なろう小説とスマホゲー
最近、スマホゲーをインストールして遊ぶというのを少しやっていた。やっていて気付いたのは、スマホゲーというものは僕が思っている「ゲーム」という概念とは違うものだという事だ。
自分などはスーパーファミコン世代なので、一つのパッケージに、製作者の思考・感情・技術などが詰め込まれていて、それが一つの物語やアクションによって語られる…RPGを基本としつつ、そういうものを「ゲーム」と漠然と想定していたのだが、スマホゲーはそうではない。
スマホゲーは、解説するまでもないだろうが、入り口は無料になっていて、無料でインストールして、ある程度遊ぶ事ができる。ただ、その先に行こうとすると課金が必要になってくる。この課金システムは、プレイヤーの中毒性に依拠している。つまり、プレイヤーがより「数字を伸ばしたい」「勝ちたい」という、中毒的な症状を利用して、課金をさせるようなシステムになっている。
今のゲームは、作品全体を「味わう」というよりも、中毒症状にさせるような要素が多い。Steamで人気のゲームをやってみたりしたが、中毒系のゲームというのは多い。モンスターハンターがその代表と言えるが、素材を集めたり、アイテムをコレクションしたり、友人に対して装備の優越を誇ったり、という風で、この事は、我々の資本主義精神と一致する。
スマホゲーはそんな風に「面白い」のだが、その面白さは味わい、吟味させ、考えさせるものではなく、人を中毒させ、浸らせ、何物も与えないものであると思う。多くの人は自分で、何かを噛み砕いて理解しようとする努力を回避する為に、そういう作品の方が金が取れるという事が企業にもはっきりわかってきたので、企業もうまくやるようになったという事なのだろう。
同じ事は「なろう小説」にも言える。なろう小説、ユーチューバー、スマホゲー、いずれも自分の嫌う所であるが、これらは、そもそも僕の考えていた概念とは違うものだと先に抑えておくべきだった。「なろう小説」は僕のイメージする「小説」ではない。それはスマホゲーと同じジャンルに属するが、セルバンテスとは同じジャンルではない。
「なろう小説」もスマホゲーと同じく、考えさせる要素は皆無で、そういうものは意図的になくそうとしている。それが「読みやすい」という評価に繋がっていく。「読みやすい」とは読者に負担を強いないという事で、主人公が努力しない、あるいは努力する事、苦悩する事、葛藤する事、すなわち人生を生きる苦痛から放逐されているように、読者の方でも読む苦痛から解放されている。その方がアクセスが稼げるという事なのだろう。
なろう小説もスマホゲーも、現在に対応した、つまりは細切れになった我々を象徴するような細切れのアイテムである。我々はこういう断片化された時間の中を生き、また、社会の中で喪失された己を取り戻すべく「俺つえー」をフィクションの中で遂行する。これを現実にやっても、問題は解決しない。社会的に成功したが、精神未熟な人というのは沢山いて、最近話題になった「紀州のドンファン」なんて人もそういう人に見える。人はドンファンやホリエモンを尊敬したりはしないだろうが、あんな風になってみたいと夢想はする。まるで、異世界小説の主人公になるのに憧れるように、金さえあればあらゆる事が可能であって、そうであればあのような地位の人間になってみたいと思う。しかし、異世界小説の主人公もホリエモンも、偉大さというのはない。
スマホゲーやなろう小説は現在を反映した、我々風のよくできた小道具なのだろう。しかし、ただそれだけであって、それは我々がただそれだけだという事なのだろう。大地から切り離された我々はこういう小道具に囲まれて時間を暮らす。それで我々は小さな時間を「暇潰し」と称して潰し続けて、自分が大きな時間から疎外されている事をなんとか忘れようとするのである。