第四話 怒らない事2(人生は有限です)
むろん怒ってもいい場合もある。ふがいない自分に活を入れ、人生に発奮する場合だ。だがこの人生論を読むような人々はやめたほうがいい。静謐な心の安定を取り戻すことの方が大切だ。まずそれからだ。
セネカ言う。
『人間は相互の助け合いのために生まれた。怒りは破壊のために生まれた。人間は集合を欲する。怒りは離散を欲する。人間は貢献を欲する。怒りは加害を欲する。人間は見知らぬ人すら援助する。怒りは愛しい者すら苛む。人間は他人のため進んでみずからを危険にさらす。怒りは危険の中へ、もろともに引き込むまで堕ちていく』。
(セネカ『怒りについて他二篇』 岩波文庫)
第三話で述べたように、不幸を実感したくないなら怒りは抑えなければならない。「怒るが負け」。なるほど古人はうまいこといったものである。怒りは不幸以外の何物も生み出さないのだ。まずそれを根底に据えなければならない。
殺人が悪徳であるのと同じように、憎悪や憤怒も悪徳なのです。正当防衛が認められるからといって、殺人が正当化される訳ではありません。同じように自分に非がなくても、怒りは正当化される訳ではないのです。
大事なことなので何度も言います。怒りは悪であり不幸の源なのです。人間関係を破壊する魔物であり、全力で避けるべき悪徳なのです。
『怒りは抑えなければならない。自分と同格の相手との争いは不安の種、まさる相手なら狂気の沙汰、劣る相手なら面汚しだ』
(同上)
「それができれば苦労しねーよっ」とあなたはいうかもしれない。
それでもできるかぎり怒りは抑える努力をしましょう。そのために有益なのは第二話で述べたメメントモリです。人生は有限で怒っている暇などないのです。
セネカも言ってます。
『何よりもまして有益なのは、死の定めを思う事である。まるで永遠に生きるために生まれたかのように、怒りを宣言し、束の間の人生を露消させて、何が楽しいのか。気高い喜びに費やすことが許されている日を、他人の苦痛とけん責へ移して、何が楽しいのか。君の財産には損失の余地はなく、むだにできる時間はない』
(同上)
だからもう少し気楽に生きてみませんか。