勇者よ…目覚めなさい勇者よ…早く目覚めろって言ってんだろ…あぁウソウソ勇者ちゃんすごく頑張ってるよだから死ぬとか言わないで…
長きに渡り地上で繰り広げられる人類と魔物の争い。
それは世界の支配権を巡る神々の代理戦争でもあった。
そして戦いに決着をつけるべく、神々は各々の陣営の大将を選別した。それが勇者と魔王である。
地上での戦いが激しさを増す中、神々の住まう“天界”でも激しい戦いが繰り広げられていた――
『勇者よ……目覚めなさい勇者よ……』
僕の仕事は天界におわす神と下界に住まう人間との橋渡し。
人間の呼ぶところの天使である。
具体的な仕事は下界の監視や、神の言葉を人間、主に高位の聖職者へ天啓として授けること。
……だったのだが、最近は違う。
『早く目覚めろって言ってんだろ……あぁウソウソ勇者ちゃんすごく頑張ってるよだから死ぬとか言わないで……』
最近の僕のもっぱらの仕事は、ベッドに入ったままなかなか出てこようとしない勇者へのモーニングコール係であった。
「どうですか、勇者の様子は」
「はぁ、全然ダメですね。もう3日も宿屋から出てませんよ。“こんなことしたくない。もうやめたい、故郷の村に帰りたい”とか泣き言ばっかりで……」
背後からの問いかけに、淀みない愚痴が口から溢れて止まらない。
使命に対し後ろ向きな勇者に対し自分で思っているよりもストレスが溜まっていたらしい。
「あんな人間が人類の代表だなんて正直信じられませんよ。どうして神はあんな娘を選んだのか」
僕の言葉に深い意味や思想なんてない。ただの他愛ない愚痴だ。
しかしタイミングが悪かった。そしてなにより、言った相手が。
「ほう」
その時はじめて僕は振り返り、背後に立つ人物の顔を見た。
自らの口を縫い付けておけば良かったと後悔したのは初めてだった。
そこに立つ美しい姿の少女こそ我々を作りし神そのひとだったのだから。
「も、申し訳ございません。勇者が思うように動かずつい苛立ってしまい。しかしご安心ください。私めが必ずや人類と我らが女神に勝利を――」
「いえ、良いのです」
額を床に擦り付けん勢いで謝罪と弁明を並べ立てる僕の肩に女神はそっと手をおいた。
「天界から私たちが人類にできることは少ない。人間をコントロールすることなどできるわけもありません」
「女神様……」
「だから」
女神様は慈悲深い笑みを浮かべながらビッと親指を上げた。
なんだろう。グッジョブってこと? なんて呑気に考えていた俺はアホの極みであった。
女神様は手首をぐるんと返し、親指を地面に刺さん勢いで下げる。
「一度堕りてみましょうか」
「え……え?」
「勇者を奮い立たせ、魔王討伐への道を歩ませるのです。地に足つけて説得すればきっと勇者の心も動かせるはず」
「いや、待っ……そんなの僕むり」
女神の顔がずいっと目前にまで迫る。
万物を創造せし女神の眼力たるや。一介の天使である僕が言葉を続けることなどできようはずもなかった。
「世界の命運はあなたにかかっています。期待していますからね」
当然のことだが神の言葉は絶対である。
カラスが白いと言われれば白だし、お前は勇者だと言われれば勇者だし、強制堕天と言われれば強制堕天なのだ。
*****
そんなこんなで突如湧いて出た下界出張。
目的は魔王討伐に後ろ向きな勇者を鼓舞し、再び剣を握らせること。
とはいえ、神から授かった特別な力を使ってはならない。
天界の者が下界の戦いに手を出すのはタブー。僕がこうして下界に降り立つことだって厳密に言えばルール違反なのだ。
とっとと仕事を終えて天界へ帰ろう。
なに、神の名を借りて直接神の言葉を伝えれば人間など簡単に言うことを聞くだろう。
僕はさっそく勇者の籠もる部屋の戸を叩いた。
「私は神(の使い)です」
「は?」
僅かに開いた扉の向こうからこちらを覗く胡乱な目。
数秒の沈黙の後、扉は素早く閉ざされた。
「やっぱりもっとセキュリティちゃんとした宿屋にすればよかった……」
「待ちなさい! ほら、この声に聞き覚えはありませんか」
「……あっ……」
扉を隔てた向こうで少女が息を呑んだのが分かった。
毎日毎日モーニングコールをしてきたお陰だ。僕の声を彼女は覚えている。
が、扉が開くことはなかった。
「話すことなんかない。神様にだって私の気持ちは分からない」
今にも消え入りそうな呟きに、怒りがふつふつ湧いてくるのを自覚した。
対話を拒絶するように閉ざされた戸へ、僕は激しく拳を打ち付ける。
「分かるに決まってるでしょう、神は全知全能ですよ! おーい! 開けなさい!」
「うるせぇな静かにしろ!」
別の客室から響く怒鳴り声。
信じられない。今、僕は人間に暴言を浴びせられたのだ。
神の使いであるこの僕に、人間なんかが!
思わず天罰を与えるところだったがふと我に返る。
いけない。天界の力を使うのはタブー。なにより僕の任務は勇者を鼓舞すること。それもできるだけ目立たないように。
他の人間に構っている暇などないし、勇者の部屋に無理矢理押し入ることもできない。
勇者が自ら宿屋を出るように仕向けなくては。
ということで新たな策を考えた。
「じゃあ火でも放ちますか」
煙に燻されればさすがの勇者も部屋を飛び出すに違いない。幸いにも宿屋は木造二階建て。よく燃えてくれるだろう。
僕は表へ出て、宿屋の壁に手をかざす。
しかしそこで気付いた。そういえば人間は手から火を出すこともできない。
本当に不便な体をしているな、人間というのは。
しかし地上でのルールは守らなければならない。
人間は確か、摩擦とかそういうので火を発生させていた気がする。
僕は手で宿屋の壁を必死に擦った。しかし全く火は出ない。
「くっ……なぜ出ないんだ……」
「あの、うちになにか?」
話しかけてきたのは老いた人間の女だった。
この宿の関係者か。少々ドキリとしたが、人間に僕が天使であることなど見破れるはずもない。
朗らかな笑顔を浮かべ、僕は敵意のないことをアピールした。
「ああ、お気になさらず。火をつけようとしているだけなので」
するとどういうわけか人が増えた。
僕を囲むようにしながら、何人もの人間がヒソヒソと言葉を交わしている。
「婆さん、不審者ってのはコイツか?」
「ええ、火をつけるとかなんとか……」
どうしてだ。ちゃんと下界のルールに則って行動しているはずなのに。
いざとなったら飛んで逃げるしかない。いや、飛ぶのもルール違反なんだっけ……?
「あ、あの、誤解なんです」
とにかくなにか言わないと。でもなんて言えば。
言葉が続かない。人間たちの視線が刺さる。
勇者は一体なにをしているんだ。この騒ぎは聞こえているだろうに。神の使いである僕を見殺しにするつもりか?
暑くもないのに噴き出た汗がこめかみを伝った、そのとき。
「待って!」
人の壁を割って歩み出てくる者がいた。
勇者か、と思ったが違う。同じ年頃の少女だが、見覚えのない顔だ。
僕を背中に庇うようにして村人たちの前に立ち塞がる。
「誤解だって言ってるじゃん。話聞いてあげなよ」
「危ないよマリ。よそ者から離れなさい。放火魔かもしれないんだよ」
「婆ちゃんが聞き間違えたんだよ。放火魔なら火をつけるなんて馬鹿正直に言うはずないじゃん」
そう言って少女は僕の手を取って駆け出す。
どういうわけか大人たちは彼女を止めようとはしなかった。走りながら、彼女はこちらを振り向いてはにかむ。
「私の爺ちゃんがここの村長なんだ。もし困ってるなら私が口利いてあげるから」
なるほど。その言葉で納得した。
神自らがその手でお作りになった僕ら天使と違い、人間というのは自分たちで勝手に増殖できるよう設計されている。だから品質にバラつきがあったりはするが数はとにかく多い。
そして血のつながりというのは人間にとって特別な意味があるらしい。まぁ僕ら天使にはピンとこない話だが。
つまり彼女の製造元はこの村の有力者。その恩恵で彼女はこの村で比較的自由な振る舞いができるということ。
いや待て。しかし一つ納得できないことがある。
なぜ彼女は僕に手を貸すのか。
人間というのは弱い生き物だ。自分の得にもならないことに労力を注ぐ余裕などない。
少し考えて、僕は手を打った。
「なるほど。僕と生殖がしたいんですね」
粗製乱造の人間と違い、神に直接作られた僕は高性能かつ造形も完璧。
優秀な個体と子を成し次世代へと紡いでいこうとするのは人間の根底にプログラムされた本能である。だからそれは当然の欲求だ。
でも残念ながら僕は人間ではないので彼女の願いを聞き入れることはできない。
ちょっとした悲しい勘違い。それだけの話だ。
たったそれだけなのに、どうしてこんなことになるんだ?
「不審者が逃げたぞ! 探せ!」
「村中に火をつけるつもりなんですって。怖いわ」
「村長のとこのお嬢さんも脅されたらしい。気をつけろ」
なんなんだ。どうしてこんなことになる、僕が一体なにをしたっていうんだ?
少女に殴られた頬がジンジンと痛む。
急に殴るなんて。発声器官と言葉を操るだけの知能を神から与えられているにもかかわらずどうしてそれを使おうとしない?
「森へ逃げたらしいぞ!」
「暗闇に紛れているかもしれない。みんな武器を構えろ」
近くから声が聞こえる。すぐそこまで迫っている。
地上は寒くて暗くて重くて汚い。住む人間は暴力的で無知で野蛮だ。
彼らに天界の常識は通用しない。僕は天界の力で自分の身を守ることすらできない。もし見つかれば一体どんな目にあうか。
どうして僕がこんな目に。そうだ、元はといえばアイツが。
ガサリ、と音がした。
逃げなくては。立ち上がろうとするが、足が動かない。体が酷く震える。
地上でこんな感情を抱くとは思わなかった。
――――怖い。
「ねぇ」
「ひいっ」
驚いた。自分の口から漏れた情けない声に。そしてコイツにだけは聞かせたくなかった。
木々を掻き分け、顔を覗かせるようにしてこちらを見た少女。
間違えようもない。毎日見てきた顔。そして僕が強制堕天させられることになった原因。
「……ゆ、勇者よ」
不幸中の幸い。
こいつさえ。こいつさえ説得できれば僕は天界へ帰れる。
立ち上がろうとしたが足腰は立たない。
だから精一杯背筋を伸ばし口を開いた。しかし言葉が上手く出てこない。やっと出た台詞もみっともなく震えている。
「……たっ、た戦うの、です……人類の……ため……っ……」
「………………ふふ」
笑った。勇者が笑った。
そのとき僕の中でなにかが壊れたのが分かった。
「おい、なに笑ってんだよ」
相変わらず足腰は立たない。いつものように神の言葉を神秘的に届けることはできない。
でもあふれる言葉を止めることはできなかった。もう恥も外聞もない。
「お前のせいでこんなことになってんだぞ。だいたいなんなんだよお前ら人間は。話も常識も通じないし痛いし怖いし。なんで僕だけこんな目に合わなきゃいけないんだよ」
「うん」
「僕じゃなくても良いじゃん! 天使は他にもいるのに不公平だろこんなの。人類の命運がかかってるならそれはみんなで負担すべきだろ」
「うん、うん……そうだよね」
「だから! なに笑ってんだよ!」
地面を殴りつけると、跳ねた泥が頬に返ってきた。
地上ってのは最悪なところだ。
僕は吠えた。武器を持った村人から身を隠していることなど忘れて。
「こんなことしたくない! もうやめたい。天界に帰りたい……」
そこまで言って、ハッとした。
口からこぼれたのは聞き覚えのある台詞。
そのときだった。木々の揺れる音。たくさんの人間の足音。
「こっちから声がしたぞ。探せ」
声がすると同時に、勇者が僕の手を取り駆け出した。
小枝が肌を傷つけるのも構わず。その足取りは弾むように軽い。
「な、なんだよ。置いていけよ。お前関係ないだろ」
勇者が振り返る。
その笑みは嘲笑ではない。憑きものが落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「私の気持ちを分かってくれる人なんてこの世に一人もいないと思ってた」
そのとき、ふと体が軽くなるのが分かった。
暖かい神の光が天から差し込める。開いた。天界への扉が。
しかし人間たちはそれを知覚できていないようだ。勇者は変わらず前をまっすぐに見て走り続けている。
「……また、戦ってくれるのか?」
「うん」
重力から解き放たれるのを感じる。
地面がふわりと足を離れる。
「痛くて暗くて怖いのに?」
「うん」
勇者の声がどこか遠くから聞こえる。体が空へと吸い込まれていく。
今なら分かる。彼女は強い人間だ。ただ、孤独な戦いに少し疲れていただけで。
彼女の存在を随分遠く感じる。彼女の手の温かさだけを頼りに、僕はもう一度尋ねる。
「たった一人で?」
「ううん」
「え?」
天からの吸引がピタリと止まった。
勇者がまた振り返る。満面の笑み。
「同じ境遇の仲間がいてくれないと頑張れない」
「いや、待っ……そんなの僕むり」
僕の必死の抵抗を嘲笑うように辺りが暗闇に包まれた。
地上を支配する重力が肩に重くのしかかる。二本の足が地面に吸い寄せられる。
冷たい空気が肌を粟立たせる。
天の国への扉は閉ざされた。
*****
「天使よ……」
どこからか声が聞こえる。
「目覚めなさい天使よ……宿屋のチェックアウト時刻が迫っています……」
「うるさぁい!!」
僕は勇者の言葉を無視し、朝の冷たい空気を遮断するように毛布を頭までかぶった。
天の国への扉は閉ざされた。
どうやら、僕はこの哀れな勇者の道連れとなったらしい。
神のご指示だ。仕方が無い。仕方が無いが口を少し開くと、文句が自分の意思とは関係なくボロボロ出てくる。
「地上って最悪だ。一日の半分は暗いし、上から水が降ってくるし、なにもしなくてもすごく疲れるし。なんで僕ばっかり……」
「ならいっそ全部放り投げて一緒に逃げる……?」
「逃げるわけないだろ!」
僕は毛布を丸めて勇者にぶん投げた。
まったく不本意であるが、女神がそう決められたのなら僕に拒否する権利はない。
一応、こぼれる愚痴を受け止めてくれる相棒はここにいる。
「さっさと魔王倒して僕を天界に帰らせるんだよ一刻も早く!」
「趣旨変わってるよ」
「変わってない!」
こうして勇者と付添人による新たな旅が始まった。