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翡翠裕也



 俺は、お前が大好きだったよ……。


「さあ、すべて話した。これでも、お前は俺がお前の味方だと思うのか?」


 得意気にこちらを見てくる翡翠に、空汰は手を強く握りしめていた。


 翡翠を信じていた。今も、信じたい……。でももし、翡翠が話したことがすべて事実なら、騙されていたことになる。


「俺はお前を信じていたんだ……」


「過去形か、さみしいものだな」


「いや、今も信じていたい。すべて嘘だと……」


「嘘? そんなわけないだろう? 俺はお前を殺すためだけにこの世界に連れてきた。それだけだ」


「どうして、どうして……」


「簡単だよ。お前を殺せば、次期妖長者はいなくなり、俺は生きることができるかもしれない」


「不確かな情報に踊らされるほどバカな翡翠ではないはずだ」


「お前に何が分かる?」


「え……」


「お前に、俺の何が分かる?」


 翡翠の問いに、黙り込んでしまう。正直、翡翠のことを知っているようで全然知らないのだ。答えられるはずもない。


 翡翠は冷ややかな表情で首を傾げた。


「ほらな。お前には何もわからない」


「でも、翡翠と過ごした時間は知っている」


「嘘だな」


「お前と笑い合った日々は嘘じゃないだろ!?」


 嘘ではないと言ってほしいと必死に翡翠に乞う空汰に憐みの視線を向けているのは翡翠だけではなかった。しかし、それに空汰は気付かない。


「お前とふざけ合った、冗談を言い合った日々は嘘じゃないだろ!?」


「もし……」


 翡翠は空汰から視線を逸らし、机に片手を置いたまま立ち上がった。


「もし、俺がお前と過ごした時間を楽しいと思えていたのなら、それはひとときの気の迷いだろうな。俺はお前を殺し、俺は生きる。死なずに、この世界のトップとして」


「翡翠!」


「黙れ、平凡な人間」


 翡翠の言葉に空汰は言葉を失った。


 翡翠はこんなにも非情な人間だっただろうか。今まで一緒に過ごしてきた翡翠は、すべてニセモノだったのだろうか。そんなはずはないと思ってはいても、欲しい答えを翡翠が口にすることはない。


「翡翠は……俺のことを…………」


「だから言っただろう? 俺はお前が大嫌いなんだよ」


 翡翠がスッとあげた指に澪がとまり、窓から差し込む光りに、翡翠が輝いて見える。こんな状況なのに、まだ、翡翠を信じている自分がいる。信じがたい事実……それは嫌というほど分かっている。分かっている。……分かっている……。


「だったらどうして、俺をさっさと殺さなかったんだ! 俺はお前とは違って、無力だった。妖力も弱くて、妖術だってまともに使えない。こんな俺だったら、お前はすぐに殺せたはずだ! 出会ったときにでも殺せばこうなることはなかったのに! 何故、俺をここまで生かしたんだ」

 

翡翠は訴える空汰に向き直り、薄ら笑みを浮かべた。


「理由は三つある。一つは、お前を見極めたいという俺の興味本位からだった。調べた限り、妖長者に向いているとも思えない平凡な人間が、実際、どのくらい使える人間なのかを俺の目で確かめたかった。まあ、結果は残念だがな。感情的になりやすく、覚えも悪い。妖力は俺並だが、その使い方に問題アリ……。俺を超えるどころか、堕ちていくばかり。とてもじゃないが、お前を妖長者にすることは出来ない」


「だったらっ!」


「一つは、信頼を得た後の裏切りは最高だろ? 人間はそういうことが大好きみたいだからな。俺も試してみただけだ。案外いい顔をするじゃないか、空汰」


「あ……悪魔」


「一つは、フィリッツが居たからだ。フィリッツははじめから俺にとって邪魔な存在だった。お前を殺す前にフィリッツを殺そうと何度も思った。だが、フィリッツは俺の本名を唯一知る妖。安易に殺すことは出来なかった。そして、俺は本名を持たない。本名を持たない者は、その者の本名を持つ者には勝てない。つまり、俺はフィリッツにどれだけ戦いを挑んだところで、フィリッツに名を縛られれば俺は勝てないということ。


 俺が空汰を殺すと言えば、フィリッツは俺を縛ってでも止める。俺は、お前を殺したくても殺せなかった。


 良かったなぁ、味方が居て」


 空汰はその言葉にフィリッツに視線を向ける。フィリッツは何とも言えない表情を浮かべ、翡翠を見据えていた。


 翡翠に視線を戻すと、澪は翡翠の肩に止まった。


 身体の震えが止まらない。何故だろう……。


「ほかに聞きたいことはあるか? どうせお前は今から俺に殺されて死ぬんだ。いくらでも質問しろ。気が済むまでどうぞ」


 余裕の表情を浮かべる翡翠に空汰は今にも涙が出そうだった。唇を噛みしめ、何とか堪えるが涙は溢れ出そうである。止めれば止めるほどに……。


 袖で涙を拭うが、瞳からは涙が溢れだした。止まらない涙を何度も拭う。


 半年以上、約一年間一緒に過ごしてきた翡翠。


 もうすぐ別れのとき。


 自分が死ぬ……最期の日。


「俺と……過ごして…………何もお前の心は……変わらなかったのか?」


「そうだな。……揺らぐことは無かったな」


「そう……か。最初から今まで俺のこと…………嫌いだったか?」


「あぁ、大嫌いだった」


「……俺のこと……信じてくれるっていうあの言葉……嘘だったのか?」


「嘘だ。お前に言った言葉のほとんどが嘘だ」


 涙が止まらない。翡翠に質問をするたびに、床を濡らすほど涙を流していた。翡翠の答えは、どれも冷たいもので、感情はない。それがたまらなく苦しかった。


 脳裏に浮かぶのは、翡翠と出会った日。


翡翠と冗談を言い合った日々。


公務を一緒にしてきた日々。


言い合いした日々。


涙した日々。


喧嘩した日々。


交換ノートを始めた日。


笑い合った日々。


信頼し合った日々。


すべてが、ガラスが割れるように、粉々に崩れていく……。光りさえなかった日々に、楽しいと思えた日々を与えてくれたキッカケをくれた翡翠……。


「あの笑顔は、全部…………嘘だったのか?」


「演技だって。上手だっただろ?」


 あれがすべて演技?


 どこの役者だよ……。上手すぎるだろ……。


「本当に……」


「本当だ。お前との出会いも仕組まれ、お前と過ごした日々を仕組まれていた日々。嘘偽りの出会いと日々だったってことだ。お前はフィリッツに生かされた。それだけだ」


――――頼むから。俺の望む言葉をください……


「お前は俺に騙され、裏切られた。はじめから裏切り者なんて存在しないんだよ。この俺が裏切り者なのだから」


――――翡翠は俺の友達だと……


「俺はお前と出会う前から嫌い。お前と出会ってからも嫌い。そして、今も嫌い」


――――翡翠は裏切り者ではないと……


「お前のせいで、俺はまだ二十歳なのに死ぬんだ」


――――翡翠は俺をまだ信じてくれていると……


「お前はたった三歳しか違わないくせに、のうのうとこの世界を生きる。お前のせいで俺は死ぬのに、お前は生きる。意味が分からない! この世界を守ってきたのはこの俺だ!」


――――大嫌いで……大好きな……。


「折角手に入れた俺の居場所を、お前なんかにとられてたまるかよ!」


その瞬間、翡翠はスッと手を動かした。すると、オーガイが出し、前に翡翠自身を切り裂いた三本の短刀が空汰に向かって一直線に飛んだ。


その時間はとてもゆっくりだった。空汰は死を覚悟していた。静かに目を閉じ、涙を流す。


――――優しい翡翠だと……信じさせてください


「空汰様ッ!」


 空汰は背中を強く打ち付けた。目を開けると、自分を庇うように珀巳が押し倒していた。


「珀巳!?」


 珀巳は空汰を庇うようにして、右手から狐火を出すと三本の短刀を焼きつくしてしまった。


 その様子に一番驚いていたのは翡翠である。しかし、動揺したのも一瞬で、すぐに冷たい表情に戻ってしまう。


 珀巳は空汰の手を掴み立ち上がらせ優しげに笑みを浮かべた。


「申し訳ありませんでした……。私は、薄々気づいていたのです」


「え……」


「ですが、私も信じられず目を背けておりました。空汰様、申し訳ありません……。許してくださいとは言いません……ですが、精一杯、貴方様を護らせてください」


 そう言って珀巳は翡翠に向き直る。手には隠し持っていたのであろう剣が握られていた。


 珀巳は翡翠が大好きだった。一番信頼を寄せる相手であり、忠誠を誓う主人である。珀巳が翡翠に、刃をむけるなど考えられないことだった。


「へぇ……。俺に歯向かうんだ、珀巳」


「申し訳ございません。しかし、今護るべきは、私の現主人である空汰様です」


「そいつは俺が殺す。退け、珀巳」


「嫌です。例え、翡翠様でも退くわけにはいきません」


 翡翠はふに落ちない表情を浮かべていたが、仕方ないという仕草で再び椅子に座った。


「なら、珀巳。お前の名を解く」


「え!?」


 翡翠はどこからともなく珀巳との契約書を取り出し、掲げていた。


 名を解くということは、妖長者の式ではなくなるということになる。つまり、珀巳が今後翡翠に仕えることは出来なくなり、地位や財産もすべて失ってしまうということになる。ツェペシ家で見せた翡翠と珀巳の会話から考えて、珀巳にとってそれは最悪な状況に違いない。珀巳は、珀巳のままでいたいはずなのだ。


 珀巳は呼吸を荒げながら、空汰を見る。空汰と視線が合うと、珀巳の目は揺れていた。だが、空汰は何も言えない。


 珀巳は翡翠に向き直り、震える唇でいった。


「私の名は……珀巳です……。翡翠様に名付けられた珀巳という名が、大好きです……。翡翠様のそばから離れたくありません……」


「良い子だな」


「ですが……、殺人者の妖長者などには仕えたくありません……。翡翠様、私は名が解かれようとも空汰様を護ります」


 その言葉に、翡翠は諦めにも似たため息を吐いた。そして、契約書に触れると契約書は一瞬のうちに燃え尽きてしまった。すると、珀巳はガクッとひざをついた。剣を床に落としてしまう。どうやら契約が解かれたらしかった。


 珀巳の顔には苦悩の表情が浮かび、涙を流していた。


 あんなに仲が良かった二人の繋がりはこんなにも簡単に切れてしまった。本気で珀巳を救いたかった翡翠が、いとも簡単に契約を解いてしまった。これで珀巳は、翡翠とは赤の他人同然になってしまった。


 しかし、契約書が燃え尽きる一瞬、翡翠の表情に悲哀の表情が浮かんでいたような気がしたのは気のせいだろうか。まるで、別れたくない相手と別れなければならないような、そんな表情に……。


「もう、お前は俺の式ではない。この屋敷においておくぎりもない。好きに出て行くといい。……空汰を護りたければ護ればいい。お前のような無力の存在に護れるのならな」


 無力……。珀巳が一番気にしている言葉だった。それを知らない翡翠ではない。


 珀巳は静かに涙を流しながらも立ち上がり、空汰を背に庇った。


 どうしても、翡翠を殺人者にしたくないのだろう。珀巳の最後の優しさなのかもしれない。


 だが、翡翠もそんなに甘くはない。


 深いため息を吐き、珀巳を指さした。


「汝が命ずる。真の名を奏颯。……呪縛」


 珀巳が動きを止め、銅像のように床に倒れ込む。


「珀巳!」


 目を見開き倒れる珀巳を揺するが反応はない。視野に翡翠の足が見え、見上げた。


「俺に真の名を知られていなければ、こんなことにならなかったのにな。残念だったな」


「翡翠ッ!」


 勢いよく立ち上がり服を鷲掴みにし揺らす。


「お前だって、珀巳は大好きだっただろ! どうして、こんなひどいことが出来るんだ!」


「五月蠅い、黙れ」


 そう言った翡翠は空汰を思いっきり蹴り飛ばしていた。


 そして恐怖に立ち尽くす黄木と柊を指さした。


「汝が命ずる。真の名を(ろう)、真の名を千竪(せんじゅ)。……束縛」


 黄木と柊を目に見えない縄が縛り、二人は動けなくなってしまう。


 空汰はお腹を抑えながらゆらゆらと立ち上がる。


「どう……して」


「愚問だな、分からないか?」


「翡翠と俺は、一緒に裏切り者を探すって」


「嘘だな」


「俺がお前を信じるなら、お前も俺を信じるって」


「それも嘘」


「ふざけるな」


「ふざけてなんかいない。俺は最初から真面目だ」


 翡翠は震える空汰に近づいていった。空汰はそれに気づき下がるが背後には壁があり、それより下がれなかった。


「ふざけるなっ」


「空汰。お前、名前を憶えているか?」


「名前? 当たり前だろ」


「言ってみろよ」


「俺の名前は、空汰だ」


「苗字」


「苗字は、み、苗字……は……。俺……」


「あれだけ忘れるなよと言っておいたのに、結局忘れたのか。実に滑稽だな」


「嘘だろ……」


「思い出せない時点で事実だ」


「そ、そんな」


「残念だったな。もし、俺がお前を殺しても殺さなくても、お前が俺に勝ったとしても負けたとしても、お前は人間界には戻れない」


「翡翠! お前、俺の苗字、覚えているんだろう? 頼むよ、教えてくれよ」


「何で?」


「え」


「何で敵の俺が教えないといけないの? 全く意味不明なんだけど」


「翡翠! 頼むよ!」


「嫌だね。俺はお前を殺す。だから、お前は名前を知らなくていいだろ?」


「俺は死なない。お前に殺されもしない! 一緒に過ごして来たんだ。俺に情がうつっていないのか!?」


 少し間が空いた。


「無いな」


「そんなに薄情だとは思っていなかったのに」


「敵の前で素性を見せるようなバカはどこにいるんだよ」


「俺は……」


 手が、身体が、声が、小刻みに震える。視野は涙で滲み、よく見えない。


「俺は! お前を信じていたんだぞ!」


 必死に訴える空汰をよそに翡翠は、空汰の目の前で立ち止まり首を傾げた。


「だから?」


 空汰は動揺を隠せなかった。


 今まで一緒に過ごしてきた翡翠との日々がすべて嘘だったとつきつけられた瞬間でもあった。なんと苦しいことだろう。もしもこれが夢で覚めたら何もかも元通りだったらどんなに嬉しいだろう。でも、きっとこれは現実で、信じがたいものに変わりない。


 でも、よくよく考えてみれば翡翠はずっと演技をしていた。俺と過ごした日々がすべて嘘だと……。だが、絶対そんなはずはない。もしもそうなら、翡翠には俺を生かしておく理由が全くない。ずっとそばにいて、信じていた俺を殺すことなど誰よりも容易だった……。でも殺さなかった……。どうして? このときを待っていたから? 殺す価値もないから? お前の気持ちが揺らいだから?


「空汰。よく考えてみろ。俺は今、お前の知る俺ではない。お前を殺そうと目論む第一人者だ」


「翡翠はそんなやつじゃない」


「お前まだそんなこと言っているのか!? 俺は珀巳を追放し、黄木や柊も敵とした。この意味が分かるか?」


「お前は、珀巳を本気で助けようとしていただろ!」


「……だから何だ」


「いい加減にしろよ! お前はいつまで自分に嘘を吐き続けるんだ!」


 肩を揺らし、呼吸を繰り返す空汰とは打って変わって、翡翠は極めて静かだった。深いため息を吐き、空汰の胸倉を掴み上げ、鋭い視線を向けた。


「お前に何が分かるんだよ。たった一年足らずで、お前に何が分かるんだッ!」


「ひ……っい……」


「下らない友だちごっこは終わりだ。質問はし終えたか?」


 そう言って空汰をそのまま思いっ切り投げた。空汰の身体はフィリッツのすぐそばにある本棚に激突し、倒れ落ちてきた本に埋まった。


 空汰は視界がはっきりしないなか、必死に身体を本から抜け出そうとしていた。手足、頭からは血が流れていた。腕も足も思うように動かない。動けば動くほど、激痛が体中をはしった。咳を数回すれば、吐血した。


 見かねたフィリッツがスッと手を差し伸べてきたが、その手を払い退けた。


 フィリッツ、お前も裏切り者だろう? お前も俺を騙していたんだろう? 翡翠が、黒幕だと知っていたのだろう!? もう、誰も信じられるわけがない。お前だって、俺の……敵なのだから……。


 しかしフィリッツは空汰に手を再び差し伸べ、立ち上がらせ、手足と頭の傷を癒した。


「フィリッツ?」


「確かに私は翡翠様が黒幕ということをはじめから存じておりました。ですが、私は貴方様を助けるためにそちら側にいったことは事実です」


 その様子に翡翠は苛立ちを隠せず、そばにあった本を蹴飛ばした。黄木と栖愁の間を勢いよく通り過ぎ、壁に本が刺さる。二人は動けない分、驚愕し恐怖をあおられていた。


「何なんだよ。うるさい珀巳と黄木、柊が黙ったと思ったらお前かよ」


「翡翠様、いくらなんでもやりすぎです。空汰様は貴方様とは違うのです。本当に死にますよ!?」


「だから何? 俺はこいつを殺すためにこの計画をたてた。お前だって知ってるだろ?」


「貴方様の心が少しでも揺らぐだろうと思っていた私が馬鹿だったというわけですね」


「そうだな。残念だったな」


「翡翠様、どうか落ち着かれて下さい」


「お前も黙れよ」


 そう言ってフィリッツを指さす翡翠に、フィリッツは小さな笑みを浮かべた。


「残念ながら、翡翠様は私の真の名をご存じないでしょう?」


「そうだな」


「でしたら」


「お前に俺が勝てないと思ってる?」


「はい」


 フィリッツのその自信はどこからくるのだろうかと不思議に思う。フィリッツが癒してくれたおかげで傷は治り、身体も痛くなくなった。これなら翡翠ともう少しやり合えそうだ。だが、翡翠に勝つにはどうしたらいい? 俺では翡翠に力及ばず、ぶっ飛ばされて終わる。そしたらまたフィリッツに治してもらえばいいのかもしれない。だけど、そう易々同じ手を翡翠が許すほど生ぬるいとは思えない。つまり、勝負を決めるなら一、二回で決めなければならない。そんなこと……俺に出来るのか。翡翠を殺さずに、動きを止められれば良き終わりになるのかもしれないが、そんなこと不可能じゃないのか。


 もっと俺に力があれば……。


 珀巳をこんなめに遭わせなくて済んだのに……。


 俺の持っている武器は隠し持っている短刀ただひとつ。


 これで勝負を挑むしかない。


「俺はお前に勝てるぞ?」


「貴方様は負けますよ」


 ゆっくりと翡翠に近づき始めた空汰を見て、フィリッツは驚きの表情を浮かべていた。翡翠は困惑しているようだった。


 ゆっくりでもいい。一歩一歩確実に……。


 翡翠まで手を伸ばせば届くくらいの距離で立ち止まり、顔をあげる。


 そのお前の余裕がどこまで持つのか分からないが、俺が少しでも怯ませられたら、フィリッツは手助けしてくれるかもしれない。俺の味方なら俺の危機を助けてくれるはずだ。


「翡翠」


「やるのか?」


「俺はお前に勝てない」


「よく分かっているな。だから自ら殺されにきたのか?」


「だけど、俺だって黙って殺されるわけにはいかないんだ」


「へぇ~、死にたいとあれだけ喚いていたやつがか?」

そういうなり、翡翠が出したのは橙色の無くしたと思っていたあの日記帳だった。


 翡翠が持っている日記帳は確かに俺のである。でも、どうして翡翠が持っているのだろうか。意味が分からない。


「翡翠……それ……」


「お前の日記だろ? 読ませてもらったよ。『死にたい』『誰か殺して』根暗な言葉がたくさん詰まっていたぞ」


「何でお前が持っているんだ」


「お前のことを知るために借りただけだ。もういらないから返す」


 そういって差し出す翡翠に、空汰は叫び、涙を流しながら飛びついた。隠し持っていた短刀を取り出し、翡翠の首にあてる。翡翠は抵抗することなく押し倒されてしまった。


「何で! 何で! お前が持っているんだ!」


「だから借りたと言っているだろう!?」


「ふざけるな」


「誰にも読まれたくなかったか?」


「違う!」


「は!?」


「お前に、一番読まれたくなかったのだ!」


「全然意味が分からないのだけど」


「俺はお前が大好きだった! お前と境遇が似ていた! だから、お前にだけは読まれたくなかったんだ! もしかしたらお前が持っているんじゃないかって思ってた。でも、実際こうやって持っていたと分かると嫌な気分だ」


「だったらそのまま殺せばいいだろ? 俺以外はそれを誰も読んではいない。俺を殺せば一石二鳥だな」


「ふざけるなッ! 誰がお前を殺すものか!」


「殺せないの間違いだろう?」


「違う! 違う!」


「お前のそういうお情けが嫌いなんだよ」


 翡翠はスッと奇妙な笑みを浮かべた。伸ばした手にはあの剣が握られ、自分の上に乗る空汰に向けて振りかざした。しかし、瞬時に手を止める。もう少し動かしていれば、あやうく自分の身体を切ってしまうところだった。


 空汰は瞬時に動いたフィリッツにより、助けられていた。


 翡翠は深いため息を吐き、剣片手に立ち上がった。悠長に服装を整えている。


「フィリッツ?」


「空汰様、あまり無茶をなさらないでください。翡翠様は本気ですよ」


「でも……」


「空汰様にひとつお願いがあります」


「え?」


 翡翠は笑みを浮かべ剣を横に一振りした。すると家具が無残に切れた。咄嗟に避けなければ、きっと俺も切られていただろう。


 懐と胸に手を当てる。


 これをすれば、きっと翡翠は死ぬ。でも、フィリッツの言葉が本当なら翡翠は……。


「空汰!」


 徐々に翡翠が迫ってくる。


「お前に聞きたいことがある」


 聞きたいこと? 翡翠が、俺に?


「な、何?」


「お前は俺のこと、信じていたのか?」


 今更分かりきったことを聞いてくる。


「信じてる。俺はお前を心から信じてる」


「お前は俺と出会ったときどうだった?」


「翡翠と出会ったとき……」


 石の持ち主で、意味の分からないやつで、不思議なやつで、面白いやつで……。何考えているのか分からないやつで……。でも、信頼できる、そんな人間で……。


「俺はお前が好きだったよ」


 空汰の優しげな笑みに、翡翠は虚を衝かれたような顔をした。しかし、それもすぐに曇ってしまう。


「笑えない冗談だな」


「今も裏切られて嫌いだ、こいつってなっていたけれど、まだ好きな自分がいる」


「よくこの状況下で信じられる」


「自分だってバカだなって思うけど」


「バカはバカなりに死んでくれよ」

そういうと再び翡翠は剣を舞うように振った。


光りの刃がこちらに向かっていくつも飛んできた。さすがにこれを避けられるほどの技量は持ち合わせていない。


 俺は結局なにもできないまま、死ぬのか……!? 翡翠も珀巳も誰も助けられずに死ぬのか!? 嫌だ……。まだ、やりたいことがあるのに……。


 涙が床にひとつ零れたそのときだった。


 フィリッツが、空汰の前に現れ、右手を横にスッと素早く動かした。


 すると、翡翠が向けた刃が翡翠に逆戻りし翡翠を切りつけた。翡翠も人間。切りつけられ、血を流し、その場に倒れた。それを見て、フィリッツはオーガイのときのように三本の短刀を浮かばせ、翡翠に飛ばした。全く動かない翡翠の身体に、次々と刺さっていった。


 翡翠を中心に鮮血が水溜りのように広がる。


 足ががくがくと震え、その場にしゃがみ込んでしまう。


「嘘……だろ……」


 フィリッツは全く笑いもせず、哀しげな表情も浮かべていなかった。


「ふぃ……りっつ……。な、なんで……」


 フィリッツの顔と服には、翡翠の返り血を浴び、点々と赤い点が付いていた。


 フィリッツにここまで恐怖を抱き、悪寒がはしったことが今までにあっただろうか。


「ここまで……」


「はい?」


「ここまでする必要なかっただろ!」


 勢いよく立ち上がり、フィリッツの服を掴み、揺らすが、フィリッツは全く表情を変えなかった。


「翡翠は……翡翠は人間なんだぞ!」


「えぇ」


 空汰の目からは次々に涙が流れ出ていた。


「ふざけるなッ! 翡翠より、お前の方がよほど悪魔だ!」


「妖です」


「黙れ黙れ! 黙れッ! お前を殺してやる!」


「それでは翡翠様の思うツボです」


「黙れッ! 殺してやるッ!」


 短刀を強く手に握りしめ、フィリッツに向ける。


 フィリッツを殺す。俺がこの手で!


 フィリッツは呆れたようにため息を吐いた。


「妖石と妖長者の印をお返しください。そうしたら少しの間は生きられますよ」


 その言葉に、短刀を投げ捨て急いで翡翠のもとへと駆け寄る。憎きフィリッツを殺したいのはやまやまだが、翡翠の怪我を考えると翡翠を優先するほかなかった。


 翡翠に妖石を握らせ、妖長者の印を返す。


 しかし、翡翠の顔色はとても悪く、息をしていなかった。


 これほどの血を流して、生きられる人間がいたら化け物である。


「翡翠! 何で……翡翠! お前、また前みたいに起きるよな!? 何食わぬ顔で、目を覚ますよな!? なあ、翡翠、今回もそうだろ!? ちゃんと起きるよな! なあ、翡翠…………」


 涙が溢れ出てくる。


 ひどい裏切りをされたにも関わらず、悲しみの涙は溢れ止まらなかった。止めようとも思わない。だが、翡翠はきっと戻ってきてくれる。翡翠はきっと……また笑顔を見せてくれる。そうでなければ、もっとお前を許さない。


「翡翠……。頼むから……息をしてくれ…………。ひすッガハッ!」


「本当に翡翠様が黒幕だったら……良かったのですがねぇ? 空汰様」


 耳元で嘲笑めいた声が聞こえる。震える手で、お腹を触ると、手にはべったりと血がついていた。安定しない荒い呼吸を繰り返し、背中に手をあてる。


――――何かが刺さっている……!?


「ふぃ、ふぃ、フィリッツ…………!?」


 フィリッツはフッと笑い、刺した剣を引き抜いた。


「アァッ!」


 倒れ込んでしまわないように、翡翠を背に庇いながらゆっくりと振り返った。傷口からは、おびただしい量の血が流れ出していた。


 頭がクラクラする。


 顔をあげると、そこには嘲笑を浮かべ剣についた血を服で綺麗にふき取るフィリッツがいた。そばには栖愁が立っている。しかし、栖愁も短刀を片手に持っている。


「な……ぜ…………」


「そうですね……。では、こう言いましょうか?」


 小さく笑みを浮かべ、胸に手をあて、敬礼した。


「空汰様、はじめまして。……この計画の黒幕のルイです」


 そう言って顔をあげたフィリッツは、紛れもなく前妖長者翡翠琉生こと橘楓の姿であった。


「はじめまして、空汰様。翡翠琉生と申します」


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