諸刃の剣
俺も、お前が大好きだったよ……。
「フィリッツ……。お前が翡翠琉生!?」
橘楓の姿をしたフィリッツは、嘲笑を浮かべ首を傾げていた。
「今更気づいたのですか?」
「だってッ、お前は妖だろ!?」
「えぇ」
「妖長者は人間なんだろ!?」
「えぇ」
「お前は嘘を吐いている!」
「まさか。まあ信じるも信じないも貴方の自由ですが、ひとつだけ確かなことがありますね」
「確かな、こと?」
「貴方はこのままでは出血多量で死にます」
言われて刺された傷に触れる。鋭い痛みととともに、手に重ねて生温かい鮮血がついた。このまま血を流し続けていれば、普通の人間ならばじき死に至る。
「妖長者でもない貴方がどこまで生きていられるのか気になるところですね」
「はじめからこのつもりだったのか」
「……いいえ」
「は!?」
「はじめは本当に空汰様を助けるつもりでした。ですが、私も私でいろいろと計画が狂ったのです」
「全く意味が分からない! どうして、お前なんだよ! 一体誰が本物の黒幕なんだッ!」
「翡翠裕也の言った通り、貴方はダメな次期妖長者ですね。心からそう思いますよ」
「フィリッツッ!」
「考えてみればすぐわかりませんか? 翡翠様から妖長者の印と妖石を返してもらえば貴方は生きられます」
そう言われ背に庇っている翡翠の方を振り返る。手には握らせた妖石があった。
背後からため息交じりのフィリッツの声が聞こえた。
「ですが、ご存知でしょうが、翡翠様は空汰様よりも瀕死の状態です。既に妖石の力に頼らせているため、今、妖石の力を失えば百パーセントの確率で、翡翠様は死に至ります」
伸ばしかけていた手を引っ込め、口を堅く結ぶ。
俺が翡翠から妖石を返してもらえば、俺は生きることが出来る。妖石に生かされる。でも、今の翡翠には妖石が必要であり、それを無くせば翡翠は死ぬ。妖石に殺される。
俺は翡翠に騙された。だったら、俺を騙したこいつを俺が助ける義理はないのかもしれない。俺を殺そうと企むこいつを助けたら、また俺はこいつに狙われるかもしれない。だったらこのままいっそ死んでくれた方が自分は助かるだろう。決して俺自身が殺したわけではない。フィリッツが勝手にやったことなのだから、誰も俺を責めはしないだろう。このまま……。
そっと手を伸ばし妖石に触れる。所持者以外の者が触れれば、所持者は苦痛を伴う。しかし、翡翠は全く動かなかった。息をしているのかしていないのかすら分からない。妖石を渡す前は息がすでになかった。つまり、翡翠は死んでいることになる。でも、フィリッツの言うことが事実だとしたら、翡翠は生きている。今ここで俺が妖石を奪えば、翡翠は死ぬ……。だとしたら、俺が翡翠を殺したことになる…………。
「……き…………い」
「はい?」
翡翠の手を握り、涙を流し始めた空汰を見て、フィリッツは少し動揺していた。
スッと空汰がフィリッツの方を振り向く。背に翡翠を庇いながら。
「出来ない……。俺には出来ない!」
「何をです?」
「翡翠を殺すなんて俺には出来ない!」
「散々裏切られた挙句の言葉がそれですか?」
「俺は翡翠に殺されない限り、死なない。だからお前にも殺されない」
フィリッツは見直したという顔をしていたが、やがて呆れ顔になりため息を吐いた。手を広げ、首を傾げる。
「感情的になりやすいというのは面倒なものですね」
どうする? フィリッツに勝つにはフィリッツの裏を考えなければ勝てない。情報量では既にフィリッツに負けている。妖力もフィリッツには劣っているはずだ。例え、翡翠と然程変わらないとはいえ、妖術を多種多様に使えるフィリッツに勝てる手立てはないに等しい。結局、翡翠の次に敵にしたくない相手を敵にしなければならなくなったわけだ。どうする? フィリッツが何を考えているのか、俺には全く分からない。そんな俺がどうやって、フィリッツに勝てばいい!?
そのとき、フィリッツがスッと手をあげた。反射的に身構えるが、フィリッツは一瞬こちらを見ただけで、すぐに視線を逸らした。人差し指をたて、翡翠によって呪縛されてしまい、石のように動かない珀巳を指さした。
「何をす」
「汝が命ずる。真の名を奏颯。……解放」
「え?」
驚き珀巳の方を振り返ると、悔しげな表情を浮かべる珀巳がゆっくりと身体を起こしていた。
「珀巳!」
「そら……た様?」
「大丈夫!?」
「はい」
フィリッツは続けて黄木と柊を指さした。
「汝が命ずる。真の名を露、真の名を千竪。……解放」
黄木と柊も束縛が解かれ、その場に手をついた。
「黄木! 柊!」
二人は小さな笑みを浮かべていた。しかし、血まみれで倒れている翡翠を再度見るなり、哀しげに泣き始めた。
黄木と柊の気持ちが分からなくもない。珀巳と違い、黄木と柊は身動き一つ取れないだけで、翡翠が切り殺される姿を黙って見ているしかなかったのだ。助けたいのに何もできなかったそんな自分たちに、瀕死の状態の翡翠に、悔やみ悲しんだ。
珀巳はそんな二人を見て、空汰の肩に手を置き立ち上がろうとした。肩に置かれている珀巳の手に、上手に力が入っていないことがひしひしと伝わってくる。ガクガクと震えながら立ち上がろうとする珀巳を支えるように一緒に立ち上がった。しかし、自分も大けがをしている身。力を入れると、血が流れていくのを感じた。
――――そろそろやばい……
正直、立っていることもやっとの状態になっている。珀巳と一緒に倒れるなど時間の問題である。
決着をつけるなら、早い段階でしなければこっちが持たない。だがその前に、ひとつだけ気になることがあった。
「フィリッツ」
フィリッツは悠長に剣を光りにあて、光沢を確かめていた。
「どうされましたか?」
「何を考えている?」
「私がですか?」
「そうだ」
フィリッツは考える素振りを見せながら、剣を片手にこちらに向き直った。
「そうですね、強いて言うなら生と死のことでしょうか」
「生と死?」
「それから人間と妖の関係など面白いですね」
「それだけか!?」
「はい」
「どうして、翡翠を殺した!?」
「次期妖長者だから、とでも」
「は? それはど」
「珀巳」
フィリッツは空汰の言葉を遮るように珀巳に視線を向けた。
珀巳は相変わらずふらふらとしているが、その顔には真剣な表情が窺えた。
「何です!? 人殺しの妖が」
「ですから、私は翡翠琉生ですよ」
「信じません」
「まあ、いいでしょう。別に貴方方を騙したいわけではありませんので」
黙り込む珀巳を静かに見つめた。フィリッツはもとより、珀巳の考えていることも分からない。これでは、誰を信じてよいものか皆目見当もつかない。
「ジン、ナク」
隅でかたまり、今まで静かに成り行きを見つめていたジンとナクにフィリッツは視線を向けていた。ジンとナクは急に呼ばれ戸惑いを見せていた。
「申し訳ありませんが、二人はこの場から去って頂けませんか?」
二人は黙り込んでいる。
「ジン」
「……なに」
「頼みます」
どうやらジンにはフィリッツが何を考えているのかが分かっているらしかった。だが、それでもジンは動かなかった。
「ジン……」
「僕が断ったら?」
「え?」
「僕が嫌だと言ったら?」
ジンは決してその言葉の続きを言わなかった。言えば、きっとバカな俺も理解できたのかもしれない。理解されては困るのだろうが、今の俺には分からないことだらけで、ひとつでも多く理解したい気持ちがあった。でも、ジンの続きの言葉を知ることは出来ない。
「ジン」
「僕がここからいなくならなかったら?」
「……無理矢理にでも追い出します」
「どうしても?」
「どうしてもです」
「僕じゃダメだ」
「私があなたに頼むのです」
「でもっ」
「頼みます……ジン」
ジンは唇を一文字に結び、ナクの手をひき部屋から足早に去って行った。
二人の姿が見えなくなり、今度は黄木と柊に視線を向けた。しかし、フィリッツが口を開くよりも先に柊が口を開いた。
「私達は行きませんよ」
その言葉を聞き、フィリッツは呆れ笑みを浮かべ、小さくため息を吐いた。
「仕方ありません」
そして珀巳に視線を戻す。
「珀巳、あなたにひとつだけお願いがあります。私の最期のお願いです」
「人殺しのいうことは聞きません」
珀巳の真剣な顔に、フィリッツは驚きの行動に出た。
剣を机上に置き、深々と頭を下げたのだ。
「奏颯……。どうかお願いいたします」
流石の珀巳もフィリッツのその行動に、訳の分からないといった笑みを浮かべた。そして、ふらふらしながらも自力で立ち上がった。
「ふざけないでくださいよ、フィリッツ様」
「ふざけてなどいません」
「貴方様は十分にふざけていらっしゃる。良いのですか?」
「良いのです。私は償わなければなりません」
その言葉に珀巳もようやくすべてを悟ったようだった。もちろん、俺は全く分からない。馬鹿なのかと言われれば馬鹿だし、察しは悪い方かもしれない。でも、本当に分からなかった。ただ、ひとつだけ感じられたのはもしかしたらフィリッツは珀巳やジン、ナクに何かを託したのではないかということだったが、それも定かではない。
「ですが……」
「折角の自由の身。お好きになさってください。考える時間はあまりありませんよ」
そういうなり、フィリッツは笑みを浮かべ目にもとまらぬ速さで空汰の腕を掴み引き寄せた。空汰を抱き寄せるように、腕で捕まえ翡翠に視線を向ける。
「ちょッ! フィリッツ!?」
「――」
フィリッツが耳元で何かを囁いたような気がした。気のせいでないのなら、フィリッツは何を考えているのだろうか。
フィリッツは机上に置いた剣を手に取り、空汰の首筋にあてる。少しでも動けば、首筋を切ってしまいそうな位置ではあるが、身体を掴む腕に力はあまり入っていないことに今更気づく。
顔を見上げると、どこか哀しげな表情を浮かべるフィリッツの横顔があった。
「澪」
そう呼ぶと、蝶だった澪はヒト型となりフィリッツと空汰の前に姿を現した。
「……琉生様、お初にお目に掛かります」
フィリッツは琉生の姿をしたままだった。
澪は琉生姿のフィリッツにお辞儀をする。
「君がつくられたとき、君は次期妖長者の命の一部を貰ったはず……。それを次期妖長者に返して」
フィリッツであり、フィリッツではない。姿も声もフィリッツではなく、琉生そのものだった。もちろん、琉生の声を知らないが、今の声はフィリッツではない。つまり、考えるにこれは琉生の声である。
「しかし……」
翡翠からもらった命を翡翠裕也に返すということは、即ち澪の存在が絶たれることを意味していた。琉生は澪に死ねと間接的に言っているようなものである。
「翡翠裕也を助けたくは……ない?」
「ですが……」
「お願い。話がしたいんだ」
「ですが、妖石を持たせているはずでは!?」
「そうだけど、それじゃあ、治りが遅くなってしまう。今の裕也に足りないものは命の欠片だよ」
黙り込み俯いてしまう澪に琉生は困惑の表情を浮かべていた。
「そんなに……死にたくないの?」
澪はわずかに頷いた。
澪はほかの妖とは多少違う。翡翠と一心同体でありながら、別の考えを持ち、行動も別々にすることが出来る。高級妖と中級妖とのちょうど中間地点の不安定な半妖。人であり、妖である澪は、死ぬことへの、消えることへの恐怖があった。
「じゃあ、ひと時でいいよ」
「ひと時ですか?」
「ひと時、裕也に命を返して。その後、裕也が落ち着いてきたらもう一度つくってもらおうよ」
「ですが、つくってくれるでしょうか」
「黄木や柊が覚えていてくれる」
「本当ですか?」
「うん」
澪はそれでも決心がつかないようだった。背後で死んだように横たわる裕也に視線を向ける。
澪が今、何を考えているのかは誰にもわからない。でもきっと、裕也を助けなければならないと思う澪がいるだろう。誰かを犠牲にしなければならないこの状況に、頼らざるを得ない。酷い選択である。
やがて澪は琉生に向き直り、何かを振り切ったような笑みを浮かべた。
「琉生様」
「はい?」
「翡翠裕也をお願いします」
深く頭を下げると、澪は蝶となり翡翠の身体の上で数回羽をひらひらとさせた。そして、身体に吸い込まれるようになかに入っていった。
「澪!?」
翡翠琉生、いや、フィリッツの腕の力は入っていなかったが、何故か翡翠のもとに駆け寄ることは出来なかった。
「奏颯」
珀巳は顔をあげ、翡翠琉生に扮したフィリッツを見据えた。
「お世話になりました。これからも優しい奏颯でいてください」
「フィリッツ……様?」
「私は珀巳が好きでしたよ」
珀巳が口を開こうとしたその時、フィリッツは人差し指を自分の口にあてた。
その時だった。
「ウッ……」
翡翠がうめき声をあげた。
「翡翠!」
フィリッツの腕に力が入り、逃げ出せない。フィリッツは一体何を考えているのだ!?
「……起きて」
琉生の声とともに、先程まで瀕死の状態だった翡翠が身体を起こし始めた。倒れた際に打ったのか、頭を抑えながら起き上がるとこちらを見た。その瞬間、苦痛の表情から驚愕の表情に変わった。それもそのはずである。写真だけでしか見たことがなかった人物が、今、目の前にいるのである。もちろんそれは偽装しているフィリッツであるが、起きて早々冷静に考えられるはずもなく、翡翠琉生本人であると翡翠は思ってしまった。
「橘……楓!?」
「ひどいね。呼び捨てなんだ。仮にも俺、前妖長者だよ?」
「どうして……?」
「君を殺しにきた」
琉生が空汰を捕まえていることに気付いた。首にあてられた剣を鋭く睨み付ける。
「どういうつもりだ」
「実は、前妖長者は生きていました事件」
「ふざけるな。次期妖長者の翡翠琉生こと橘楓は、寿命を迎え死んだ」
「そうだったかな? 本当に」
「あぁ」
「もし、妖長者が妖に堕ちてしまっていたら?」
「妖に堕ちるだと?」
「そう。実は妖のまま、生きてましたみたいな」
「ふざけるな」
「ふざけてなんていないよ」
琉生は、空汰を動けないように妖術を使い抑え込んだ。そして、翡翠に一歩一歩ゆっくりと近づき始めた。琉生が一歩近づけば翡翠は一歩後ずさっていく。
「現にこうして、君の前に現れている。この事実のどこに虚偽が混じっているのかな?」
「それは……」
「ねぇ、翡翠裕也様。どうして生まれてきたの?」
「え?」
「俺は寿命を迎えて死んだ。でも、俺はこう考えているんだ」
スッと手を伸ばし、翡翠を掴み立ち上がらせる。そして不敵な笑みを浮かべ顔を近づけた。
「君が生まれたから死んだのだって」
「い、言いがかりだ」
「どうかな?」
翡翠の身体を押し倒した。
翡翠は尻餅をつき、ふらふらと立ち上がった。
「俺はもっと生きていたかった。妖世界ではなく、人間界でね。俺は誰かさんたちと違って孤独ではなかった。確かに根暗なんて言われたけど、そんなこと全く気にしていなかったさ」
翡翠は手を握りしめ、誰にも気付かれないほど小刻みに震えていた。前妖長者の話はときどき聞いていた。寡黙で対人関係も上手くはなかったが、妖力と仕事だけは完璧に近かったらしい。もしも今目の前に立っているのが本物の翡翠琉生であるなら、自分に勝てる余地はない。自分の計画が、全ての水の泡となるどころか自分の方が殺されてしまいかねない。最悪、空汰まで……。
――――空汰?
何故、今空汰を心配する必要がある!? 一番は自分の心配をするべきなのに……。
フッと笑い、部屋を見回す。
実に面白いものだなあ、人間っていうのは。
「翡翠琉生」
「だから、呼び捨て? 一応前妖長者だよ?」
「さっきも聞いた」
「だったらさあ」
「黙れ」
翡翠が動きを見せた。それを見た琉生は、にやりと笑みを浮かべ首をぽきぽきと鳴らした。
「なに? やるの?」
「あぁ。ここで殺されるわけにはいかない」
「でも、まだ治りきっていないその状態で俺に勝てるの?」
言われて気付くほどバカではない。確かにもとから勝つことが難しいうえに、重症といえるほどの傷を負っているハンデがあるなか、勝てないことは分かっていた。力の差も著しく、どう考えても無駄な戦いではあった。だが、やらないわけにはいかない。自分が倒れている間に、何が起きたのかは知らないが、長老全員がこの場にいないことも気になっている。つまり、翡翠琉生に聞きたいことは山ほどあるというわけである。
「俺が死ぬ前にかたをつける」
「面白いね」
先制攻撃を仕掛けたのは翡翠であった。勝てないと分かっている相手に、手を抜くつもりはない。はじめから体力が持つ限りの力を使い、妖術で攻撃をしていった。ただ傷つけるだけの力でもダメだ。翡翠琉生を殺す気でいかなければならない。
空汰は壁際に座り込み、その隣に栖愁が立ち、黄木と柊、珀巳は反対側に、等間隔に並んでいた。琉生は俺を殺す気でいる。ということは、空汰と黄木、柊と珀巳を狙いかねない。
しかし、ひとつだけ気になっていることがあった。
――――どうして、全員ただ黙って見ている!?
周囲を見ていると、死角をぬって琉生の攻撃が飛んできた。間一髪のところで飛び避けた。あとコンマ一秒でも遅ければ当たっていただろう。
「戦い中に余所見か」
「うるせぇよ」
脳裏に妖術をイメージし、琉生に攻撃をする。
だが、相手は自分より少し妖力の高い前妖長者。そう易々と攻撃を受け付けない。さっさと当たって死んでくれさえすればどれだけ楽なことか。まあ、有り得ないことだが。
空汰はフィリッツに縛られ、身体が全く動かなかった。どうにか動かそうと試みるも、相手は自分より妖力のあるフィリッツ。並大抵では解けない。
――――クソッ
どうやら翡翠は、琉生がフィリッツであることには全く気付いていないらしい。このままでは、翡翠かフィリッツかどちらかが死んでしまう。望まない戦いで、望まない終わりを迎える。
『私は償わなければなりません』
フィリッツ。お前は何を償う? 俺に分かりやすいように教えてくれよ。
未だに攻防をしている琉生に扮したフィリッツと翡翠の双方に疲れが見え始めていた。翡翠はフィリッツによって大けがを負わされているのにも関わらず、フィリッツと互角に戦っているのだ。どこにそれほどの力が残っているのかが不思議である。だが、違和感を覚えていた。ただ、その漠然とした違和感の正体は分からない。
珀巳と黄木、柊はあえて何も言わず黙って見ている。それは分かっているが、それをすれば一番悲しむのは翡翠なのではないだろうか。
翡翠のことを思い、黙っているのか、フィリッツのことを思い、黙っているのかは分からない。でも、今あの三人は誰の味方でもないことは確かである。
栖愁は今にも泣きそうな顔をしている。
『頼みます……ジン』
ジンとナクをこの場から去らせたフィリッツ。
『折角の自由の身。お好きになさってください。考える時間はあまりありませんよ』
珀巳らにそう告げたフィリッツ。
『お世話になりました。これからも優しい奏颯でいてください』
珀巳に言葉を贈ったフィリッツ。
――――なあ、フィリッツ。お前は何を考えてる?
そのとき、ハッとした。
違和感の正体に気付いたのだ。
今、翡翠が妖術での攻撃を仕掛けた。それをフィリッツは完全に避けきらず、右わき腹を霞め血が流れ出した。
いや、違う……。
フィリッツはわざと完全に避けず、右わき腹に攻撃を受けたのだ。
「痛いなぁ」
「ボーっとしているからだ」
その後も、フィリッツも攻撃をするものの致命的な攻撃は全くしていなかった。かすりはするが、服が切れていくだけである。つまり、フィリッツは翡翠を殺す気はさらさら無いということになる。
――――じゃあ、どうして……琉生なんかに……
ふと珀巳を見ると、珀巳と目があった。
すると珀巳は、口パクで何かを話し始めた。だが、一回では読めず、首を横に振ると珀巳はもう一度話してくれた。
珀巳の言葉が分かった瞬間、ドンッと鈍い音がなった。パッと振り向くと、フィリッツが翡翠に押し飛ばされ、机に背を強く打ち付けていた。吐血しているようだった。
翡翠を止めなければならない。でも、俺に止められるか? 無力で何もできない俺に……。
フィリッツの束縛が取れるようにと心から強く願う。
「意外と強いんだね」
「バカを言うな。手加減しているだろ!? 俺をバカにしているつもりか!?」
「いいえ? 全く」
「だったらなんだ。俺に殺して欲しいのか?」
「そうだね、まあ、君ならいいかも」
「……大体、寡黙だと聞いていたお前が、そこまで話すのは珍しいんじゃないのか?」
「確かに。しゃべるのもご飯食べるのも息するのも面倒なんだ」
「ふざけたやつだ」
翡翠の手にはかつて、黒猫族を滅ぼしたあの剣が再び握られていた。スッとフィリッツの首筋にあてる。
「殺してくれるの?」
「フッ……。やっぱりそうかよ」
「これで楽になれるなぁ」
翡翠は持っていた剣を投げ捨て、床に落ちていた短剣を拾い上げた。スーッとなぞり、振り翳しフィリッツに鋭い視線を向ける。
そのとき、空汰を縛っていた束縛が解かれた。
「やった」
喜んでいる場合ではない。
珀巳の言葉を思い出す。
『フィリッツ様は死ぬ気です』
「翡翠ッ!」
翡翠とフィリッツは揃ってこちらに顔を向ける。
「空汰」
「止めろ! 翡翠!」
「……黙ってろよ、お前はあとで殺してやるから」
「俺は別にいいから、やめろ」
「何故?」
翡翠の問いに答えようとしたそのとき、フィリッツが翡翠の服を掴んだ。
「何だ」
「殺すのなら一思いに」
「……ふざけるな」
「翡翠! やめろッ! そいつはッ」
「知っている」
「……え!?」
翡翠は剣を振り翳したまま、視線を向けることなく淡々と話した。
「途中から気づいていた。くさい演技しやがって」
言われフィリッツは普段の姿に戻った。
「気づいていたのなら、はやめに言って欲しかったですね」
「大体、寡黙なやつがあれだけ話すわけないだろ!?」
「そうですね。私は役者には向いていないということでしょう」
「良かったな、適職が分かって」
「……そうですね」
「大体、空汰。お前が言わなくても栖愁のその泣きそうな顔と不自然に静かな式らの顔を見ればすぐに分かる」
栖愁は虚を衝かれたような顔をしていた。すでに頬を伝う涙を手で拭う。
「だがな、空汰」
翡翠に視線を向ける。
「俺はこいつを殺さなくてはならない」
「どうして!? 殺す理由が無いだろ!?」
「そうだな……」
「だったらっ!」
翡翠は剣を振り翳したまま、こちらを見た。目からは涙が溢れ出し、口元は震えながら笑みを浮かべていた。それはまるで、何かを堪えているようだった。
「空汰」
「翡翠……お前……」
フィリッツのこと、あれだけ嫌っていたくせに……。
翡翠の手に力がこもり、剣は振り下ろされた。剣はフィリッツの心臓にかすった。
「フィリッツ!」
フィッツは自分の血に汚れた手で、ガクガクと震わせながら翡翠の頬に触れた。
「……あ……りが…………とう」
フィリッツは穏やかな笑みを浮かべていた。
「フィリッツッ! 翡翠ッ! どうして殺したんだッ!」
フィリッツの返り血を浴びる翡翠の胸倉を掴み激しく揺らす。
「翡翠ッ! 答えろッ!」
しかし翡翠は口を開かず、視線を逸らした。
空汰は翡翠からそっと手を離し、数歩後退った。
なぜなら、翡翠の目からは涙がいくつも流れていたからである。
息をひきとったフィリッツは全く動かない。スッと見ると、懐から紙切れが見えていた。翡翠を一瞥し、紙を引き抜くと見覚えのある紙だった。これはフィリッツと一緒にオーガイの部屋に行ったとき、深緑の本から抜き取っていたメモ紙である。
――――何だ?
しわくちゃになった紙を広げるとそこにはオーガイの文字が書かれていた。
「『妖長者とは死ぬまで解けない一種の呪いのようなものである』」
「翡翠、これっ」
忘れていた。
息苦しい。
翡翠はフィリッツを刺したあの短剣で身体を貫いていた。
「ひ……すい……」
「言っただろ? 殺すって」
痛さのあまりその場に倒れ込む。
翡翠の持つ短剣には血がべっとりと付いていた。
「翡翠様!」
珀巳の呼びかけに翡翠は睨む。
「また縛られたいの!?」
その声に珀巳は一歩後ずさった。
翡翠は珀巳らに背を向け、見下ろした。
「本当はじっくり殺すつもりだったのだけど、予定が狂って俺も疲れたからさっさと死んでもらうことにした」
「どう……」
「俺も疲れてるからあまり時間掛けたくないんだけど、まあ少しくらいなら」
「ひすっ……」
「出血多量で死んでくれればいいのに。あ、でも、もう俺殺人者か」
「なん…………」
「俺の本性って怖い?」
「うそだ……」
「ん~。これが俺」
「ふぃり」
「フィリッツ? あぁ、あれは……。まあ、いろいろあって?」
「ふざけるなっ……」
「俺にしてみればお前の方がふざけるなって思うけどな」
「もう……意味が分からないんだよ。誰が本当の黒幕なんだ? お前か? フィリッツか?」
「だから、俺だって」
「だって……フィリッツが……」
「理解が悪いな。フィリッツはいろいろとあって勝手にそう名乗っただけであって、本当の黒幕はこの俺だ。いちいちフィリッツの戯言に反応するな、面倒くさい」
翡翠は、治りきっていない傷口に触れながら、椅子に再び座った。表情をゆがめ、深呼吸を繰り返す。
翡翠も一応人間である。あれ程の深手を負いながらも生きていられる方が可笑しな話である。どこまで生きたいという思いが強いのか問いたくなる。
「だ、大丈夫か?」
翡翠は空汰の問いかけに、空汰に鋭い視線を向け鼻であしらった。
「お前さ、こういうときまで俺を心配するの!? バカ?」
「え」
「普通、自分を殺そうとしている相手が弱っていたら、自分が殺される前に殺すだろ」
「翡翠は俺に殺されたいの……?」
「何で生きたいやつが殺されたいと思うんだよ」
「だったらお前もそんなことを言うな」
「お前にぐだぐだ言われる筋合いはない」
翡翠に刺された傷口から血が流れ出していく。鋭い痛みが動くたびにはしるが、我慢できないわけではない。唇をかたく噛みしめて、壁を使いながら立ち上がった。壁に背を預け、翡翠に視線を向けるが、必然的に視界に全く口をきくことのないフィリッツが入ってしまう。銀の髪は相変わらずの美しさだったが、透き通るような赤い瞳は閉じられ見えない。
確かにフィリッツははじめから怪しかったといえば怪しかった。翡翠は妙に気に入っているようにも見えたし、敵対しているようにも見えた。でも結局のところ、二人の関係性は分からず仕舞いである。翡翠の気持ちもフィリッツの気持ちも知る由はない。
流れていく血に触れ、フッと微笑んだ。
俺はきっと死ぬんだな……。
「翡翠」
「何だよ」
「お前に妖石と妖長者の印を返している。……俺はお前に殺されるのかもしれない。でも、お前は生きろよ」
その言葉に驚いたのはその場にいた者全員であった。あれほど死にゆくことを拒絶していた空汰が、翡翠のために死ぬことを選択したのだ。自分が死ねば、きっと翡翠は生きられる、そう思ったから。
しかし、その場の誰よりも一番驚いていたのは翡翠本人である。
「お前自分で言っていることの意味が分かっているのか!?」
「分かってる」
「お前は俺に殺されてもいいと言ったんだぞ?」
「あぁ」
「あれほど死にたくないと言っていたのにか!?」
「俺だって、やりたいことたくさんあるよ!」
「は?」
そう。まだまだやりたいことはたくさんある。満足に友達なんていなかった。
そうだな、まずは友達を作って、仲良くなって、おしゃべりして。たまに、学校帰りに遊んだりカラオケ行ったり……。文武両道に、部活動なんてして、賞貰ったら最高だよな。それから両親と妹と一緒に買い物行ったりご飯食べたり……。
俺だって……皆と同じように笑って過ごしたいのに過ごせない。
「俺だって! もっともっと生きて! やりたいことだってたくさんあるんだ!」
「……夢」
「え?」
「お前は……夢をみたことがあるか?」
翡翠の不思議な問いかけに危うく気を緩めてしまうところだった。壁に背をあずけ立っているだけでも精一杯なのである。一瞬でも気を緩めれば、そのまま倒れてしまいかねない。だが、夢とは不思議なことをいう。
「あ、ある」
「どんな夢だ?」
先ほどまでとは打って変わって穏やかに話しだす翡翠を、不思議に思いながらも口を開く。
「俺は、普通の人として普通に生きること」
その言葉に翡翠は吹き出し笑った。だが、傷が痛むのだろう。笑いを必死にこらえているようだった。
こんなときに……。
いや、こんなときだからかもしれない。
翡翠の笑顔を見るのがこれで最期になるかもしれないのだから。
「お前らしくていい答えだ」
「そ、そういうお前はどうなんだよ」
「俺?」
こうしていると、現実を一瞬忘れそうになる。
「俺も夢はあったんだ」
そういう翡翠の顔はどこか諦めた、哀しげな表情をしていた。
「翡翠の夢って……」
翡翠は薄ら笑みを浮かべるだけで答えはしなかった。そして深いため息をひとつ吐き、手に持っていた妖石を机に置いた。
翡翠の視線は妖石に向いていた。
――――妖石になにかあるのか?
しかしここからではあまりよく見えない。
「さてと」
翡翠が立ち上がり背伸びをした。
「そろそろお前を殺さないと俺が死にそうだ」
「翡翠……」
「俺のために死んでくれるのだろう?」
そういう翡翠の表情は、とても恐ろしかった。まるでこの状況を楽しんでいるかのようにも見えた。
「それに、もう雑談は十分した。もうそろそろいいだろ」
「……翡翠」
「ひとつだけいいこと教えてやるよ」
「え……」
「フィリッツは俺の仲間だったんだよ。最初から最期までな」
その瞬間、すでに翡翠は目の前にいた。
「え!?」
そしてにやりと笑みを浮かべると、空汰の身体を思いっきり蹴飛ばした。傷の痛みが増し、床に身体を打ち付ける。
口の中は血の味しかしない。
床に手をつき立ち上がろうと試みるが、残念ながらそんな力はもう残っていない。
――――ヤバイ……。殺されても良いとは思ったけど、やっぱり怖い……
片手で傷口を抑えながら、片手を床につき近づいてくる翡翠を必死に見上げる。だが、戸惑った。見上げた翡翠の表情には嘲笑めいた笑みはなく、哀しげで今にも泣きだしてしまいそうな表情が浮かんでいるだけだった。
しかし、翡翠の手には黒猫族を壊滅させたあの剣が握られていた。
空汰の身体を蹴り、傷口に足を乗せる。
「アァッ!」
翡翠の足が少しでも動けば、空汰は悲鳴を上げた。
「翡翠様ッ! おやめください!」
「黙れ、奏颯。他人の分際でよくものを言える」
「ッ……。翡翠様っ」
「五月蠅い、黙れ」
翡翠はスッと空汰の首に剣を向けた。
「お前には妖術を使わなくても勝てる。そして安心しろ。一思いに殺してやるから」
哀しげな表情は消え、嘲笑を浮かべていた。
「さようなら……空汰」