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真実Ⅱ


          ❦


 空汰とフィリッツを救いだし、俺の中にはひとつの道が見え始めていた。


 まずは、フィリッツを片づける。


「フィリッツ」


「はい?」


「傷の具合はどうだ?」


「え……心配するほどではありません。大丈夫です」


「ならどうして、封じの腕輪を取らない!?」


「え?」


 その言葉に三人ともフィリッツの足首に視線を向ける。確かにそこには封じの腕輪がつけられたままだった。だが、空汰には翡翠の疑問の理由が分からなかった。


「あぁ、そういえば付いていましたね」


「部屋でのときならともかく、今ならお前だって自由が効く。普通ならそんな邪魔なものとるだろう? 鍵だって自分で持っているくせに」


「特に気にしていませんでした。それから、鍵なのですが、確かに持っていたのですが、あの時、どうやら落としてしまったようです」


 懐にそっと手を入れると、そこには小さな鍵が入っていた。


「は!?」


 フィリッツは分が悪そうに苦笑し、懐をポンポンと叩いて見せた。


「良くて部屋に落としました。悪くてオーガイに掏られました」


 フィリッツの仕草に、苛立ちを覚える。懐を叩いたフィリッツは、一瞬だが俺を見た。こいつは分かっている。すべてを見通している。


 あぁ……イライラする。


「お前は餓鬼か」


「翡翠様に言われたくはありません」


 無記のファイルを読み解くべく、俺は魔方陣を書いた。もちろん、偽物の……。


「秘密よ、暴かれろ……」


 思惑通り失敗した俺は、妖長者の書斎へと逃げた。


 そして、逃げた先には珀巳。


「私は翡翠様と空汰様の味方です。確かにこの身、一度裏切りました。しかし、信じていただけるのであれば、私は一生お二方についていくと誓いました」


「でも……」


「ですから、私の名を空汰様にお教えます」


「名を縛ることは……」



「普通はいけないことです」


「だったらっ」


「空汰様、信用を得るために一番手っ取り早いのは自身の真の名を教えることということを覚えておいてください」


「珀巳……」


「ただし、必要以上に真の名で呼ばないでください」


「それは当たり前に」


「私も空汰様ではなくスカイ様と呼ばせて頂きます」


「頼む」


 珀巳は翡翠を見て、空汰を見た。そして、小さく息を吐くと笑みを浮かべた。


「私の真の名は奏颯と言います」


「ソウリュウ……」


「奏でる颯と書いて、奏颯です。何かありましたら、こちらの名でお呼びください」


          ❦


 一方で、フィリッツはオーガイと対峙していた。


「ハァ…………」


「フィリッツ、お前武術の腕前は最低だっただろ!?」


「はい。昔は」


「はぁ……。いつの間に腕をあげた!?」


「長老となってすぐですよ」



「歳だな。俺の方がだいぶ疲れている」


「ではここから本気ですか?」


「お前……。俺はずっと本気だ」


「そうだったのですか? そんな風には思えませんでした」


「いちいち腹立つんだよ」


「申し訳ありません」


「あーもう! お前と話していてもイライラするばかりだ。やっぱり、さっさと死んでもらう」


「ですから、どうぞと言っているではありませんか」


 跳び蹴りを軽々とかわし、妖術さえも何食わぬ顔で避ける。それどころか、武器を一切使わずオーガイを追いつめていった。徐々に壁際に詰め寄り、何もしないように見せかけて懐に先ほどなおした短刀を手に取り、オーガイの視線の高さの壁に突き立てた。


――――ここでオーガイと戦っている暇はない。翡翠様を止めなければならない。でも、たかが長老の私にあの方を止められるだろうか。私を敵視している翡翠様に……あなた様に勝てるだろうか。スカイ様を殺さず、翡翠様も死なせず、誰も死なせることなく……。貴方様を助けるために、私のために、スカイ様のために……。オーガイ、あなたも助けてあげたい。でも、私にはきっと何もできない。私のせいで、誰かを失ってしまう。私が無力なために、誰かを失ってしまう……。私のせいで……。私がもっと翡翠様を気にしていれば、こうなる前に止められていたのかもしれない……。私が計画にのったふりをしていなければ、翡翠様を止められていたのかもしれない……。私のせいで、誰かを傷つける……。私のせいで……スカイ様を……失ってしまう…………


 オーガイの額には脂汗が流れていた。


 短刀から手を離し、にっこりと笑みを浮かべる。


「ですが、殺される前にファイルを見せていただけますか?」


 オーガイは恐怖のあまり、そのまま座り込んでしまった。


――――私は罪を償うべきでしょうか……


          ❦


「人間界に……」


 空汰は本当によく分からない。


「え?」


「戻ったって……どうせ…………」


「人間界に戻りたくないのか?」


「いや、そういうわけじゃないのだけど……」


「お前が帰る場所は、お前が妖石を拾った時間だ」


「俺には居場所が……」


「ここにもお前の居場所は無い」


「え!?」


「妖長者は俺で、珀巳は俺の式。式や守護者、その他使用人は皆妖ばかり。お前がこの世界に残ったところで、この家に居られるわけでもない。望むなら、俺の権限を使って、この妖世界のどこかの街に家を用意してやってもいいが、喰われるのは時間の問題だ。ただの人間が、そう易々と過ごせるほど、甘くはない」


 黙り込み視線を落とす空汰を見て、呆れ顔でため息を吐いた。


「そんなに人間界に帰りたくないのか?」


「あぁ……」


「……まあいい。後で考えても遅くはない」


「ごめん」


「俺も言い過ぎた。話を戻そう」


「……悪い」


「だから良いって。俺も悪かったって」


「難しいな、この世界」


「人間界と妖世界は難しいものだ」


「お前が言うと変に納得してしまうな」


「褒められているのか貶されているのか」


「どちらでもない」


「そうかよ」


 二人はフッと微笑み、ファイルに視線を戻した。


 俺が失敗したものを空汰が成功するはずがない。簡単な妖術ではないのだ。


「それで、フィリッツの質問には?」


 空汰の核心に迫る質問に、俺は微笑んだ。


「裏切り者は全員捕らえ、新しい長老を出迎え、新しく世界を作り直す。そして、空汰、お前とはお別れだ」


          ❦


 オーガイの自由な動きに、俺の扱い方を覚えたらしいオーガイは、珀巳を使って逆に脅すようになっていた。確かに俺は珀巳が大切だが、そこをいちいち脅しに使ってくるとは思わなかった。


 こいつを自由にさせた俺が間違いだった。


 俺は言われた通り、フィリッツのもとに行った。フィリッツのことだから、俺の企みに何となく気づいてくれると信じた。予想通り、フィリッツには何でもお見通しだった。


「仮死状態でいいのですか?」


「あぁ。仮死状態でいい。だが、結界はすべて解けよ」


「構いませんが……大丈夫ですか? オーガイにとって邪魔な存在は私です。私がいなくなれば、暴走する可能性があります。私がそこに助けにいけるかは分かりません」


「大丈夫だよ」

そういいながら懐から小石のようなものを取り出した。


「あいにく、俺はお前に監視されている」


 フィリッツはフッと笑うと、窓の外に視線を逸らした。


「場所が分からなければ、助けにもいけませんからね」


「やっぱり監視じゃねぇかよ」


「違いますよと言っても、ダメですか?」


「お前、案外面白いやつかもな」


「褒められているのか貶されているのか分かりませんね」


「やっぱり前言撤回。堅物野郎」


 真顔でそういうと、フィリッツは笑みこそ浮かべていたが、目は笑っていなかった。


「私が死ぬより、翡翠様が死にますか?」


「冗談を」


 フィリッツはきっと冗談半分ではなく、本気で俺にそう問いかけていたのだろう。空汰が死ぬのか俺が死ぬのかを確かめるために……。


 妖長者の部屋に戻ると、中からオーガイと珀巳の話し声が聞こえていた。意を結して中に、入ると珀巳は弱り果てていた。


 さすがの俺でも、怒るぞ……オーガイ。自由にしていいとは言ったが、誰がそこまでしろと言ったのだ!


「用件はこれかな!?」


「珀巳に何をした」


「見れば分かる通りです」


「珀巳に……何をした!」


珀巳の目からは涙が溢れ、ぐったりとしていた。どうやら体が動かないようだった。


「俺は、名草が嫌いなのですよ。前妖長者が拾ってきた野良が、長老差し置いて、妖長者の式となるなど、有り得ないことです。俺らは二百年近くこの屋敷内で頑張ってきた! なのにそいつは、前妖長者に見初められたというだけで、式として、この屋敷内にいるのだ! 若干百年もないひよっこが、俺らと同じ立場にいるなど、絶対に許さん!」


「たかが長老如きが何を言う」


「たかが!? 妖長者は長老がいなければ、困るのですよ!?」


「だから何だ。お前らだって一緒だろう!? 妖長者がいなければ、長老の存在もいらない」


「俺が妖長者となる」


「戯言を。誰がお前を妖長者として見るものか」


「フィリッツが死んだ今、誰も咎める者はいない」


「だが、俺たちがいる」


「あぁ、そうですね。では、邪魔者は全員殺します」


 俺はオーガイを蹴り飛ばす……前に空汰を庇った。空汰に被害が及ばないように先に押し飛ばした。何故自分がそんな行動に出たのかは分からない。


 オーガイとの攻防。オーガイは珀巳に向けて短刀を投げた。珀巳は俺が守らなければならない。珀巳だけだったから……。


 俺の涙を受け止めてくれたのは……。


 だが、こんなことで俺は死なない。そう思っていた。


 流石に妖長者とはいえ、俺は生身の人間。他の者より、確かに丈夫なのかもしれないが、三本もの短刀が俺の身体を貫けば、俺は死ぬだろう。


 擦れてゆく視界のなか、珀巳がオーガイに歯向かっている……。珀巳……俺は、お前を裏切っているのに……お前は俺の味方をしてくれるんだな…………。


 空汰……ごめんな。


          ❦


 戦いが終わり、部屋には静けさが訪れていた。


「翡翠様を頼みます」


 栖愁は何も言わず一礼すると、空汰の手から翡翠を受け取り抱きかかえ、部屋を去って行った。


「珀巳」


 フィリッツの声に、珀巳はハッとして顔をあげた。


「……はい」


「翡翠様はまだ生きていますよ」


「え!?」


「ただ……危険な状態です。生きるか死ぬかは、彼自身が決めるでしょう」


――――酒々井空汰を殺さない限り、翡翠様はきっと……死にきれないと思うのです……。だから、きっと……。それに、私も死なれては困りますから


 珀巳は慌てて立ち上がろうとしていた。それを見たフィリッツが、珀巳の元に急ぎ近寄り手を貸した。


「フィリッツ様……」


「今あなたが動いたところで、なにも出来ません」


フィリッツが空汰の前に持っていた紙を置いた。何も見えない真っ白な紙である。


「私が知る……私が話せる裏切り者はこの方たちです」


 フィリッツが紙に触れると、文字が現れだした。そこには確かに妖字があった。


 空汰は恐る恐る手に取り、紙を読み始めた。そしてそこに書かれている名前は、よく知る人物の名前だった。


「フィリッツ、オーガイ、ケンジ、ジン、ナク……。フィリッツ、この下は?」


 名前が書かれている一番下の部分は文字が浮かび上がっていなかった。


「私にも分からないのです」


「え?」


「私がこの紙を取り出したときには、すでにこの状態でした。これは、私と許可した者以外読むことは出来ません。長老全員と私以外見ることは出来ないのです」


「だったら、ここを消したのが長老ということになる」


「私もそうかと思いましたが、この紙を見たオーガイの表情からそうではないと、私は思います。多分、第三者です」


「その第三者って!?」


 事実を伝えるには、少し荷が重かった。ここで事実を伝えてしまってもいいのだろうか。翡翠が瀕死の状態である……このときに……。


「……分かりません……」


 フィリッツは哀しげな表情を浮かべていた。


「スカイ様」


「フィリッツ……。もしかして……黒幕のこと……」


「今の私に語れることはありません」


「フィリッツ!」


「スカイ様。遅かれ早かれいずれ知ることになりますよ」


 知りたかった知りたくもない事実を……。


「フィリッツ……」


 空汰が戸惑い頭を抱えていると、フィリッツが声を掛けてきた。


「スカイ様、今一度聞きますが、お怪我はありませんか?」


「俺は大丈夫……。でも……」


「翡翠様を気にすることも大切ですが、翡翠様を私はどうすることもできません」


「じゃあ、翡翠は!」


「死にませんよ」


「え?」


「といいますか、死なれては困るのです」


「死なれては困る? 妖長者として?」


「いいえ。別の意味でです。私は彼に一つどうしても確かめたいことがあるのです」


「確かめたいこと?」


「はい。これだけはどうしても……」


「聞いても?」


 フィリッツは何かを堪えるような苦しげな表情を浮かべていたが、やがてため息を吐くと首を横に振った。


「私はスカイ様といると、どうやら口が軽くなってしまうようですね」


 確かめたいこと。


――――翡翠様、貴方様は本当に酒々井空汰様を殺したいのですか? 貴方様の本当の望みは何ですか? 私にはどうしても違うように感じられて仕方がないのです、翡翠様


 フィリッツは空汰に、最後の忠告の意をこめていった。


「…………スカイ様、ひとつだけアドバイスをしておきます」


「アドバイス?」


「人も妖も一緒です。信じるべき相手と信じるべきではない相手がいます。その見極めをしてください。今からでも遅くはありません」


――――私を信じるのか、翡翠様を信じるのか……。それは、空汰様自身の判断に掛かっているのです……


          ❦


 私は別館にある自室内、図書室に来ていました。


 私が望む世界が訪れるように……。誰もが望んでいるそんな世界に……。


 誰も失わない、誰も傷つけない、そんな世界を……。


 あまり手を伸ばすことのない本棚を順番に見ていきました。その中に、埃をかぶった卯花色の本があった。それを手に取り、背を本棚に預けて、本を開く。


 妖長者が生まれた起源の話。言い伝えられてきた話。


 ぺらぺらと捲っていく。


 この時代は、きっとこの代で終わる……。妖世界は滅びてしまうかもしれない。


 結局、私には……何も出来ませんでした……。彰人様……ご期待に添えず、本当に申し訳ありませんでした……。


 手にしていた本に一粒、二粒と雫が濡らしていった。


          ❦


 フィリッツは空汰とともにオーガイの部屋を訪れていた。情報集めのために。


 しかし、お目当てのものは見つからない。本棚に近づき、スッと一冊手にすると、空汰が机上を漁りだした。本に視線をうつし、ペラペラと捲っていく。深緑という色の違いはあるもののこれもまたフィリッツの図書室にある卯花色の本と同じものである。長老なら誰もが持っているこの本に惹かれるのは、何故だろう。


 読まず捲っていったところで折りたたまれたメモ紙が挟まっていることに気付いた。中を開いた。空汰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。


「『妖長者である人間は妖石によって縛られる。これは、死ぬまで解けない呪々である』」


 妖石は前妖長者が死ぬとき、または死んだときに必ず次期妖長者の手に動く。つまり、そのときに妖石から初めて解放される……。


――――酷いものですね……


 そのとき、空汰に呼ばれ、懐にそのメモを隠した。


 翡翠のもとに戻ってきたフィリッツと空汰は、翡翠を取り戻そうと必死だった。もちろん、死んだわけではない。しかし、死んだように静かに眠っていた。


 フィリッツは翡翠に妖石と印を返すように空汰に話をしていた。


「翡翠に印と妖石を返せば生き返る!?」


「生き返るのではありません。先程も言ったように翡翠様は死んでいません」


「でも」


「確かに死んだように静かですが、翡翠様のように芯の堅いお方は、死にたくても死なないほど丈夫だと思いますよ」


「なら……この印と妖石を翡翠に急いで返す!」


 そう言って素早く立ち上がり、寝室に向かおうと走り出す空汰の腕を掴んだ。


「何するんだ! 翡翠が助かるのなら、急いだ方がいいだろ!?」


 手を掴んでいるのは紛れもなくフィリッツだったが、その表情はどこか哀しげで、手にもあまり力は入っていなかった。


「……フィリッツ?」


 フィリッツは今にも泣きそうだった。


 本当に翡翠を助けてもいいのだろうか。翡翠が黒幕である以上、このまま死んでしまったほうが後に楽なのかもしれない。酒々井空汰が殺されることはなくなるのかもしれない。でも……長老の長である自分がそんなことをすれば、それは大罪になる。許されざる罪を負うことになる……。これまでも私のせいで、いろんなひとを苦しめてきた。そんな大罪くらい笑顔で引き受けよう。ただ……私の選択が酒々井空汰の命を左右するのだと考えると、それは私には……とても重い判断だった……。


 今までの翡翠の笑顔は確かにニセモノなものもあったのかもしれない。でも、それがすべてニセモノなはずはない。酒々井空汰を思う心もそこに必ずあったはずである。もしも、翡翠が少しでも酒々井空汰を殺すことに、躊躇してくれているのだとしたら……。誰も死なずに、いられるのなら……そこに翡翠は必要になる。


「スカイ様……申し訳ありません」


「え?」


「…………翡翠様を助けてあげてください」


 翡翠裕也のために……酒々井空汰のために……。……罪深き私のために……。どうか…………翡翠様をお助けください。


 空汰が寝室に入ったところを見送り、フィリッツは栖愁に向き直った。


「申し訳ありません……。少しの間、留守にします」


          ❦


 それからしばらくして、翡翠が目を覚ましたことを知った空汰が、満面の笑みで寝室に入ってきた。


「翡翠!」


 空汰の声に振り返り、笑みを浮かべる。


「空汰……」


 翡翠の声は消え入りそうなほど、小さなものだった。空汰に抱き付かれ、苦笑を浮かべながらも手を背にまわしていた。


――――あぁ……何だろう……このきもちは…………


「ごめんな」


「死んだかと思っただろ!?」


「俺もそう思ったよ」


「本当にバカだな、お前は」


 空汰の目からは涙が溢れ、止まらなかった。歳に似合わず泣く空汰に、穏やかな笑みを浮かべ持っていたハンカチを差し出した。


「男だろ?」


「男でも泣く時は泣く!」


「そうかよ」


「何だよなー、目を覚ました瞬間から嫌味かよ」


「そうだよ、それが俺だから」


「ばか」


「お前に言われたくねぇよ!」


「勝手に死ぬなよ!」


「空汰」


 空汰を隣に座らせ、ポンポンと頭を撫でると、空汰が一度も見たことのない優しい笑みを浮かべた。


「ありがとな」


 お前に出会えてよかったと……俺に思わせてくれて。


          ❦


 翌日、空汰のもとにはフィリッツとオーガイ以外の長老が集まっていた。


 ジンが嘘くさい笑顔を浮かべる。


「生き返って良かったですね」


「思ってもいないくせに」


 ナクが珍しく口を開いた。


「お身体いかがですか?」


「誰かさんのおかげで俺の身体はズタズタだ」


「あまり無理なさらない方がいいですよ」


「次の命令をくだす」


「え?」


「襲撃を行う。俺を殺す気で掛かってこい」


          ❦


 その数日後、ことが大きく動いた。


「頭を下げろ!」


 空汰が叫ぶのと窓ガラスが割れるのは同時だった。窓の外から矢が次々に飛んできたのだ。矢だけでは足りないのか、妖術での攻撃も飛んでくる。空汰は永く眠り体が思うように動かない俺の手を引き部屋中を逃げ回った。襲撃犯が次々に部屋に侵入し始めた。二人が八方塞がりになり、立ち尽くしていると扉が無造作に開けられた。そこには、少し息を切らしたフィリッツが立っていた。


「こちらへ」


 フィリッツの言葉に二人は、荒い呼吸を繰り返すだけだった。


 それを見たフィリッツは部屋の中に入り、二人の腕を掴むと廊下へと走り出した。真っ直ぐな廊下を走り、脇の廊下に入る。その際、飛んできた毒矢がフィリッツの肩をかすめた。


「ッ!」


「フィリッツ」


 空汰が慌ててフィリッツを見ると、頬を赤らめたフィリッツは二人に視線を向けることなく翡翠を呼んだ。


「翡翠様」


「ゴホッゴホッ……。な、何だ」


――――フィリッツの体内にどれだけ毒がまわってくれるか……


「スカイ様に、印と妖石をお返しください」


「何故!? あいつらが狙っているのは俺だろ!?」


「だからです。妖長者である貴方様が印を持っていると分かれば、それを目印に来ます。スカイ様が持っていてくだされば、翡翠様を逃がすことは容易です」


「それでは、スカイが危ない!」


――――フィリッツは何を考えている?


「翡翠様、妖石が無事なら、スカイ様も無事です」


 空汰に走りながら妖石を手渡しすと、三人は壁の影に隠れた。


 俺から空汰に妖長者の印が渡されると、フィリッツは二人を見据えた。


「走れますか?」


 二人は揃って頷いた。


 フィリッツが走り出したのを見て、二人は後に続いた。


 俺を殺す気で掛かってこい……確かにそう言った。どれほどの襲撃度になるだろうかと少し楽しみにしていた部分があった。


 俺は空汰を庇わなければならないし、空汰は俺を庇っていたために、動きがお互いに鈍くなっていたとはいえ、案外追いつめられるものである。八方塞がりになった俺たちは窓から外へ飛び出した。しかし、俺が高いところ大丈夫でも空汰は苦手だった。怖いと感じたのか空汰は落ちていった。そのまま放置しておけばこの高さ、打ち所が悪ければ死ぬ。これで、俺のやりたいことは終わる……というのに、俺の身体は空汰を助けていた。しかも、必死に手を伸ばして……。もう、自分のことが分からない。殺したい相手を助ける必要がどこにある!? このまま放っておけばいいものを、自ら助けて。馬鹿らしい。


「お前怪我は?」


 服の土を叩きながらそういうと、空汰は自分の体をきょろきょろと見た。


「大丈夫だ。ありがとう」


 浮かんでいたフィリッツが降りてきて、困った表情を浮かべる。


「大丈夫ですか?」


 俺よりこいつは絶対に空汰を助けられたはずだった。でも、助けに行かずただ上で見ていた。こいつは本当に意味が分からない。


「大丈夫」


 三人はフィイッツの自室に向かった。


 俺は薄々気づいていたことをフィリッツに確認した。


「こいつの本名を知っているな?」


「酒々井空汰様です」


「だったら、もう隠す必要もないわけか」


「スカイ様と出会った時から、薄々気づいてはいましたが、確信が持てませんでした。本人は保留と言いましたので……。私もひとつだけ聞きたいことがあります」


「誰に?」


「翡翠様、貴方様にです」


「俺が答えられることはない」


「答えられると思いますよ」


「何故?」


「貴方様が知っていることだからです」


「それが今回の件と何か関わりがあるのか?」


 フィリッツは小さなため息を吐き、隠し持っていたあの名簿を取り出した。そしてそれを数枚捲るとそのページを開いたまま前に掲げた。


「この空白二行の一つ上のところです」


 それは俺がわざと消した空白だった。俺の翡翠裕也という名前と酒々井空汰の名が入るべき空白だった。


「橘楓という人物の名前を、知っていますね?」


「橘楓……さあ、知らないな」


「知っていますね?」


「橘楓は、俺の一つ前……。つまり前妖長者の翡翠琉生の本名だ」


「橘楓がどうした」


「いえ……少々気になることがあっただけです。気になさらないでください」


 フィリッツは気づいているのだと感じた。翡翠琉生がはじまりであること、翡翠琉生の本名であることに。


 そしてそんな最中、フィリッツの口からとんでもない言葉が飛び出した。


「では、空汰様と翡翠様にひとつ提案があります」


「提案?」


「過去へいきませんか?」


 過去に行けば、確かにすぐに黒幕は見つかる。


「過去?」


「この計画の始まりの時間へ戻るのです。そこで、黒幕を見つけます」


 翡翠裕也という名の黒幕が……。


「黒幕って、オーガイじゃないよな?」


「はい。黒幕は別にいます」


「その黒幕を過去に戻って見つけると?」


「その通りです。今の状態ではあまり動くことが出来ません。過去に戻って、探った方がスムーズにとはいきませんが、こちらで探すよりは探しやすいと思います」


「過去へはどうやって行くの?」


「私の力をお貸しします。過去へ戻るにはそれなりに体力を消耗します。行けて数時間程度です。その間に、様々なところを探らなければなりません」


「なるほど……。そっちの方がいいんだよな?」


「動きやすさでいえば、そうですね」


 過去に行かれては困る。計画がだいぶ狂ってしまう。今までの努力がすべて水の泡になる。フィリッツ、お前の気持ちは分かるが、俺だって譲るわけにはいかないんだ。


「じゃあ……」


「待て」


 空汰の言葉を遮るように、口を開いた。自然と視線が集まるが、大きなため息を吐くとフィリッツと空汰を見た。


「……過去へは行くな」


「どうして? すぐに裏切り者が分かるのだぞ!?」


 よく考えろ、俺。何と言えば空汰の気持ちを動かせる!? もっともらしい理由をつけられる!? ここで矛盾が生じたらなにもかも終わりだ。


「空汰。よく考えてみろ。お前はその時間を人間界で生きている。お前はそこにいるべき人間ではない」


「でも」


「それに、もしもお前が過去に戻って黒幕を探っている間に、フィリッツやオーガイとかに会ったらどうする!? お前は俺がここに連れてくる。それまで、お前はフィリッツたちを知らない。でも、フィリッツたちは覚えている。過去へ行くということは未来を変えるかもしれないということだ」


「変えなければ……」


「俺とお前が……出会わなかったということにも……なるかもしれない」


 俺を信じているお前ならこの言葉の意味をバカなりに理解してくれ。


「翡翠……」


「俺はお前と出会いたいよ」


 このときのフィリッツの冷たい視線は何となく感じた。当然だ。嘘八百の言葉なのだから。


          ❦


 翡翠裕也が妖長者となって数年後……。


「フィリッツ殿、記憶喪失が窺えます」


「記憶喪失ですか?」


 度重なるストレスから一部記憶喪失の症状が現れていた。


 そう。あの夜、翡翠が日記の裏に書かれた数字を読み解いていたあのことを忘れていた。あの数字を書いたのは自分だというのに、私は忘れてしまっていた。


 触れれば思い出す……。それは、私に与えられた何かの罰だったのかもしれない。未だにあまり思い出せないこともあるものの、あの数字のことは思い出せていなかった。


          ❦


 妖石のひび割れ……それが何を意味するのか知らないわけではない。


 誰も失いたくない……。


 誰も傷つけたくない……。

 誰も……。


          ❦


 翌日、俺は長老会議室奥書庫に来ていた。見張り役の栖愁がいるもののかなり自由に過ごせることはありがたい。さすがの俺でも、フィリッツらの目を盗んでひとりでここに入ることは難しい。


 俺の本名を取り戻せば、俺は普段以上の力を取り戻す。そうなれば、俺はフィリッツに勝てる。つまり、敵がいなくなる……。


 そう簡単にフィリッツが俺の名前を返してくれるとは限らない……。


 自分のプロフィールを見ながらそんなことを考えていた。


 空汰は、図書室内にいた。


 哀しげな表情を浮かべたまま一冊の本を手に取る。


「『翡翠裕也』」


 変わった本だった。中は真っ白だった。翡翠がいつか言っていた書いた者にしか見えない妖字だろう。これを書いたのは本人か……別人か……。タイトルが翡翠裕也なのだから、気にならないわけがない。しかし、これを読むことは無理に近かった。


          ❦


 俺は妖長者の部屋を訪れ、ジンに捕まった。


「いつも皆して、翡翠様翡翠様ってさ」


「お前らが無理矢理連れてきたんだろ!」


「うるさいよ?」


 これも計画のうちだったら少しは楽だったのかもしれない。でも、長老たちは少し暴走を始めていた。


「空汰って言うあの男の子ってさ、次の……」


「五月蠅い!」


 怒鳴り声にジンとナクは肩を震わせ驚いた。言葉を遮られたジンは不敵な笑みを浮かべ、立ち上がり俺に近づくと鋭い視線で見下ろしてきた。


「もしかして、隠しているつもり?」


「黙れ……」


 ジンの言う通り隠している。空汰自身には一度も言ったことのない事実。俺が空汰にこの事実を伝えるとき、きっとお前の瞳の中にうつる俺は、憎い敵となっているのだろう。


「へぇ~、じゃあ張本人の空汰くんは何も知らないんだね」


「黙れ……」


「空汰くんに翡翠様が伝えられないなら、僕らが伝えてあげようか?」


「黙れ!」


 俺はいつまでお前にとらわれればいいのだろうな、空汰。


「正直お前なんかどうでもいいんだよね。何で僕らがお前に指図されないといけないわけ? 僕らは僕らで頑張っているのにさあ」


 俺に脅され、思うように動かされる方が悪いのだ。この計画に最後までジンは乗り気がなかったとはいえ、結局俺の手のひらで踊らされていたのはどこのどいつだ。


「ゴホッゴホッ……」


 ジンは思いっ切り俺を蹴った。妖の力と人間の力は桁違いということを思い知らされる。


「立場が上ってだけで、何でも出来ると思うなよ!?」


 ジンの態度の急変様に全く驚きも動揺もせず、吐血すると顔だけジンに向けた。


「お前ら……絶対許さない」


 その言葉を聞くなり、ジンはパッと笑顔になった。


「奇遇だね。僕も翡翠様を許さないよ」


 こいつはそういうところがあるのを今更思い出す。もう少し痛めつけておけば良かった。


「ジンッ」


「ねぇ、翡翠様」


 ジンは笑みを浮かべたまましゃがみ込み、顔を覗き込んできた。


「翡翠様って、結局何がしたいの?」


「うるさい」


「ねぇ、僕らに分かるように説明してよね」


「お前らに話すことは無い」


「散々僕らを足蹴にしてきたくせに?」


「長老なのだから当たり前だ。お前らだって、俺を無理矢理こんなところに連れて来て、人間界には二度と帰さないと言っただろ!」


「だからなに? 僕はさ、嫌なんだよ。人間が妖長者っていうのがさ」


「だったら、それだけの力を妖が持てばいいだろ!」


 そうだ。


 そもそも、妖が人間に負けないほどの力を持っていればこうはならなかったのだ。当時の妖が人間に負けるから、今も続いているのだ。


「そうなんだよねぇ。でも、どうしてかそんな力のある妖は生まれない」


「だったら、お前らが弱いってことだ」


 ジンは大きなため息を吐いた。


「翡翠様さぁ、自分の今の状況分かってる?」


「分かっている」


 脅していた側が脅される側に……。笑わせるな。お前らの遊びに付き合ってやっているだけだ。


「だったら、その無駄吠えやめたら?」


「俺には仲間がいる」


「フィリッツのこと? あーダメダメ。フィリッツは俺らの仲間だから。俺らの敵じゃない。フィリッツは裏切り者だから、翡翠様の仲間ではないよ。ざんねーん!」


 フィリッツ? 空汰? 絶対にありえない。フィリッツは俺の敵、空汰は俺の仇だ。俺の味方は俺自身、澪しかいない。


「ハッタリだ」


「そう思うならお好きにどうぞ?」


 ジンはフィリッツがいなければ、長老の長になっていたかもしれない妖である。当時の妖長者である彰人は、そんなジンをわざと長老の下から二番目に位置づけた。それは彰人がジンのこういう内面に気付いていたのだろう。


 ジンは俺のことを大嫌いだと言った。気づいてはいたが、恨まれるほど嫌いになられているとまでは思っていなかった。でも、正直俺はジンが嫌いではあるが、少し気に入っている。ジンは表向き、すごく面倒くさそうにするうえに、妖長者を忌み嫌うが、内心は案外優しい心を持っていることだけは知っていた。見え隠れする優しさが、俺にとっては微笑ましいものだった。


 そこにしらけた顔をしたフィリッツがやってきた。助ける気がないことは表情からうかがえた。憤りを通り超えて、笑いが出そうである。


「フィリッツ。何をしに?」


「様子見です」


「様子見?」


「はい。翡翠様がいるようですね」


 様子見とは笑わせる。


 だが、フィリッツの目はいつもと違った。


 どうやら扉の外に空汰がいるらしい。こいつは、本当に誰の味方なのか分からない……。


「酒々井空汰くんは、君の次の妖長者の子……つまり、次期妖長者だから目が離せない……からでしょ?」


 空汰にバレてしまった。


 それは、俺の信頼をまたひとつ失った瞬間だった。


          ❦


「フィリッツは、翡翠様がそれを隠していたことは知っているの?」


 ジンの問いにフィリッツは何食わぬ顔で答えた。


「当然です」


「だったら、何で、お前は空汰くんに言わなかった?」


「私が話すべきことではないからです。翡翠様が何も言わないのであれば、私も言いません。逆に空汰様が何も言わないのであれば、私も翡翠様に何も言いません」


 つまり空汰が俺のことについて何かを思っているということ……。さらっと俺に情報を与えてくれる……。意味が分からない。


 その夜、俺はジンに頼み解放してもらい、青白い光りを手に、地下牢に向かった。


 中にはオーガイとケンジがいた。鋭い視線を向けると、オーガイとケンジは鉄柵に近づいてきた。


「も、申し訳、ご、ご、ございません!」


 オーガイは冷や汗を浮かべながら、深々と額を冷たい牢の床につけた。


 謝罪したところで無意味だというのに。


「け、計画が失敗しました……。誠に申し訳ありません」


 同じく無意味だと言ったところで、こいつらは分からない。


「じゃあ、死ぬ?」


 俺の声に、二人は体を震わせ、ずっと俯いたままだった。


 面白くない。こいつらは邪魔だ。


「もうお前ら要らないから」


「も! もう一度、チャンスを!」


 オーガイが鉄柵を掴んだのを見て、ケンジも掴む。


「お願いします! 次こそは! 必ず!」


「五月蠅い」


 イライラする……。


「ど、どうか! 命だけは……!」


 さっさと死んでくれれば楽なのに……。やっぱり殺そうか?


「報告を」


 二人は鉄柵から手を離し、オーガイは重い口を開いた。


「フィリッツが、私達を捕まえここに連れ込みました。口ぶりからして、ジンやナクも捕まえるでしょう。そして、本当に黒幕を探し出しているようです」


 あぁ、イライラする。


 鉄柵を思いっきり蹴った。もともとガタがきていたのもあって鉄柵が一本外れ落ちた。カランッカランッと音をたて落ちるのを見て、二人は恐怖がさらに掻き立てられていた。


「お前ら今まで何やってたの?」


「そ、それは……」


「オーガイ。お前気付かれるのが速い」


 気付かれるように仕向けたとはいえ、想像以上に速い。


「も、申し訳ありません!」


「勝手な行動はするなと、あれ程言ったはずだ」


「も、申し訳ありません! お許しを!」


 いや、許さない。


「ケンジ。お前、フィリッツ相手に気を抜いていたな?」


「そ、そんなことは……」


「何? ……口答え?」


 あぁ、もうッ! こいつらイライラする。


「い、いえッ。申し訳ありません!」


 手に持っていた角灯を下に置き、深くため息を吐いた。


「最期のチャンスをやる」


 そう言って地下牢の鍵を開けた。それにケンジが必要以上に反応する。


「ここはフィリッツの管轄です!」


「だから? 無効化した」


 すぐそばで浮いている青白い光りを見せた。


「ついでに、眠っていて貰っている」


「さ、流石です……」


「次は無いと思え」


「はい! ありがとうございます」


「翡翠裕也を殺せ」


 妖長者である翡翠裕也ではなく、俺自身を……殺して欲しかった。


 何故か?


 俺はどうやら空汰に情が移ってしまったらしい……。


          ❦


 地下牢を後にしようとしたそのときだった。


 ドクンッ


 心臓に痛みがはしり、その場にしゃがみ込む。顔を歪ませ、胸を抑えるが痛みは治まらない。自然と呼吸が荒くなる。


 そこにひらりと澪がやってきて、人型になり、俺の背に手を添えた。


「どうなさいました!?」


「ッ!」


「翡翠裕也!」


「澪……お前は戻っていろ」


「で、ですが」


「いいから、戻っていろ……。ここは妖長者の屋敷内だ。気付かれるぞ」


 澪はその言葉を聞くなり、スッと影の中に戻っていった。


 しかし、額からの脂汗は止まらない。


――――あぁ……俺はもうすぐ死ぬのか…………。何もできないまま……。空汰を苦しめたまま……。当初の予定も果たせずに……、俺は死ぬのか…………


 実に滑稽だな。


          ❦


 柊と黄木がこちらに寝返ったように見せ、俺を救い出してくれた。無事に俺は空汰たちのもとに行き、笑顔を見せる。


 酒々井空汰が仇であることなど、嘘のような……。そんな勘違いをしてしまう。


 俺が少し回復したころ、ジンの提案によりゲームで勝負することとなった。かくれんぼといういかにもお子様らしいゲームだが、ジンは傍からこのゲームに勝つ気はなかったようだった。


「翡翠様って、どう思う?」


 案外、ジンは二人きりになれば普通の妖になる。


「え?」


「人間が妖長者としてこの世界を統べるのは」


 半年前まで、妖長者の座は絶対この俺だと思っていた。でも、空汰に出会い、こんな状況になり、俺は少し変わったのかもしれない。いや、変わってしまったのかもしれない。でも、変わってよかったのかもしれない……と思うのは……何故だろうか。


「俺は、この世界が安定するなら誰でもいいと思うが」


 その言葉にジンは驚きを隠せないでいた。


「翡翠……様……!?」


「まあ、まだ……まだだけどな……」


 俺は微笑んでいた。


 妖長者に相応しいのは俺ではないのだろうな……。


          ❦


 その頃、フィリッツは群青色のファイルを探し始めていた。それを知らない俺ではない。まあ、俺があまり自由に動けない分、澪が情報を渡してくれるからなのだが……。


 澪の話では、フィリッツの指示により妖長者付式全員が探しはじめたらしかった。つまり、あのファイルが見つかるのは時間の問題ということになる。あのファイルには酒々井空汰の調べたこと、計画の原案のメモが事細やかに記されている。見られれば、それは完全に俺が裏切り者側であることを示す決定的な証拠となってしまう。フィリッツはそれに気づき、そのファイルを探し始めたに違いなかった。しかし、あれは少し見つけにくいところに並べてある。フィリッツといえど、簡単に見つかるようなものではない。


――――でも、やはり……見つけ出すのも時間の問題か…………


 そして、澪はもうひとつ俺に告げた。


 フィリッツらは妖長者の図書室に入った……と。


 フッと笑みを浮かべ、澪を飛ばした。


          ❦


「翡翠様はどうしてファイルを隠すのでしょうか?」


「珀巳が何かものを隠すとき、そこにどんな理由がありますか?」


「それは……」


「妖も人も、何かを隠すという行為は、そのものが誰かに気付かれないように見えないようにしておくことをいいます。隠すということは、それを誰かに見られたくないということです」


「では、翡翠様はそれを誰かに見られたくないのでしょうか」


 この計画の事実を知って、一番取り乱す可能性があるのは珀巳である。誰よりも翡翠を思い、空汰を思っている珀巳だからこそ、知らされるべき事実かもしれない。だが、同時に知ってはいけない事実なのかもしれない。それは、私が決めるべきことではない……。


「それ以外、隠す必要はありません。ただ、空汰様を理由に隠されているのだとは思いますが、私にはそれ以外の理由しか考えられません」


 それ以外の理由……。計画の漏洩を防ぐため。翡翠の計画が空汰にバレる可能性が高まってしまう。ここまでやってきたのに、ここで目茶目茶にはされたくないだろう。


「それ以外の理由とは、まだ、話せませんか?」


 珀巳が事実を知るとき、私はどうしたらいいだろう。


「……この事実を聞いたとして、珀巳はそのあとどうしますか?」


「え?」


「私がこのことを話すには荷が重いのです。ですが、私の独断ではありますが、珀巳にはこの事実を話しておくべきなのではないかと悩んでいます」


 珀巳には話しておくべきかもしれない。このままだと、事実を知るのは空汰と一緒になってしまう。そうなれば、空汰の怒りよりも珀巳の感情が暴走してしまいかねない。そうなってしまえば、私でさえも止めることは困難である。そうなる前に、教えておいた方がいいのかもしれない。だが、荷が重いことは確かであった。私の口から話してもいいものだろうか。私の手で、終わらせてしまってもいいのだろうか。珀巳は納得するだろうか。


 それに、今言っても珀巳は暴走するかもしれない。そうなった方が翡翠を殺しかねない。感情的になってしまうに違いなかった。


「でしたらっ」


「しかし……、それを今のあなたに話しても無意味です」


 珀巳が返す言葉に困っていると、栖愁の声が聞こえた。でも本棚があり、あまりよく聞こえない。


「栖愁?」


 本棚から顔を覗かせようと、珀巳の隣を通り過ぎたそのとき、手を掴まれ振り返った。珀巳が俯き、私の手を掴んでいた。


 あえて何も言わず、珀巳に向き直った。


「その事実……、もし、私が考えていたことだとするなら…………」


「珀巳」


 珀巳が顔をあげ、こちらを静かに、哀しげな表情で見据えた。


「誰の味方になるかは、あなた次第です。私にそれを指図する権限はありません。いつでも、あなたの信じた道をいきなさい。それが、あなたのたったひとつの道です」


 珀巳はきっともう薄々気づいてきている……。いや、この計画が始動し始めたときから、きっと何も言わないだけで気づき始めていたのかもしれない。それでも、核心に迫られないのは、珀巳の覚悟の弱さにあるのだと感じる。


          ❦


 さて、俺はナクを見つけなければならない。だが、ナクがひとりで隠れるとしたらあそこしかない。ナクはひとりを妙に嫌う。だからいつも、長老の誰かといることが多いが、今日は誰にも近寄れない。だったら、きっといる。


 静かな部屋に足を踏み入れる。壁際には、俺が繋がれていた鎖の残骸。微かに香るあいつの匂い。嫌いではない、この匂い。言葉とは裏腹に、きちんと仕事はこなす、あいつの机はいつもきれいだった。


 きょろきょろと見回し、気配を感じるのはベッド……の下。ゆっくり歩き近づいていく。


 誰もが気付いている。気づいていないのは、本人だけ……。いや、気付かないふりをしているのかもしれない。あいつはそんなことには疎いから。


 なあ、そうだろ? ナク……。


 俺は微笑んだ。


 やっぱりここにいた。


「見つけた」


 ナクは泣いていた。


 ジンの自室、寝室のベッドの下で涙するナクは、俺を見るなり崩れるように床に顔を付けた。


 ナクはジンが昔から好きだった。少なくても、俺がこいつらと出会ったときからナクはジンが好きだった。本を借りに来るなどの適当な理由をつけてまで、ジンの部屋に来るほどである。しかし、ジンは全くそんな素振りを見せない。鈍感なのか疎いだけなのかは分からないが、その気持ちは応援しないわけではない。


 だが、ナク。ひとつだけ、忘れるな。


「俺はお前らを脅している側。黒幕だ。お前が俺に涙を見せてどうする」


「す、すみません……。ですが、どうしても……怖くて」


 ナクがここにきた理由は誰も知らない。ジンさえも知らない。唯一知っていたであろう当時の長老の長はもういない。ナクに昔何が起こったのかさえ分かれば、少しくらい優しい言葉が見つかるのかもしれないが、今の俺にそんな権限はない。


「ナク。俺に与えられた職務を全うしろ。そしたら、その想いはきっと俺が届けてやろう」


 そっと手を差し伸べると、ナクはそれを数秒見つめた後、俺の手に自分の手を重ねた。


 しばらくして落ち着きを取り戻したナクとともに、俺はジンの部屋から出来るだけ離れた。フィリッツのことだから、栖愁に俺らの戦いの様子をうかがわせているだろう。分かりきった戦いなど見せられない。ルールでは、相手を見つけたら、『ジンの部屋』に戻ることになっていた。つまり、あの時点で俺の勝ちは決まっていた。


 ジンは、はじめから勝つ気はないようだったが、俺もまた、勝つ気はなかった。正直、どうでもよかった。この忙しいときの少しの休憩にでもなればいいなと、それくらいにしか思っていなかった。


 ナクと廊下を適当に歩いているとき、澪から呼びかけがあった。澪とは一心同体といっても過言ではない存在のため、離れていても意思疎通くらいは出来た。


 澪からの知らせを聞き、フッと笑うとナクは不思議そうに俺を見た。


「もうすぐこの計画も終わる。良かったなあ? ナク」


「え……」


 どうやら、フィリッツが俺の隠していた群青色のファイルを見つけ出し、それに掛けていた魔方陣が解かれたらしい。そして、澪の存在に、フィリッツが気付いた。


 俺が本性を現したときの恐さを一番知っているのはフィリッツ本人である。フィリッツ以外に、俺の本当のすがたを見せたことはない。所謂、本当の顔というやつだろうか。それに怯えるフィリッツが目に見えるように分かる。そろそろ、お前を処分するときが来たようだな。


――――フィリッツ……。俺はお前にかなり怒っているから、覚悟しておけ……


          ❦


 ゲームを終え、普段の生活のように栖愁が指示を出す。


「では皆さん、準備をしますので、翡翠様と空汰様はどうぞお風呂に入ってきてください。あと、御着替えをお済ませください」


 それぞれ部屋に入った。俺は着替えることなく、空汰らに気付かれぬよう部屋を抜け出した。そして三階から一階へと続く裏階段へと向かう。


 澪が前から飛んできた。どうやらもう少しでフィリッツがここを通るらしい。澪は窓際にとまり、ひらひらと羽を動かしていた。


 そこにフィリッツはやってきた。バケツをひっくり返したような雨に、妖世界に鳴り響く雷。時折光る雷にフィリッツの姿をとらえた。それはフィリッツも同じである。


 少し離れてはいるが、上に見えるフィリッツの身体が小刻みに震えていることはわかった。それほど、俺に恐怖を抱いている。俺の恐さを知らないやつには分からない恐さを……。


 フィリッツは、身体の震えをどうにか抑えようとしていた。そして、今一度真意を確かめるためにあの質問をする。


「あ、あなたが……黒幕……ですね?」


 俺は笑みを浮かべる。今の俺は本来の姿ではない。前妖長者、翡翠琉生こと橘楓の姿である。つまり、フィリッツのただならぬ恐怖は、俺、翡翠裕也にもあり、翡翠琉生にもあるということだ。フィリッツは、翡翠琉生に恐怖を抱いている。それを逆手にとれば、勝てる。


片手を胸に手をあて、敬礼の姿勢で笑みを浮かべた。


「フィリッツ様、はじめまして。……この計画の黒幕のルイです」


 計画が始まって以来、こうしてフィリッツの目の前に本当の意味で黒幕として現れたのははじめてだった。その意と恐怖をあおらせる意を込めて、俺からの最高の言葉である。


「ルイ……。前妖長者の名ですね」


「そうですね」


「ですが、あなたは前妖長者ではありません」


「何故、そう言い切れるのですか?」


「前妖長者である、翡翠琉生様は亡くなられました」


「そうですか。……だから、何です?」


「この世には存在しません」


「黄泉から連れ帰ればはやい話だとは思いませんか?」


「無理です」


 ニヤリと笑みを浮かべた。


「何故そう思われるのです?」


「妖石を使った人間は、黄泉には行けないのです」


「黄泉平坂に行けないとは……酷ですね」


 妖石を使った者の逝き末。やはり、フィリッツは知っていた。


「人間にとってはそうかもしれません。ですがそれは、致し方ないことなのです」


「致し方なく、人間を無の世界に送る……。最低です」


「ルイ」


「フィリッツ様。私は、あなたを一番恨んでいるのです」


 フィリッツからは恐怖のいろが薄まり、いつものような無表情なフィリッツに戻っていた。しかし、手は強く握られたままである。


「いい加減、もとの姿に戻ったらどうですか? 貴方様がわざわざ琉生様の名を語ることはないのです」


 姿を本来の姿に戻し、奇妙な笑みを浮かべ見上げる。


「うるさい、長老だな」


「申し訳ありません。空汰様が心配なのです」


 鼻で笑い、首を横にふる。


「結局、俺よりも次期妖長者様のことが大切かよ」


「いいえ」


「は? お前さ、いい加減、俺をなめないでくれる!?」


「嘘ではありませんよ。私は翡翠様も空汰様も大切です。もちろん、珀巳、黄木、柊、栖愁も大切な仲間です」


「だから何? お前知ってるよな? 俺をガチで怒らせたらだめなことくらい」


「えぇ。ですから、震えたのでしょうね」


「俺が本気で怒ったと思った?」


「……少々」


「お前にははじめから怒ってる」


「だったらなぜ、殺さないのです!?」


「何度も殺そうと考えた」


「でしたら殺せばいいのです」


「お前は俺の名を縛るだろ?」


 フィリッツが黙ったのを見て、図星なのだと思う。


「お前は俺の名を知っている。だから、俺はお前に歯向かえない。俺は自分の名前を知らない。自分の名前を知っていれば多少抵抗も出来るが、今ではお前に勝てない。その状態でお前を殺そうとすれば、空汰の耳に入る。俺が黒幕ということがバレる。ただそれだけだ」


「名を縛れるというおいしい設定が、こういうところで役に立つものですね」


「お前がさっさと名を返してくれさえすれば、お望み通り殺してやるよ」


「そうですね……。いずれはお返しいたしましょう」


「……お前は、今から戻って俺が黒幕だと伝えるのか!?」


「伝えません」


 あっさりというフィリッツに少し俺は驚いた。空汰に伝えられてしまうのかと思っていた。まあ、そうなれば殺すまでだったが……。


「何故だ」


「私は何も語りたくはありませんし、私には荷が重いので語れません。貴方様の口から、空汰様にすべてを打ち明けていただきたいのです」


「俺への情けのつもりか!? そうやって上から目線のところが、大嫌いなんだよ! 俺の味方なのか空汰の味方なのか分からない! そんなところが!」


「翡翠様」


「さっさと俺に名前を返せッ!」


「私は……誰の味方でもありません」


 しばらく静かな時間が流れた。雨の音と雷の音だけが響く長い時間。


 その静けさを破ったのは、フィリッツであった。


「私からは空汰様に何もお伝えしません。その代り、ひとつだけお願いがあります」


「お願い……だと!?」


「はい」


「何だよ……」


 フィリッツは静かに口を開いた。その表情は今まで一度も見たことがないほど哀しげなものだった。


「――」


          ❦


 俺とフィリッツは別館に戻った。しかし、別館内にあるはずの式や空汰の気配が感じられない。


「フィリッツどういうことだ?」


「式らはともかく、空汰様のことはあなたが仕組んだことではないのですか?」


「俺が? 俺は俺自身を殺せとだけ命令しただけだ」


「貴方自身を?」


 フィリッツから視線を逸らす。フィリッツはそれを不思議に思っているようだったが、何も言わないでくれた。


「……貴方様ではないとすれば、ジンかナクでしょうか」


「……オーガイとケンジ…………」


「え?」


「俺はあの二人に『翡翠裕也を殺せ』と命令して牢を開けたんだ」


「意味を取り違えたと?」


「考えられなくはない。だが……ジンとナクとの約束では『翡翠様』に手出しをしないはず……」


 フィリッツが口を開きかけたそのとき、自分を呼ぶ声に振り返った。


「フィリッツ様!」


「翡翠様!」


「翡翠様、フィリッツ様。空汰様をご存知ありませんか?」


「いないのか?」


「食事の準備が出来たと栖愁に言われ、空汰様を呼びに行ったのですが、空汰様がいませんでした。妖石の位置から察するに、この屋敷内にはいるのです」


「長老の結界が厄介だよな。あいつ、どこに行ったんだ……」


 フィリッツは俺に真剣な眼差しを向けた。さきほどの問いの答えらしい。


「そういえば、ジン様とナク様が、翡翠様には手を出さない約束をしたが、空汰様には分からないとおっしゃっていました」


「それを早く言え!」


オーガイとケンジではないとしたら、ジンとナクが空汰に手を出すとしたら……。有り得ないことはない。

 

どんなに俺の心が揺らごうとも、空汰を殺すのはこの俺だ。


          ❦


 フィリッツは息を切らしながらも必死で走る翡翠の背を見据えていた。


――――そろそろ…………ですね……


 名前を返すことで、私の思惑通りに動いてくれれば……。


「翡翠様!」


 呼んでも止まらない翡翠に、妖術を使うことなくもう一度呼んだ。


「翡翠裕也っ!」


 その呼びかけに翡翠は苛立ちを募らせながら立ち止まり、振り向いた。荒い呼吸を繰り返し、肩を揺らしていた。翡翠がどこに向かおうとしているのかは、大体見当がついた。しかし、そこに行く前に、話しておかなければならないことがあった。


「翡翠様」


「何だよ。俺は急いで空汰のもとに行かないといけないんだ!」


――――翡翠様。今、貴方様の身体を動かしているのは何ですか? 空汰様を思う気持ちですか? 空汰様を自分の手で殺すのだという闘志ですか?


「そのお気持ち、分かりますが、ひとつだけ、貴方様にお話ししておかなければならないことがあります」


「そんな話、後でしろ!」


 再び走り出しそうな翡翠を止めたのはどこからか飛んできた澪である。翡翠の目の前に澪が飛び、一歩後退る。


「お前、どこに行ってたんだよ」


「翡翠様」


 澪が影に消え、翡翠はゆっくりと振り返った。


「翡翠様、これから、最後の戦いです」


「戦いってほどでもねぇだろ」


「冗談ではありません」


「だから何だよ。今俺が空汰のもとに行こうとするのを止める理由になるのかよ」


「分かりません」


「は?」


「分かりません。しかし、今、話さなければならないと思うのです」


「お前お得意の勘かよ」


「はい。ですが、翡翠様」


「いちいち、お前の勘に付き合っていられるほど、俺は暇じゃねぇんだよ!」


 翡翠の怒声に驚いたのは、いつの間にか合流している珀巳、黄木、柊、栖愁だけであった。全く動揺することもなく、話を続けた。


――――このままでは、貴方様は大罪人となってしまう……


「翡翠様。今の貴方様では本来の力を発揮することが出来ません」


「だから何だよ」


「それから、酒々井空汰様……。これは私の憶測です。空汰様は、空汰という名は覚えているようですが、酒々井という名を忘れています」


「あいつ……あれほど忘れるなと」


「妖世界にいれば当然のことです。寧ろ、空汰という名でも覚えていれば素晴らしいことです」


「だから、何が言いたい」


「空汰様の名を取り戻してあげてください」


 翡翠にしか出来ない。私ごときが出る場面ではない。


「お前がやれ」


「これは、翡翠様の仕事です」


――――翡翠様を助けなければならない……。翡翠様を自由にしてあげなければならない……。長老の長として、翡翠様を慕う妖として……


「……で、お前はそんな下らないことを俺に伝えたかったわけ? 俺の本来の力を発揮出来ない理由はなし?」


「いえ」


「だったら、早く話せよ!」


――――翡翠様、私は貴方に出会ったとき、きっと何かを感じたのでしょう。この負の連鎖を止めてくれるのではないのだろうかと……。最期の私からの感謝の気持ちを込めて、貴方にお返ししましょう


「翡翠様。……貴方様に、貴方様の名前をお返しいたします」


 真の名を持つ者……。強き力を自由に使え、人間界へ帰ることが出来る……かもしれない。


 翡翠の表情は驚きと嬉しさとが入り混じった複雑なものだった。空汰のもとに早く行きたいと焦っていた気持ちはもうそこに微塵もないほど、足は止まっている。


「お、俺の……名前を」


「しかし、条件があります」


「結局お前は、俺を利用したいだけか!」


「いえ。これは、私の自分勝手な条件です」


「お前は俺を利用することしか頭にない、長老の長というわけだな」


「翡翠様。それは違います」


「だったらなんだよ! 名前を返して欲しければ、自分が出す条件を呑めと言っているのだろ!? 脅しじゃないか」


 翡翠の表情には嘲笑めいた、軽蔑の視線があるだけだった。ここに来て、フィリッツは信頼を失った。


「私の……メッセージを読んだのでしょう?」


 翡翠の日記を盗み出したのは他ならぬ私だった。翡翠裕也という存在をもっと知りたかった……。きっと当時の私はそれだけではなかったはずであるが……。


 日記のメッセージを読み解いた翡翠は、私からのメッセージを受け取っていた。


 そして、私はこのとき、過去の記憶をすべて取り戻していた。


 何故かは分からない。でも、何もかも思い出してしまった。


 なんて、微笑ましいことだろう……。


「お前に何が分かる!」


「分かりません。しかし、分からないということが分かります」


「お前はいつも意味分からないことばかり」


「私は人間の気持ちを知りません。分かろうとも思いません。ですが、翡翠様。貴方様のことは知りたいのです。私は……貴方様の味方になりたいのです」


「俺は……お前が一番…………大嫌いなのに…………」


「私の条件を呑んでくださるなら、貴方様に名をお返しいたします」


「……で、その条件とは?」


「――」


「お前に言われなくてもそのつもりだった」


 翡翠の言葉に驚きを隠せずにいた。


「ですが……、貴方様は黒幕です」


「気持ちは揺らぐものだよ。もう、俺にはきっと出来ない」


「でしたら」


「だけど、俺は死ぬんだ。その事実に代わりはないから。ちょっと嫉妬したんだろうな、俺」


 小さな笑みを浮かべ、胸に手を当てる敬礼をした。


「翡翠様、名を無駄になさらないでください」


 翡翠の頭をポンポンと撫でると、優しい笑みを浮かべた。


「紫宮 佑也。それが貴方の真の名です」


 少しの静かな時間……。


 翡翠の表情には笑みが浮かんでいた。


「ありがとう、フィリッツ」


 そう言うなり踵を返し走り出す翡翠の背を、フィリッツらは追いかけた。


「翡翠様!」


「俺は空汰のもとに行くんだ! 止めるな!」


「止めてなどいません。どちらに行かれるのですか? 空汰様の居場所をご存じなのですか!?」


 翡翠は澪を見た。澪はチリンチリンと鈴に似た音をたてる。


「……地下牢だ」


 翡翠の背を追う。


 チラッと後ろを見ると、妖長者付式と栖愁の姿。


 小さく深いため息を漏らし、意を結して両手を広げる。足止めをくらったのは自分より後ろにいた式らだけ。翡翠のみを地下牢へと向かわせた。


「フィリッツ様!?」


 珀巳の声に振り返った。


「皆さん、もう……終わりです」


 もう、終わりにしなければならない。


「え? それはどういうこ」


「珀巳。もう終わりなのです」

 

言葉を遮られた珀巳は、フィリッツのその言葉にただただ動揺を隠せなかった。いや、珀巳だけではない。その場にいた、黄木、柊、栖愁も隠せない。


 黙り込んでいると黄木が訪ねてきた。


「フィリッツ様。お話しください」


 哀しげな表情を浮かべていた。その様子に四人は重々しい空気を感じる。やがて、深いため息を吐くと隠し持っていた群青色のファイルを取り出した。妖長者の図書室で見つけ出し、解き明かしたあのファイルである。


「それは……」


 誰もが気付いた。


「皆さんも気づいているのでしょう?」


 その問いに、四人は黙り込んだ。


 その様子を見てファイルを開いた。そこに魔方陣は現れず、隠されていた文字が浮かび上がっていた。


「フィリッツ様?」


 翡翠裕也が黒幕であると一番初めから知っていたのは長老全員である。だが、計画が着々と進行し始め、空汰がこの世界に来た時から、珀巳は気づいていたに違いない。勘のいい、黄木も同じである。柊も薄々気づいていたのではないだろうか。栖愁は私が黒幕の存在を話していなくても、いるのだろうということくらいまでは分かっていたはずである。そんな彼らに、隠すことはもう何もない。寧ろ、これから、彼らの助けが必要になってくるかもしれない。


「この計画の始まりは、このファイルでした」


 私が簡潔に話している間、誰も口を挟むことなく真剣な眼差しでこちらを見据えていた。こんな哀しい事実など、聞きたくないはずにも関わらず。


「そして、この計画はもうすぐ終止符が打たれる……」


 私がこの計画を終わらせられればいいのだ。しかし、私ではなく、式ではなく……別の誰かが……。


 すべてを知ることになる、酒々井空汰の手によって……すべてを終わらせなければならない。


「私でも皆さんの手でもなく、彼の手によって……」


「黒幕の正体に確信があるのですよね?」


 珀巳の問いに頷く。


「ですが、それは皆さんも同じはずです」


「でも…………」


「柊」


「は、はい……」


「私も認めたくない事実なのです。ですが、皆さんは私以上に目を逸らしてはいけません」


「今までも目を逸らしてきたのは、フィリッツ様です」


 栖愁の指摘に胸に何かが刺さったように感じた。


「確かに……その通りです。ですが、もう……終わるのです」


「フィリッツ様!?」


「一週間後、翡翠裕也こと紫宮佑也様は……死にます」


          ❦


 窓から入る微かな風……。


 ゆっくり目を開けると見慣れた天井が広がっていた。


 重い身体を起こし、横を見ると、ずっとそばにいてくれたのか翡翠がベッドに伏せて寝ていた。


 ここはフィリッツの自室である別館内にある空汰自身の部屋である。


――――生きている……


 自分の手を眺めながらそんなことを思っていると、鋭い痛みが頭に響いた。


「痛っ」


 反射的に頭を抑える。


『オーガハッ……ガイ…………ゴホゴホッ……! ケンッ……ガハッ…………ジ……!』


『まだ話していられるとは驚異の生命力ですねぇ。何度自ら命を絶とうとしたことかお忘れで?』


『憐れだねぇ。信じたがゆえに、こうなってしまうのだから』


 涙を流しているとオーガイとケンジは顔を見合わせた。そして、自然と零れるため息。


 二人は再び短刀を振り上げ、空汰に向かって降り下ろした。


 カキーン


 空汰は薄ら目を開けた。二人の短刀は空汰の身体を再び刺すわけではなく、床に突き刺さっていた。


『オー……ガ……イ……ケン……ジ…………?』


 二人は短刀から手を離し、蔑んだように見下ろしてきた。


 そして、オーガイは笑みを浮かべることもなくいった。


『空汰様。あなたに頼みがある。それを呑んでくれたら、助けてやる』


『頼み……?』


『俺らは好きであなたたちを狙っているわけではない。もうすぐこの計画も終わる。最期のチャンスだ』


『最期の……』


『黒幕の正体を教えてやる。だから、俺らを助けてくれ』


『黒……ま……く…………』


『信じてくれ』


『誰……なんだ』


『真の名は知らない。でも、その名を……翡翠裕也という』


『……は? 有り得ないだろ。俺と翡翠は今まで一緒に黒幕を探し続けたんだ。お前らと戦いながら』


『演技だとしたら?』


『翡翠は俺の味方だ!』


『本当か?』


『本当だ。俺は翡翠のパートナーだ』


『とてもそんな風には思えないな』


『嘘を吐くな!』


『嘘ではない』


『お前らの頼みごとを聞かせるためのでまかせだ』


『違う。俺らの頼みは黒幕を殺して欲しいということだ』


『嘘だッ! 嘘を吐くなッ!』


『嘘ではないッ!』


『そうやって翡翠を殺そうとしているんだろッ!?』


『事実なのだ!』


『有り得ない。俺は翡翠を守るんだ』


『そうやって感情的になるから、敵にまわされたというのに。未だ気付かないのか!』


『うるさいうるさい! 黙れ!』


『お前が黙れ、クソガキが!』


『翡翠を侮辱するのは許さない!』


 怪我をしているにも関わらず暴れだす空汰に、オーガイとケンジは抑え込み怪我の手当てを施した。


『嘘など吐いていない! すべて本当だ! 現実を見ろ!』


『嘘だッ!』


 暴れ認めようとしない空汰にケンジは顔を抑え睨む。


『……本当だ』


 ケンジとオーガイの様子に、空汰は本当なのだと感じた。その途端、先程までとは違う、涙が溢れだした。顔は涙でぐしょぐしょに濡れ、泣き叫んでいた。その涙を止めようともせず、オーガイとケンジはただただ空汰が落ち着くのを待っていた。


 空汰が落ち着き始めた頃、オーガイとケンジは壁際に座り込んでいた。


『お、オーガイ? ケンジ?』


 二人の目に、生気はない。


『お前の身体を少しは治したが、完全に治していない。死ぬか生きるかはお前の意思の強さ次第だ』


『翡翠のこと……』


『俺らはずっと翡翠様に脅されてきた。そして、お前を殺そうという計画が始まったんだ』


 オーガイとケンジは自分の知る限りのすべてのことを話した。今まで翡翠が空汰を騙してきたこと、ルイと名乗っていること……。それらすべてのことを知った。


『翡翠裕也は俺の一番の友達だと思っていたのに……。俺はまた、裏切られるのか……』


 空汰の瞳からは、止まったはずの雫がひとつ、またひとつと零れ落ちた。


『嘘だと言ってくれ……よ……。なあ、翡翠……。お前は俺のたったひとりの大切な友達だろ? 翡翠…………』


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