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妖絆記

 俺は今日ここで死ぬ。翡翠に殺されて死ぬ。



この約一年、本当に楽しかった……。


俺に友達なんていないなんて、嘘吐いたな、俺。翡翠裕也っていう大好きな友達がいた。なあ、聞いてよ……。俺、友達が出来たんだよ……。


空汰の目からは涙が溢れ、床に落ちていった。


ありがとう……翡翠裕也。


翡翠はスッと剣を振り上げ、垂直に下した。


          ❦


『……お前は、今から戻って俺が黒幕だと伝えるのか!?』


『伝えません』


『何故だ』


『私は何も語りたくはありませんし、私には荷が重いので語れません。貴方様の口から、空汰様にすべてを打ち明けていただきたいのです』


『俺への情けのつもりか!? そうやって上から目線のところが、大嫌いなんだよ! 俺の味方なのか空汰の味方なのか分からない! そんなところが!』


『翡翠様』


『さっさと俺に名前を返せッ!』


『私は……誰の味方でもありません』


 しばらく静かな時間が流れた。雨の音と雷の音だけが響く長い時間。


 その静けさを破ったのは、フィリッツであった。


『私からは空汰様に何もお伝えしません。その代り、ひとつだけお願いがあります』


『お願い……だと!?』


『はい』


『何だよ……』


 フィリッツは静かに口を開いた。その表情は今まで一度も見たことがないほど哀しげなものだった。


『翡翠様、この計画がすべて終わるとき、私を貴方様の手で殺してください』


          ❦


「汝が命ずる! 真の名を、紫宮佑也! 緊縛ッ!」


 翡翠の動きが一瞬で止まった。顔は動かせるようだが、身体は全く動いていなかった。


 翡翠はその声の主を睨んでいた。


「珀巳ッ!」


 しかし珀巳は臆することなく翡翠に指をさしたままだった。


 それに続き、柊と黄木も翡翠に指をさした。


「黄木! 柊!」


「紫宮様、どうかお願いです」


「黙れッ!」


 翡翠は怒り狂うように身体を動かし、緊縛を自ら解いた。


 それに三人は驚いていた。しかし、手を動かしはしなかった。


 黄木は小声で二人にいった。


「結界を……」


 二人は息をのんだ。これは、決して自分より立場がうえのものにするようなものではない。ましてや、自分の主にそんなことをしていいものかと悩んだ。


 珀巳はふらふらとしている翡翠に視線を向けていた。このままでは、一番きついのは、翡翠本人である。


 かたく閉ざしていた口を開くが、震えているのが分かる。


「我らが命ずる」


「だま……れ……」


「汝の名を、奏颯」



 続くように、黄木が口を開いた。


「汝の名を、露」


 続いて柊もいった。


「な、汝の名を、千竪」


「黙れッ」


 三人は息を揃え、翡翠一点を指さす。


「真の名を、紫宮佑也ッ! 古の契りを破る者として」


 黄木と柊は黙り、指先に集中する。


 珀巳の頬を涙がつたう。


「……此処に処す」


 その瞬間、部屋中に風が吹き始めた。


 視界が悪く全く見えない。反射的に全員が目を閉じ顔を隠すが、風の強さに立っているだけで精いっぱいであった。


 風がプツッと途絶えたそのとき、チリンッと鈴の音がした。微かに聞こえるくらいの小さな音だったが、それでも全員がその音を耳にしていた。


 三人は一斉に翡翠の方を向いた。するとそこには翡翠を呪の鈴で縛りあげた男が立っていた。


 身体が青白く光っている。


 白銀の長髪を揺らし、手には小さなナイフが握られていた。刃先は翡翠の首筋にあった。


「貴方は……」


          ❦


 はるか昔、妖世界をおさめられるほどの力を持つ妖が生まれなくなってしまい、人間に頼らざるを得なくなった年。妖長者が人間になった起源でもある。


 当時、妖長者をしていた者は人間の血を持つ妖だった。つまり、半妖と呼ばれる者だった。彼こそが、初代妖長者にあたる。


 彼の名は、『セイヴィア』と記されていた。


 半妖のセイヴィアは、人間界と妖世界を自由に行き来できる唯一の存在だった。彼の存在は、現在とは違い慕われ、敬われていた。妖長者という名の救済者と……。だが、彼は半妖であるが故に、永遠の命を手には入れられなかった。年々人間同様歳をとっていき、ついには逝ってしまった。彼の信仰が厚かったために、現在の妖長者が認められていない理由のひとつとなっているのだろうと考えられてきた。


 そして、セイヴィアはこうとも記されていた。


 彼は白銀の長髪。……そして赤い瞳であると……。


          ❦


 珀巳らはハッとした。


 目の前にいるのは紛れもなく、セイヴィア本人であった。


代々受け継がれている妖長者の起源が記された物語。翡翠の図書室にもあった黄土色の本。そして亡きオーガイも深緑の本を持ち、ケンジも紺の本を持っていた。


 珀巳はあることに気付き、急いで翡翠とセイヴィアの背後に視線を向けた。するとそこにあるはずの死体……。フィリッツがいなかった。


 再びセイヴィアに視線を向ける。白銀の髪に、赤い瞳。フィリッツがいつも着用している純白の服……。


 開いた口が塞がらない。


「フィリッツ……様?」


 セイヴィアは優しげな笑みを浮かべ首を横に振った。


 セイヴィアはスッと手を動かし、横たわり、微かに呼吸をする空汰を動かし抱き寄せた。翡翠の首筋からはナイフが外れるが、翡翠は全く動かなかった。いや、動かないのではない。セイヴィアの力により動けないのである。しかし、目には生気がなかった。


「よく頑張ってくれましたね、酒々井空汰様。もう、大丈夫ですよ……。少しお休みください」


 セイヴィアはそう言い空汰を撫で、頭に手を置いた。


「ふぃり……っつ? 俺、結局…………誰も助けられ……なかった……」


「そんなことはありません。大丈夫……。大丈夫です」


セイヴィアがポンポンと頭を撫でると、空汰の身体からは力が抜け、セイヴィアに倒れ掛かった。空汰を支えながらセイヴィアは黄木と柊に視線を向けた。


「彼を死なせるわけにはいきません。頼んでも大丈夫ですか?」


 二人は空汰のもとに駆け寄った。セイヴィアから空汰を預かり、壁際で空汰を抱きかかえた。一番はこの場を離れた方がいいのかもしれないが、空汰の気持ちを考えるとそれは出来なかった。


 セイヴィアは再度、翡翠の首筋にナイフをあて珀巳に視線を向けた。


「真の名を、奏颯」


「……貴方は誰ですか?」


「セイヴィアと言えば分かるのではないでしょうか?」


「貴方はフィリッツ様です」


「そうですね」


「でしたら」


「私は確かにフィリッツです。ですが、私はもともと記憶が混在していたのです。所謂、記憶喪失というものです」


「記憶喪失?」


 セイヴィアはクスクスと口に手をあて笑っていた。


「本の世界だったらヒロインが記憶喪失になるべきだったかもしれませんね」


「冗談を」


「申し訳ありません」


「では、貴方様は本当にフィリッツ様でありセイヴィア様なのですか?」


「はい。フィリッツだったころの記憶もきちんとありますよ」


「どうして……」


 柊の問いにセイヴィアは微笑んだ。服にはフィリッツ自身の血がつき、セイヴィアの穏やかな微笑みには似合わない。


 だが、それを不思議に感じないのは何故だろうか。


「ただ、勘違いしないでいただきたいのですが、この身体も心も持ち主はフィリッツです」


「どういうことですか?」


「二人で一つといえばお分かりになりますか?」


 つまり、ひとつの肉体にふたつの人格が存在したということだ。しかし、今までそんな素振りを一度も見たことは無かった。


「今まで一緒に過ごしてきて、フィリッツ様しか知りませんでした」


「えぇ。私は今まで片手で数えられるほどしかフィリッツと入れかわってはいませんので」


「ですが、フィリッツ様の記憶もおありなのですよね?」


「えぇ。ですが、それはフィリッツも同じこと。私の記憶をフィリッツは持っていました。無論、記憶喪失により多少は消えていたでしょうが、本人も知らず知らずのうちに思い出していたのです」


 黄木は空汰の身体に優しく触れた。


「セイヴィア様の言葉がもし、本当でしたら、ご存知ですよね?」


「何をでしょう?」


「フィリッツ様が自ら死を選んだ理由を」


 セイヴィアは困ったように首を傾げていた。小さな笑みを浮かべ、小さなお辞儀をした。


「申し訳ありません。私とフィリッツとの間にはいくつのかの約束が存在します。そのなかのひとつに、お互いの記憶、気持ちを第三者に無断で教えてはいけない、というものが存在します。フィリッツ亡き今、この肉体は私のものとなるはずでしたが、どうやらこの身体ももう使いものにならないようですから、私はこのまま消えます。お互いの気持ちも記憶も、第三者である貴方方に教えることはできません」


「そう……ですか」


 そのとき、セイヴィアと翡翠の背後からピキッと音がした。その音を耳にしたセイヴィアは翡翠の首筋からナイフをはずした。


「妖石とは何だと思いますか?」


 珀巳は机上に置かれた妖石に視線を向ける。すると、妖石に大きなヒビが入っていた。


――――妖石が割れる!?


「え?」


「言い方を変えましょう。妖石は、何からできていると思いますか?」


 何千年経った今でも、分からない。妖世界の七不思議のひとつである。


「考えたこともありません」


「……私、セイヴィアの涙と血から出来ています」


「……え? 涙と血から!?」


「あの妖石は私がつくったものです」


「何のために?」


「妖長者がいらなくなる、その日を待つために……」


 妖石は少しずつ壊れ始めていた。


「妖石は私の生気を養分にしています。つまり、私が死ねば妖石も壊れるのです」


「つまり、妖石を持っている限り死なないのは、貴方様の生気を吸い取っていたからということですか!?」


「はい」


「そんなことっ」


「構いません。どうせ何千年も前に既に朽ちた身。フィリッツの身体に再び宿ることが出来、とても嬉しかったのです。第二の人生が始まったのだと」


 珀巳は黙り込んだままの翡翠に視線を向ける。


 死を覚悟しているのか、何を思っているのかは残念ながら表情が見えず、分からなかった。


「では、翡翠様は……」


「妖石の破壊によって……」

セイヴィアは横に首を振った。


 珀巳は手を握り、気付いたときにはセイヴィアのわきを通り過ぎ、妖石を掴んでいた。


「アッ」


 現妖石の持ち主である翡翠が顔を歪める。珀巳はすでに妖長者の式ではないため、妖石に触れることは出来ないのである。


 それを見た柊が咄嗟に駆け寄り、珀巳から妖石を奪った。


「珀巳っ、いけません!」


「このままではっ。このままではっ翡翠様は死んでしまう!」


「珀巳っ!」


「お願いです、柊。妖石を渡してください」


「一体、どうするつもりなのですか!?」


「私の生気を吸わせます!」


「そんなこと出来るはずがありませんっ!」


「やってみなければわかりません!」


「珀巳っ!」


 それでも今の珀巳に、柊の声は届かない。これで空汰は助かる。それが分かれば、次は翡翠を助けなければならない。何度も裏切ってしまった珀巳にとって、自分の出来ることは、翡翠へのせめてもの恩返しだけだった。


 珀巳の目からは、涙が流れ出し、珀巳が動くたびに柊も濡れた。


 柊も、珀巳の気持ちは十分分かっていた。だが、出来ることと出来ないことは存在した。今の珀巳を放っておけば、何をしでかすか分からないのである。


「お願いしますっ、柊! 私に妖石を渡してください!」


「珀巳ッ!」


 バシッ!


 時間が止まった。


 数秒間の静かな時間。


 珀巳はジンジンと痛みはじめた頬に触れ、はじめて自分が柊に平手打ちされたのだと気付いた。おかげで、少し冷静になれたような気がする。


 柊の目からも涙が流れ始めた。袖で涙を拭い珀巳を見上げる。


「申し訳ありません、珀巳。ですが、妖石をあなたに渡すことは出来ません」


「……こちらこそ、申し訳ありません……」


「今のあなたは式ではありません。式以外の者が触れると、所持者が痛みを伴うことくらいご存知でしょう?」


「はい」


「でしたら」


「ですが、私に翡翠様を見捨てることはできませんっ!」


「珀巳……」


 セイヴィアは珀巳と柊を背に、黄木に視線を向けていた。黄木もそれに気づき、薄ら笑みを浮かべるセイヴィアを見据えていた。


 すると、セイヴィアの口がパクパクと動いた。


『妖長者とは死ぬまで解けない呪いです』


 首を傾げ、同じように声を出さず口だけ動かす。


『死ぬまで……。妖石に、印に、囚われなければならないのですね』


『黄木なら、きっとその答えを分かるのではないでしょうか?』


『答えですか?』


『私ももう時間はありません。翡翠様が死なれるとき、私も死にます。もう二度と、貴方方の前に出ることはありません』


『え……』


『黄木』


『はい』


『すべてが終わったあと、部屋を片付けてみてください。そうすればきっと、あるものが見つかりますよ』


『あるもの?』


『ヒントは赤紫です』


『赤紫……』


 セイヴィアは笑みを浮かべ振り返った。


「奏颯、柊」


 二人はセイヴィアの声に振り向いた。


 セイヴィアは片手を出した。それを見た柊は、そっと手に妖石を置いた。


「ありがとうございます」


 セイヴィアは妖石を持ちかえ、翡翠に視線を向けた。


「翡翠様、もうよろしいのですか? 本当に最期ですよ」


 翡翠の目にはもはや生気は宿っておらず、生きた死人のような顔をしていた。セイヴィアによる囚縛はかなり強いものらしい。だが、もともと深手を負っていた翡翠は、限界が誓いに違いない。


「もう……いい……」


 微かに翡翠はそう言った。


「最期にお別れくらいしたらどうです?」


 翡翠の身体に巻かれていた鈴がスルスルと解けていった。翡翠は倒れ込むように床に手をついた。


 そこに珀巳と柊は駆け寄った。


「翡翠様!?」


「ごめん……」


 変わらず小さな声だったが、三人にはよく聞こえていた。



「柊……たくさんの知識をありがとう。妖関係、良好でいろよ」


「は、はいっ! もっともっと、皆と仲良くなります!」


「黄木……今まで一番近くで守ってくれてありがとう。だけど、たまには肩の力抜けよ」


「ありがとうございます……!」


「……珀巳」


 そう呼ばれるだけで珀巳は笑みを浮かべた。


「はいっ」


「お前にはたくさん話したいことがあった……。でも、時間がないから、言葉だけ……。名を解いて悪かった、ごめんな、珀巳。それから、本当にありがとう……」


「佑也……」


 スッと翡翠が顔をあげた。


「こちらこそ、ありがとうございました……」


 セイヴィアはスッと黄木が抱きかかええる空汰に視線を向けた。そして妖石を、持っていない方の手をスーッと動かした。


 すると空汰がピクリと動き、そっと顔をあげた。


「黄木……?」


 空汰とセイヴィアの視線があった。


 セイヴィアは唇に指をたてた。


――――誰?


 視線を落とすと、そこには床に手をつき珀巳を見上げる翡翠がいた。


「こちらこそ、ありがとうございました……。出会ったころから、大好きですよ、紫宮佑也さん」


 翡翠の目からは涙が零れていた。頬をつたった涙が次々に床を濡らしていった。


「翡翠……」


 つぶやくと、二人と翡翠がゆっくりと振り返った。


「そら……た?」


「紫宮佑也……か……。良い名前だな」


「ごめんな……空汰」


「もういいよ……。俺助かりそうだし。お前も助かるのだろう?」


 翡翠が視線を逸らしたのを見て、驚き翡翠とセイヴィアを交互に見た。


「え、まさか……お前」


 翡翠は首を横に振っていた。


 口を開こうとしたそのとき、翡翠が顔をあげた。その顔を見て、俺は頭が真っ白になっていた。


――――そうか…………


 顔をあげた翡翠は、穏やかな笑みを浮かべていた。


 空汰は俯き、翡翠から視線を逸らした。


 止まったはずの涙が溢れだす。


 ダメだ。


 翡翠は笑顔で別れることを決めたのに……。俺が笑っていないでどうするんだ……。俺が笑わないと、翡翠がまた泣いてしまう……。


 翡翠が…………いなくなってしまう。


「翡翠っ!」


 翡翠がこちらを見た。


「またっ! またっ会おうな!」


「そうだな」


「またっ冗談言い合おうな!」


「あぁ」


「今度会ったときは、友だちになってくれるよな!?」


「そのときは、俺から申し込んでやるよ」


 涙を流しながらも必死に笑みを浮かべた。きっと今の顔は、涙でぐしゃぐしゃかもしれない。でも、翡翠が笑うなら俺も笑おう。


 セイヴィアは妖石を見た。すでに、石全体にヒビが入ってしまっている。手を握ってしまえば、それで粉々になってしまいそうである。


「翡翠っ」


「何だよ……」


「俺、お前のこと大好きだからなっ!」


 翡翠はフッと笑った。


「男同士はごめんだからな」


「そ、そういうんじゃねぇよ!」


「気持ち悪い」


「だ、だからって……。こんなときに冗談なんか言うなよ」


「こんなときだからだろ?」


 涙を拭い、翡翠を見据える。


「そうだな。翡翠らしい」


 翡翠は優しげな笑みを浮かべた。


「酒々井空汰に、心からの感謝を……」


 そう言い、翡翠は懐からフィリッツに貰ったあの羽ペンを床に置いた。


「翡翠?」


「お前にやる。預かっていてくれ」


 笑みを浮かべ、羽ペンに手を伸ばしかけたとき、羽ペンが宙を舞い手元に飛んできた。見ると、セイヴィアが指で動かしていた。


 セイヴィアは、珀巳、黄木、柊、空汰を見た。


「そろそろ……時間です」


 珀巳と柊は、スッと黄木と空汰のもとまで後退り、セイヴィアと翡翠を見据えた。


「穏やかな終わりほど、いいものはありませんね」


 羽ペンを手に唖然としている空汰にセイヴィアは笑みを向けた。


「空汰様」


「は、はい……」


「フィリッツを最期まで守ろうとしてくださって、ありがとうございました。代わってお礼を言います」


「あの……貴方は?」


「セイヴィアと申します。この事件の起源です」


「空汰! 珀巳! 黄木! 柊!」


 四人は声を荒げ呼んだ翡翠を見た。


「じゃあなっ」


          ❦


 桜咲き誇る今日此の頃。


 いつもの道で車を運転する。信号が赤に変わり停止し、青に変われば再びアクセルを踏みこんだ。


 敷地内にある駐車場に車を停め、リュックを背に真新しいスーツに身をつつみ歩き出す。玄関から入り、ホールへと足を進めれば、そこはざわざわと騒いでいた。


 キョロキョロしていると、ホールの隅で亮弘と賢太が手を振っているのが見えた。


 笑みを浮かべ走りよると、意味もなく笑った。


「亮弘と賢太、もう来てたのか。早いな」


「もう俺たちも大人だぜ?」


「いやいや、まだ未成年だからな?」


「賢太の言う通り、俺らはもう大人だ!」


「亮弘まで~」


「そんなこと言うなよ、空汰。やっと俺たち大学生になったんだ」


「亮弘の言う通りだけど、実感がまだなくてさ」


「四年制大学なんだ。せっかくだから、大学生活エンジョイしないとなっ!」


 翡翠が死んで、半年。俺は大学一年生になった。馬鹿な俺が四年制大学に入れるとも思わなかったが、亮弘と賢太が根気よく俺に勉強を教えてくれていた。おかげで、三人揃っての合格だった。


 心から喜んだ。


 三人とも合格したと知ったとき、自分のことのように二人の合格を祝った。だがそれは亮弘と賢太も同じだった。俺に、友だちが出来た。大切な存在が出来た。


「おい、空汰、賢太。そろそろ座ろうぜ」


 それぞれ席につき、入学式開始を待った。


 隣には可愛らしい女の子。


 席に座ると、女の子が話しかけてきた。


「はじめまして、私、香奈です。これからよろしくお願いしますね」


 香奈……。


「あ、はじめまして。俺空汰って言います。香奈さんなんですね。俺の妹も佳奈っていうので、ちょっとびっくりしました」


「妹さんがいるんですか? 良いですね。私は弟がいるのですが、本当に困った子で」


「下がいると大変ですよね」


「そうですよね~」


「あ、これからお願いします」


「ぜひ、こちらこそ」


 同い年とは思えないほど可愛らしい女の子であった。


 後に、俺の彼女になる。


 大学から帰宅すると、佳奈がお腹を空かせていた。


「もう、お兄ちゃん遅いよ。昼には帰ってくるって言ったのに」


「今も昼だろ?」


「私の昼は十二時なのっ」


「三十分しか過ぎてないけど?」


「もうっ、いいから早く作ってよ」


 佳奈も今では小学高学年。想像より美人になってくれている。


 急いでキッチンに向かい、昼食を作り始めた。


 翡翠が死んでから、数週間は、妖長者の屋敷内は混乱していたために、人間界に戻ってくることは出来なかった。残ったジンとナクにより、俺は人間界に戻された。戻ると翡翠と出会うその前……。つまり、俺が石を拾ったあの玄関に立っていた。俺がいなくなっていた空白の約一年間は消えたようになり、俺もまた重なる一年を過ごすこととなった。また、あの窮屈な生活が始まってしまうのだと思うと、心底心苦しかったが、それは余計な心配であった。玄関を開けると、中からはいい匂いがしていた。佳奈と家に入ったものの驚いた俺は、靴を放り投げ部屋に入った。するとそこには、せわしなく夕食を作っている母がいた。


「お母さん……」


「あら、おかえりなさい。どうしたの?」


 遅れて佳奈が部屋に入ってきた。


「ただいま~。……どうしたの? お兄ちゃん」


 どうしているのか理解できなかった。佳奈の感じから察するに、佳奈にとっては、母親がいることは当たり前のようだった。この世界は本当に自分の知っている世界だろうかと、何日も信じられなかった。でも、これが現実なのだと……思いたい。


「どうしているの?」


「可笑しなこと言う子ね、相変わらず」


「え?」


「もうすぐお父さんも帰ってくるから、着替えて手伝ってちょうだい」


 わけもわからないまま、騙されたふりをすることにした。


 でも、これが本当の現実なのだと知ったのはこれから一年後の大学入学後である。


 夕食を食べ終え、家族団らんした後、寝る準備をして自室に入った。見覚えのある部屋。これが、自分の部屋だった。


 ベッドに寝転がり、天井を見つめる。


 俺は人間界に戻ってきた。だが、妖世界との関係を断ち切れたわけではない。


 俺は普通の人間として学生生活をおくりながら、妖世界では妖長者を受け持つこととなった。どちらの世界でも自由に行き来できるように、部屋の本棚の裏に扉を設置してもらった。扉を開ければもうそこは妖長者の屋敷である。


 妖世界は妖長者がいなければ朽ちていってしまう。人間界と妖世界の時間の流れは違うが、大体、人間界で三日間以上を過ぎたら朽ち始めることが分かった。だから、今では三日に一回妖世界に顔を出すようにしている。それが、妖世界にとってどれほどの時間なのかは分からないが、それでも、今のところ何不自由はなさそうである。


 そして変わったことがもう一つ。


 妖長者の印はあるものの、妖石は存在しない。つまり、妖石に縛られることはなくなったのだ。真の名で縛ることが出来ていたのも、妖石の影響であり、妖石が無くなったいま、妖世界では、真の名が飛び交っていた。俺も、誰にも縛られることなく、基本自由に過ごさせてもらってはいる。


 それから、長老の長はジンがなった。あれほど妖長者を嫌っていたジンだったが、今では顔を出すと、俺に甘えてくるようになった。というより、妖長者の存在を一番認めるようになっていた。まだまだ人間から妖に移行するには時間がかかりそうだが、亡きフィリッツが残した赤紫の本を見ながら、ジンとナク、奏颯、露、千竪らとともに、ああだこうだと言いながら勉強中である。いつかきっと訪れる人間のいない本来の妖世界に戻ることを願いながら。


          ❦


コンッコンッ


「どうぞ~」


 返事をすると奏颯が顔を覗かせ、部屋に入ってきた。


「空汰さ~まっ」


「なんだよ、奏颯かよ」


「ひどいですね、ご自分の式に向かって」


「ノックはいらないと言っているだろ?」


「一応主人ですので」


「俺はそういう柄じゃないから」


 奏颯は笑みを浮かべ、書斎の本棚から一冊の本を手に取った。


「で、何しに来たんだ?」


「この本をご存知ですか?」


 表紙が赤い本であった。あんな本がここにあっただろうか? 翡翠との戦いの後に片づけた。そのときに混じってしまったのか。


「いや、知らない」


 奏颯は得意気に空汰の前に本を持ってくると、目の前で本の表紙を取ってしまった。


「あ……」


 その本は赤紫色をしていた。


 黄木は、セイヴィアが、片づけをするとあるものが見つかると、それは赤紫だと言っていたと話していた。皆で、フィリッツの部屋を片付けた。そこから出てきたのが今、皆で勉強中の赤紫の本である。でも、セイヴィアは別にフィリッツの部屋だとは言っていない。


「それ……。なんで?」


「翡翠様が気を失われているとき、何日間もフィリッツ様が姿を消されたときがありました」


「あったな。なかなか帰ってこないと思っていた」


「栖愁から聞いたことなのですが、フィリッツ様はときどき、様子見に帰ってきてはいたようです。もちろん、佑也様のです」


「それとその本との関係は?」


「その間に、この本を書きまとめたのでしょう。書きとめここにおいておく必要があったのです」


「どうして、奏颯がそれを?」


「フィリッツ様とはいろいろ話をしておりましたので。それに、栖愁からもいろいろと聞きました」


 奏颯はそう言いながら机上にそっと本を置いた。


 手にとり裏返す。裏表紙に『セイヴィア・フィリッツ』と記されていた。


「あいつの真の名って」


 奏颯は穏やかな笑みを浮かべ、視線を窓の外に向けた。カラスが鳴きながら空を飛び回っていた。


「セイヴィア・フィリッツという名でした」


 言われ、本を開いた。


[これは、人間である妖長者と妖世界とを繋ぐ記述。私がいずれ死に逝くときのために、後世に遺しておく、妖と人間の絆の手記。妖絆記]


「あいつは嘘を吐いていたんだな……」


 セイヴィアが何を語ったのかは、奏颯、露、千竪に全てを聞いていた。しかし、フィリッツは、記憶喪失は事実だったが、ひとつの身体にふたつの人格がいることは嘘偽りだったということである。フィリッツという名も、セイヴィアという名も、フィリッツに代わりなかったのである。


――――どうして……フィリッツはそんな嘘を……


 思いながら外を眺める奏颯の横顔が視界に入った。納得しながらコクコクと頷き、ページを捲る。セイヴィア・フィリッツの知るすべての事実が記された手記。きっと俺のまだまだ知らないことがたくさん記されている。そしてきっと、まだまだこの屋敷内のいたるところから、赤紫色のものが見つかるはずだ。何故、赤紫なのか……。それは、フィリッツは何もかも基本的にシンプルで単色をたくさん持っていた。その中で、混在した色があるものは、フィリッツにとって赤紫という色だったのだろう。何かそこに意図があるのかもしれないが、それは誰にも分からない。フィリッツはある意味、多くの謎を遺して死んでしまった。


 そのとき、部屋に露と千竪が入ってきた。


「二人きりでどんなお話をしているのですか?」


 露は時折、冗談を言うようになった。


「露、千竪。おかえり」


 露と千竪は両手にものをたくさん持っていた。千竪が優しげな笑みを浮かべながら近づいてきた。そして、机上に紙袋を置く。


「ご所望の品ですよ」


「ありがとう、千竪」


 翡翠との一件が終わったあと、三人には自由をあげた。だが、三人は意味の分からないという顔で、申し出を完全に拒否してきた。式を辞め、自由に妖らしく生きていいのだと言うが、式を辞める気は全くないらしく、今も妖長者の式をしてくれている。正直、とてもありがたい。


 妖長者の式をしてもらっているかわりに、順番に休暇をあげることにしているが、それもあまりうまくはいっていない。今日は露の休暇の日だったが、このように千竪を連れて一緒に街に買い物に出かけ、普段通りに帰ってくる。三人とも、妖長者の屋敷以外にも自分の屋敷があるのにも関わらず、必ずここに帰ってくるのである。


 買って来いと頼んだ覚えはないが、貰った紙袋を開けると、そこには懐かしいものが入っていた。


「これ……」


「奏颯に聞きました。それで合っていますか? 人間の食べ物はよくわからなくて……」


 千竪の心配は無駄なものである。


 これであっている。また、食べたいと思っていたのだ。なんて、幸せなのだろう。


「ありがとうっ、千竪」


          ❦


[これは、人間である妖長者と妖世界とを繋ぐ記述。私がいずれ死に逝くときのために、後世に遺しておく、妖と人間の絆の手記。妖絆記。


 私、セイヴィア・フィリッツの知る万事の真実。いま、此処に書き記そう。


 汝の名のもとに……]


          ❦


 フィリッツが遺した手記を読み終わり、立ち上がった。背を伸ばし、懐中時計を確認すると、人間界はもうじき朝を迎える時間だった。そろそろ戻らなければいけない。佳奈と途中までの登校の道を歩く。両親がいる、俺の望んでいた日々が待っている。


 こんなに家に帰るのが楽しみなことはない。


 外に視線を向けると、いつからか雨が降っていた。窓に雨水がついている。窓際まで近寄り、外を見ると、結界外は嵐のように風も吹いているようだった。


 今は、ジン、ナク、俺、露の結界だけで、この屋敷内を護っている。でも、俺はまだまだ未熟者で皆の結界の厚さには勝てない。一番破られやすい結界ではあるが、前より妖術も覚え、少しずつではあるが、妖長者らしくなってきているつもりだ。


 雨はしばらくやみそうにない。ここ最近、雨が降っていない日の方が少ないことが少々気になっている。


 遠雷がここまで聞こえてくる。


――――あぁ、何故だろう……。胸騒ぎがする……


          ❦


『お前に何が分かる!』


『分かりません。しかし、分からないということが分かります』


『お前はいつも意味分からないことばかり』


『私は人間の気持ちを知りません。分かろうとも思いません。ですが、翡翠様。貴方様のことは知りたいのです。私は……貴方様の味方になりたいのです』


『俺は……お前が一番…………大嫌いなのに…………』


『私の条件を呑んでくださるなら、貴方様に名をお返しいたします』


『……で、その条件とは?』


 フィリッツと翡翠は珀巳らから少し離れた場所で話し始めた。


『空汰様を殺さないでください』


『お前に言われなくてもそのつもりだった』


 フィリッツは、翡翠の言葉に驚きを隠せずにいた。


『ですが……、貴方様は黒幕です』


『気持ちは揺らぐものだよ。もう、俺にはきっと出来ない』


『でしたら』


『だけど、俺は死ぬんだ。その事実に代わりはないから。ちょっと嫉妬したんだろうな、俺』


『嫉妬……。人間の持つ感情ですね』


『俺は空汰を殺さないし殺せない』


『翡翠様はどうなさるのです?』


『さあな、なるがままにだ』


『空汰様はそのようなこと、望んでいません』


『良いんだ。空汰には、俺が死ぬ前も死んだ後も、俺を恨んでいて欲しい。お前らを恨まないように』


『では、最期まで演技をするのですか?』


『悪役は俺だけで十分だろう?』


 俯くフィリッツに翡翠はフッと笑った。


『お前との約束は覚えている。大丈夫、俺を信じてくれ』


『……ですが……』


『俺はもう誰も失いたくはない。その気持ちはお前も一緒だろ? 俺がいなくならないと、空汰が死ぬ。俺は空汰を救う。俺がまいた種を自分でかき集めるのは、悪くない。俺は、最期まで空汰を護る』


『その言葉に嘘偽りはありませんか?』


『一番嘘偽りの多いやつに言われたくねぇよ』


 フィリッツと翡翠には笑みが浮かんでいた。


『では、信じましょう。貴方様が、空汰様を殺さないことを』


 フィリッツは、胸に手を当てる敬礼をした。


『翡翠様、名を無駄になさらないでください』


 翡翠の頭をポンポンと撫でると、優しい笑みを浮かべた。


『紫宮 佑也。それが貴方の真の名です』


 少しの静かな時間……。


 翡翠の表情には笑みが浮かんでいた。


『ありがとう、フィリッツ』


          ❦


「空汰! この大学で一番頭いいやつがいるぞ!」


 亮弘と賢太に手を引かれ、図書館に入る。


 この大学で一番頭がいいと言われている者の噂は聞いたことがあった。美青年のわりに他人にあまり興味がないらしい。


「俺別にそんなやつ興味ねぇし」


「そんなこと言うなよ! あまり会えないらしいぞ!」


「いや、別に良いって」


 何万冊もある本を並べる本棚の数は計り知れない。暖かな陽の差す外。静かな図書館に響く、俺たちの声。


 そこで俺は、有り得ないひとに出会ってしまう。信じられない。でも、信じてもいいだろうか?


 壁際で本を読む美青年は、俺たちに気付くと顔をあげた。


 彼は黒銀で藍色の瞳をしていた。


「……なに?」


男はそういうなり、本を閉じた。どうやら邪魔をしたらしい。

 

立ち去ろうとする男の背を、気付いたら追いかけていた。

 

誰もいない長く広い廊下を必死に追いかける。亮弘と賢太を置いてきてしまったことに今更気づくが、もう気にしない。彼らなら待っていてくれる。


「待って!」


 男は立ち止まりスッと振り返った。


 そうだ。やっぱりそうだ。どうして……。


 息を荒げながら、男を見上げる。


 会いたかった。


「俺、空汰って言います。君の名前はなんですか?」


 男はスッと小さな笑みを浮かべた。


「はじめまして、空汰。俺の名前は紫宮佑也と言います」


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