真の名
人間、妖は妖世界の者に真の名を知られれば、自分自身を操られてしまう。名を奪われれば、呼び出すことも思いのままに動かすことも出来る。最悪、自害させることも出来るのである。
『空汰様、私の真の名を教えましょう』
『でも珀巳……』
『私は翡翠様と空汰様の味方です。確かにこの身、一度裏切りました。しかし、信じていただけるのであれば、私は一生お二方についていくと誓いました』
『でも……』
『ですから、私の名を空汰様にお教えます』
『名を縛ることは……』
『普通はいけないことです』
『だったらっ』
『空汰様、信用を得るために一番手っ取り早いのは自身の真の名を教えることということを覚えておいてください』
『珀巳……』
『ただし、必要以上に真の名で呼ばないでください』
『それは当たり前に』
『私も空汰様ではなくスカイ様と呼ばせて頂きます』
『頼む』
『空汰様、どうか名前をお忘れなきよう』
『気をつけてはいるつもりだけど……』
珀巳は笑みを浮かべた。
『私の真の名は奏颯と言います』
『ソウリュウ……』
『奏でる颯と書いて、奏颯です。何かありましたら、こちらの名でお呼びください』
珀巳の真の名を、奏颯。
じゃあ、翡翠の真の名は?
フィリッツは翡翠から真の名を聞き、実鈴と葉羽に彼を妖長者の部屋に案内させた。ケンジの命により、家族を脅される羽目となった翡翠は、ただただ泣くだけであった。
翌日、フィリッツは翡翠のもとを訪れていた。寝室から一歩も出ず、食事を全くとらないという話が入ってきたからである。
コンッコンッ
寝室の扉をノックするが、返事はない。しかし、確かにこの扉の奥に妖長者の印と妖石の力を感じる。いることはいるのだ。だが、居留守を使っていることからして、こちらと関わりたくないのだと分かる。
でも、そんなことを言っている暇はない。
私も仕事が重なり忙しいのだ。
「入りますよ」
部屋に入ると、ベッドに座り本を読んでいる翡翠がいた。この歳でこれくらいの本が読めるのかと少し驚いた。
「妖長者様」
私に気付いた翡翠様は、一瞬顔をあげたが、すぐに逸らした。
このくらいの歳の子には、反抗期というものがあることは知っていたものの、どう接していいのか分からない自分が、勉強不足だと思い知らされる。
「妖長者様、よく眠れましたか?」
他の者には全く首さえふらないという話だったが、翡翠様はその問いかけに首を横に振った。無理矢理連れてこられて、一晩中泣いていたのだろうと考えなくても分かるが、それでも、彼は今日から妖長者である。
「お食事は摂られませんと、身体がもちません」
「いい」
「しかし、妖長者となられたのですから」
「俺がいつ妖長者になると言った!?」
案外、物怖じせず話せるタイプなのだとこのとき気付いた。
「言わなくてもこれは仕方のないことです」
「仕方のないこと!?」
翡翠様は手にしていた本をベッドに投げ置くと、私の服を掴み揺らした。
「俺を人間界に帰せよ! 俺はあの施設で過ごしていたいんだ!」
「無理な……お願いです」
「フィリッツって言ったよな!? 頼む! 人間界に帰してくれ!」
「妖長者様……申し訳ありません……。私にそのような権限はないのです」
実際、全くないことはない。
翡翠は掴んだ手を離すように押した。
「何でだよ……。何で、俺をこんなところに連れてきたんだ」
「次期妖長者の名に上がったからでございます」
「そんなもの! 俺を巻き込むなっ!」
とても小さく、妖が一握りでもすれば壊れてしまいそうな、その貧弱な身体で運命に抗う。無駄な抵抗だと分かっているのに、何故、そこまで抵抗を続けるのか分からない。潔く、妖長者として仕事をしてさえくれればいいのに……。
結局、その日は全く公務をすることは出来なかった。
それから数日後、突然、私の部屋にやってきた翡翠様は不満そうに公務をすると言い出した。それが、珀巳のおかげであることに、すぐに気が付いた。
それから数日後、妙に静かな夜だった。静かで暇な時間を過ごす。
窓の外を眺めていた。特に理由もなく、月も星もない真っ暗闇の空を眺めていた。
そして気づけば部屋を出ていた。どこに向かっているかは、分からない。でも、身体は行き先を知っている。そこは、妖長者の部屋だった。
寝室には、ベッドに入りスヤスヤと寝ている翡翠がいた。
落ちかけている布団を掛け直し、そっと髪に触れる。来た当初から、変化の術は得意だった翡翠は、自分の本当の姿をここに連れてこられたとき以外は誰にも見せていない。それ故、印が無ければ、きっと誰もその人物がそこにいたとしても、それが翡翠だとは気付かないだろう。
「ゆうや……ゆうや……」
名を忘れないように。
「ゆうや」
人間界に無事に戻れるように。
「ゆうや……ゆうや……」
私はあなたを自由にさせてあげたい……。
❦
もうすぐこの戦いは終わりを迎える。そのとき、あなたには本来の力が必要となる。今まで、真の名を知っていながら全く使ってこなかったのは、私はあなたの味方であることを伝えたかった……。誰も信じようとしないあなたの味方になりたかった……。私はあなたに自由を贈ろう……。
「……で、お前はそんな下らないことを俺に伝えたかったわけ? 俺の本来の力を発揮出来ない理由はなし?」
「いえ」
「だったら、早く話せよ!」
「翡翠様。……貴方様に、貴方様の名前をお返しいたします」
翡翠の表情は驚きと嬉しさとが入り混じった複雑なものだった。空汰のもとに早く行きたいと焦っていた気持ちはもうそこに微塵もないほど、足は止まっている。
「お、俺の……名前を」
「しかし、条件があります」
「結局お前は、俺を利用したいだけか!」
「いえ。これは、私の自分勝手な条件です」
「お前は俺を利用することしか頭にない、長老の長というわけだな」
「翡翠様。それは違います」
「だったらなんだよ! 名前を返して欲しければ、自分が出す条件を呑めと言っているのだろ!? 脅しじゃないか」
翡翠の表情には嘲笑めいた、軽蔑の視線があるだけだった。ここに来て、フィリッツは信頼を失った。
「私の……メッセージを読んだのでしょう?」
『32481 47333 18274 09573 81745 83829 55544 32812 85948 47582 99685 47584 67584 71097 47692 01012 47394 19503 84730 87495 58694 38283 95860 94057 71638』
ダイから返してもらった日記の裏に隠されていた暗号文。確かに、あの文を解き、読んだ。しかし、だから何だというのだ。今更、俺の味方など……。
「日記のページ数と文字数でした。32ページ目、481文字目、ひ。47ページ目、333文字目、す。それをすべて読まれましたか?」
翡翠はどこからか隠し持っていたあの日記を取り出し、挟んであった紙を開いた。
[ひすいさま どうかごじぶんを みうしなわないで ください → 翡翠様 どうかご自分を 見失わないで 下さい]
フィリッツからのメッセージだということもすぐに気づいた。しかし、翡翠はそれを認めたくは無かった。
「お前に何が分かる!」
「分かりません。しかし、分からないということが分かります」
「お前はいつも意味分からないことばかり」
「私は人間の気持ちを知りません。分かろうとも思いません。ですが、翡翠様。貴方様のことは知りたいのです。私は……貴方様の味方になりたいのです」
「俺は……お前が一番…………大嫌いなのに…………」
「私の条件を呑んでくださるなら、貴方様に名をお返しいたします」
「……で、その条件とは?」
❦
この世に、終わりのないものはあるのだろうか。
命あるものはいずれなくなってしまう。ものも寿命がくれば壊れてしまう。
終わりなきものがあるとしたらそれはきっと、もうすでに一度壊れたもので、この世のものではないのではないだろうか。世界が百八十度反転しても、きっとこの世界の始まりと終わりは変わらない。
もしも人間に『普通とは違う事』があったらどうだろう。人間は普通であることがきっと当たり前で、特別なこととなると貶したり、軽蔑した視線を向けたりする。嘘つきと呼ばれるのである。人間は無条件に人間を信じやすく、それ故、裏切りも多い。信じた者が馬鹿なのか、裏切った者が馬鹿なのか、それは人間本人しか分からない。つまり、人間は矛盾の中で生きる、不思議で奇妙な生き物である。
たいして大きな力を持たない人間は、大きな力を得ると、何故か調子に乗って過ちを起こす。そして、価値観がずれ、最終的には取り返しのつかないところまでいってしまうのだ。そこまでいかなければ過ちに気付かない、憐れな生き物が人間だ。
もしも人間に『特別な能力』があったらどうだろう。
人間は憐れで不思議かつ奇妙な生き物だ。そんな特別な力……というわけではないが、霊感という力を持ったがために、妖力を手に入れ、妖術を操ることが出来るようになった。もともと備わっていない力を手に入れた人間は、実に憐れだ。その力に翻弄されてしまうのだから。
なあ、翡翠。お前は俺に何を教えてくれる? 人間の儚さか? 妖の恐ろしさか?
俺は自分を信じてくれなかった人間が、家族が憎いよ……。でも、憎しみは憎しみしか生まないというだろう。何か間違った道を行ってしまったとき、俺はお前を助けたい。後悔するくらいならやらなければいいなんていうけれど、たくさん後悔した方が、俺は成長出来ると感じるんだ。俺はまだまだ子供だけど、そろそろ大人になってもいいかな……。
なあ、翡翠。
俺は誰を信じればいい?
❦
フィリッツからの条件を聞いた翡翠は、フィリッツをただ静かに見据えていた。笑みを浮かべるわけでもなく、睨むわけでもなく、ただ静かに見据えているだけだった。
しばらくして、沈黙を破ったのは翡翠である。
ため息交じりに口を開いた。
「お前に言われなくてもそのつもりだった」
フィリッツは翡翠の言葉に驚きを隠せずにいた。
「ですが……、貴方様は――」
「――」
フィリッツは小さな笑みを浮かべ、胸に手を当てる敬礼をした。
「翡翠様、名を無駄になさらないでください」
フィリッツは翡翠の頭をポンポンと撫でると、優しい笑みを浮かべた。
「紫宮 佑也。それが貴方の真の名です」
――――しのみや……ゆうや…………
予想通りだった。名前はきっとゆうやだろうとは思っていた。
『初めまして、君、名前は何というのです?』
『俺は紫宮……佑也』
『紫宮佑也様……、ようこそ、妖世界へ……』
❦
約八ヶ月前……。静寂に包まれた妖世界の中央に建つ妖長者の屋敷。階段から外を眺める人影は陽気に、鼻歌まじりに森の下級妖に向けて短刀を投げる。見事当たれば喜び、外れれば悔しがった。
その背後に並ぶのは裏切り者である。
陽気な人影とは裏腹に、長老は緊張の面持ちをしていた。そこに恐怖が漂っていることは誰もが感じる。たぶん……感じていないのは陽気な人影だけである。
「さーてと、計画始動です。私に、殺されたくなければ、殺しなさい」
そういうと人影は振り返り、全員に封筒を差し出した。その中には、計画のあらすじと計画書……。そして、次期妖長者『酒々井空汰』のプロフィールと顔写真であった。
「さてと、狩られるウサギはどんな子だろう」
人影の表情には奇怪な笑みが浮かんでいた。




