証券口座に札束を
さてとりあえず30万円、話はそれからだ。なんて雑な締め方をしてしまったが、改めて30万円というのは貧乏学生にとって途方も無い金額だ。実家に泣きついてどうにかなる可能性はゼロ。両親は善人だが、間違っても裕福な家系ではない。むしろ1億総中流はおろか、高度成長にすら乗り遅れたクチで、俺の大学進学にも反対し、高卒での就職を推奨していたくらい。進学にあたり実家からは、仕送りなし、学費・生活費諸々は自己責任を条件に出されている。
現在の主な収入はアルバイトと奨学金。ただし奨学金は全て学費に消えてしまうから、実質はアルバイトの収入だけで生活している状態だ。しかも学校の制度を利用し、学費を月払いにしてもらっていてなおこれなのである。今が3月中旬だから、リミットの6月末まではあと3ヵ月半。潤が頑張って半分稼いでくれたとしても月に5万円。京都府の最低賃金が時給750円弱、つまり毎月約70時間ほど追加で働かなくてはならない。一ヶ月って720時間しかないんだけどなあ……。とにかく、文化人類学の初回講義までの半月ちょい、やれるだけやってみるしかない。ダメそうだったらまた考えよう。
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4月。大学生にとっては新歓の季節である。今年はいろんなサークルの歓迎会や花見に新入生のフリをして潜入し、タダ酒を食らいつつ、会の雰囲気をぶち壊してサークルクラッシュをしようと密かに潤と計画をしていたのだが、それどころで無いのはご承知の通りだ。
2週間ばかり、いつもより余計に働いた。結論から言うと、70時間の追加労働は不可能だ。いや、この2週間に限ってはなんとかこなせたのだが、これからは講義に出なければならない。受給している奨学金には期毎に最低GPA(平均評定)が設定されており、この条件をクリアしないと奨学金が止まる。全て放り投げて、日暮作戦に全力を投じるという手も無いではないが、即座に始まる奨学金の取立てと、月払いにしていた学費を考えると、むしろ30万は遠のく事だろう。こんな事なら学校の奨学金制度に飛びついたりせず、素直にJASSOにしておけばよかったと嘆いても後の祭。
潤も財政的には似たような状況なので、あまり期待は出来ない。下手をすれば5万円を超えてこちらの方が多く負担せねばならない状況に陥る、なんてことすらありうるのだ。
さてどうしたものか。なんて考えつつ、バイト情報誌のページをめくってみたりはしたのだが、結局名案は浮かばなかった。そしてそのまま、お帽子事件予定日を迎えてしまった。
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「司ごめん、先に言っとく。このままだと30万無理」
潤のギブアップは早かった。案の定といえば案の定。ただしこの状況では変に粘られたほうが致命傷になりかねないので、早めの宣言はむしろ正解だ。
「ただ、なんとしても30万達成するために代案は用意した。今日の講義終わったら説明するから、とりあえず文化人類学を片付けよう」
我らが社会学部の学生民度は低い。内部進学やスポーツ推薦、AO入試等、筆記の入試を経ずに入学する学生が多く、過去には芸能人が在籍した事もあった。また仮に筆記入試を受けていたとしても、私学なので当然センター試験は必要ないし、最小であれば2科目で受験が可能である。さらに、社会学という学問が何をするのかイマイチ分かりにくい事から、何となく講義に出て、何となくそれっぽいレポートを出し、適当にテストに挑んでもギリギリ「C」くらいは取れてしまうのを否定できない。要するに、実力不足の学生でもいろいろな手段で入り込めて、何やかんや卒業してしまうのである。学内では動物園、歌手業の片手間で卒業できる学部、社学(笑)と揶揄され、非アッパー系のサークルで学部を名乗ると他学部の学生からはもれなく「ああ、あの」という微妙なリアクションをされる。真面目な学生にとってはまことに肩身の狭い学部である。タチの悪いことにその要因たる張本人たちは、そんな風評もどこ吹く風、毎日をアッパラパーに楽しく過ごしているのだからもうやり切れない。余談だが、マンモス校故に、テスト前になると講義内容をまとめたノートを売る業者が現れる。中を覗けば、ラインナップは圧倒的に社学が充実しているので、そこからも色々とお察しあれ、と言ったところ。
お帽子事件の背景にはそんな学部事情も絡んでいたりするのだ。何とも嘆かわしい限りである。そして残念ながら、そんな模範的社学生は、今回もしっかり教授を激怒させてくれた。これで俺達の巻き込まれた現象が、正夢説で仮定した二人同時に同じ夢を見たという話ではなく、何らかの要因で記憶を残したまま意識だけ10年間の時間遡行をしたとほぼ確定した。
教授が怒り狂うさなか、潤とガッツポーズを自制するのに大変な努力を要とした事を付け加えておく。
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「連携を強化します」
潤の話はこうだ。前期の履修科目を可能な限り減らし、かつ二人で共通化を図る。出席を取る科目は仕方が無いが、レポートやテストのみの科目は1回ごとに交代で出席し、その時間をバイトや睡眠に当てる。潤の話を信じるならば、ほぼ座っているだけでOKの夜勤バイトに心当たりがあるらしい。その待機時間で、出なかった科目のノートで勉強をすると。
話の例に潤が「『ファイトクラブ』みたいな感じだな!」と言っていたが、それは絶対に違うと思う。
「そんな美味しいバイトがあるの?」
「そう来ると思って、これから先方へ挨拶しに行く事になってる。大丈夫、多分即採用だから」
えらく手際の良い事で。そのまま大学の駐輪場を出て、一緒に自転車で移動する事20分ほど。マンションなのかオフィスビルなのか、判断に困る建物の2階に案内された。
「伊能です。入ります」
ノックもそこそこに潤が先に入る。中は学校の教室を一回り小さくしたような部屋。向かって奥側が窓で、窓を背負うように革張りの椅子とデスク。右手側の壁にへばりつく様に本棚が置かれ、資料やらファイルが陳列されている。その本棚に向かうよう、こちらにもデスクが幾つか並び、同じ数椅子がある。一方左手側には低めのテーブルにソファ。こちらは応接スペースだろうか。ふと、昔見たドラマの探偵事務所を思い出した。
「来たね、そっちがバイト希望の子?」
「そうです。夜勤入れるんで、是非使ってやってください」
「じゃそこに座って。伊能さんは悪いけどそっちで伝票整理しといて」
「了解です」
そう言って潤は、本棚前の机に座る。この勝手知ったる感じからすると、もしやここは潤のバイト先だろうか。どういう経緯があったらこんなところのバイトを見つけてこられるのか。やつの生態には未だ謎が多い。
「初めまして、大入保行です。うちの事は何か聞いてる?」
「いえ、良いアルバイトがあると聞いた今日の今日で連れて来られまして。大変申し訳ありませんが、大入さんが何をされているかも存じてないです」
「……あー、そうきたか。じゃあ履歴書とかも?」
「申し訳ありません、持参していません」
「んー……、まあいいや。じゃあ今から色々聞くから、それについて答えてください」
そう言ってノートパソコンを取り出す大入氏。
「名前は?」
「中郷司です。大中小の中に、故郷の郷、司会者の司です」
「生年月日」
「1989年5月13日」
「住所と電話番号」
「住所が京都府京都市右京区…」
これはもしかして、履歴書?現在進行形でデータ入力いただいてる?
ある程度質問に答えると、大入氏がおもむろに立ち上がり、カメラを持ち出してきた。
「はい中郷さん、こっち向いて」
「…あの、大入さん?」
俺の質問を無視してシャッターが切られた。写真の俺はさぞやアホ面をさらしている事だろう。
「これで完了。当社はあなたを採用します。で、いつから来れる?」
「……その前に、何をするのか教えていただきたいです」
あはは、ごめんねと、今更ながら大入氏が自己紹介をはじめて下さった。渡された名刺に書かれた社名は「大入葬儀社」。……葬儀社が大入で良いのだろうか。ここは自分の名前つけちゃいけなかった気がする。
元々もっと人数のいる会社だったそうだが、社員が減るにつれて仕事も減り、ある程度まで減ったところでむしろ人数増やすより利回りが良くなってしまったらしい。
潤は予想通りアルバイトで、潤が入り始めた当初には社員がもう一人いたらしいのだが、先行きに絶望していなくなったままだとか。その体制で無理矢理回して回せない事はなかったが、そろそろ社長の体がしんどくなり始めたところでやって来たのが俺だったと。
俺の仕事は書類処理兼深夜の電話番。この業界、深夜対応は結構あるようで、場合によってはそのままお客さんのところに行く必要があるらしい。それ以外の場合はとりあえずその場の電話対応だけして、翌日以降大入氏が改めてかけ直すのこと。フローチャート式のマニュアルも頂戴した。マニュアルどおり対応をすれば、最終的におおよそ5パターンの対応となるが、即出動はそのうち一つだけ。出動不要の4パターンのために、わざわざ夜電話で起こされたくないらしい。経営者ともなると、安眠をお金で買わないといけないのか。世知辛いな。
大入葬儀社での勤務に当たり問題になったのは、今のバイトの兼ね合い。現状は個人経営のレンタルビデオ屋をメインに、空いた日を見つけては単発の派遣を入れている。このレンタルビデオ屋のシフトが18時~翌1時である一方、大入社長の要望は23時~翌8時。優先は当然大入社長の方。なにせ稼げる。店長、恨みは無いが申し訳ない。また、少しでも空き時間を有効利用するため、シフト自由度の高いバイトをサブで追加。請負のコールセンターに入る事となった。決め手は「シフト自由」の文字。タウンワークもたまには役に立つ。このシフトの柔軟さは何かと都合が良いので、潤も登録をした。なお、今後潤はこのコールセンターをバイトのメインに据え、土日は単発の派遣を入れるとの事。そして業務の忙しさ次第で大入葬儀社。要するに俺の取りこぼしを片付けてくれるらしい。
これで1週間の基本サイクルが、以下のようになった。
・平日
~08:00 大入葬儀社
09:00~17:00 授業+睡眠
18:00~21:00 コールセンター
23:00~ 大入葬儀社
・休日
~08:00 大入葬儀社
09:00~15:00 睡眠、雑事等
16:00~21:00 コールセンター
23:00~ 大入葬儀社
……死んでしまう。過労死ラインは軽くオーバーしている。しかしこれを継続できれば、大入葬儀社分の給与で生活が成り立つので、コールセンター分の給料をそのまま取引口座にぶち込める計算になる。
これだけバイトに夜勤をさせて大入葬儀社の経営が成り立つのは、なんやかんや言って社長が優秀なのだろう。実際、夜勤の間は思っていた以上に電話対応があった。何でも、中小の病院と付き合いが深いので、半ばリピーターのようになっているらしい。個人的には、葬儀屋でリピーターという単語は使って欲しくなかった。
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まあそんな具合に、激働の春が始まった。
バイトに没頭したいのはヤマヤマだが、極力講義には出席している。頭のどこかで未だ、時間遡行を信じられていない部分があり、万が一の場合にも最低限成績だけはきちん取っておきたい思いがあるからだ。日暮計画がポシャったら再来年の4回生時、就活をもう一度しなければいけない。就活と平行して単位取得はしたくない。CやFの文字が躍る、提出して問題のある成績証明書も嫌だ。
「司は興味が極端なんだよ。満遍なくやる気出せば全部A取れるでしょ」
「俺は満遍なくそこそこ興味ないくせにA取れるお前の方が怖いよ」
潤の評定は大体A。時々A+。要するに成績優秀。曰く、「言われた事やるだけでA貰えるんだからやるだけ」との事。うん、分からん。
一方俺は半分近くはCかB。残り半分はA+。興味って大事。まあ、勝負の相手が動物園の猿だから、嬉しいかどうかと問われると結構微妙だけれども。
眠い。とにかく眠い。あと、労働よりも講義の方が辛い。
一番楽なのはコールセンター。このバイト、コールセンターと呼称してはいるが、電話がかかってこない時はテレアポの電話をかけまくる。多分、コールセンターの委託とテレアポの委託を両方請けてるからシフト自由なんて奇跡が起こってるんだと思う。その両取り、オブラートに包んで言えばリソースの有効活用が業界ルール的に許されるのかは知らないけれど。ただその慌しさが睡魔をやっつけてくれるのは確か。ずっと電話で喋りっぱなしだと眠くなる暇も無い。
その点では電話番も中々。手順どおりにこなすだけとはいえ処理すべき書類があるし、潤が取ってきたノートで講義の補完をしなければならない。あれで案外良くまとまったノートを取りやがる。加えて、眠くなってきたタイミングで良い具合に電話がかかってくる。
そして講義。これが最悪。バイト二つで疲れ切った体に教授の話は子守唄のよう。一方的に聞きっぱなしと言うのが良くない。ノートを取って手を動かそうと思ったところで、一定以上眠くなってしまったらもうどうしようもない。発声がしたい。
2回ほどノートの文面が象形文字か、さもなければ暗号文みたいになったところで潤に怒られた。
「……さすがにこれは読めないよね?アラビア文字だってもう少し読みやすいと思うけど」
「申し訳ない。いや、これは自分でもまずいと思ってる」
言い訳はしない。古今東西、言い訳で事体が好転した試しはない。
「まあ仕方ない。スケジュール的には無理してるんだ。どうしても眠気に耐えられなくなったらこれ使って」
連帯責任だよね、と潤。おもむろに鞄を漁り、何かを放ってよこした。
「これは?」
「ご覧のとおりです」
見たとおり受け取るならば練りわさびのチューブ。いや、これが何なのかは分かるけど、どうしろと?嗅ぐ?舐める?講義中に?そもそも何で鞄にこれ入ってるの?
「吸え。思いっきり吸え。見栄とか外聞とか捨て去れ」
唐突に講義中、チューブわさびを吸う学生。変態だ。間違いなく変態だ。マヨネーズ直吸いより、なんだったら練乳直吸いよりも恐ろしい。
「これで是正は出来るとして、問題は抜けた分のノートだよね。部分部分ならともかく、この回の1/3くらいゴソっと抜けてるし」
これ本気で是正なんですね、という突っ込みは置いといて。
声を大にして主張する事でもないが、ノートの貸し借りをするような友達はいない。そういう発想のない1回生を過ごしたので、そういうネットワークは持っていない。半分幽霊状態の映画サークルに社学の上回生が所属しており、また彼女らは典型的社学生なのでそういうネットワークに属していてもおかしくないが、諸事情により頼る事はできない。
「恥を忍んで講義ノート買おうか」
「いや、それはさすがに……。俺の問題で申し訳ないとは思ってるけど、越えてはいけない一線というか……」
どうしても食べるものがないから、隣のお宅で飼ってる犬の餌皿からドッグフードを奪って食べるような禁忌感と背徳感のブレンド。利益云々を度外視した、人間としての矜持の問題である。
「背に腹は替えられないよ。保険だと思えば数百円くらい。……いや、講義ノートか」
なにやら思案顔の潤。
「まあいいや。何とかする。あと、今後は渡したノートと司が取ったノート、Wordでまとめて提出して」
おそらく何か思いついたのだろう。指示に従う。そもそもこの件で俺は意見できる立場にはない。そのままノートの交換をして解散した。さて、一眠りしてコールセンターだ。……人間らしい生活が恋しい。
ちなみに、チューブわさびはびっくりするぐらい効いた。文字通り、目が覚めるような効き目だった。
新しい生活も一ヶ月もすれば慣れるもので、短時間睡眠でもアラームでしっかり起きられるようになった。講義はともかく、バイトの手の抜き方も分かってきた。車でいえば慣らし走行が終わったようなものだろうか。そして4月末、待ちに待った日がやってきた。そう、給料日である。6月末30万に向けてのマイルストーン。結果如何によっては修正が必要となる。
というわけで今日は、この1ヶ月の報告会と打上げを兼ねて、潤の部屋で酒盛。
「すげえ、大入さんのところだけで黒字だ」
「あとは照海代行センターがなぁ……。ホント申し訳ない」
「それはもう良いって。今更どうしようもない」
珍しく潤が謝罪上戸モードに入っており、この件で謝られるのは今日だけで4回目。照海代行センターはバイト先のコールセンターの社名。しくじったのは雇用契約。ここは給与の支払い条件が翌月払いだった。つまり、4月分の労働に対する給与が5月に支払われるという事で、資金計画が丸々1ヶ月分遅れる事になる。このズレのせいで、照海をメインに据えている潤は4月収支が赤字。
「照海は二人合計で200時間強だから、このペース維持して5月もこなせれば、6月末の入金で30万はなんとかクリアできるでしょ。だから気にすんなって」
「司にフォローされるのが嫌」
「ほっとけアホ」
そう言って次々と焼酎を空けていく。潤が大五郎を買おうとしたが、リットル単位の暴力を許すわけにはいかない。変に残してちょいちょい飲んでしまうと、今後の激務に差し支えるし。だから今日は大人しくいいちこの900mlビン1本だけ。割り材をいくつか準備しておけば案外飽きない。いろいろ混ぜるのは俺。ひたすら水割りかロックなのが潤。実に男前な事で。しかしこいつは、大五郎で同じ事をするつもりだったのだろうか。完全にアル中の飲み方で怖くなる。
「ちなみにGWはどんな予定?」
そんな恐怖を、決して察してくれたわけではないだろうが、良いタイミングで潤から話題転換。
「大入さんのとこと照海に入り浸り。特に大入さんの方が、頼むから帰省とかやめてと御所望でした」
この状況を差し引いても、正直積極的には帰りたくない家ではあるのだけれど。
「潤は?」
「うーん、派遣かなあ。多分連休補正で日当高くなるはずだから、ここで照海の分取り返しとかないと」
「だから気にするなと」
「うるせえ黙れ」
ついに謝らなくなった。謝られて嬉しくはなかったが、これもこれで嬉しくないのはどうしたことか。
「でも考えようによっては、10年前もこのペースで働けば奨学金無しで卒業できたよね」
ここで潤の言う「10年前」は1周目の、過去の経験も何もなしに過ごした大学生活の事。
「いや、普通にそれ死ぬから。期間限定だからこれだけ無理してるわけであって、半年も続ければ無事入院だよ」
何せ今日は1ヶ月ぶりの休み。ペース的には年間休日が12日という驚異的なブラックぶり。いや、厳密に言えば今朝は電話番をしていたし、明日も夕方からはシフトが入っているから、丸々1日の休みを取っているわけではないのだけれど。
「ちなみにこのペースはいつまで続くの?」
「このフルスロットル状態は30万準備できるまでかな。何度も言うけど、とにかく早く取引始めたい。そこで多少ペース落として、夏休みからは取引メインにしたいなあ」
「でもバイトで資金調達するに越した事はないわけじゃん。150万が最終的に6億なんだから、400倍?考えようによっては、単発派遣の日当が400万以上の価値ってすごくない?」
「プロ野球選手超えたな。それも超一流どころの」
試合日だけ日当が発生したとして、400万円×143日=5億7200万円。
……改めてえげつないな。すごいとかすごくないとか、もはやそういう次元ではない。
「で、バイトのペースに話戻すけど、今の話で気付いた。結局生活費分くらいはバイトで稼ぐ必要があると思う。取引の利益から生活費を捻出できなくはないけど、そうするとその分の金運用できない分すげえ損だ。取引オンリーになるのはやめた方が良いな」
大入社長には申し訳ないけど、照海で稼ぐ事になるだろう。ずっと続けるとなると、正直夜勤はしんどい。
「結局卒業までは働かないといけないわけね。……でも不思議だ。悲壮感とか空虚さがない。やりがい、とも違うけど、こんなに労働をポジティブに捉えるのは初めてかもしれない」
そう漏らす潤。結局はどう捉えるかの問題で、なんらかの目的意識や興味関心に基づいて行えば、穴を掘った側から埋める作業だってクリエイティブになる。
「『砂の女』だねー」
はい、労働社会論で取り扱ったばかりです。
その後は良い具合にアルコールが脳で暴れ始め、BGM代わりに流しっぱなしにしていた『ショーシャンクの空に』が終わる頃には、数字の議論をするどころではなくなってしまった。何度も見倒した映画はこういう時、途中どれだけ適当に見てもその後のシーンからすっと内容に入っていけるから良い。次は潤の希望で『裸の銃を持つ男』の3作目を流した。脱獄つながりとはいえ、それはあんまりなチョイスではないだろうか。
まぁそんな具合に、非常に明るい展望と共に4月の打上げの夜は過ぎていった。
ちなみにGWは、労働以外に記憶がない程度には労働漬けだった。順調なのは良いことだと思おう。
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連休も明け、講義を受けていた学部棟内には「講義だりー」とか「自主休講だ」とか、しょうもない空気が漂っていた。自らの意思で、それも相応の対価も払って来ているのに何と愚かな事だ、というのは社会人を経験しなければ分かるまい。そうやって自由の価値や意味を学ぶのも大事な事だ、なんて上から目線で説教をするつもりは毛頭ない。そもそもそんな余裕がない。
働いて働いて、講義の内容を詰め込み仮眠を取り、そしてまた働く。何かを考えることをせずとも毎日が勝手に進んでいく感覚。過ぎる時間にしがみつくというよりは引きずられている感覚。創造性の介在の余地が無いから昨日と今日の境は曖昧だが、タイムカードには着々と労働時間が積み重なり、講義内容をまとめたWordファイルはページ数を増やしていった。
そうして5月も終わりが近づいた日曜日、事件は起きた。発覚は潤からの電話。
「司!緊急事態!マジでやばい!やばいとしか言いようがない!」
時計を見ればまだ午前10時過ぎ。夜勤明けの俺にとっては真夜中。
「…潤さんの語彙の方がやばいですよ」
「そういう冗談言ってる場合じゃないんだって!」
潤は笑えないネタやイタズラを引っ張るやつじゃない。滑ったら滑ったで何食わぬ顔で即次の話題に移るような事を平気でやる。そういう切り替えの良さを持っている。
「何がやばい?」
「照海の事務所に入れない!連絡がつかない!今事務所の前でみんな立ち往生してる!」
「……は?」
状況が分からない。所長が倒れたか?でも社員が鍵持ってるはずだし。いや、もしや。
「潤、事務所の入り口はどうなってる?」
「鍵がかかってて、あと黄色いテープが張ってある!」
確定だ。これはつまり、いわゆる、
「それは多分アレだ、照海代行センターは倒産した」
恐らく計画倒産。まともな企業なら、社長からの説明や何らかの案内があってしかるはず。
もっと有体に言うならば、照海代行センターは俺達の2か月分の給料を持ち逃げして夜逃げした。
「え、それってやばいんじゃないの!?」
「……そりゃまあ、やばいな」
確かに、それしか言葉が出なかった。
改行苦手かよ