これが先触れ、凶兆(きょうきざし)
外に出たい……。
この広い地球で、たくさん笑える場所に行きたい。誰にも気を遣わずに過ごせる場所に、行きたい。俺だけしかいない、そんな場所に……。
頭がくらくらする。ゆっくりと瞼を持ち上げると、汚れた壁が視界に入った。どこかで水漏れしているのか時折、ピチャピチヤと水音がしている。頭を抑えながら体を起こそうとするが、両足に繋がれた鎖に邪魔される。
ここは見覚えがあった。
「牢……」
何故こんなところにいるのか記憶をたどるが、思い出せない。鈍い頭痛がするだけだった。
ジャラジャラと鳴らしながら、牢の通路の方を覗くが、明かりは一つもない。
誰がこんなところに連れてきたのか、皆目見当もつかない。しかし、自分に身の危険が迫っていることだけは分かった。
ここから出なければならない。だが、どうやって、出る……。鍵が無ければ牢は開かない。壊すにも人間の力では無理である。妖術を使いたいが、あいにく、そういう妖術を知らない。
翡翠が捕まるくらいなら自分が……そう思っていた。だが、実際その立場になるとやはり違うものである。ただ、恐怖しかない。この気持ちを翡翠も抱いていたのだと思うと、少しは我慢できるが、それでもやはり恐怖には勝てない。
牢はこんなにも暗く、寒いのだろうか。思い出す……。家族の冷たさを……。
空汰の瞳には涙が溜まっていた。今にもあふれ出しそうである。
「もう……ひとりは嫌だよ……」
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「ルイ……。前妖長者の名ですね」
「そうですね」
「ですが、あなたは前妖長者ではありません」
「何故、そう言い切れるのですか?」
「前妖長者である、翡翠琉生様は亡くなられました」
「そうですか。……だから、何です?」
「この世には存在しません」
「黄泉から連れ帰ればはやい話だとは思いませんか?」
「無理です」
人影はニヤリと笑みを浮かべていた。
「何故そう思われるのです?」
「妖石を使った人間は、黄泉には行けないのです」
「黄泉平坂に行けないとは……酷ですね」
「人間にとってはそうかもしれません。ですがそれは、致し方ないことなのです」
「致し方なく、人間を無の世界を送る……。最低です」
「ルイ」
「フィリッツ様。私は、あなたを一番恨んでいるのです」
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空汰のもとに、一羽の蝶が飛んできた。それは紛れもなく翡翠の蝶である。
空汰の周りを飛び回ったあと、指先にとまり、ゆっくりと羽を開いたり閉じたりしていた。相変わらず、チリンチリンと音を鳴らしているが、全く分からない。
澪が来たということは、翡翠が助けにくるかもしれないと淡い期待を抱いていたが、カツカツとならしながら来たのは、会いたくもない二人である。鋭い視線で睨み上げた。
「オーガイ、ケンジ」
オーガイは空汰の視線に臆することなく、嘲笑していた。
「空汰様でいいのかな!? 黒幕から、君へ伝言を預かっている」
黒幕という言葉に敏感に反応する。
黒幕から伝言!? 俺に!? 何故?
「『酒々井空汰は用済みだ。最期にさようならを』だそうだ」
「さい……ご……」
「酒々井空汰を殺せ……翡翠裕也を殺せ……という命令なのだよ」
「オーガイ、ケンジ! お前ら、どうやって出たんだ!」
オーガイが口を開くよりも、ケンジの方が少し早かった。
「黒幕が直々に開けに来てくれた」
「その黒幕は誰なんだ!」
「教えるわけがないだろう?」
「ケンジ!」
空汰の声に、オーガイは牢の鍵を開けた。しかし空汰の鎖はそこまで長くない。
オーガイとケンジの手には、隠し持っていたのであろう短刀が握られていた。人は死ぬ間際になって、その本当の恐怖を知る。
空汰は声にならない口をパクパクと動かしながら、一歩一歩と後退っていった。だが背後には壁がある。
オーガイとケンジに迫られ、二手から襲われれば万事休すである。
「や、やめッ…………」
「ジンもナクもたぶん、お前らを逃がす。だから、私らが殺さなければいけないんだよ。空汰様」
「翡翠様の頼みなど引き受けなかったら良かったのにねぇ? そしたら、今こうしてオーガイや私にこうして狙われることはなかった」
翡翠の頼みを聞いていなければ、今俺は学校で亮弘や賢太と一緒に笑って過ごしていたかもしれない。
翡翠の頼みを聞いていなければ、今まで通り何も変わらずに過ごしていたのかもしれない。
翡翠の頼みを聞いていなければ、俺は……翡翠を知らずに生きていたかもしれない。
翡翠の頼みを聞いていなければ、俺は…………翡翠の友達にはなれなかった……。
「俺は……」
涙声になって声を荒げる空汰に、オーガイとケンジは詰め寄る足を一旦止めた。
「俺は! 翡翠に出会わなければ良かったなんて思わないッ!」
空汰はいつか使うかもしれないと懐に隠し持っていた、オーガイとケンジの短刀よりも短い短刀を取り出し襲い掛かった。
「お前らなんかに殺されてたまるか!」
オーガイとケンジは軽々避けていた。空汰は勝てない悔しさに泣き崩れそうになりながらもオーガイに刃を向ける。オーガイの肩に少し刺さったところで、オーガイに腕を捕まれてしまう。妖の力は人間の力よりもはるかに強い。
オーガイの握力に短刀が音をたてて床に落ちる。泣き崩れた。自分の非力さに……自分の無力さに……。
「俺は……お前らなんかに殺されたらダメなんだよ! 黒幕をッ、見つけないと……いけないんだ……」
握り拳を床に叩き付ける空汰の様子に、オーガイとケンジは憐みの視線を向けていた。
「俺は…………翡翠を助けないといけないんだッ! それが、俺があいつに出来る唯一のことなんだ!」
叩き付けている握り拳からは、血が滲み床を染めていく。
それに驚いているのはオーガイとケンジであった。
「俺は、いつだってひとりで……友達だって本気で作れなくて……。俺は……ひとりになりたくないのに…………」
ケンジは泣き崩れ、握り拳から血を流す空汰を思いっきり蹴った。床に押し付ける。
空汰はケンジの足に必死に手を絡ませるが、力勝負では勝たない。
「俺はここで死ぬわけにはいかないんだッ!」
空汰は壁際にいた澪に視線を向けた。澪は静かに飛び立っていった。
「だったら、死ねよ」
ケンジの言葉を合図に、オーガイとケンジの短刀が空汰に降りかかった。
「ガハッ!」
床には血の水溜りが広がっていった。
❦
珀巳、黄木、柊、栖愁は二手に分かれ慌ただしくしていた。
廊下で四人は集まっていた。
「いましたか!?」
珀巳の声に三人は首を横に振る。珀巳と柊は空汰と翡翠を、黄木と栖愁はフィリッツを探し回っていた。
今から三十分前、珀巳が空汰の部屋を訪れるとそこには誰の姿もなく、別館内に気配はなかった。あるのはこの妖長者の屋敷内である。しかし、長老らの結界が邪魔をして珀巳らでも空汰の正確な位置を把握は出来なかったのだ。空汰の失踪を翡翠とフィリッツに伝えようとしたが、翡翠とフィリッツも姿を消していた。翡翠は空汰かフィリッツといる可能性が高いが、フィリッツはどこにいるのか分からなかった。あれから一度も戻ってきてはいないのである。もしかしたら、ジンとナクに……という最悪な展開が脳裏をよぎる。しかし、誰もその最悪な展開を口にはしない。
「もう少し探してみましょう。必ず三人ともこの屋敷内にいるはずです」
四人は再び二手に分かれ、探し始めた。
先に探し人を見つけ出したのは黄木と栖愁である。
フィリッツは別館と妖長者の屋敷の間にあるあの回廊にいた。どうやら、入れ違いのようだった。
「フィリッツ様!」
二人が近づくとそこに翡翠もいた。翡翠は回廊の壁に座るフィリッツの隣に佇んでいた。
「翡翠様!」
二人の声に気付き、フィリッツと翡翠は顔を見合わせた。
フィリッツは立ち上がり、翡翠を隠すように立った。
「心配をおかけして申し訳ありません、かなり探してくれていたみたいですね」
栖愁の目には涙が浮かんでいた。一粒、また一粒と涙が頬を伝う。
「心配しました……。もう……会えないかと……」
フィリッツは、栖愁の表情とは裏腹に苦笑を浮かべていた。
「不吉なことを言わないでください。大丈夫です。ちょっと息抜きをしたいなと思っただけです。本当に申し訳ありません。栖愁、黄木、ありがとうございます」
黄木はフィリッツの背後に視線を向けた。
「翡翠様はどうされたのですか?」
翡翠はフィリッツの隣に並んだ。
「ごめん、少し散歩がしたくて……。想像以上に疲れていたから、少し休みたいと思ったんだ。そしたら、フィリッツと帰りに」
「そうでしたか……。今後、出掛ける際は一声おかけください。かなり探しましたので」
「ごめんな、黄木、栖愁。悪かった」
黄木と栖愁は笑みを浮かべていた。そして、すぐに黄木は真剣な表情に戻る。
「それはそうと、翡翠様、フィリッツ様。空汰様をご存知ありませんか?」
「いないのか?」
「食事の準備が出来たと栖愁に言われ、空汰様を呼びに行ったのですが、空汰様がいませんでした。妖石の位置から察するに、この屋敷内にはいるのです」
「長老の結界が厄介だよな。あいつ、どこに行ったんだ……」
フィリッツは翡翠に真剣な眼差しを向けた。
「そういえば、ジン様とナク様が、翡翠様には手を出さない約束をしたが、空汰様には分からないとおっしゃっていました」
「それを早く言え!」
翡翠はそういうなり走り出していた。
その背を三人も追う。
翡翠には一箇所だけ、空汰がいそうな場所の見当がついていた。しかし、それが当たっているかは分からない。だが、それは当たってほしくない勘である。
フィリッツは息を切らしながらも必死で走る翡翠の背を見据えていた。
――――そろそろ…………ですね……
「翡翠様!」
呼んでも止まらない翡翠に、フィリッツは妖術を使うことなくもう一度呼んだ。
「翡翠裕也っ!」
その呼びかけに翡翠は苛立ちを募らせながら立ち止まり、振り向いた。荒い呼吸を繰り返し、肩を揺らしていた。翡翠がどこに向かおうとしているのかは、大体見当がついた。しかし、そこに行く前に、話しておかなければならないことがあった。
「翡翠様」
「何だよ。俺は急いで空汰のもとに行かないといけないんだ!」
「そのお気持ち、分かりますが、ひとつだけ、貴方様にお話ししておかなければならないことがあります」
「そんな話、後でしろ!」
再び走り出しそうな翡翠を止めたのはどこからか飛んできた澪である。翡翠の目の前に澪が飛び、一歩後退る。
「お前、どこに行ってたんだよ」
「翡翠様」
澪が影に消え、翡翠はゆっくりと振り返った。フィリッツの真面目な表情と、哀しげな表情に向き直る。
「翡翠様、これから、最後の戦いです」
「戦いってほどでもねぇだろ」
「冗談ではありません」
「だから何だよ。今俺が空汰のもとに行こうとするのを止める理由になるのかよ」
「分かりません」
「は?」
「分かりません。しかし、今、話さなければならないと思うのです」
「お前お得意の勘かよ」
「はい。ですが、翡翠様」
「いちいち、お前の勘に付き合っていられるほど、俺は暇じゃねぇんだよ!」
翡翠の怒声に驚いたのは、いつの間にか合流している珀巳、黄木、柊、栖愁だけであった。フィリッツは全く動揺することもなく、話を続けた。
「翡翠様。今の貴方様では本来の力を発揮することが出来ません」
「だから何だよ」
「それから、酒々井空汰様……。これは私の憶測です。空汰様は、空汰という名は覚えているようですが、酒々井という名を忘れています」
「あいつ……あれほど忘れるなと」
「妖世界にいれば当然のことです。寧ろ、空汰という名でも覚えていれば素晴らしいことです」
「だから、何が言いたい」
「空汰様の名を取り戻してあげてください」
「お前がやれ」
「これは、翡翠様の仕事です」
「……で、お前はそんな下らないことを俺に伝えたかったわけ? 俺の本来の力を発揮出来ない理由はなし?」
「いえ」
「だったら、早く話せよ!」
「翡翠様。……貴方様に、貴方様の名前をお返しいたします」
真の名を持つ者……。強き力を自由に使え、人間界へ帰ることが出来る……。
『初めまして、君、名前は何というのです?』
『俺は――』
翡翠裕也……。貴方に本当の力をお返しします。