変われば変わる
第208回コベルト短編小説新人賞「もう一歩」に終わった作品です。
「光希、放課後に他校の男子とカラオケに行くんだけど一緒にどう?」
「ごめん、アルバイトがあるから行けない」
入学したころから半年以上も友達の誘いを断り続けている。
「一度くらい遊びに行こうよ。アルバイトばっかりして欲しいものでもあるの?」
これと言って欲しいものはない。男の子目当てに遊びたくないだけだ。彼女たちの遊びには、やたら男子が絡んでくる。
「毎月の小遣いだけじゃ服だってまともに買えないよ。欲しいものが買えるように自分で稼がないとね」
だから、お金がかかる遊びは厳禁という建前を用意している。そのほうが相手も引くしかない。
私、手島光希は男が大っ嫌いなのだ。
高校入学を機に、自分自身を変えようと思う生徒は多い。大幅なイメチェンで高校デビューしたいとか、彼氏がほしいとか、そういう願望を持つ女の子がいて当然だ。
でも、私はちがう。むしろその逆だった。男の子と付き合うくらいなら、もっと時間を有効に使ったほうがいい。勉強や部活……私の場合はアルバイト。
恋愛はしないと決めている。二度とあんなみじめな思いをしたくないから。
忘れもしない。ううん、忘れられない。
中学二年生の秋。私は決死の覚悟で好きな男の子に告白し、見事に玉砕した。
相手は同じクラスの男子。
問題は、単純な失恋で終わらなかったことだ。
「お前みたいなブタ、誰が相手にするかよ!」
当時の私は、人から好かれるような容姿じゃなかった。眼鏡もイマイチぱっとしないフレーム。同年齢の女子の平均身長はあっても、基準を十五キロも超えた体重。
「ぽっちゃり」や「おデブ」など呼び方は様々だけど、露骨な言葉で罵られたのは初めてだった。蔑むような彼の目を今でも覚えている。
「自分のことわかってないんじゃない? 頭のほうもおかしいとか?」
追い打ちをかけるように、クラスメートの女子にもバカにされ、私は不登校になった。部屋に引きこもり、悔しくてひたすら泣いた。
個人差はあるけど、失恋で女は強くなるというのは本当だと思う。泣くだけ泣いたら闘志が漲ってきたのだ。
家族に協力してもらい、運動を習慣づけて食事制限もした。人目を避けて、夜に近所をウォーキング。炭水化物の取り過ぎにも注意した。精神的にも肉体的にもつらかったけど、自分を笑ったやつらを見返してやりたかった。誰かに媚びるためじゃない。私だってやればできると証明したかった。
結果、大幅に体重を減らすことに成功。痩せたことでまぶたの肉が落ちた。目がぱっちり開くようになったから、眼鏡からコンタクトに替えた。体質改善したことで髪や肌の状態もよくなり、二ヶ月で体重は標準値になり、半年後には別人のような細身の自分が鏡の前に立っていたのだ。再び学校に通うようになったけど、もう男子に対して興味はなくなっていた。人は外見ばかり見て内面まで理解した気になる。男子に限ったことじゃない。劇的に痩せた私を見下す生徒はいなかった。
幸い今の高校に同じ中学出身の生徒はいない。
失恋と引きこもりという暗い過去を私は完全に封印した。
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私がアルバイトをしているのは、『ベーカリーK』というパン屋だ。Kは店長の神谷さんの頭文字からとったと聞いている。自宅、学校からも遠い店を選んだのは、知り合いと顔を合わせる可能性が低いからだ。
店内には芳ばしいパンの匂いがこもっている。正午前なら人気の山型食パンから、ランチ用のサンドイッチ、菓子パン、総菜パンなどたくさん並んでいるけれど、夕方は空になったトレイごと棚から片付けられている商品も多い。
「手島さん、ちょっといいかな?」
シフトに入る直前、私は店長に呼び止められた。
「子どもが足を骨折して入院したんだよ」
店長には小学四年生の息子さんがいる。サッカーの試合で敵チームの選手と接触、転倒した弾みで足の骨が折れたという。
「カミさんが付き添いで店には出られないから応援を頼んだんだ。圭斗、挨拶しろ」
店長に促されて出てきたのは、思わず見上げるほど背の高い男の子だった。しかも、相手の顔に見覚えがある。
「神谷くん」と言ったつもりだったけど、声が掠れてはっきりした言葉にならなかった。
「甥の圭斗だ。手島さんと同じ高校一年生。週末は朝から手伝いに入るから、色々教えてやってくれ」
神谷圭斗。中学時代に私をこっぴどくフった男子と同じグループにいた生徒だった。最も会いたくない部類の人間だ。
中三のときには別のクラスになったから、彼がどこの高校に進学したのかさえ知らない。
「初めまして。神谷圭斗です。よろしくお願いします」
初めまして? 私がクラスメートだった「手島光希」と気づいていないようだ。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
私の挨拶に、彼はぎこちなくお辞儀を返すだけだった。
「それじゃあ、割引のシール貼りからはじめます」
夕方はパンが売れ残るのを避けるために、割引して販売する。いつも店長の指示を受けてから、パンを透明なビニール袋に個包装し、その上から値引きシールを貼ることになっていた。パンを袋詰めして封をする。袋が汚れないように入れるのがポイントだ。
一度作業手順を神谷くんに見てもらい、注意事項だけ付け加えた。
「シールが少し曲がったりしても貼り直しはしないで。シールののりが残ったりすると見映えが悪くなるから」
私は、神谷くんの仕事に目を配りながらレジで客に対応した。
作業に集中している彼の横顔が大人びて見える。中学時代よりかなり背が伸びていた。私の記憶にある彼の印象は色白の少年。もやしっ子だった彼は、今では日焼けまでして健康的な高校生になっていた。
努力して痩せた私とちがい、神谷くんは成長期が体格の問題を解決してくれたようだ。そんな彼の幸運が、無性に腹立たしかった。
「手島、待って!」
背後からの声に、一瞬体が強張った。アルバイトを終えて駅へ向かう途中、神谷くんが自転車に乗って追いかけてきた。
「同じ方向だから、駅まで送ってく」
「大丈夫だよ。駅まで大した距離じゃないから」
こんなときだけ紳士ぶらないでほしい。
「叔父さんが送っていけって。店長命令ってやつだよ」
店長命令と言われると、むげに断ることはできない。神谷くんは自転車を押しながら私と並んで歩きはじめた。視線は前を向いたまま。私と目を合わせようとしない。お互い沈黙が重すぎて気まずいのはたしかだ。
「手島、もっと女として危機感を持ってくれ。夜道を一人で帰るなんて不用心だろ。痴漢とか変質者が出ないとは限らないんだし」
手島――中学時代の呼び方そのままだった。やっぱり気づいてたんだ。
「最初から私だって知ってたの?」
「事前にフルネームを聞いてたから。でも、手島は嫌がるかもしれないし、叔父さんの前では初対面のフリをしておいた」
気を遣ってくれたらしい。私が自分の黒歴史を知る人間を避けてるとわかってるんだ。まるで弱みを握られている気分になった。
「神谷くん、中学のときと雰囲気が変わったね」
「高校に入って環境が変わったせいかもな。それに中三の一年間で身長が十センチ伸びたから」
当たり障りのない話題で誤魔化せばいいと、私から次の話題をふり続けた。
「神谷くんのお父さんと店長が兄弟ってこと? 今までにもお店を手伝ってたりしたの?」
店の手伝いを頼まれるくらいだから、店長からも信頼されているのだろう。
「店に出るのは今回が初めてだよ。叔父さんはおふくろの弟。うちに遊びに来るときは、いつも土産にパンを持って来てくれるんだ。俺、それが昔から楽しみでさ……いつかああいう店を持ちたいんだ」
「えっ、パン屋になりたいの?」
神谷くんがベーカリーKで働く姿は様になっていたけど、パン屋の経営まで考えているとは思わなかった。
「パン作りのことは全然わからない。いずれ叔父さんの弟子にしてもらうつもりなんだ」
神谷くんは目標意識が高いようだ。手伝いとはいえ、意気込みからして私とちがう。
「手島も好きなパンとかあるんだろ?」
「サンドイッチとかよく食べるよ。なるべく、食べても太らないパンを選ぶ。ライ麦パンとか、全粒粉を使ったやつ」
食生活を改善するために、血糖値が上がりにくい原料で作られるパンについても調べた。
真面目に答えると、神谷くんは「手島らしいな」と納得している。
「カロリーを気にしないで食べられるパンは女の人に人気があるもんな」
パンの話をしているときの彼の目は、キラキラと輝いて見えた。
「パンの作り方も教えてもらうことになってるから、試食のときは手島も参加してくれよな」
神谷くんの明るい笑顔に圧倒されて、私は思わず頷いてしまった。
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≪久しぶり! 今時間ある?≫
次の日の晩に、中学時代の友達からLINEメッセージが届いた。
「なっしーだ!」
なっしーこと梨本和美は、中学二、三年とクラスが一緒だった。私がダイエットする前も後も、変わらず接してくれたのは彼女だけだった。別々の高校へ進学してからというもの、会える機会が一気に減ってしまった。
私は言葉を選びつつ急いで返信する。
≪久しぶりだね! 最近どうしてる?≫
≪美術部に入ったから、文化祭に展示する作品を描いてるよ≫
なっしーは中学でも美術部で活動していた。絵が描くのが大好きで、絵画コンクールで賞をとったこともある。ダイエットに必死だった私は、ナッシーのように打ち込めるものがない。だから、学校以外で経験を積もうとアルバイトに挑戦したのだ。
近況報告として、パン屋でアルバイトをはじたこと、店長の甥っ子である神谷くんと一緒に働いていることを話した。
≪二年生のとき同じクラスだった神谷くん?≫
≪そうだよ。なっしーも覚えてるよね?≫
なっしーからの返事を待つ。少し間が空いた。
≪じつは、神谷くんと関くんが学校で取っ組み合いのけんかをしたことがあったの≫
ようやく届いたメッセージに、息をするのも忘れてしまった。関くんは、私をフッた男子生徒のことだ。
けんかがあったなんて初耳だった。
≪理由ははっきりとはわからない。光希が学校を休むようになってすぐのことだから、知らなくて当然だよ≫
あの二人が大げんかだなんて信じられない。関くんはグループのリーダー的存在。対して神谷くんはその他大勢に分類される生徒だった。関くんと対立すれば、グループの中に居場所がなくなるのは確実だ。
≪それから男子は色々あったんだよ≫
なっしーは、私が引きこもっていた間にクラスで起きた出来事を話してくれた。
神谷くんたちのけんかは、お互いの保護者を呼ぶほどの騒ぎに発展したという。それ以後、男子たちの力関係が微妙に変わった。
≪学校に戻った光希がクラスに馴染めたのは、神谷くんのおかげだと思う≫
なぜ、神谷くんが私の登校に絡むのだろう。
≪不登校の生徒を攻撃するなって、無言のプレッシャーがあったんだよ、神谷くんから≫
男子たちの勢力関係が崩れた後、女子も空気を読んで調子を合わせるようになった。
思い返してみると、不登校から復帰した後に意地悪な女子からなにも言われなかった。嫌みの一つくらい覚悟していたのに。
≪光希もすごく変わったけど、神谷くんも変わったんだと思うよ≫
ダイエット後、学校に通えるようになっても、怖くて周囲を観察する余裕なんてなかった。わざと見ないようにしていたくらいだ。自分を蔑んだクラスメートと同じ空気を吸うのも嫌だったけど、必死に耐えた。
以前の自分とはちがうと言い聞かせて。
ベーカリーKで再会した神谷くんの印象がちがっていたのは、単なる成長期ではないのかもしれない。
なっしーの説明を聞くにつれ、せっかくのLINEを楽しめなくなっていた。
夜風が冷たさを増してきた。
神谷くんは、私のアルバイトがある日は帰りに必ず駅まで送ってくれた。パン屋での仕事ぶりも真面目だ。進んで重い粉袋も運ぶし、私の後片付けも率先して手を貸してくれる。
でも、この日は妙に彼の口数が少なかった。
「俺、手島の気に障るようなことしたか?」
「えっ、どうしてそんなこと聞くの?」
「今日の手島、考えごとしてるかと思えば、やたら俺のことチラ見してくるから」
なっしーからけんかの一件を聞いて以来、気になって仕方がなかった。どうして関くんとけんかをしたのか。仕事中でも理由を聞くべきか迷っていたのだ。
「中学のころ、関くんとけんかしたって本当なの?」
思い切って問い質した私に、神谷くんは大きく目を見開いた。
「なんで、けんかのこと知ってんの?」
「学校は休んでたけど、クラスで起きたことだもの。自然と耳に入るでしょ」
さすがに数日前に初めて聞いたとは言えない。彼は自転車を押しながら十数メートルは黙って歩いた。
「中学に入る少し前に両親が離婚して、苗字が母方の神谷になった」
離婚。だから母方の叔父さんと同じ苗字だったんだ。けれど、けんかと関係があるんだろうか。
神谷くんは背中に背負った鞄を下ろし、自分のスマホを取り出した。画面を操作して私にそれを差し出す。
反射的に受け取った私は、画面に映し出された女性の姿に釘付けになった。
年は五十代手前。緩くウェーブのかかった黒髪。頬はふっくらして顔全体が丸い。健康的な笑顔は好印象だ。体のラインを見ていると、少し前の自分自身を思い出す。
画像の背景から想像するに、場所は飲食店の店内だろう。彼女はイスに座ってVサインなんてしている。なかなかお茶目だ。
「この人って、まさか……」
「俺のおふくろ」
たしかに目鼻立ちが神谷くんに似てる。
「俺のおやじ、長い間おふくろの体型を貶してばかりで……今思うと、モラハラもいいとこだったよ。人格まで否定するような言い草だった」
当時のことを思い出したのか、神谷くんの顔が強張ってきた。
「おやじは自分のことを棚に上げて、おふくろを欠陥品みたいに責めていたんだ」
「そんなにひどかったの?」
「関と比べものにならないほどひどかった」
ギクリと私は肩をすくめた。たった一言でも私は一生分傷ついた気がした。もし、何年間も、心ない言葉を浴びせられたら――神谷くんのお母さんの苦しみは、想像を絶するものだ。
「おふくろは精神的に追い詰められて、見かねた叔父さんが間に入って別れさせたんだ。俺はそれでよかったと思ってる」
神谷くんは断言した。
「だから、俺……あのとき、手島のことを笑ってる関が許せなかったんだよ」
あのとき。おそらく私が関くんにフラれた場面を指している。関くんがそのことをみんなに言いふらして、私はいい笑い者になった。
「見過ごせなかった。放置したら、自分の父親と同じ人間になるみたいで……関に調子を合わせることができなかったんだ」
神谷くんには、他人事ではなかったんだ。きっと私と自分のお母さんの姿が重なって見えたのだろう。
「派手にけんかをしたことは反省してる。おふくろが学校から呼び出されて迷惑かけたから。でも、関に抗議したことは少しも後悔していない」
どこか言い訳がましい。叱られた子どもみたいに拗ねた顔だ。
「それって反省になってないよ」
私は思わず笑ってしまった。
「やっと笑ったなぁ。俺がベーカリーKに来てから、手島はちっとも笑わないんだもんな。警戒されてるってすぐにわかった」
ウッと私は言葉に詰まった。神谷くんの言うとおりだ。中学時代のことがトラウマで、他人に対して簡単に気を許すなんてできなかった。
「一番後悔してるのは、手島を助けられなかったことだ。本当にゴメン」
なっしーや先生以外に気にかけてくれている人がいたなんて思いもしなかった。これ以上神谷くんに冷たい態度をとるのは筋違いだ。
「もういいよ。神谷くんが悪い人じゃないってことはわかったから」
「そうだよ、俺は善良で正直な人間なんだぞ」
「なにそれ、調子に乗りすぎ!」
今度は二人で声を出して笑った。こんな風に他愛ない話をして笑えるなんていつ以来だろう。しかも相手は男子。
「親が離婚した後も、叔父さんには色々世話になったんだ。おふくろと二人して家に泊めてもらってたことも一度じゃない」
それで神谷くんは、困っている店長の応援にきたらしい。思っていた以上に義理堅いようだ。
「神谷くんのお母さん、笑顔だけでも人柄が出てるね。すごくいい人そうだもん」
私の言葉に、神谷くんは照れ臭そうに笑った。
+ + + + + +
二学期の期末考査が終わるころには、登下校にはマフラーが必須になっていた。これから冬休みに、クリスマス、お正月と冬のイベントが待ち構えている。
「手島さん、最近なにかあったの?」
私の変化を指摘したのはクラスメートだった。
「なにかって、別にないけど……」
首を傾げる私に、もう一人の友人が割って入った。
「光希ってば、ここのところ男子に優しくなったよね。今まで男嫌いなのかと思ってたぁ」
まったく身に覚えがなくて私は戸惑った。特別気を遣ってもいない。
「男子からプリント配られたときにお礼を言ったり、机から落ちたペンとか拾ってあげたりしてるでしょう?」
「そんなの優しいうちに入らないよ」
落とし物なんて反射的に拾ったにすぎない。
「今までが素っ気なかったというか、クールすぎたから目立つんだよね」
第三者からもそんな風に見えていたのか。今までは、世の中の男はみんな敵だと思ってたから無理もない。
でも、悪い人ばかりじゃないということもわかった。ただそれだけだ。
スマホが振動した。LINEの着信があったらしい。
≪今日は応援に行く≫
神谷くんからだ。用件だけしか送ってこないのが彼流だった。
店長のお子さんが退院すると、神谷くんはめでたくお役御免になった――けど。
時間があれば店に顔を出して手伝ってくれている。
最初は「手伝いに入る日を事前に知らせたい」という彼の要望からLINEの「友だち追加」に応じたけど、後になって当日に店長経由で教えてもらえばいいことだと気づいた。私がそう指摘すると、神谷くんはバツが悪そうだった。「嘘も方便って言うだろ。手島って結構鈍いんだな」とまで言われたのだ。
鈍いとはなんだ。私は本当のことを言っただけなのに。
「なにスマホ見てニヤけてるの? まさか彼氏から?」
「えぇ~っ、光希彼氏いるの? だから私たちが何度誘っても断ってるんだ!」
それは誤解だ。彼氏もいなければ、断り続けてきた理由もちがう。なんだか面倒なことになってきた。
「じゃ、これからバイトだから、また明日!」
「たまには私たちにも付き合ってよね」
友達の不満げな声をかわして、私はベーカリーKへ急いだ。
店の裏口から入るなり、言い争う男女の声に体が硬直した。
「いいからもう帰れって!」
「どこでどうしようと私の勝手でしょう!」
時たまパンへのクレームはあっても、店内でのケンカは滅多にない。夕方は客足が減るので、偶然出くわした客同士がけんかをすることも考えにくい。声に集中すると、バックヤードでの会話だった。
「いつまで居座るつもりだよ!」
少しドスの利いた声は神谷くんのものだ。女性の声に聞き覚えはない。店長の奥さんでもなかった。
「こんにちは~、夕方のシフトに入ります」
いつも荷物を置いている控え室の前に、神谷くんと押し問答の相手らしい女性が立っていた。一瞬にして二人の視線が私に向けられる。
女性の顔を見て、あっと声をあげそうになった。以前スマホで見せてもらった画像そのままの顔が目の前にある。
神谷くんのお母さんだ。
時々遊びにくるとは聞いていたけど、今日は親子で店に顔を出していたらしい。
「あなたが光希ちゃん? 中学のときの同級生だった子よね?」
光希ちゃん――初対面にしてはやけに馴れ馴れしい。
「はい、手島光希です」
神谷くんのお母さんは、満面の笑みで私に近寄ってきた。笑顔も画像で見たまま。なぜか神谷くんは対照的に渋い顔をしている。
「初めまして、圭斗の母の神谷真実です。息子がお世話になってます」
「初めまして。私のほうこそ神谷くんには……」
「あ~っ、もういいだろ? さっさと家に帰れって!」
挨拶も途中なのに、神谷くんが私たちの会話を打ち切った。さっきの言い争いはけんかではなく、親子のにぎやかな会話だったらしい。お母さんは、離婚後に精神的な苦痛からすっかり解放されたようだ。
「い・や・よ! やっと光希ちゃんに会えたのに」
お母さんは神谷くんからプイと顔を背けたかと思うと、急に私の手を握って話しはじめた。
やっと――とはどういう意味だろうか。
「会えて嬉しい! 圭斗ったら家でもあなたのことばかり話してるのよ。中学のときから私と似た体型の子がいて親近感があるって言ってたんだけど……」
「わああぁぁ、それ以上なにも言うな!」
神谷くんは声を張り上げて、お母さんの話を遮ろうと必死だ。耳まで真っ赤になっている。なんだろう……私の耳まで熱くなってきた。
「中学のときからですか?」
「そうよ、ダイエット後には痩せすぎじゃないかって本当に心配してたんだから!」
「やめろ! 今日は旅行の土産を届けにきたんだろ? 二階行けよ、二階に!」
ベーカリーKは一階が店舗、二階から上が店長家族の居住スペースになっている。身内同士は二階で用事を済ませろと言いたいのだろう。都合の悪いことをばらされないためにも。
「これからも、圭斗のことヨロシクお願いします。彼氏がいないなら、ぜひウチの圭斗を……」
「余計なお世話だ! ほら、仕事の邪魔だからあっち行けって!」
神谷くんはドシドシとお母さんの背中を押して二階へ追い払ってしまった。神谷くんは、人知れず苦労してきたとは思うけど、店長も含め、明るい家族に恵まれているらしい。
「うるさくてごめんな。ウチのおふくろ、悪気はないんだけど人なつっこくて遠慮がないんだ」
とんでもない爆弾を投下していった母親に代わって、神谷くんは申し訳なさそうに謝ってきた。
「お母さんと仲が良いんだね」
普段、親子の会話が弾んでいるのはまちがいない。あのお母さんが相手なら、つい口を滑らせてしまうのかも。
神谷くんの意外な一面を発見するたびに、もっと知りたいと思うようになってきた。それは、私の中でなにかが変わりはじめたからだろう。
「家での会話って、家族にばらされると恥ずかしいよね。さっきの話は聞かなかったことにするから……」
「いや、この際だから言っとく。二度と後悔したくない。俺、手島のこと好きだから」
遠慮がないのは神谷くんも同じだった。真剣な眼差しを当てられると、私の心臓が破裂しそうだ。
「返事は急がないよ」
今すぐ答えを出す勇気はない。だけど、伝えられる言葉はある。俯いたまま黙ってはいられなかった。
良くも悪くも、私は変わった。少しずつ勇気をふり絞って強くなっている。
「……私、男の人が嫌いだったの。本気で無神経な生き物だと思っていたし。でも、今はちょっとだけちがって見える」
神谷くんは目を瞠る。嬉しそうに笑ってから、彼は胸を張って宣言した。
「男だって捨てたものじゃないよ。これから俺が証明してみせる」
私の頬は、店内の暖房が要らないほど火照っていった。
終






