第二十一話 「般若心経」を語ってみる
読経や写経として使われることが多い「般若心経」ですが、本当はどんな内容なのでしょうか?
自立した個人が存在すると思うから、迷いや苦しみが生じる。絶えざる変化と無限の関連性を「縁起」として実感し、あらゆる物質も現象も「空」であるという、全体に溶け込んだ個を感じる時、人は究極の安らぎである「涅槃」を得ることができる。
あらゆる現象は単独で自立した主体を持たず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する。自由自立自主自尊のあなたなど存在しない。
「見える」という行為ですら、赤外線や紫外線を見ることのできる他の生物で受容の仕方は違う。生命それぞれのシステムにより、知覚できる世界は千差万別なのだ。
例えば犬や猫の視覚は色というもの、いわゆる色彩を認識できない。では人間の視覚がとらえる世界が正しいのか? いや人間は、赤外線や紫外線を認識できない。だから人間に見える姿は(赤外線や紫外線を見る能力がない以上)本当の姿ではない。
人間の感覚能力には限界があり、物事を全体として正しく認識することはできないのです。
たまたま「縁起」により集まった身体と精神機能の集合体が「私」なのであり、絶えず無数の関係性の中で変化し続け(誕生→成長→変化→消滅)、その機能は決して固定されることはない。
私(我)を固定的実体だと思い込む傲慢さが「我慢」なのです。純粋で絶対的な主観も客観も存在しない。
「識」(自分の中に蓄積され形成された意識)が、“こいつは嫌い”と告げていれば、その人の料理はありのままの味ではなく、嫌な味となる(というか「ありのまま」という客観などもともと存在しない。すべて私の意識が勝手に決めてしまうのだ)。
病気も死も破滅も実は存在しないのです。あらゆる現象には生滅も、汚浄も、増減もない。全てあなたの脳と感覚機能による勝手な判断による錯覚なのです。
あらゆる命は無限の可能性の中で変化しながら展開していくのに、その変化の特定ポイントを、誕生とか死と思うのは、物事を固定したがる怠け者の脳の仕業にほかならない。
美醜、善悪、尊卑もまた同じ。自己も、真・善・美も「空」と認めることができれば、物事に執着することがなくなり、苦悩は消滅する。
例えば量子力学における極微の形態は“粒子であり、かつ波である”。同じように物体と現象は「空」であり、また「空」が物体と現象と言える。
脳は、はっきりとした概念の物差しで、物事を単純化して事態を把握したがるが(「これは美しい」「それは悪である」「あれが真実である」)、これは誤りなのだ。すべて人間の認識機能が決めつけているにすぎない。
健康も病気も流動する身体という物体の一形態にすぎないのに、二元論で「健康」ではなく「病気」に、「楽」ではなく「苦」と認識した途端、『病苦』が成立する。
「私」という自我が無くなれば、私の概念がでっちあげた、私の恐怖も私の死もなくなるのです。
「私」を関連し変化し流動する全体の一部と考えずに、自立した特別な存在だと思い込むから、どうしてよりにもよって、この「私」がこのような目に遭うのか、と苦しむのです。
とまあ、こんな感じです。
あなたもわたしも全体の一部なのです。何を悩む必要があるのですか?




