エピローグ
妖長者とは死ぬまで解けない呪いである。
つまりそれは、言い換えれば――。
翡翠の死後半年以上が経った。人間界で俺は、晴れて大学一年生を迎えた。バイトをしながらの大学生活は苦にならなかった。むしろ、楽しさを感じていた。そんなある日、妖世界へと帰ってきていた。
妖長者の部屋に足を踏み入れれば、懐かしい匂いがする。たった三日あけるだけでも、懐かしさを感じるのはやはり、妖世界と人間界では時間の流れが違うからだろうか。寝室に入り、寝転がる。ふとベッドわきにある小さなテーブルへと手を伸ばした。赤紫の本を手に取り、適当なページを開く。そこにはフィリッツの達筆な妖字が書かれていた。この本が見つかってから、暗記してしまうほど幾度となく読み返した。それは奏颯や露、千竪も同じことがいえた。そして、この手記はところどころ読めない。古くからあるために文字が擦れていたり、文字が滲んでいたりして読み解くことはできなかった。フィリッツがこれを書きながら、涙していたことは文字を見れば一目瞭然であった。フィリッツがどんな思いでこれを書き続けてきたのかは分からない。でも、どこかで終わらせなければならない負の連鎖を、自らの手で、誤った方法で、食い止めることになってしまうことを喜び悔やんでいるようだった。
本をテーブルに戻し、起き上がった。
既に、奏颯らには俺の気配が分かっているはずだった。それでも来ないのは俺を気遣ってくれているからである。
寝室から出て書斎に向かう。椅子に座り、机の引き出しをあけるとカランっと羽ペンが転がっていた。翡翠から貰った髪色にそっくりな羽ペンと、昔フィリッツに翡翠が貰ったという羽ペンが二つ並んでいた。
翡翠亡きいまも、翡翠がいたころの跡は残ったままである。それを見るたびに哀しくなるが、そうくよくよしているひまはない。もうすぐ、今度は俺の、本当の生誕祭が行われる。それに向けて、再度稽古の日々が始まるだろう。嫌ではない。また、ナクにみっちり教えてもらいたい。
許婚のローリーは、こちらから許婚候補を断った。普通ならフラれたとか思うかもしれないが、ローリーに直接会って話すと、予想通りホッとした顔をしていた。これでよかったのだと心底思う。そして俺の許婚が決まった。ハリィである。人間界に滞在していたこともあり、案外話が合った。親しみやすく、貴族など関係なしに接してくれる。そんな彼女が妖世界での許婚となったのだ。もちろん、俺の恋人は香奈、ただ一人であると思っている。これはこれで仕方のないことだと自分に言い聞かせてはいるものの、香奈に嘘を吐いているようで哀しかった。
生誕祭のときに、ハリィを紹介したあと、ハリィはここ妖長者の屋敷に住むこととなる。まだ、一件が終わって時間があまり経っていないため、長老も二人だけと異常な状態ではある。だが、俺が死ぬ前に、世継ぎをと言われ続け、早々と結婚することとしたにすぎない。ハリィは別にそんなことは気にしないという様子だったが、いろいろと察していてくれたらしく、あえて何も言わなかったということは、二人の子どもが出来たころに知る。
そして、俺は今の今までずっと忘れていたことがあった。
『お前がこれを読むのは、次俺に何かあったときだ』
翡翠はあのとき、次に翡翠になにか遭ったときに読むようにと、交換ノートを隠している扉の小さな鍵を渡してきた。
急いで机のすべての引き出しを無造作に開けていった。見るだけでは分からず、引き出しを抜き取りひっくり返した。床にパラパラと紙が散らばり、バラバラにものが散乱してしまった。
鍵を見つけ出し、本棚に駆け寄ると、一番下の本を適当に出していった。鍵穴に小さな鍵を差し込みまわすと無音で開いた。スライド式の扉を開けると、中には交換ノートと一緒に翡翠の日記が入っていた。
その場にしゃがみ込み、交換ノートをまじまじと見つめた。
読みたい。でも、読んでしまったらなにもかも終わってしまう。そんな気がしてならなかった。
震えだす手をなんとか抑えながら、意を結してノートを開いた。
[酒々井空汰へ
きっとお前がこれを読んでいるとき、俺自身がミスを犯していなければ、俺はこの世界にいない。そして、お前は俺が嫌いなはず……。だから、これを最後まで読むか読まないかはお前の判断に任ようと思う。でも、ひとつだけ最期にわがままを許してくれるのなら、俺からの最期の言葉として、このノートを最後まで読んで欲しい。
俺はお前に出会ったとき、本当に嫌いだった。こんな頼りない、ひ弱な人間が俺の跡継ぎになるのだと思うだけで腹が立った。お前に話した通り、俺はこの妖世界に無理矢理連れて来られた。はじめは、妖たちを恨んだ。こんなところに閉じ込めた妖たちが許せなかった。フィリッツはもちろんのこと、大嫌いだったし、珀巳も嫌いだった。ただ、頼りにはなった。珀巳もフィリッツも、俺の味方になってくれたから、他の妖と違って信頼をおけていたのかもしれない。
俺が死ぬことを知ったとき、俺は図書室でさまざまな書物を読み漁った。そのときに見つけたのがこの計画の起源が記された、翡翠琉生こと橘楓の書物だった。そこには、次期妖長者が生まれなければ、存在しなければ、現妖長者は生きながらえる可能性が高いと書かれていた。それを見た俺は、お前を殺すことを決意した。お前さえ、いなければ俺は生きられるのだと思うと、とても楽な気持だったよ。
それからは、お前に話をした通りだ。多分、俺はお前にきちんと話をしたと思う。もし、なにも話していなかったら、フィリッツに聞いて欲しい。フィリッツなら、きっと戸惑いながらも自分の知ること全てを語ってくれるはずだ。
お前と出会う前、少しの間、お前を観察させてもらった。黄木や柊、珀巳に聞いていた通りのダメ人間で、感情的になりやすい。その時は、俺より妖力も弱く、不安定。そんなやつに任せられるはずもなく、計画実行を決めた。その場に、もちろん、珀巳はいた。
お前と出会って、少しの間は、お前が嫌いだった。よく笑い、すぐに泣く。俺が家族で脅されていると知ったときの、あの泣く速さはさすがに少しひいたぞ。どうして出会って間もないやつが、そこまで俺に入れ込んでくれるのか、全く意味が分からなかった。俺のことを大して知らないくせに、知ったような口ぶりをたたくお前が嫌いだった。
いつからだろうな、お前のことを嫌いではないのかもしれないと思い始めたのは……。気づいたときには、俺は心が揺れていた。
そのまま放っておけば死ぬものを助けてしまった。そのまますすんでいけば、死ぬかもしれないのに助けてしまった。俺は、心と身体が全く違う方に動いていた。
いつしか、お前を殺したくないとさえ、思ってしまったのだから、俺はもうどうかしているのだろう。
お前と過ごした日々、本当に楽しかった。お前が来る前の退屈した日々とは違って、時間が瞬く間に過ぎていった。それに、不思議なことに全然苦にならなかった。毎日が楽しすぎて、いつしか、自分が何故、妖長者の座に残りたいなんて思っているのだろうと思い始めたときもあったくらいだ。空汰でも、全然いいじゃないか。寧ろ、断然空汰の方がいいのではないのかと。……でも、そんなことを思い始めた俺は、とても悲しくて悔しかった。
空汰……。
俺は、お前を殺さない。いや、殺せない。殺したいとも思わない。
俺は、お前に生きていてほしい。そして、俺が守ってきたこの世界を、今度はお前が守ってほしい。俺のわがままに付き合ってくれるのなら、珀巳、黄木、柊を自由にしてあげてほしい。あいつらは、もっと自由に生きていくべきだと思うから。もし、俺にお前の生きる時間をくれるなら、お前のその生きていく時間を妖世界の皆のために使ってほしい。
俺が死ぬ、命日の日。俺はきっとお前にたくさんの嘘を吐く。
殺したい。さっさと死んでくれ。そんなことばかり口走るかもしれない。お前が俺を恨むように仕向けるかもしれない。でも、これだけは信じてほしい。
俺はお前が心の底から大好きだ。
それから、俺はお前を護りたい。
俺が今までやってきたことは、すべて間違いではなかったと思いたい。でも、そのなかでやってはいけないことまで、してしまった。そんな俺は罪を償わなければならない。だから、俺は潔く死ぬ。
だから、空汰。
お前は俺の分まで生きろ……。
生きて、生きて、生きて……生きまくって……。百歳超えるまで、生きて……。
死んだとき、俺に自慢しに来い。
俺が出来なかったことを、どれだけ成し遂げたのか。自慢しに来い。
そして、こんな俺を見返してみろ。
俺を恨んで、殺しにくる気で掛かってこい。
お前のために……。
仲間のために……。
友だちのために……。
俺のために……。
俺が嫌いなら、俺を憎むなら、俺を好きなら……。
精一杯生きてこい。
空汰……。
俺は、結局何も出来なかった。ただの餓鬼だった。でも、お前は違う。大丈夫。お前なら出来る。俺はそう信じる。誰もお前のことを信じなくても、俺はお前を信じる。嫌っていうくらい、信じて待ってる。……待ってるから。
約一年間、本当にありがとう。
そして、さようなら…………。
酒々井空汰くん。
翡翠裕也]
あふれ出す涙は止めようとしても止まることはなかった。
まるで枯れることを知らないかのように、涙はノートを濡らしていった。翡翠の字が、少しずつ滲んでいった。
「ひすっ…………」
声をあげて泣いた。
今まで何も知らずに過ごしてきた自分への悔しさと、翡翠の思いを今頃知った自分への憎しみに……。
どれほど泣いても翡翠は帰ってこない。
どれほど後悔しても翡翠は帰ってこない。
どうして、気付けなかったのかと自分を責めた。
あの日、わざと憎らしくなるように、翡翠は俺を挑発していた。そして、俺はまんまと翡翠の演技に騙され、翡翠が少し嫌いになっていた。でも、翡翠は違った。はたから、翡翠は俺を殺すつもりなどなかったのである。寧ろ、自分が死んでも俺が悲しまないように、計算していたのだ。本当にずるい……。こんなこと知ったら、哀しくて後追いしそうである。
自暴自棄になり書斎の引き出しを無造作に開けた。そこには短剣が入っていた。乱暴に手に取り、首に向ける。
翡翠は俺が殺したようなものである。
翡翠が死んで償う罪などどこにもない。償うべき人は、俺である。つまり、俺が死ぬべきなのだ。なのにどうして、翡翠が死ぬ必要がある!? どうして……どうして…………。
『だから、空汰。お前は俺の分まで生きろ……』
涙がどっと溢れだした。
どこからか翡翠の声が聞こえたような気がしたのだ。唇を震わせ、短剣を床に落とした。翡翠の声ではない。それは分かっていた。でも、それでも、死んではならない、そんな気がしてならなかった。
しばらく、泣き続けた。
やがて落ち着きを取り戻し始めたころ、短剣を引き出しになおし、ノートを拾い上げた。閉じようとノートに視線を落としたところで、滲んでしまった字に目がとまった。慌てて、ノートの次のページを開いた。すると、そこには翡翠とは違う、達筆な妖字が並んでいた。最後の差出人の名前を見て、膝から崩れた。
「どう……して…………」
止まったはずの涙が再び流れ出す。
そこには、セイヴィア・フィリッツの名があった。
涙が邪魔して妖字が読みにくい。それでも、袖で涙を拭いながら読み始めた。
[酒々井空汰様へ
まずは、生きていてくださってありがとうございました。これを読んでいるのが空汰様であるのなら、翡翠様は死に、空汰様は生きているということです。
そして、今、驚いてはいませんか? 何故、翡翠様と空汰様だけの交換ノートに私がいるのか……。翡翠様が瀕死の状態にあったとき、私は数日間姿を消しました。そのとき、私は妖長者の部屋に来ていました。もちろん、ずっといたというわけではありません。ですが、そのとき、隠している棚の本が少しだけ浮いていることに気付きました。本当に一ミリないというごくわずかな隙間です。鍵穴分が少しだけ浮いたのでしょう。人間には見えない極わずかな隙間なので、気付かなかったのでしょう。
ノートには、空汰様と翡翠様との会話が記されていました。
数々のやりとりを全て読ませて頂き、私は翡翠様の思いと空汰様の思いを感じました。正直、私は翡翠様寄りの妖ですから、どちらかといえば、翡翠様の思いがよくわかりました。書き連なる嘘と時々書かれている真実。それらを見極めることが私には出来ましたから。ですが、これを、翡翠様を信じている空汰様が読んだら、きっとすべて真実だと信じてしまい兼ねないものばかりでした。それが私には許せないことでした。ですが、私には何もすることは出来ません。
なぜなら、私は翡翠様寄りの妖ではありますが、私は誰の味方でもないのです。
私が信じた道のみを歩み、たまに、他人に干渉してみるという、なんともマイペースな生き方なのです。私は珀巳以上に、無力です。翡翠様のように人間の立場になって、考えることも出来ないのです。何も分からない、何も知らない。なのに、分かったふりをしてきただけなのです。私は傲慢に装っていただけで、本当の私は何もできない、見せかけの私でしかないのです。もっと私に力があれば、この終わりを変えられたのかもしれません。そう思えば思うほど、憎くて、悔しくて、たまりません。
空汰様。
翡翠様の気持ちが最期まできっと分からなかったのではないですか? 私でさえ、翡翠様の考えていることはわかりませんでした。翡翠様が裏切り者の黒幕だと知っていた、私でさえも、これから彼が何をしようとしているのか、彼が何を企んでいるのか、全く分からなかったのです。ですが、空汰様は此処最近で一番近くにいた存在。私より、人間寄りの翡翠様らしい顔は、空汰様が一番ご存じなのかもしれませんね。
私が知る事実を書いておきます。このノートを空汰様が読んでくださることを信じて、私の知るすべてを……。そして、空汰様。貴方様に知っていてもらいた事実を、お教え致します。私のことを信じなくても構いません。ですが、ここに今から記すことは全て事実です。
妖長者は妖石に縛られます。それは、私が妖長者の暴走を防ぎたかったからです。妖世界での、妖長者の言動は絶対的な権力であり、長老でさえも最悪の場合、口答えは出来ません。その暴走を止めるために、妖石に妖長者を縛らせたのです。ある程度の自由を与えておきながら、本当の自由などどこにもないように……。
妖石にヒビが入り始めたころ、異変は所持者であった翡翠様以外に、妖全土、そして私にありました。身を裂かれるような痛みに襲われたり、妖長者が妖世界にいるのにも関わらず、瘴気が不安定になったりと、さまざまなところに兆候が出ていたのです。そして、翡翠様は何も言ってはきませんでしたが、息苦しさを感じていたはずです。翡翠様は、私の正体に途中から気づいていましたから、言ってきたとしても可笑しなことではなかったのです。それでも、翡翠様が何も言わなかったのは、空汰様を殺す気がないという示しだったのかもしれません。
空汰様が、オーガイ、ケンジに襲われている際、翡翠様とともに助けに向かいました。そこで、私より、翡翠裕也様に、紫宮佑也という名をお返しいたしました。あえて、皆さんの前で。私の考えが当たっていれば、翡翠様は演技をして、空汰様に自分自身を殺させるつもりだったのだと思います。一番仲の良かった空汰様に、全てけりをつけさせるために、翡翠様はせめて、空汰様の手によって殺されたかったのだと……。私はそれを止めるために、ここで名を返したのです。そうすれば、全員に名が知られます。つまり、私はあの日のあの場で、珀巳らに縛らせたのです。残念ながら、あの縛りは、式ら三人にしか出来ないのです。私は彼らを利用したに過ぎません。そして縛りは、鈴によりかなり強いものとなります。これは、私、セイヴィアにしか出来ないものです。縛られた者の生気を徐々に吸い取っていきます。翡翠様がほとんど抵抗しなかったわけも、これで分かるでしょう? もともと、妖石によって少し生かされていたに過ぎない彼の生気を吸われれば、彼はもう死に逝くしかないのですから。
そして、珀巳こと奏颯、黄木こと露、柊こと千竪、栖愁こと水麗衣は、この計画を知らなかったのです。珀巳は、黒幕と会ったことはあるものの、それが翡翠様であることは知りませんでした。姿を変えていたのですから、当然です。私達の前に黒幕として現れるとき、彼は必ず、妖石と妖長者の印を置いてきていました。その方法は、彼にしかわかりません。私達でさえ、その方法は知らないのです。本当に恐れるべき人間ですね。ですが、もともと勘の良かった珀巳、黄木は段々と気付き始めました。ですが、詮索はしませんでした。何故なら、自分たちをこれ以上、傷つけたくなかったからです。自分が裏切られると思えば、人は本能的にそれを隠しておこうとします。友達を失いたくないがために、気を遣い続けることと同じです。彼らは、翡翠様に好きであって欲しかったのです。そして柊も彼らに続き、気付きました。栖愁は、私のそばにいることで、すぐに気づいたはずです。多分、栖愁が一番早かったのではないでしょうか。ですが、栖愁もあまり私に言ってくることはありませんでした。彼女は彼女なりに、私に気を遣ってくれていたのでしょう。
珀巳、黄木、柊、栖愁はとても良い妖たちです。どれだけ探しても、これほど良い妖には出会えないと思いますよ。ですが、どうか、彼らを自由にさせてあげくださいませんか? 彼らの思うがままに、日々を過ごさせてあげてほしいのです。死人が口出しするようで大変おこがましいですが、もしよければ、最期に私の願いを聞き入れてくださいませんか? 空汰様。私は、貴方様に生きていて欲しかったのです。最悪、翡翠様を殺してでも貴方様を護るつもりでした。生きていてくださって、ありがとうございました。
心からの感謝とお詫びを、空汰様に……。
セイヴィア・フィリッツ]
空汰は、またしても涙が流れ始めた。
この数十分という中で、どれだけ涙を流しただろうか。
翡翠の思い、フィリッツの思いを知った俺は……どうしたらいいだろうか。今更……。
二人には共通するお願いがあった。
俺は何も出来ない無力な人間だけど、これなら出来るかもしれない。今一度話してみなければならない。
とまらない涙を袖で拭いながら、ノート片手に立ち上がった。
それでも涙は止まらない。
「ばか、翡翠……」
しばらくして落ち着きを取り戻した。ノートをもう一度見ると、セイヴィア・フィリッツの下にまだ文が続いていた。
――――え?
それは、フィリッツから贈られた最期のプレゼントのように感じられた。
❦
おかげで大学生活にも慣れ、彼女も出来た。
「あっ」
窓の外を覗くと、彼女の香奈が手を振った。微笑んで振り返す。やがて香奈の姿が見えなくなると、窓の外を意味もなく眺めた。
『ですが……』
『折角の自由の身。お好きになさってください。考える時間はあまりありませんよ』
珀巳に微笑みかけるフィリッツは、素早く俺を抱き寄せるように捕まえた。ただ、その手に力はほとんど入っていなかった。
フィリッツは別に、俺を餌に使いたかったわけではなかった。
『ちょッ! フィリッツ!?』
『翡翠様に妖石をお返しください』
『え?』
『妖石を返せば、少しの間は生きられます』
翡翠に妖石を返したことで、確かに、少しの間は生きられた。でも、それと同時に、翡翠に死を背負わせてしまったのである。フィリッツはそれも計算に入れていたのだろう。あの時、妖石を渡さなければ翡翠は早々と死んでいただろう。でも、結局妖石によって殺されてしまった。せめて自分が瞬時に取り返せばよかったのかもしれない。でも、翡翠のあんな笑顔を見たら、取り返すに取り返せなくなった。
――――生きたかった……か。翡翠は
「……俺が殺したも同然か」
ボソッと呟くと、背後から押され危うく窓から落ちるところだった。
「何すんだよ!」
振り返るとそこには、苦笑を浮かべる亮弘と賢太がいた。
「悪かったな」
「賢太っ!」
「悪かったって、ごめんな」
それでも三人には笑顔しかない。
――――あぁ、今の俺、すごく幸せものだ
「そういえば、お前ら何しに来たんだ? 図書館行くんじゃなかったのか?」
思い出したように亮弘が、大声を出した。
「あ! そうそう! 有名人がいるぞ!」
「は?」
そのまま手を引かれ図書館に向かい走り出した。
亮弘も賢太も、俺の大切な友だち。今まで気付かなかったけれど、とても大切な友だち。
翡翠とフィリッツの共通のお願いの話を、奏颯、露、千竪、水麗衣に話した。すると四人は、渋い顔をして、断固拒否した。
『あ、あの……。前主人の言葉ですけど……』
『ですが、お断りします。私がここから出て行って、どこで何をすると言うのです?』
水麗衣にそこまでばっさり言われてしまうと、何も言い返せないのが痛い。
『お前らは出て行くよな?』
『嫌です。私はここで守護者の長を全うします』
『私も断ります。空汰様のそばを離れたくはありませんので』
『わ、私もです。年相応に頑張りたいです』
奏颯、露、千竪にもきっぱりと断られてしまうと、やはり言い返せない。こんなとき、翡翠なら命令してでも外に出すのかもしれない。でも、俺にはそんなことは出来ない。
『で、でもさ~。ほ、ほら、翡翠とフィリッツの言葉だし?』
『関係ありません』
四人は声を揃えて、断った。言語道断というわけである。
さすがの俺も苦笑を浮かべるしかなかった。
だが、変わったことがある。
奏颯、千竪は俺の式のままであるが、露は、守護者を鍛えなおすと式の座から降りた。水麗衣は、ジンのそばでジンを見張ることとなった。
ここ数ヶ月で目まぐるしい変化があった。
新しい長老を決めたり、自分の生誕祭だったり、大変だった。
『妖長者様だぁ! わぁ、お久しぶりですね!』
相変わらず許婚のハリィは、こんな調子である。
『よろしくね』
『はいっ! 陛下をこれから、ずっと支えていきますから! 私頑張りますから!』
ハリィは良い。気兼ねせず、地位にも興味を持たない。人間の中に潜む、貪欲の陰を消し去ってくれるかのようだった。
妖長者の屋敷に住まうハリィとは時々顔を合わせては、くだらない話をした。もちろん、ハリィには悩んだ末、彼女がいることは伝えてある。それをハリィはどう思っているのか知らないが、彼女は何も言わなかった。
『今度、人間界に連れて行ってくれませんか?』
ハリィのそんな言葉が、後に大きな事件を起こした。
連れていかなければ良かったと後悔してももう遅い。言われたときに、断っておけばよかったのだ。
でもそれは、今からまた、数か月後の話。
「空汰! この大学で一番頭いいやつがいるぞ!」
亮弘と賢太に手を引かれ、図書館に入る。
この大学で一番頭がいいと言われている者の噂は聞いたことがあった。美青年のわりに他人にあまり興味がないらしい。
何万冊もある本を並べる本棚の数は計り知れない。暖かな陽の差す外。静かな図書室に響く、俺たちの声。
そこには、本棚に背を預け、本を読む男がいた。黒銀に藍色の瞳。そして、男と目が合った。しかし、動揺しているのは俺だけだった。
「……なに?」
男はそういうなり、本を閉じた。
――――嘘……
立ち去ろうとする男の背を、気付いたら追いかけていた。誰もいない長く広い廊下。
「待って!」
男は立ち止まりスッと振り返った。
――――本当に……
信じられなかった。フィリッツの言うことだったから、信じないようにしようと思っていた。なのに、あれは事実だったのだと思い知らされる。
でも、会いたかった……。それに違いはない。
人間は一度死んだら会えない。でも、妖石に縛られ、死んだ人間は――。
息を荒げながら男を見上げた。
「俺、空汰って言います。君の名前はなんですか?」
男はスッと小さな笑みを浮かべた。
「はじめまして、空汰。俺の名前は紫宮佑也と言います」
一粒、また一粒と涙が頬をつたう。
それに気づいた紫宮は、困惑しながらポケットからハンカチを出した。
「結局、お前は餓鬼なんだな」
ため息交じりのその声は、紛れもなく、会いたかった人の声。
「翡翠……」
「紫宮だ、バカ」
声をあげて泣き出してしまった。校内だということを忘れている。
そんな俺を、紫宮はスッと抱きしめた。
紫宮は二十二歳。もうすぐ大学卒業の年。
同じ大学。
奇跡の連続……。
「何、お前。まだ、そんなに泣き虫なんだ」
「う、うるせぇよ!」
急いで紫宮から離れ、涙を拭う。
「ったく、面倒なやつだな」
紫宮は、スッと近づいてくると、頭をポンポンと撫でた。
「俺は子どもじゃねぇし」
「ごめんな」
二人には穏やかな笑みが浮かんでいた。
――――仕方ないから、許してやるよ。バカ、佑也……
[最期に、私からひとつだけ教えてあげましょう。
妖石が存在している間。翡翠裕也様の代までの妖長者は皆、死んだ後、普通の日常に戻ります。
つまり、翡翠裕也様こと紫宮佑也様は、今頃、人間界のどこかで生きておられます。ただ、普通なら記憶を消し人間界に戻すのです。ですが、今回だけは特別に……。私も死に逝くことですし、記憶をそのままに紫宮佑也様を解放しています。
もし、お互いの気持ちがまだおありなら、きっといつかどこかで出会うことが出来るかもしれません]
二人で図書館に戻ると、亮弘も賢太もやはり待っていてくれた。
「え!? お前ら友達か何かか!?」
「マジでー!? 学校一のイケメンと友達だってよ! 最高じゃねぇか!」
「初めまして、紫宮佑也といいます」
少し首を傾げ挨拶をする紫宮に、亮弘と賢太も男ながらにドキッとしているようだった。別に同性愛というものではないが、それほど、彼が美青年ということなのだろう。
また出会えたこの奇跡が、誰かの企みでなければそれでいい。
また、何かに巻き込まれるのは嫌だから。笑って過ごせる、そんな日々であればいい。
――――なあ、翡翠……。いや、佑也。そう思わないか?
❦
紫宮を連れて、妖世界に行った。すると、翡翠裕也の本当の姿を知る妖、全員が泣いて喜んでいた。
「よ! ジン長老様」
「お、お、お、お、おかえりなさいま……」
「そうそうかたくなるなって」
ジンと翡翠は子ども同士のように見えた。
「おかえりなさいませ」
奏颯は深々と紫宮に頭を下げていた。紫宮は、笑みを浮かべ奏颯を抱きしめると、奏颯は今まで我慢していた分の涙が溢れだしていた。
「ただいまっ」
人間も妖も、生きている時間は違っても心は繋がる。どんなに忌み嫌われていても、そこに愛がないわけではない。
それを一番教えてくれたのは、彼、紫宮佑也なのかもしれない。
妖長者の屋敷内。笑顔が絶えない時間は、翌朝まで続いていた。
「あ、そうだ、空汰。俺、結婚するんだ」
❦
シャランッ
「錫杖持つ彼は、時間を告げる神の者……。捧げよう、神の御霊を持つ彼を……」
空汰はふと気配を感じ窓の外に視線を向けた。しかし、そこには誰もいない。
―――――深くフードを被った者が居たような……
シャランッ
「これは先触れ……。凶兆し……」
妖絆記 〜下ノ段〜 とうとう完結いたしました。そして、これをもって、『妖絆記』の連載も終了となります。
約10ヶ月間という短くも長くもない期間ではありましたが、たくさんの方に更新するたびに足を運んでいただけたこと、とても嬉しく思います。また、初めは長老が裏切り者だろうと言われていましたが、実は翡翠裕也であったこと申し訳ありません。友人からはブーイングくらいました笑
誤字脱字等あり、読みにくい習作ではあったかと思いますが、ここまでお付き合いしてくださった皆様に、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございました。また、感想等頂けましたら今後の励みになりますし、私、涙を流して喜びますのでよろしくお願いします。