげなんです。ここで研究を再会されるとなれば、おそらく国王陛下も賛成して下さるでしょう」
「エズォ陛下も?」
「はい」
「そうか。私は何もしていないが、それでも私のおかげだと言ってくれるのは、きっと時空の狭間に引き込もっている間にいろいろあったからだろう」
「ええ、そうです」
「そうなのか?」
「はい」
「たとえば何が?」
「先生を含む質量制御理論に携わった一同が、理論を基に生産された機器の特許取得を認めないと宣言した結果、社会全体の再構築が一気に進みました。特許による富は発生しませんでしたが、この国に進出していた工場を使用して、ルマーニァ王国は質量制御関連の製品を製造できています。今のところ、それがルマーニァのGDPの大半を占めている状況です」
「ふむ」
「先生がいらっしゃらなくなった頃と比べたら、電気関係や交通のインフラは、目覚ましい復興を遂げたんですよ」
「そうか。無理を押し切ったあの宣言は無駄ではなかったということだな」
「もちろんです」
「ふ~む。となると、今の私が取り組むべき目標が見えてきたぞ~。まずは、この十五年間の情報を取り込むことだな。その間に発表された論文すべてに目を通さなければなるまい」
一同はリヤマ博士の前向きな姿勢に、感嘆の声を漏らしていました。
「いずれにせよ今のままでは、私は浦島太郎そのものではな~いかっ!」
「リャマ先生、『ウラシマタロウ』ってなんですか?」
「なんだ。ヤマネ君は浦島太郎を知らないのか。記録にある限りで、もっとも古い時間旅行者の名前だ。深い深い海の底にあるという『ドラゴンズ・パレス』へ赴き、数日間過ごした後に地上に帰ってきたら、数十年が経過していたということだ」
「そんな深い海の底まで、どうやって行ったんでしょう?」
「『タートル号』に乗って行ったということだが、詳しいことは私も知らない」
ヤマネ君は感心しながら聞いているようですが、公爵は昔のリヤマ博士と変わらない様子を見て、吹き出しそうになるのを堪えるのに必死でした。
「先生。私はあえてツッコミませんので、回収はどうぞご自身でなさって下さいね」
「何だリアン君、冷たいではないか」
「閣下、事実は違うんですか?」
「概ね合ってはいるけれど、細部が大きく異なるかな」
(細部が大きく……?)
公爵の言葉が理解しきれず、ウサミさんは心の中で首を傾げています。
「深海は人類最後のフロンティアだぞ。仮にそこで宇宙人が密かに暮らしていたとしても、決しておかしくはないだろう」
「深海恐るべしですね!!」
「さすがはヤマネ君。理解が早い」
「そうでなければ話が進まないことに気が付きましたから」
「リアン君の教育が行き届いているな」
公爵はとりあえず苦笑いを浮かべるだけでした。
「ところでリアン君」
「はい、何でしょう?」
「十五年ぶりに甦った私には、どうしてもやっておきたい事があるのだが」
「私でお力になれるのであれば、協力させて頂きますが?」
「そんなに大袈裟な願いではないよ。ただ墓参りをしたいだけだ」
リヤマ博士の両親は、大災厄で亡くなり、今は共同墓地に埋葬されているのを、公爵は思い出しました。
大災厄には、明確な始まりと終わりというものがないのですが、最初に彗星が落下した日を記念日として、毎年世界中で追悼が行われています。
博士自身には十五年という感覚は一切無いのでしょうが、意図せずして長らく両親を弔ってこられなかったことを遺憾に思われているのかもしれません。
「科学者として死生観を語るつもりはないけれど、やはり心の問題として、墓参りはしておきたい」
「そうですね。それはいいことだと、私も思います」
「あるんだろう?私のお・は・か♪」
その瞬間、一同の心の中に『!』マークが灯りました。
「さっき私は死んだ事になったと言ってたじゃない~か。ということは、あるに違いないと思ってたんだ。私自身のお墓が」
「あります。ありますよ、確かにありますけど……。先生の場合は准国葬で、個人でお祀りされていますし、私も陛下も毎年お参りしています。いますけど……」
「そこに~私は~いません~♪」
「先生……、悪趣味です」
「千百万の風になって~♪」
公爵はこの時、エズォ陛下に、この状況をどのようにお伝えしたらよいのか、頭を悩ませていたのでした。
おわり