アデール 踊る病室
病による高熱のため、しばらく伏せっていたフランシス王子だが、熱が下がった今も医師はベッドを出る許可をなかなか出してくれない。
午前中は婚約者の公爵家令嬢アデールが来て、なにかと世話を焼いてくれる。おかげでなんとも充実した時間を過ごせる。しかし、彼女が王妃宮にさらわれてしまう午後との落差が激しい。一年後に迫った婚姻準備。花嫁の方が何かと準備に時間がかかるのだろうけれども。
今日も、昼食を一緒に食べられるかと期待していたのだが。
『本日は男子禁制の昼食会ですの。
母上もドミニク様もお待ちですわ。
さあ、アデールお義姉様、参りましょう!』
と、妹のマリエルがずいぶん早めに連れ去ってしまった。ただでさえ寝てばかりなのだ。これでは、ますます食欲がわかない。
「王太子殿下、お加減はいかがでしょう?」
開いたままになっていた寝室の扉から、そっと覗いたのはアデールの父、ドラノエ公爵だった。公爵は元大臣。現在は国政に関わっていないが、その見識の広さから今でも文官たちに頼られ、王宮に顔を出すことが多い。
「公爵。おかげさまで、少しずつ回復しています。
お嫌でなければ、中へお入りください」
「では、失礼して。
おや、アデールはもう退室していましたか」
「マリエルが攫って行ってしまいました」
「王女殿下にも愛されて、アデールは果報者です」
本当に、マリエルも王妃殿下もアデールが大好きらしく、すぐにフランシスの元から連れ去ろうとする。
「殿下、失礼いたします。ご昼食は、どういたしましょう?
……これは公爵様、ご無礼を」
フランシスの私室を取り仕切るメイド長が、替えの水差しを持って入って来た。
「いえいえ、こちらこそ。
食事時にお邪魔するなど不躾でした。すぐにお暇を……」
「公爵、ご予定が無ければ、何か軽く召し上がりませんか?」
と言っても、召し上がるものを用意するのはメイド長。厨房に準備を頼んでもらわねばならない。そう思ってフランシスはメイド長の顔を見る。公爵も同じようにメイド長の顔を見た。
『この申し出を受けても、迷惑にはならないのだろうか?』
公爵は無言ながら、メイド長に問うていた。
二人の男性に見つめられ、一瞬、目を瞠ったメイド長だが、すぐに微笑んで彼らを安心させた。
「軽いお食事でよろしいのですか?」
「私は、いつもと同じでいい。公爵は何か、ご希望があれば」
「よろしければ、殿下と同じものを」
「私は寝室に閉じ込められているので、かなり小食になっていますが……」
「私も、もう歳ですので。あまり食べられなくなりました」
「かしこまりました。では、少々、お待ちくださいませ」
メイド長が退出すると、フランシスは公爵にベッド際の椅子を勧めた。
「アデールはお役に立っていますか?」
「とても気が付くので助かっています。
寝てばかりで気が塞いでも、アデールが来てくれると安らぐようで」
「それは、ようございました」
「公爵や夫人には、申し訳ないと思っています」
「おや、なぜでしょう?」
「婚姻まで時間が限られているのに、朝早くから夕方まで、ずっと彼女を王宮に縛り付けてしまっている。
大切な親子の時間を奪っているのではないですか?」
公爵は笑った。
「殿下の熱が下がって面会が許されるまでの、あの子の様子を見ていたら、とても王宮へ行く時間を減らせ、などとは言えません」
「え?」
「殿下がご病気になられて、面会が許されず、王宮へもしばらく来ないようにと言われた時、あの子は私たちの前で弱音を吐きませんでした。
『時間が出来たから、読みたかった本を読むわ』と言って図書室に籠って。
もともと本好きな子ですし、しばらくはそっとしておいたのです」
そういえば、少し忙しくて、読みたい本が溜まってしまいました、と言われたこともあった。
「暗い様子も見せないし、食事もとっていると安心していたのですが」
何かあったのだろうか?
「屋敷の中の小さな礼拝堂で祈っているのを、たまたま妻が目にしたのです。
最初は、熱心に祈っているのだと思ったそうですが、あまりに動きが無いので声をかけたところ」
公爵は一つ息を吐く。
「ようやく振り向いたアデールの目には涙が後から後から溢れ、寄る辺ない幼子のような表情。妻は、もっと気にかけてやるべきだったと後悔していました。
もちろん、私も気配りが足りなかったと悔やみました」
アデールの泣き顔を目にしたことのないフランシスは、言葉が出なかった。いつも朗らかなアデールが、そんなふうに泣くなんて、どんなに胸を痛めていたのか。
「その夜、妻は自分の寝室にアデールを呼んで、一緒に寝ていました。
私が、どう声をかけようかと考えている間に、妻は母親の温もりで娘を癒したのです」
そんなに傷ついた彼女が、やっと自分との面会が叶って会いに来てくれたのに、いきなり婚約解消を突き付けてしまった……
「私は、そんなアデールを、もっと傷つけてしまったのですか?」
「殿下、あの子はそんなことで傷つきません。
あの子は殿下に会えない悲しみに浸っていたわけでもなければ、大切な婚約者を失うかもしれない恐怖に震えていたわけでもないのです」
「それは、どういうことです?」
「殿下が辛く苦しい時に、側に居て見守ることすらできない。
それがどうしようもなく悲しかったんです」
『お父様、お母様、殿下は今、どんなにお辛いのでしょう?
お医者さまや看護の方の足手まといになるのはわかっていますけれど、私にも何かお手伝いが出来たらいいのに……』
「きっと殿下は快癒されるから、今は心を静めて待とう。
……私に言えるのは、それだけでした」
「公爵」
「というわけで、あの子の心はいつも殿下の側にあるのです。
毎日、公爵家に里帰りしているだけな気がします」
それならいっそ……
「とはいえ、後一年は手放しませんよ」
公爵にきっぱりと言い切られ、フランシスは苦笑いした。
「そうそう、今日は特別なお見舞いの品を持参しました」
「既に十分頂いて……」と言いかけたフランシスの目の前に、一枚のハンカチが差し出された。
「これは?」
「最近、アデールが刺繍したハンカチです」
婚約者や恋人が刺繍したハンカチをプレゼントされるのは、ごく一般的だ。だが、そういえばアデールからもらったことはない。いや、彼女が忙しいのは知っているし、無理に欲しいと思ったこともないが。
フランシスはハンカチを手に取った。赤や桃色、黄色にだいだい色。初夏の花々を思わせる色合いの糸が踊る。白いキャンバスは、楽し気だ。
その時、扉からアデールが軽やかに入って来た。
「フランシス様、戻りました。
お父様、いらしていたのですね。
……フランシス様? その手にお持ちなのは?」
ハンカチを見た途端、アデールの動きがぎこちなくなる。
「これは、二回目に君とお茶会をした庭の薔薇だね」
アデールは目を瞠った。
「よくおわかりになりますね。
私には、色とりどりの芋虫にしか見えません」
「お父様! そう思われたのに持ってきたのですか?」
アデールが父親に抗議している前で、フランシスはじっとハンカチに施された刺繍を見ている。
二度目のお茶会。薔薇園のテーブル。薔薇の姫君と、薔薇の妖精。あの日きっと、君への恋が始まった。
「ああ、今でも思い出せるな。八歳の君の笑顔。
君の笑顔がいつでも、私に力をくれる。
ありがとう、アデール」
「フランシス様に喜んでいただけたのなら、拙い刺繍をした甲斐がありますわ」
そう言って澄まして横を向いた彼女の頬はわずかに赤らんでいる。その横顔をフランシスはじっと見つめていた。しばらくするとアデールが耐えかねて、彼を振り向く。
「そんなに見つめられたら、恥ずかしいですわ」
そう言いながら、頬を染めたまま柔らかく微笑んだ。
彼女の居場所は、ここでいいらしい。君の笑顔を、周りの景色ごと、これからも心の中に積み重ねていこう。フランシスは強く思う。
「王太子殿下、陛下から、この書類を読んでおくようにと……」
入室してきた側近が、寝室にいるドラノエ公爵家の父娘を見て立ち止まった。
「これは失礼いたしました。後ほど出直しましょう」
だが、彼は部屋から出られなかった。
「アデールお義姉様! カトリーヌ様が王都にお戻りですわ。
午後のお茶の時間にいらっしゃるのですって」
マリエル王女が飛び込んできたせいだ。
フランシスは声を上げて笑う。
「いいな。ベッドに居ても退屈する暇がない」
「それは、ようございました。また、夕方に顔を出しますわ。
フランシス様、ご無理をなさらないでくださいね」
マリエルは兄王子に軽く手を振っただけで、未来の義姉を連れて行く。側近はいつもの場所に書類を置いて退室した。
「お待たせいたしました」
数人の部下を従えたメイド長が昼食を運んでくる。そして、ベッドとテーブルにそれぞれ支度を整えてくれた。
「公爵、今日は少し、アデールの昔話を聞かせてもらえますか?」
「ええ、喜んで。ですが、あの子には内緒ですからね」
「もちろん」
その日の午後、ドラノエ公爵は娘が生まれて以降のことを、時に面白おかしく語った。それを聞けば、心の中にあった十年分の思い出は、更に厚みを増していく。
アデールへの愛しさは募るばかり。彼女の生きる世界を守りたい。フランシスは誓いを新たにした。