繰り返す少女たち
「どわぁ!」
頓狂な声をあげてヒナタがこけた。当然、抱えていたダンボールは放り出され床へと落下。衝撃によって中身が床面いっぱいにぶちまけられた。ついさきほど整理し終えたばかりの資料たちがファイルから外れバラバラに広がっている。
ミヅキは凝った肩をぐるぐると回した姿勢のまま、呆然としていた。長い時間ととてつもない労力をかけた成果が一瞬にして水の泡と帰した。ショックのあまり瞬きすることさえ忘れている。
ヒナタがゆっくりと立ち上がる。小首をかしげコツンと拳を頭に当て、片目を閉じた。茶色がかったボブの髪がふわりと揺れる。
「てへっ✩」
「おいお前」
抑揚のないミヅキの声にヒナタは頬を引きつらせた。これはミヅキが本当に怒っている時の声だと知っているからだ。ふざけている場合ではない。そう判断したヒナタは舌を引っ込め、両手を勢いよく合わせた。パンと軽い音が部屋に響く。
「ごめん!」
悪気があってやったわけじゃないことはミヅキだってわかっている。だから、こうして素直に謝られてしまうとこれ以上責めることもできなかった。
小さい頃からヒナタはおっちょこちょいだった。そんなヒナタに任せた自分も悪いのだ。
自分の中でそう折り合いをつけると、ミヅキは肩を落とした。
「いいよ、もう」ミヅキの答えにヒナタがほっとした表情に変わる。「昔から変わらないな、ヒナタは」
「そうかな?」
ミヅキとヒナタは物心ついた頃から共に過ごしている幼馴染だ。マイペースで抜けているヒナタのことをミヅキは妹のように思っていた。それは高校生になった今も変わらない。
「変わらないが」言葉を切ってミヅキはつま先から頭のてっぺんまでヒナタを見る。「身体だけは成長してんのがむかつくな」
ミヅキに比べヒナタのほうが頭ひとつ分ほど背が高い。ヒナタはだらしなく笑った。
「えへへー、牛乳毎日飲んでるからグングン背が伸びたのだー」
「わたしだって飲んでるけど、全然伸びない。それに背だけじゃなくて」
ミヅキは自分の身体を見下ろす。何の障害物もなくつま先が見える。
「あー、そっか。ミヅキちゃんぺったん」
「殴る! それ以上いったら殴る!」
ヒナタの言葉を遮って拳を振り上げる。ヒナタは「わー、逃げろー」と楽しげに部屋の隅へと逃げていく。床に広がった資料を思い切り踏んでいることに本人は気づいていない。
妹というより犬だな。好奇心旺盛で遊びたい盛りの子犬。
犬耳をつけて尻尾をぶんぶんと振っているヒナタを想像してミヅキは思わず笑った。似合いすぎている。今度、犬耳カチューシャでも買ってやろう。
「ミヅキちゃん? どしたの、なんか楽しいことあった?」
ひとりでくすくす笑っていることを不審に思ったのだろう、ヒナタが不思議そうな顔をしてこちらへと戻ってくる。当然、資料の上を通って。床に広げられた資料には、往復分の靴裏スタンプが押されていた。
ミヅキは「なんでもない」と答えると一度深呼吸をして気持ちを切り替えた。ひっくり返してしまったものは仕方がない。
「よし、もっかい片付けるよ。ヒナタ、いま何時?」
「えっと、五時十六……十七分なったとこ」
「まだそんなもんか。もっと長い時間やってた気がした」
ミヅキはしゃがみ込み一番手近にあったファイルを拾いあげる。見事に中身がすべて飛び出してしまっている。他のファイルもどうやら同様であるらしく、ミヅキは思わず溜息をついた。
「ごめんね」
ぽつりとこぼすようにヒナタが言った。顔をあげるとヒナタが両手いっぱいに資料を抱えてこちらを見ていた。その目には不安の色が浮かんでいる。
「どうしたのよ、急に」
「いつも迷惑かけてばっかりだし……これだって私のせいだし」
図書資料保管室の資料整理は、もともと担任の松ケ谷先生の授業中にいびきをかいて寝ていたヒナタに言い渡された罰だった。ひとりでは終わらないと泣きつかれたミヅキがしぶしぶ手伝っていたのだ。
「だからね、ミヅキちゃん。あとは私がやるから先帰っていいよ」
口ではそう言っているが、目は帰らないでと訴えている。何かを我慢するときの下唇を噛む癖も出ている。小さい頃と寸分変わらぬその姿にミヅキは思わず笑みを漏らした。
「ヒナタひとりじゃ終わらないんでしょ。ふたりでやって、はやく帰ろうよ」
ヒナタはミヅキの言葉にもともと大きい目をさらにおおきく見開いた。そのまま口をパクパクとさせ、身体を震わせたかと思うと「ミヅキぢゃああん!」と両手を広げて抱きついてきた。両手に抱えていた資料が宙に扇状に広がり、複雑に交差しながら床へとゆっくり落ちていく。
「ヒナタ」
ミヅキの声が低くなる。ヒナタはミヅキに抱きついたまま身体を硬直させた。冷や汗が頬を伝う。
「帰り、山月堂のパフェ奢りな」
「……了解であります、隊長」
作業は遅々として進まない。蛍光灯の青白い光が時折チラチラと揺れ、細かな文字をさらに見づらくする。ミヅキは一旦作業を止め、目頭を抑えた。ずっと下を向いているため、肩も凝り固まっている。いますぐに温かい湯船につかりたい気分だ。
一方ヒナタは楽しげだった。一枚ずつ拾うということはせず、ブルドーザーのようにして資料を壁際に集めると、両手で鷲掴みにする。繊細さの欠片もないため、ところどころ紙が折れ曲がってしまっている。だが、そんなことも気にせずどんどん机の上に積み上げていく。
「ほーい、これで最後でーす」
机の端には不安定な紙のタワーが出来ていた。不器用な子供たちが遊んでいるジェンガのごとく今にも倒れそうである。
「集めるの終わったならこっち手伝って」
ミヅキは疲労困憊という声で言った。
「あっちにまだあったー」
それを聞くこともなくヒナタは食べ忘れたデザートを見つけたようにウキウキと隅の方へと飛んでいった。ようやく苦しい作業を半分にできるとぬか喜びしたミヅキが机に突っ伏すと、紙のタワーが一気に崩れ、雪崩落ちてきた。分類が終わっていた物も含め、すべてごちゃまぜになる。愕然とその様子を見たミヅキの心が限界を超えて無になった。焦点の合わない目のままに作業を開始する。まるで意思を持たぬロボットである。
ミヅキロボがてきぱきと作業を続ける間、事の元凶であるヒナタは端に落ちていた資料を拾い上げ熱心に目を通していた。普段は三行以上の文章を見ると脳がシャットダウンし寝てしまうヒナタには珍しいことだった。
ところどころ読めない漢字があって詰まりながらも、どうにか読みすすめていたヒナタの手がプルプルと震えだした。顔からは血の気が引き、まるで病人のようだ。ヒナタはよろよろと立ち上がると、壊れかけのからくり人形のようなぎこちない動きでミヅキのもとへ向かった。
ギチギチと音が聞こえてくるようなヒナタの様子に気づき、ミヅキがロボットから人間へと戻る。気付けば机の上の資料は残り少しとなっていた。恐るべし無我の境地。
「ねえ、ミヅキちゃん」
ヒナタの声はやけに暗い。いつも頭の上に花を咲かせているような、元気だけが取り柄な子だけにミヅキの胸中に不安がよぎった。
「どうしたのよ」
「あのね、これ」
ヒナタは手に持った資料をミヅキの眼前に差し出す。それを受け取りちらりと目を通すと、そこにはこう書いてあった。
――人の記憶はただのデータにすぎない――
ミヅキはいったいなんのことやらと資料とヒナタを交互に見た。
「これ、なによ」
「よくわかんないけど、私たちの記憶がどうのこうので、本当にあったことかどうかわかんない……みたいな」
ヒナタに聞くよりも読んでしまったほうがはやい。ミヅキは再び資料に目を落とした。細かな文字を追いかけていく。徐々にミヅキの目が見開かれていく。
「なにこのトンデモ論文」
ミヅキは資料を机の上に投げた。眉間には深い皺が寄っている。
『記憶を証明することはできない。記憶とは脳の中で作られたデータにすぎず、昨日が、それ以前の人生が本当にあったのか定かではない。今朝、脳の中でいままでの人生全てが作られたのかもしれない。昨日があったかどうか、明日があるかどうか。私たちはそうとは知らずに同じ一日を繰り返し過ごしている可能性すらある』
およそ学会でまともに取り上げられたとは思えぬ論文ではあるが、たしかに記憶の証明とは難しいものなのかもしれない。ミヅキはそう思った。
「ねえ、本当にこのとおりだったとしたらさ」
ヒナタがいまにも泣き出しそうな声で言った。ミヅキが見上げるとすでに目の端に涙が溜まっている。
「子供の頃ミヅキちゃんと遊んだ記憶も嘘ってことかな?」
瞬きと同時にヒナタの頬を涙が伝う。ミヅキは立ち上がり、ヒナタの頬を両手で包み込んだ。
「ヒナタ」
そしてそのままぎゅっと力を込めて押し潰す。「ふがっ」とヒナタが妙な声を出し狼狽した。ひよこみたいに突き出した唇を見てミヅキが意地悪な笑みを浮かべる。
「不細工」
「ふがー!」
ヒナタが顔をぶんぶんと振り回しミヅキの手から逃れた。涙目で頬をさする。
「ひどいよ、昔っから私が真面目になると茶化すんだから!」
「そう、私は昔っからそうしてる」ミヅキが言いながら椅子に座り、作業を再開する。残りはあとわずかだ。「その記憶も作り物だって、本当にそう思う?」
「あ、えっと……」
「昨日、帰りにふたりで食べたもの、覚えてる?」
「覚えてるよ。たい焼き。私がカスタードで、ミヅキちゃんが小倉あん」
「じゃ、中学生の時に大喧嘩した理由は?」
「ミヅキちゃんが猫より犬のほうが可愛いって言ったから」
「ちゃんと覚えてるじゃん。その記憶が全部嘘だなんて、そんなはずないでしょ」
そうだけど、とヒナタが口ごもる。
「だって、証明は難しいって書いてあったよ」
ミヅキが作業の手を止め、顔をあげた。じっとヒナタを見つめる。
「誰かに証明する必要なんてある? ひーちゃん」
いつからか呼ばれることのなくなった名前。ミヅキがその名前を呼び、イタズラ成功とばかりに歯を見せて笑った。その笑顔に、公園を一緒になって駆け回った幼い頃の面影が重なる。ミヅキちゃんも全然変わってない。ヒナタはなんだか無性に嬉しくなり、身体がポカポカとしてきた。
「そうだよね! みっちゃん!」
「みっちゃんやめて」
クールなミヅキに一瞬にして戻っていた。ぴしゃりとやられヒナタはしょんぼりと肩を落とす。
「よし、終わり!」
最後のファイルをダンボールに入れるとミヅキは身体を伸ばした。ポキポキとそこここで骨が鳴り気持ちいい。
「じゃ、これ片付けて帰ろ。パフェ忘れてないでしょうね」
ミヅキが資料を詰め込んだダンボールを抱えようとする。ヒナタが慌てて手を伸ばす。
「それは私がやるから!」
「え、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ほとんどの作業ミヅキちゃんに任せっきりだったから、これくらいやらせて」
なんだか美味しいところだけ持って行かれているような気もするが、しかし、たしかにあのダンボールはかなり重いため、持ちたくはない。
「じゃ、お願いしようかな」
「お任せください、隊長!」
ヒナタは大げさに敬礼をしてみせると掛け声とともにダンボールを抱え上げた。ゆっくりと慎重に歩き出す。ミヅキはようやく終わったとばかりに椅子に沈み込み、凝り固まった肩をぐるぐると回した。
「だいたいさ、同じ一日を繰り返している可能性すらある、だなんて何言ってんだかさ。昨日だってあったし、今日が終われば明日がくるんだから」
開放感から注意力が散慢になっていたミヅキはふらふらと足元の覚束無いヒナタの様子に気づかない。小さかったヒナタの揺れが少しずつ大きくなっていく。そして、それはついに限界を迎えた。
「どわぁ!」
頓狂な声をあげてヒナタがこけた。当然、抱えていたダンボールは放り出され床へと落下。衝撃によって中身が床面いっぱいにぶちまけられた。ついさきほど整理し終えたばかりの資料たちがファイルから外れバラバラに広がっている。
ミヅキは凝った肩をぐるぐると回した姿勢のまま、呆然としていた。長い時間ととてつもない労力をかけた成果が一瞬にして水の泡と帰した。ショックのあまり瞬きすることさえ忘れている。
ヒナタがゆっくりと立ち上がる。小首をかしげコツンと拳を頭に当て、片目を閉じた。茶色がかったボブの髪がふわりと揺れる。
「てへっ✩」
「おいお前」
「ごめん!」
「いいよ、もう」
「昔から変わらないな、ヒナタは」
「そうかな?」
「変わらないが」
「身体だけは成長してんのがむかつくな」
「えへへー、牛乳毎日飲んでるからグングン背が伸びたのだー」
「わたしだって飲んでるけど、全然伸びない。それに背だけじゃなくて」
「あー、そっか。ミヅキちゃんぺったん」
「殴る! それ以上いったら殴る!」
「わー、逃げろー」
「ミヅキちゃん? どしたの、なんか楽しいことあった?」
「なんでもない」
「よし、もっかい片付けるよ。ヒナタ、いま何時?」
「えっと、五時十六……十七分なったとこ」