カニバリズム令息と狙われた令嬢
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※頭をからっぽにして読むこと推奨
「おいしそう…」
そう言っていつもエスコートしてくれていた大きな手が、少女の唇をゆっくりとなぞった。その指が束の間の唇の感触を楽しんだ後、名残惜しそうにゆっくりと離される。しばらく少女を愛おしそうに見つめた後、男は少女からそっと離れて何処かへ歩いて行ってしまった。
ソファでうたた寝をしていて男の気配に気づき、寝たフリをしていた残された少女…アンジェリカは戦慄していた。
少女の唇に触れていた男…婚約者であるレオナルドの行動と呟いた言葉に。
彼は言った。おいしそう、だと。そして少女の唇に触れた。
アンジェリカは寝たフリを続けたまま、恐怖に震えながら思った。
自分の婚約者殿は…食人趣味があるのかもしれない、と。
◇
アンジェリカとレオナルドはアンジェリカが6歳、レオナルドが8歳の時に婚約した。何故婚約したのかといえば政略結婚…ではなく、レオナルドが両親にアンジェリカと結婚したいと強請ったためである。
たまたま母親に連れられて参加したお茶会で、レオナルドはアンジェリカと出会った。眩いピンクブロンド、サファイアのような瞳、薔薇のような頬。何よりそんな彼女が無邪気な笑顔で挨拶をしてきた姿に、雷を打たれたような衝撃を受けた。ようは一目惚れである。
お茶会から帰り、早速レオナルドは両親にアンジェリカと結婚したいと想いを打ち明けた。昨今は恋愛結婚が増えてきたとはいえ、それほど結婚させてもメリットのない伯爵家の令嬢であったアンジェリカとの結婚をレオナルドの両親は渋ったが、「アンジェリカと結婚できないなら死んでやる」と真剣な目で言ってのけた息子に両親は戦慄した。
この子は本当にやりかねない。そういう目をしていた。
息子を失うかもしれないという恐怖を抱え、冷や汗を背中に流しながら結婚を了承。息子の怖いくらいの視線を浴びながら、その場でアンジェリカのいる伯爵家に好条件となるよう婚約の書類を書き(絶対に断られたくないので相手側に有利に書いてくれと息子に頼まれた為)、早急に伯爵家に婚約の申し込みをした。
一方伯爵家では、自分達より格上の侯爵家から、侯爵家側には対してメリットがないと思われる婚約の申し込みが来たことに驚愕していた。
伯爵家としてはあまりにこちら側にメリットばかりの婚約だし、格上の家からの婚約なので断ることは出来ないだろうが、一体何故急にこんな好条件で侯爵家から婚約の打診が来たのかとアンジェリカの両親は怪しんでいた。
当たり前である。うまい話には裏がある。娘の幸せを願う二人は、どうしたものかとため息をつき、頭を悩ませ胃をキリキリさせていた。
伯爵家からなかなか返事が来ず、「僕は断られたら死ぬ。僕は断られたら死ぬ」と虚な目で繰り返すレオナルドの様子に慌てた両親は、伯爵家に「一度息子と会って、それからでいいからよく考えてくれないか」と伝え、アンジェリカとレオナルドを会わせる機会をもぎ取ることに成功。とりあえず息子の寿命を延ばせたことに両親は安堵していた。
そして約束の日。アンジェリカとレオナルドは再会した。
アンジェリカの方はお茶会で一度会った綺麗な男の子、ぐらいの認識であったが、レオナルドの方は違った。久々に会った天使の輝きに目が眩みそうになりながら、神に感謝していた。そういうレベルの喜び様だった。
それは周りにも一目瞭然で、アンジェリカの両親はそういうことかとホッと胸を撫で下ろす。この様子なら娘はきっと幸せになれるだろうと、婚約の申し込みを受けることをようやく決意した。
レオナルド達が帰った後、アンジェリカの気持ちを念の為聞いてから返事をしようと、アンジェリカの両親はアンジェリカにレオナルドはどんな人だったのかと聞いてみた。
「レオナルド様ってとっても優しいのね!わたし、レオナルド様大好き!」
と娘が頬を染めて答えたので両親は安心し、了承の旨の書類を侯爵家へと送った。
伯爵家から返事が来た侯爵家ではその日、ホッと胸を撫で下ろす両親と、歓喜の舞を踊るレオナルドの姿が見られたそうだ。
婚約者同士となった二人は順調に愛を育み、アンジェリカもいつしかレオナルドのことを愛し、レオナルドは相変わらず超重量級の愛をアンジェリカに捧げていた。アンジェリカのことをレオナルドはアンジェ、レオナルドのことをアンジェリカはレオンと呼び、二人は幸せな日々を重ねていった。そしてアンジェリカが16歳、レオナルドが18歳となった今年は遂に結婚することになっている。
そんな我が世の春といった二人の間に、レオナルドの知らぬ間に亀裂が走る。
それはレオナルドは食人趣味かもしれないという、アンジェリカの心に生まれた恐怖であった。
何故アンジェリカがそんな思考に至ったのか。それにはいくつかの理由がある。
まず一つ。
レオナルドという男はどこまでも紳士であった。アンジェリカに絶対に嫌われたくないという思いから、アンジェリカが嫌がるようなことはせず、レオナルドからアンジェリカに触れるようなことはなかった。
いつも触れるのは、アンジェリカから。それが二人の暗黙のルールであった。
それは一度自分から触れてしまったら歯止めが効かなくなりそう、という実に思春期の男の子らしい葛藤を抱えていた為なのだが、それは彼の胸の内に秘めてあるので置いておく。
そんなレオナルドが自分に急に触れてきた。アンジェリカはそのことに自分でも驚くくらいに驚いて、混乱していたのである。
次に、アンジェリカがとても純粋であったことがあがる。
レオナルドはアンジェリカを大切に大切に囲い込み、純粋な彼女に余計な情報が入らないように手下(という名の友人たち)を使って完全に不要な人、物、情報を排除していた。
故にアンジェリカは閨の事は男性に任せることしか知らず、赤ん坊は好きな人同士がキスをするとコウノトリが運んできてくれるものだと信じていた。
なので相手の唇に触れるというのはとても大切なことで、凄く凄く恥ずかしいことなのだと思っていたのだが、あんまりあっさり触れてきたレオナルドに、驚いて混乱していたのである。
最後にこれが一番大きな理由なのだが、アンジェリカが最近食人殺人鬼の本を読んでいたことがあげられる。
毎年夏になると、アンジェリカの通っている学園では怖い内容の本が流行っていた。今年も例年同様流行っており、皆怖い本を探しては勧め合うのがこの学園の紳士淑女の夏の道楽であった。
その道楽にもれなく参加していたアンジェリカは学園の図書室や街の図書館で怖い本を読み漁り、その中の一つに食人殺人鬼の話があったのだ。
その殺人鬼は容姿が眩い金髪に紺碧の瞳を持つ美男子と描写があり、悲しいことにレオナルドの容姿とよく似ていた。色男で女性陣にそれはそれはモテモテで、彼はそんな自分に秋波を送る女性の中から獲物を決めた。決め手となるのは、唇の柔らかさ。その殺人鬼は殺して食べる相手を見定めるのに、毎度唇を触っていたのだ。
そして自分に懸想する、狙いを定めた女性の唇に触れながら愛おしそうに決まった言葉を囁く。
「おいしそう」と。
本の中の被害者の女性はその言葉に頬赤くしていたが、アンジェリカはそれを殺害予告なのだと解釈していた為、被害者の女性が頬を赤くして喜んでいる描写に、自分が食べられることよりも彼に獲物として選ばれたことに喜びを覚えるのかと驚いていた。もちろん全くの見当違いなのだが、そんなことに気付かないアンジェリカは被害者の女性たちの殺人鬼への愛に感動し、畏怖と尊敬の念を抱きながら勘違いしたまま読み進める。
そして犯行が行われるのは、必ずベッドの中。殺される前に行われる行為について、アンジェリカぐらいの歳になれば一般的令嬢はその意味が分かるのだが、そこは囲い込まれて何も知らないアンジェリカ。
結婚前の男女が異性と一緒に寝ることははしたない事だというのは知っていたが、そこで何が行われるのかについて知る機会を彼女は得ることができなかった。
故に、曖昧にぼかされてそれを確実に知っていないと分からない行為の部分がよく分からなかったアンジェリカはその部分をスルーし、殺人鬼が決まってベッドで女性を殺し、食すことしか注視していなかった。
何度もベッドで犯行を重ねるということは、食すのに最もベッドが適しているのであろうと斜め上の解釈をし、例の部分はあっという間に記憶の彼方へ忘却されてしまっていた。
アンジェリカはこの本を最後まで読み終えたが、ついに殺人の前の行為について正しく理解する事がなかった。果たしてそれがよかったのかどうかはわからない。
本来ならばアンジェリカの友人(レオナルドが遣わした令嬢)がアンジェリカがこういった少し耽美な本を読むのを阻止していたのだが、この本を手にした時アンジェリカはたまたま一人であった。一緒に図書館で本を探すはずだったのだが、アンジェリカの友人は図書館で運悪く知り合いに捕まり、その隙にアンジェリカがさっさとこの本を借りてしまっていたのである。しかも何冊も借りており、時間もなかった為検分する間も無く、二人は別れた。思えばこれが悲劇の始まりだったのかもしれない。
そんなこんなが重なり。
レオナルドはもうすぐ結婚できると気が緩み、寝ているアンジェリカに思わず欲望のままに触れて欲望のままに呟いてしまっただけだったのだが、まさか聞かれているとは思わず。
そしてアンジェリカが最近レオナルドに似た容姿のカニバリズム殺人鬼のちょっと耽美な本(アンジェリカ自身は耽美だと気付いていない)を読んでいて、意図せぬままにその殺人鬼が狙った獲物に告げる愛の台詞と同じ言葉を自分が呟いていただなんて知らず。
普段なら空想の人物と現実の人物がイコールで結ばれることなどなかったが、その時アンジェリカは激しく混乱していた。レオナルドの言う「おいしそう」の意味が、純粋なアンジェリカには伝わっていなかったのも悪かった。
レオナルドの思っていた「おいしそう」とアンジェリカが思っていた「おいしそう」は噛み合わず、悲しいすれ違いが起こり。
ーーわたしは結婚したら、レオンに食べられてしまうのかもしれない。
アンジェリカの思考はそこに至った。
いや、食べられる事には違いないのだが、食べられるの意味が違っていたのである。
故にアンジェリカの中で、レオナルド≒食人殺人鬼の図式が悲しいかな成り立ってしまっていた。囲い込んで情報を遮断していた故の悲劇である。
レオナルドの「おいしそう」発言以来、レオナルドはアンジェリカに避けられていた。今までは頻繁にお茶をしていたのに体調が悪いと断られる事が増え、久々に会っても何故か怯えられる。
レオナルドは絶望していた。
何故か避けられている。怯えられている。しかも心当たりがない。
いよいよ結婚が迫っているのに何故こんなことになってしまったのかと、どんどん生気を失っていった。アンジェリカに嫌われるのは耐えられない。どうして避けているのかを聞くのも怖い。恋の奴隷となっていた青年は、非常に臆病になっていたのである。
レオナルドの両親は生き生きとアンジェリカへの愛を語っていた息子から、萎びてキノコでも生えてきそうになっている息子への変わりように驚いていた。そして恐怖していた。
このままではまた死ぬなどと言い出すのではないかと、10年前を思い出して血の気が引いていた。息子の為にも、自分たちの心の安寧の為にも、レオナルドの両親は何故こんなことになっているのかと調査を始めたのだった。
一方その頃アンジェリカは、自分が(物理的に)食べられてしまうのかもしれないという恐怖を抱えながら過ごしていた。あの行動、あの台詞。甘く愛を囁くのは自分を食べる為だったのではないかと思うほどに疑心暗鬼になっていた。
だけどレオナルドを愛しているのも確かで、アンジェリカは苦悩していた。愛の証明として自分の身を捧げるべきか、自分の命をとるべきか。若い彼女にとって、これは重くのしかかる決断であった。
悩んだ末、アンジェリカは決断した。怖いけれど、やっぱりレオナルドのことを愛している。長い間レオナルドと一緒にいて、彼の愛は確かだと言えるほどには二人は互いを信頼し、愛し合っていた。
だからこの身を差し出し、食されることでレオナルドの愛に応えようと、それが自分に唯一できる食人趣味を持っていた彼への愛の示し方なのだと、アンジェリカは思い、決断した。
その日、アンジェリカは両親や弟たちに伝えた。
「もうすぐわたしは結婚します。そしたら(二度と)会えなくなってしまうけれど、どうかわたしのことを忘れないで。…愛しています。ここで与えてもらった愛を、わたしは一生忘れません」
何かの決意を秘めた強い眼差しと言葉に、アンジェリカの家族は泣きながら彼女を抱きしめた。
頻繁ではなくともまた会えるのに、と思わなくはないが、それくらいの覚悟で嫁ぐアンジェリカをただただ抱きしめた。
あの時のアンジェリカは、まるで戦場へと向かう戦士のようだったと、アンジェリカの家族は後に語った。
ついに迎えた結婚式。レオナルドの両親はあの後調査してみるも、何故かアンジェリカがレオナルドを避け始めたことしか分からず困り果てていた。一時は婚約が解消されやしないかとひやひやしていたがそんな様子はなく、少し前からアンジェリカがレオナルドを避けなくなったことに安堵していた。なんだかよく分からないが喧嘩でもして仲直りしたのだろうと思い、息子の寿命が伸びたと安心していた。
今日は結婚式。間違いなくアンジェリカはレオナルドの元に嫁ぐ。何かを決意したような顔に若干の不安を感じたが、まあ多分大丈夫だろうと二人を見守っていた。
結婚式が始まり、バージンロードを歩きながらアンジェリカは強く前を向いていた。そして自分の家族の、良くしてくれたレオナルドの家族の、友人たちの顔を、思い出を胸に刻み込んでいた。
いつのタイミングかは分からないが、自分はレオナルドにベッドに連れられたらあの小説の女性たちのように食べられてしまう。そう思って、大切な人たちとの思い出を噛み締めていた。
アンジェリカがそんな事を思っているなどとはつゆ知らず、レオナルドは少し様子がおかしいながらもアンジェリカが自分を避けなくなったことにほっとしていた。あのまま避けられていたらもう自分は命を絶つしかないのではないかと考えるほどに、レオナルドは追い詰められていたのだ。
自分が囲い込んで欲を我慢できなかったせいでこんなことになっているなどと夢にも思っていないレオナルドは、のんきに結婚できる幸せを噛み締めていた。
緊張しながらも二人は神に誓いを立て、慣例に沿って触れるだけのキスをした。
皆に祝福され、二人が結ばれたことにこれまでにない喜びを感じたレオナルドは満面の笑みでアンジェリカを見つめた。それに応えるように、涙を一粒流しながらアンジェリカも満面の笑みを浮かべる。
それを周りは嬉し泣きなのだと捉えたが、アンジェリカが流した涙は大切な人たちともう会えなくなるんだという悲しみの涙であった。
そんなことを知らないレオナルドはアンジェリカの涙をそっと拭い、泣くほど喜んでくれているのかと花畑の頭で解釈し、天にも昇るほどの喜びを感じていた。
こうして食い違った思いを抱えながら、ここに1組の夫婦が誕生し、結婚式は幕を下ろした。
その日の夜、見たこともないような薄いネグリジェを着せられ侯爵家の侍女に連れられた場所は、レオナルドとアンジェリカの寝室であった。
そしてアンジェリカは悟った。今日が自分の人生の幕を下ろす日である、と。
思ったより早くにやってきたその日にアンジェリカは動揺し、混乱していた。このペラペラなネグリジェはきっと、引きちぎろうとすればすぐ引きちぎれてしまう。つまり、食べやすいようにと、この防御力のない服を着せられたのだと冷静さを失っていたアンジェリカは考えた。
どうもレオナルドの家族も侍女も、レオナルドがアンジェリカを食べるとは思っている様子がない。つまり、レオナルドの食人趣味に気付いているのは自分だけ。アンジェリカだってあの時まではレオナルドに食人趣味があるのだなどと知らなかったのだ。きっと隠すのが上手なのだろうと結論づけた。
アンジェリカが壮大な勘違いしているだけで実際はそんなことはないのだが、それを教えてくれる人は誰もおらず、彼女は勘違いをしたままであった。
そしてアンジェリカは自分が食べられた後のことを思った。レオナルドが自分を食べたとして、それを隠し通せるはずがない。レオナルドの家族がレオナルドが人を殺して食べてしまったことに、深く傷つき悲しむであろう未来が見え、アンジェリカは悲しい気持ちになった。
だけどレオナルドは自分を間違いなく愛してくれている。
ただちょっと、彼の愛の形は他の人とは違うだけ。そしてアンジェリカはそんなレオナルドに、命をかけてでも愛を示したかった。
愛していたのだ。レオナルドとアンジェリカは婚約者同士だったが、レオナルドはそれでも女性にモテモテだった。でも不安になる度に、レオナルドはアンジェリカへの好意を真摯に伝えてくれて、不安なんて吹き飛ばすくらいの愛の言葉を囁いてくれて、他の女性よりも自分を特別扱いしてくれて。好きにならないわけがなかった。
あの本の中の殺人鬼も、気に入った相手しか決して食べはしなかった。ならばアンジェリカは、確実に他の誰よりも愛されている。アンジェリカにはそう思えた。
だからこそ、レオナルドに食べられることを選んだのである。
トントン、とノックが聞こえる。アンジェリカは心臓が飛び出してしまうのではないかというくらいドクドクとなる胸を押さえ、背筋を伸ばした。
「はい」
「入るね」
お風呂上がりなのか、少し濡れた髪と上気した頬がレオナルドの色気を増し、ますますうるさくなった心臓。アンジェリカは知らぬ間に息を止めていた。
「アンジェ?どうしたの」
「…いえ、その。レオンが、あまりに素敵で…」
頬を染めて恥じらいながら呟くアンジェリカの様子に、レオナルドは理性を必死に働かせていた。思春期特有の青年の獣のような本性を見せて嫌われたくなかった為である。
今すぐ襲いかかりそうになる本能を抑え、アンジェリカの横にゆっくりと腰を下ろした。
「アンジェも、とっても素敵だ」
「レオン…」
自分から触れてはこなかったレオナルドが、アンジェリカをゆっくりと腕の中に包み込んだ。アンジェリカからしか触れないという暗黙のルールの中で、アンジェリカがレオナルドに触れたのはエスコートの時と、デートで手を繋いだ時と、結婚式のキスの時だけである。好きな相手に触れられて感じたことのない高揚感を覚え、アンジェリカはかつてないほどの幸福を感じていた。
「僕はこの時を、ずっと待っていたんだ」
幸せでふわふわしていたアンジェリカの頭は冷や水を浴びせられたかのように冷静になり、すっと血の気が引いた。
ーーついに、わたしは食べられるのね。
アンジェリカの脳内には走馬灯のように今までの思い出が蘇っていた。そしてそのどれもが素敵で、大切で、幸せで。ここで自分は死ぬとしても、悔いのない間違いなく幸せな人生だった。
そこまで振り返り、アンジェリカはあの日レオナルドに食べられることを受け入れ、決意した時に自分から言おうと思っていた言葉を言うために、レオナルドの腕の中からもぞもぞと抜け出した。
自分の腕の中から抜け出してしまったアンジェリカに少しの寂しさを感じていたが、アンジェリカがかつてないほど決意を秘めた目をして自分を見上げていた為、なんとなくすっと背筋を伸ばして見つめ返した。
しばらく見つめ合い、深呼吸をして自分を落ち着かせたアンジェリカは、レオナルドに向かってずっと決めていた言葉を告げた。
「レオン…どうか、わたしを食べて」
どうせ食べられるなら、せめて自分から。それがアンジェリカが決めていたことであった。
普段のレオナルドなら、アンジェリカがどこでそんなとんでもない煽り文句を覚えたのか、誰が教えたのか、もしくはいつ知ることになったのかなどを怒り狂いながら考えたのかもしれない。だが、今日のレオナルドはそんなことを考える暇などなかった。
ずっと触れたかったアンジェリカが、自分を食べてと言っている。
据え膳食わぬは男の恥。普段働き詰めで過労死しそうな勢いだった理性は吹き飛び、レオナルドは気付けば愛しい人をベッドへと押し倒していた。
◇
眩しい光が窓から差し込んでいる。
目を覚まし、アンジェリカは呆然としていた。昨日、あのまま食べられて一生を終えると思っていた。なのに、自分は生きている。
殺されて食されるはずだったのに、優しく自分に触れたレオナルドとなんだか幸せな時間を過ごしていた気がする。アンジェリカには昨日のアレがなんだったのかよく分からなかった。
ただ、食べられなかったことに一抹の悲しみを覚えていた。
「わたしはレオンに食べてもらえるほど、愛してもらってはいなかったのかしら…」
「え、おいしくいただいたよ?」
起きているとは思わなかったレオナルドに驚き、彼の言葉に驚き、思わず自分の体を確認する。しかしどこも欠けた様子はない。お腹の辺りがずんと重い痛みを抱えているが、欠損した様子はない。
困惑した様子のアンジェリカに、レオナルドは優しく「どうしたの?」と語りかけた。アンジェリカは「おいしくいただいた」の言葉の意味を知るために、レオナルドに「おいしそう」発言から今までの気持ちを語った。
それを聞いて笑い転げるレオナルドに、アンジェリカはますます困惑していたが、レオナルドとしてはアンジェリカが自分を避けていた理由が、あまりにも可愛くておかしな勘違いで、もはや笑うしかなかった。
あまりにも笑いすぎてアンジェリカがふくれているので、レオナルドはなんとか込み上がる笑いを抑え、息を整えた。ふくれっ面の愛しい人は、馬鹿にされていると思って怒って背を向けてしまっている。
レオナルドは自分が食人趣味を持っていると思われていたのは不服だが、それでも構わず自分の元に嫁いでくれたアンジェリカが愛おしくてたまらなかった。後ろからそっとアンジェリカを抱きしめる。
アンジェリカが「おいしそう」の意味を知るのは、あと少し。