真実Ⅰ
酒々井空汰が妖長者となって一日目。裏では長老会議が執り行われた。
それは、翡翠の記憶がないという知らせが長老内でとどろいたからである。本来、計画では酒々井空汰は妖長者としてではなく、ただの客人として連れてこられる予定だったのだ。だが、色々と手違いで、酒々井空汰は妖長者となった。正直これは俺のせいではあるが、これがある意味、良い方向に役目を果たしてくれたのはいうまでもない。妖長者となった酒々井空汰が本物の翡翠裕也であると思った長老たちは喜んだ。これで、翡翠裕也から解放されるのだと……。
それからは、その状態を逆手に利用しながら、逃げ隠れを繰り返しながら日々を過ごしていった。妖長者の部屋に誰かが来れば、瞬時に逃げ、公務をするときだけ戻ってきた。こんなにもスリル満点な楽しい日々ははじめてだった。とても楽しかった。
酒々井空汰が妖長者となって三日目の夜。俺はケンジの部屋を訪れていた。
無防備に開けられていた扉をノックすれば、ケンジは何事かと身体を震わせた。その様子がまた堪らなく楽しい。俺に怯え、俺に従う下僕。こんなやつが欲しかった。
「ひ、翡翠様」
「違う。ルイだと言っただろ!?」
「す、すみません! あ、あの、今日はどういったご用件で!?」
「俺が記憶を無くしているから、気を抜くな。少しは覚えているんだ」
もちろん嘘である。いちからじゅうまで全てを把握している。しかし、今はこれくらいで十分に脅せる。
「ど、どのくらい、記憶を失われているのでしょうか?」
「分からない。結構色々と分からない。でも、次期妖長者を殺すということだけは決まっている」
「そ、それは、覚えているのですね」
「嫌味か?」
鋭い視線に顔をひきつらせたケンジに、たまらず笑いが零れる。本当に可笑しなやつだ。
「い、いえ……」
「俺が本当の記憶を取り戻したとき、お前らはどうなるのだろうな」
「そ、それは……」
「妖長者を脅せ」
「はい?」
「俺を脅せ。家族で脅しているのだと話せ」
「し、しかし……」
「いいからやれ」
「か、かしこまりました!」
このとき、冷静に考えたなら意味の分からない命令である。しかし、当時のケンジに、俺を目の前にして冷静でいられるほどの余裕は無かった。そこをつけば、どんなに意味の分からないものも意味の分かるものとなる。
ケンジは命令通り、翌日、妖長者を嘲笑いに行った。もちろん、相手はその妖長者が酒々井空汰であることは知らないが、それは翡翠裕也の皮を被った酒々井空汰である。これは、想像以上に効果覿面だった。空汰の感情的になる部分を逆手にとれば、空汰は更に俺に入れ込んでくると考えていた。そして、さらに仲良くなるのだと思っていた。たまたま同じような境遇の俺と空汰では、分かりあえる部分も多く、感情移入もしやすいはずだった。
酒々井空汰が妖長者となって一週間。
空汰は気紛れに屋敷内を散歩していた。その様子を遠目から見ていた俺は、男の子に姿を変え空汰の前に姿を現した。容姿が全く違うから空汰は全く気付かないだろうとは思っていたが、まさか本当に気づいていないとは面白みが無かった。本当にバカだとつくづく思う。俺はこの頃から、フィリッツを敵視していた。裏切り仲間に間違いないが、フィリッツは気になることがいくつかあった。それが理由で、空汰をあまりフィリッツに近づけたくは無かった。
それから空汰の信頼を得ることは簡単だった。面白いくらいにスムーズに進み、空汰は俺を信じるようになった。
柊が十日間の休暇から帰ってきた。柊はコミュニケーションが苦手であるが、勘だけはフィリッツに並ぶほど良い持ち主である。柊が、妖長者が俺ではないと気付くのは正直時間の問題であった。一応、空汰に柊には気を付けろと銘打っておくが、それも信じられない。そして、このタイミングで最悪な展開があった。それは、ツェペシ家からの夜会の正体であった。これは、完全に予想外である。しかし、それでうろたえていてはこれから先もうまくはいかない。念のため、遠回しに行かせないように脅してみるものの、空汰は行く気満々のようだった。だったらこの展開を逆手に利用してやろうと考えた。
夜会が開かれる数日前、土砂降りのなか、俺は姿を変えツェペシ家へとやってきた。
「ダイ様はいらっしゃいますか?」
不審に思われながらもツェペシ家屋に入った。
名を澪と名乗り、珀巳を助けるように話をした。ギブ&テイクの契りを交わし、その場を去った。
明夜、俺はオーガイのもとに向かった。とある紙を手に、オーガイの部屋にノック無しで入るとオーガイは恐怖に顔を歪ませた。
「な、何です!?」
「この紙をダイ様に届けて」
机上に紙を置くと、オーガイはそれを手に取った。
「『ダイ伯爵に通達致します。夜会の夜、妖長者付式の珀巳を利用し翡翠裕也を捕らえよ』」
「どういうことですか?」
「さあね。夜会が行われる直前に圧力を掛けろ。今回の仕事はそれだけだ」
俺の言った通りオーガイは夜会が行われる直前の昼間にツェペシ家を訪れていた。その様子を直接見ていたわけではないが、空汰からの交換ノートがそう伝えていた。
そして夜会は行われ、珀巳は見事に引っ掛かってくれた。空汰がどれだけ感情的に動くかどうかは分からなかったが、案外思った通りに動いてくれるものだ。珀巳が俺への忠誠心を持っていたことは知っていたし、珀巳が裏切り者に入っていないことも知っていた。自分が黒幕なのだから当然といえば当然であるが……。
ツェペシ家の一件が終わり、俺は澪とともに街に出ていた。もちろん、姿を変えて。屋敷内ではどんなに大変な事態になっていても妖世界は何も知らず、淡々とした日々を送っていた。
俺は森の中に入り、適当な場所で立ち止まり指と指を擦り合わせ乾いた音を鳴らすと、眩しいくらいの光りがはじけ、目を開くと見慣れない景色が広がっていた。足を踏み入れれば、その入り口は閉ざされる。
そこは妖世界の中でも、ごく限られた者のみが出入りできる、所謂裏社会と呼ばれる、妖世界の裏世界。そして俺が日々暮らしている世界でもある。
表の道では闇市が毎日のように開かれ、妖世界では売買されないような品物も当然のように売買されていた。俺が空汰のもとに行くのは、決まって公務が溜まったころであり、それ以外はここで日々を過ごしていた。無論、表の世界で長老たちを脅しているようなこともあるが、基本はこちらの世界で過ごしている。残念なことに、こちらの世界に長老は入って来られない。唯一、入って来られるのはフィリッツだけであるが、フィリッツはこの世界に昔一度来ただけで、それ以上に顔を出すことは無かった。隠れ場所には絶好の場所である。表通りを外れ、脇道に入り、裏通りを進めばさらに暗闇に包まれる。闇市という名の違法な売買も行われている。もちろん、そのなかに、人間がいることは日常茶飯事である。
裏通りを少し進んだところに俺の居住地はある。一階は違法な薬を売買している店であり、二階には裏世界のお偉いさんが集まる場である。その三階が俺の部屋である。
紺ののれんをくぐるとそこには妖が一匹。
「お帰りなさい、旦那」
「あぁ、美空屡」
「旦那、少しお疲れ?」
「まあな」
「よかったら新商品なんていかがかい? 今なら割引しとくよ」
美空屡は遊女と呼ばれるだけあってかなりの美女ではあるが、汚らわしい存在としか見たことはない。よくもそんな破廉恥なことが出来ると不思議には思う。
それに、
「違法な薬に興味はない」
それだけ言い捨て、店奥の階段を上がっていく。二階まで昇ったところで、煙草をふかす男が現れた。
「おかえりなさい、翡翠様」
俺が妖長者になる前から知っている唯一の妖、流である。流は高級妖であり、表世界でも妖長者の屋敷に度々顔を出していた。生誕祭のときに、お世話になった妖だ。
流は俺が妖長者になる前から俺の前に姿を現していた。
空汰とかくれんぼをしたあの公園は、俺がよく行っていた公園だった。そこで、流と会っていたことは言わなくても分かるだろう。
流は俺が妖長者の印を持っていなくても唯一分かる妖である。
「何だよ」
「少し買い物にでも行こうかと思いましてね」
「……じゃあ、俺にも何か買ってきて」
「よろしいですよ。何をご所望ですか?」
「何でもいい。でも、不味いのは許さない」
「では、人間界の食べ物が良いですかね」
「何でもいい」
「では」
流はそういうと煙草片手に階段を降りていった。
見送り、再び階段を昇り三階に着くと殺風景な部屋が広がっていた。畳にテーブルがあるだけである。
襖を閉め、畳に寝転がった。
――――さて、これから空汰をどうしようか
ツェペシ家での俺の演技は、空汰に気付かれることなく、珀巳の嫌疑も晴れ……てはいない。空汰のみ何も知らないのだから。俺は知っていて知らないふりを続ける。
きっと、空汰のことだからあの男の子が俺だとは気付かない。
それにしてもひとつだけ気になることがある。ミーラン・ツェペシは人間が大好物すぎないか? 実際、妖長者だと明かす前に空汰を喰らおうとしていた。あれは、隠れて人間を食べている妖の反応だ。両親に内緒で、闇市で手に入れているのかもしれないな。あとで調べておこう。
今後、空汰と過ごしていくうえでたくさんの嘘を吐かなければならない。そこに矛盾が生じれば、それは決定的なミスとなる。空汰も俺を疑い始める要因となる。それだけは、避けなくてはならない。さてと、どんな作り話をしようか。人間を騙すということがこれほどまでに楽しいとは思ってもみなかった。もう少し、楽しみたい。
しばらくして身体を起こし、背を伸ばす。どうやら寝ていたらしい。
テーブルにふと顔を向けると流と一緒に話す若々しい和服姿の女が談笑していた。どうやら流が買ってきた飴を一緒に食べ、話しているらしかった。流と視線が合い、手招きされるがままにテーブルに向かう。女と流が向かい合って座る間に座った。
ありがたく飴をくわえる。
「眠っていましたので、勝手にあがらせていただきました」
「ありがとう」
「彼女も食べたがっていたので、分けましたよ」
「いいよ、最近あんまり食べさせていなかったから。寧ろ食べてくれた方が、食費がうく」
「そんなこと言っていると、逃げられますよ?」
「大体、お前は食べなくても大丈夫だろ」
「食べたいですよ」
女の言葉に俺はため息が漏れた。
「ったく、蝶のくせに」
「実態はありますから」
「食べたら俺の影の中に戻ってろよ、澪」
「はーい」
澪は急ぎ残りの飴を食べ終わると青い蝶となり、影の中へと戻っていった。流も煙草をふかしながら、部屋を去って行った。
「どいつもこいつも……」
❦
酒々井空汰が妖長者となって二ヶ月が過ぎた。
近づきの印にと空汰に羽ペンを購入した。そして、『妖長者 翡翠裕也 暗殺計画 極秘文書』の話をすると、空汰は親身になって聞いてくれた。この話は強ち嘘ではないが、少し変えて話してみた。
そんなある日、俺はミーラン・ツェペシのもとを訪ねた。
若草の蝶となり、窓から侵入するとミーランは何やら本を読んでいた。人型になりミーランを呼ぶと、まるで化け物にでも会ったかのように顔をひきつらせていた。
「これはこれは驚かせてしまい申し訳ありません、お嬢さま」
「だ、誰なの!?」
「名を澪と申します」
「れ、澪!? 知らないわ」
「ではそうですね……。前妖長者、翡翠琉生様をよく知る人物だといえばよろしいでしょうか?」
「え! 翡翠様のことを知っているの!?」
「えぇ。お嬢さまよりもはるか深く」
「教えて! 私ね、翡翠様のことが大好きなの!」
「良いですよ。その代り、あとで俺にもあることを教えてくださいね?」
「もちろんよ!」
それから一時間ほどの下らない雑談を交わした。正直あまりこういう子どもは好きではないが、これも仕方のないことだと思いながら、話が止まないミーランに付き合っていた。
「それで、お兄ちゃんは何が聞きたいの? 私に聞きたいことがあるのでしょ?」
「お嬢さまは、人間が大好きなのですか?」
「どうして?」
「琉生様は人間ですので」
「翡翠様は、人間だろうが妖だろうが関係なしに好きなの! 寡黙でイケメン、仕事も出来るのに、裏ではいろいろと手をまわしているのよ? 闇の支配者って感じで素敵じゃない?」
次期妖長者を殺す計画をたてるくらいの人間だと考えれば案外普通である。
「素敵かどうかはわかりかねますが、私も彼は好きですよ」
この計画の根を作ってくれた人なので。
「でしょ~! 私あの人がとっても好きなの! 翡翠様の許婚になりたかったわぁ」
「お嬢さまは、人間を食されたことがありますか?」
ミーランは図星をつかれたような顔をした。やはりまだまだ子供らしく動揺を隠せない様子だった。
「な、ないわよ。どうして、そ、そんなこと聞くの!?」
「いえ、少々気になることがございまして」
「な、なに?」
「……少女が秘密裏に人間を食べているという情報を耳にしましたので」
「そ、それが私ですって?」
「いいえ、そんなことは申しておりません」
「も、もし、私だったらどうするの?」
「人間を食すことは禁忌ではございませんが、それにかすることはご存知ですか?」
「仕方ないでしょ! 妖はみな、人間が大好きなのよ!?」
「お認めになられましたね」
ミーランはハッとして口を抑えたが、もう遅い。
「だ、だから何よ!」
「いいえ。俺はどうもしませんのでご安心ください」
ミーランの顔が一気に明るくなる。
「ほんと!?」
「えぇ、ですが、ひとつだけ条件がございます」
「条件?」
「妖長者の屋敷に赴いていただきたいのです」
「私が?」
「はい」
「どうして?」
手の中から力を使い可愛らしい人形をつくり出した。そして、それをミーランに手渡し、笑みを浮かべた。
「現妖長者の翡翠裕也様に、お話をしていただきたいのです」
「はなし?」
「はい」
「どんな?」
「夜会の行われる昼前ごろ、長老とご両親が話していたところを見た、とお伝えください」
「……どうして?」
「お願いいたします」
ミーランは少し首を傾げ優しげな笑みを浮かべる翡翠に、徐々に惹かれはじめていた。
「わ、分かったわ」
「内容を聞かれたら聞こえなかったとでも言ってください。それから、監視の目を隠すと言っていたとだけお伝えください」
「監視の目?」
「はい」
「分かったわ」
ミーランは貰った人形をぎゅっと抱きしめた。
監視の目をつけることを俺は指示していない。つまり、これはオーガイの単独行動であるが、俺ははじめから気づいていた。空汰に言われるまでもない。
そして、ミーランが約束通り空汰の前に現れたその夜、空汰からの交換ノートがあった。本棚奥のスライド式の扉を開ければそこには秘密の交換ノートがある。それを手に取り、捲ると空汰からのメッセージが書かれていた。ここまで交換ノートはお互いが正直に話せるようにと始めたものだが、そう言われて正直にすべて書くようなやつはいないだろう。珀巳のことは事実だとして、それ以外は虚実の混じった内容しか書いていない。つまり、意味のないただの交換ノートに過ぎない。
でも、俺が珀巳を本気で助けようとはしていたし、珀巳への思いもほとんどが本当である。俺は珀巳のことが大好きだし、珀巳がオーガイに脅されていると知ってからいつか助け出したいと考えていた。それが、ただタイミングよく重なっただけである。正直、空汰より珀巳の方が何十倍、何百倍も大切である。
俺が妖長者でなくなるとき、珀巳もここを去らせるつもりでいた。珀巳の望みなど俺は知らずに……。
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暁月記学園の公務が始まった。どんな悲惨なことになるのかと、ある意味楽しみにしていたが、案外スムーズにいっているようだった。ディリーの手によって、生徒会にも入れ、友達も出来ていた。しかしそれは遊びではない。
暁月記学園でのことが終わり、空汰は無事公務を終えた。空汰の勧告により、監視の目も取れ、一件落着である。アンジュには、すべてお見通しであったらしいが、アンジュも代替わりをし、記憶も無くなり、更に最高な終止符となった。
空汰に妖術を本格的に教えはじめ、空汰に髪色と同じの羽ペンをプレゼントした。最初で最後のプレゼントになるだろうと思いながら。
そんな日々の中、俺が毎年楽しみにしている妖町祭りが開催された。なかなか男の子の正体に気付かなかったバカな空汰に全てを明かし、澪として珀巳と接触していたことも打ち明けた。
それから数日後、俺は想定外の失敗を犯してしまった。フィリッツに昔貰った羽ペンをうっかり落としてしまったのだ。計画では、俺は妖長者となりその客人として空汰を連れてくるという算段だったが、実際は、俺は一部記憶を無くし、普通に翡翠として戻ってきたということになっている。つまり、俺が記憶を無くしたということになっている時点で、俺は特に長老に気付かれてはいけない存在となった。空汰が翡翠と思われている今が好都合だというのに、俺はフィリッツと出会い、挙句の果てに、羽ペンまで落としてしまった。
そして、空汰が監視の目を取れと勧告を出したおかげで、俺は記憶を戻したことになってしまった。俺は記憶喪失という名の自由を無くした。
「どうなのですかな?」
長老全員に囲まれる俺は、ため息交じりに呆れ顔を浮かべていた。
「今更気づいたの?」
「では、記憶を無くしてはおらず、ずっと演技をしていただけというのですか!?」
ナクの問いに当然のように頷いてみれば、ナクは不満そうに顔を歪めた。
「お前らがいつ気付くかと俺はひやひやしていた」
ケンジはフィリッツを横目に、吐き捨てるようにいった。
「どうせ、フィリッツは気づいていたのでしょうな」
フィリッツはケンジを一瞥すると、俺に視線を向けた。何を考えているのか分からない無表情さに腹が立つ。
フィリッツは何も答えなかった。
ケンジとオーガイは同時に深いため息を吐いた。オーガイは俺に視線を向けた。
「これからの計画をどうなさるのですか?」
「そうですね、まずはもう必要のない者は処分しようかと」
その言葉にフィリッツ以外の全員が、固まった。自分なのではないか、その言葉はどこまでをさしているのかと怯えながら。
「オーガイはもういらない」
「ちょっ、ちょっとお待ちください!」
「なに?」
「な、何故です!?」
「オーガイの裏切り者は確定している。もういらないだろ」
「で、ですが!」
「そういうところだよ」
「え……」
「俺に脅されているくせに、俺に口答えしてくるようなところ」
「そ、それはっ」
「もういいよ、お前と話したくない」
「ひす」
「ここまで生かしてあげていたのだから喜べよ」
「ふざけるなッ」
オーガイは机を乗り越え、襲い掛かってきた。しかし、それを止めたのはフィリッツであった。
「フィリッツ退け!」
「今、ここであなたが襲い掛かったとしても負けますよ」
「だが、こいつは許せん!」
「オーガイ」
フィリッツの視線にオーガイは渋々後退った。
不敵な笑みを浮かべる。
「それから、フィリッツもいらない」
その言葉にフィリッツ以外の全員が驚いていた。目を丸くし、開いた口が塞がらないようだった。
「なぁ? フィリッツ」
フィリッツはただただ黙り込んだまま、翡翠を見据えていた。
翡翠が去ったあとも長老はしばらく黙り込んでいた。その沈黙を壊したのは、紛れもなくフィリッツであった。
「皆さん、どうぞお気になさらず」
「フィリッツが死んだら俺らはどうしていくのだ!」
珍しく自分の心配をしてくれるケンジにフィリッツは笑みが零れた。
「私は死にませんので。……それに、皆さんも私がいないほうがやりやすいのではないですか?」
フィリッツはそれだけ言い残し部屋を去って行った。
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フィリッツは別館にある自室に戻っていた。栖愁が紅茶を入れ、出迎えてくれた。
「お疲れ様です。ルイ様にはお会いできましたか?」
「出来ましたが……。肝心なことはなにも聞けませんでした」
「そうでしたか……」
ほかの長老と違い、翡翠がこの屋敷に戻ってきてから一度も会うことのなかったフィリッツは、翡翠に聞きたいことがやまほどあった。そして、本人確認をしたかった。妖長者の印や妖石を持っていない翡翠は、ただの人間になる。翡翠の本当の姿を出会ったときに一度見ただけで、それ以外はころころと姿を変えていたから、容姿で翡翠裕也だと判断するのは困難だった。無論、翡翠裕也以外の誰かがこの計画に割り込んでくるはずもないが、念には念をというやつである。
翡翠が何故私の前だけに現れないのか、それは私自身が一番分かっていた。
「栖愁」
「はい?」
「お願いがあるのですが」
「何でしょう?」
それは、私がいずれ翡翠の敵になるかもしれないと思われているからである。私は計画立案当初から、この計画にのったふりをしているだけで、上辺だけの存在と化していた。それに気付かないほど鈍感な翡翠ではない。裏切り者でありながら、裏切り者の裏切り者として見られているのだろうと感じていた。
「翡翠様を捕らえてきていただけますか?」
「翡翠様?」
「ルイ様です」
「何故ですか? 裏切り者ですから、お会いできるのでは?」
「私は翡翠様に敵視されているようですので、なかなかお会いできません。それに、本人確認をしておきたいのです」
「ですが、私がお呼びしてくるような方ではありません」
「少々手荒にしていただいて構いません。相手は所詮人間です。殴りさえすれば、嫌でも黙ると思いますよ」
栖愁はその言葉に苦笑を浮かべていた。
「そのあとは、私に任せてください」
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暁月記学園の生徒会からディリー宛と空汰宛の手紙を預かり、手紙を渡した。
珀巳から正式に打ち明けられ、珀巳の名の意味を話した。これで、珀巳は自由を手に入れたのだと思うだけで、心底嬉しかった。
そして予想していた通り、空汰のもとに羽ペンを持ったフィリッツが現れた。
俺は逃げようと、木から飛び降りたその瞬間、背後から何者かによって殴られ、意識を失った。
「まさか、本当に殴って連れてくるとは思いませんでしたよ、栖愁」
「だめでしたか?」
「いいえ、十分です」
生誕祭三週間前、目を覚ました翡翠のもとに顔をだすと、翡翠は驚いたような顔をしていた。
「……何故……」
裏切り者のお前が俺を捕らえる必要がどこにある?
「人間は……本当に面白いと私は思います。そう思いませんか? 澪くん」
「フィリッツ……様……」
「私の名前をやはりご存知でしたか」
「どうして」
フィリッツは小さく微笑んだ。
「勘だけは良いのです。回廊で会った時の妖力を私は至る所で微かに感じていました」
「微かに……」
「主に妖長者様の自室周辺です」
「澪くん、貴方の本当の名は何でしょう? 名を使い呼んでみましたが、貴方は私の前に現れませんでした。つまり、名で縛られない……本当の名ではないということです」
「監禁したやつに本当の名前を言うバカがどこにいる」
「そうですね。……なら質問を変えましょう」
フィリッツはそういうとあの羽ペンを取り出し見せた。
「これをご存知ですね?」
確かに以前フィリッツから貰ったあの羽ペンである。
「知らない」
「しらを切りますか?」
「俺は知らない」
「この羽ペンの持ち主は妖長者である翡翠様のものです」
「だから何だ」
「あの回廊で拾いました」
「俺が来る前からあっただけだろ」
「いえ、それはありません。それなら、気づくはずです」
「誰だって見落としはある」
「あんなところに落ちていれば誰だって分かります」
「そうだったとしても、俺は知らない」
「まぁいいでしょう。……では、あんなところで何をしていたのですか?」
「いつから気づいて……」
「そうですね、私が妖長者の不在を知りながら部屋に入った時からです」
「俺をここまで運んだのは!?」
「……私の式の栖愁です」
「栖愁……」
「何故ここに俺を運んだ」
「少々気になることがありまして」
「気になること?」
「朗々を使ってもいいのですが、多分貴方には効かないでしょう」
口を堅く結んだ。フィリッツと俺の力は互角である。少しでも気を抜けば、口を割らされてしまう。
「数ヶ月前……。翡翠裕也という現妖長者が妖世界を抜け出し人間界へと隠れてしまいました。探すも数日間見つからず、妖世界が崩れ始めた頃、翡翠様は連れ戻されました。その時、何事も無くまた日常が過ぎて行くのだろうと私は思っていましたが、違いました。予想外にも翡翠様は記憶を無くされていました。自分の立場のことはもちろん、式や私達長老の存在など、十年前初めて翡翠様とお会いした時のように何も知らない様子でした。理由は分かりません。しかし、私はずっと気になることがありました」
フィリッツはそういうと書類の束を目の前に投げ置いた。空汰と俺が書いてきた数々の書類の束だった。
「字が違うのです」
そんな細かいところまで普通見るかよ。
「……え……」
「人間界へ行く前の翡翠様の字と戻ってきてからの翡翠様の字では、よく見なければ分かりませんが、ところどころ違います……」
「人間だって妖だって、気分や時間とかの影響で変わることはある」
「確かにその通りです。しかし、字の特徴はどんなに急いで書いてもゆっくり書いてもなかなか変わらないものです。意識してわざわざと変える必要もありません」
「それから、口調も……」
「口調?」
「記憶を無くされたとしても、口調は変わりませんよね」
「記憶を無くしていれば、フィリッツ様方と会うのは初めてなはずです」
「確かにそうです。それならばなぜ、以前の翡翠様に似せようとするのです? 翡翠様本人であるなら、慣れていくうちに戻るはずです」
「俺は知らない」
「似せようとすること自体が、不自然なのです」
「だから、俺は知らない」
フィリッツは鋭い視線で俺を見据えていた。
大体、お前はなんで俺を捕らえる? そんな羽ペンごときで俺を捕らえるのか? 下らない。本当にお前は落ちたものだ。
生誕祭一週間前。
「……出たいですか?」
「出してくれ」
「理由を教えていただけますか?」
理由など聞かなくても分かっているだろうに。
「では、話やすくしてあげましょう」
「……成長された本当の姿を初めて見ました」
驚いて体を無理矢理起こし、ベッドに背を預けた。ちょうどフィリッツと向き合うような形になった。
「初めて出会ったのは約十年前です。そして、その時から貴方の本当の姿は見たことがありませんでした。封じの腕輪を付けられ、妖力が及ばなくなり、変化の術も解けてしまいました。おかげで、成長された貴方を見るのは初めてです。少し嬉しいですね」
肩で呼吸をしながら、フィリッツを見据えていた。視線を逸らせなかった。
フィリッツがこれから言うであろう言葉が脳裏をよぎった。最悪な展開である。フィリッツから視線を逸らすと俯いた。フィリッツは柊よりも恐ろしく勘のいいやつではある。洞察力も観察力も妖力も……かなり強い。しかし、そんなに長老の長という存在に接点を持つことはなかったからと、少し油断していた。大誤算である。いや、想像を上回っていた。
「貴方は、澪……ではありません」
吸い寄せられるように顔を上げた。フィリッツと視線がぶつかる。
「貴方は、翡翠裕也様ですね?」
生誕祭当日。
「もし、俺が本物の翡翠裕也だったらどうする気だ?」
「そうですね。事情はさておき、まずは偽物である翡翠様を助けに行っていただきます」
「それからは?」
「そのあとは、事情聴取です」
「……」
「安心してください、私はオーガイほど鬼ではありませんので」
フィリッツはそういうと懐から鍵を取り出すと、俯く俺の前にかざした。
「封じの腕輪の鍵です」
スッと顔をあげた俺にフィリッツは笑みを向けた。
「ただし、条件があります」
「条件?」
「その腕輪を外してあげます。その代り、本当の事を教えてください。……貴方は翡翠裕也様、ご本人ですね?」
何も言わなかった。
「事実ではないのであれば、否定してください。翡翠様? どうです?」
フィリッツの表情からは笑みが消え、鋭い視線だけが残っていた。無言を貫く俺に、フィリッツは呆れたのかため息を吐いた。
「翡翠様、沈黙は了承と同じことだと聞きませんでしたか? それから、翡翠様、私は貴方が何も言わないのであれば、翡翠様かあの偽妖長者かどちらかを殺さなくてはなりません。妖長者は妖世界に一人で良いのです。でも、翡翠様が認めてくださるのであれば、貴方の意見を聞いて、考えましょう。それでも何も言いませんか?」
「俺を殺せばいいだろ?」
「不思議なことを言いますね」
「あいつを殺されるよりましだ」
「貴方は彼を利用しているだけではないのですか? 情がうつりましたか?」
下らない質問を……。
「俺を……殺せよ」
フィリッツは見直したという表情で俺を見ていたが、手に持っていた鍵を腕輪にさしまわした。カチャッという音が鳴り、腕輪が床に落ちる。
驚いてフィリッツを凝視した。
「私は貴方様の本当の名を知っています。今ここで名を縛ってもよいのです」
驚きのあまり開いた口が塞がらなかった。
「お前……」
しばらくの沈黙が流れたあと、俺は深いため息を漏らした。
「……俺が翡翠裕也だ」
「やっと認めましたね」
「でも、どうしてわかったんだ! 俺はお前らが妖長者の部屋に来る前に逃げていたし印だって持っていない。ここから逃げる時だって、あいつの容姿にそっくりだったはずだ。俺の本当の姿を知らないお前が、俺を見つけることは不可能なはずだ」
「気配と匂い、それから勘です」
「気配と匂い、勘……」
「私は勘だけはいいと思います。気配は翡翠様が持っている妖力の強さの気配です。自分で出すものではなく、妖力の強い者であれば自然と出るものです。妖なら大体の者が分かることです。それに気づいただけです」
「匂いは?」
「翡翠様とあの子の匂いは違います」
「なるほど……」
「腕輪は外しました。私を信じてくださいますね?」
「……それは分からない」
「ではこうしましょう。貴方がもう一度腕輪を付けるか貴方の身代わりであるあの子を必ず救い出すか、どちらか一方を選んでください。もしあの子が怪我を負っているようなことがあれば、貴方を法にのっとり処罰致します」
「は!?」
「当たり前でしょう? あの子に罪はありませんし私を信じる糧としていただきたいのですから」
「……分かった。助けよう」
俺はフィリッツの部屋を出て行こうとしたその瞬間、呼び止められた。
「翡翠様!」
「何だよ!」
「情がお移りになりましたか?」
「……だったらなんだっていうんだ」
「空汰様は生きていられますか?」
「そんなこと知るか。俺が殺すと決めたら空汰は死ぬんだ。それだけだ」
「ではなぜ、今助けに行かれるのです? このまま放っておけば死にますよ」
「愚問だな」
「はい?」
「俺がこの手で殺したいからに決まっているだろ?」
フィリッツは数度小さくうなずき、隠し持っていたのであろう剣を取り出し掲げた。
「では、助けに行ってください」
剣を受け取り、隠し持つと医務室へと向かった。
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医務室に入ると、空汰がベッドで眠っていた。スヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。そばにあったイスに座り、空汰を見下ろす。
『情がお移りになりましたか?』
柊の手によって空汰は妖世界に連れてこられ、妖長者として見られるようになった。オーガイはあからさまに裏切り者を演じ、ケンジはその右腕を演じた。ジンとナクは、出来るだけ目立たないように、最後までとっておいた。フィリッツは監視ともしものための手を回すようになっていた。それから俺は翡翠裕也として、空汰のそばにずっといた。自分が黒幕だとばれないように、空汰が俺を心から信じるように、空汰の良きパートナーとしていられるように。そして、最期真実を知ったときの空汰の顔を拝むために……。
俺は酒々井空汰が嫌いだった。出会って、もっと嫌いになった……はずだった。
何もできないくせに俺を助けるという。何もできないくせに俺を守るという。口では強気のくせに泣いてばかりいる空汰が大嫌いだった。絶対にこんなやつにだけは譲り渡さないそう決めたのに……。俺はこの手で、空汰を殺す……そう考えていたのに……。
脳裏に浮かぶのは空汰と過ごした楽しい日々ばかりだった。
こんなやつに妖長者の座を渡すくらいなら……。
両手を見つめ、ぎゅっと強く握った。
俺は……酒々井空汰をずっと嫌いでいなければならない。でも、俺は酒々井空汰、お前のことを守りたい……のかもしれない。
そのときだった。突然目を覚ました空汰が身体を起こした。
「ここは!?」
「医務室だ」
俺がそう答えれば、当然のように俺を二度見する空汰。
「医務室……。…………って! お前!」
「悪かったな、姿を消して。探し回っていたらしいな」
「当たり前だろ!? 今までどこで何をしていたんだ!」
「だから悪かったって」
「説明しろ!」
聞いたところ、空汰は廊下で倒れていたらしかった。こうなることが分かっていれば、澪をつけておくべきだった。
「今はそんな場合じゃない」
「そんな場合だろ!? どこにいたんだ」
「……正確にはずっとお前の近くにいた」
「近くに!?」
「この屋敷内にはずっと居たんだ」
「え!? だってお前の式はお前を追いかけたんだ!」
「確かに澪は俺の後を追っていた。でも、それで澪は撒かれたんだ」
「撒くために遠回りしたってことか?」
「そうだ」
「……そうだったのか……。それで、ひ……」
「呼ぶな!」
医務室に入ったときに感じたあの感じ。
俺の声に空汰はビクッと体を震わせ息をのんだ。
「俺の名を呼ぶな……。というより、澪の名も珀巳の名も、誰の名も呼ぶな!」
「ど、どういうことなんだ……」
「お前……呪いを掛けられたのを覚えていないのか?」
「呪い?」
「その呪いは、簡単に言えば、お前に名を呼ばれた者が死ぬものだ」
「名を……!?」
「だから呼ぶな」
「え、だって……え……あの……」
混乱し戸惑っている空汰にため息を吐いた。
「混乱するのは分かるが、落ち着け」
「お前こんなところにいて、バレないのか?」
「ん!?」
「お前……何かあったんだな?」
「あったよ。それはもう最悪な展開が」
「最悪な展開!?」
「バレた」
驚き黙り込む空汰に俺は呆れ笑みを浮かべた。
「誰に? と聞くと思ったのだがな」
「……バレたって…………嘘だろ?」
「嘘じゃねぇよ。嘘って言いたいけど」
「だ、誰に!?」
「今は聞くな」
「……分かった……。なぁ、俺どうしたらいい? 呪いについて教えてくれよ」
「その呪いはお前が一生誰の名を呼ばなければ意味のない呪いだ」
「そんなことできるかよ。ふとした瞬間に絶対呼ぶ」
「その呪いを解けるのは、掛けた本人だけだ。呪いは基本、掛けた本人しか解くことは出来ない」
「なら、掛けた相手に交渉すればいいんだな!?」
「そんな簡単にいくわけがないだろ?」
「確かにそうかもしれないけど……」
「お前に呪いをかけたやつの名前は?」
「俺が口にしたら死ぬんじゃ……」
「掛けた本人は除外だ」
「都合のいい呪いだな」
「そんなものだ」
「名はクロイ。黒猫だよ」
あぁ、とうとうきた。そういう意味の剣か……。
「黒猫族か……」
「知っているのか!?」
「知っているも何も、あそこは俺が一度壊滅させたところだ」
❦
空汰と別れ、フィリッツと生誕祭の様子を窺っていた。
「私の事を話されたのですか?」
「話してない」
「何故です?」
「……黒猫族のクロイという名の若い男だそうだ」
話を意図的に逸らした。
フィリッツは何も言わなかったが、多分、気にはなっているはずである。
「クロイ……。探しに行きましょう」
空汰から視線を逸らしフィリッツに視線を向けた。
「お前がか?」
「いいえ」
「まさか俺?」
「いえ?」
「は? じゃあ誰だよ」
フィリッツはあごで会場をしめした。再び会場に視線を戻す。しかしそこに空汰の姿はすでに無かった。
「まさか」
「彼ですよ」
フィリッツの言葉を背に走り出していた。
❦
空汰とともに森を抜け出し、黒猫族を壊滅させた理由を話した。折角の信頼がこれですべてダメになってしまっただろう。空汰は俺に恐怖を抱き、俺から距離を置くようになるだろう。信頼関係など程遠い関係となることは目に見えている。さて、これからどうしようか。計画を早めて空汰を殺そうか。すべて終わらせようか……。
それもいいかもしれない。でも、もう少し……もう少しだけ楽しみたい。ここに連れてこられて人間と関わることはなかった。空汰という歳下の男の子との日常を、少しの間だけでも楽しんだって悪くはないだろう。
森を抜けたところでフィリッツと対峙した。
「もう……いいだろう!?」
「はい。彼を助け出してくれました」
空汰は顔を覗かせると、フィリッツが居ることに驚いていた。
「ふぃ、フィリッツ……」
「陛下、お怪我はございませんか?」
「だ、大丈夫です」
「翡翠様は?」
「大丈夫です……」
「フィリッツ!」
そう声をあげたのは空汰だった。
「貴方が翡翠を?」
「……はい」
「何故!」
「とある話をしたかったのです」
「とある……話?」
「偽妖長者様」
空汰はクロイを地面に座らせ、フィリッツと向き合った。
「貴方様の本当の名は何というのです?」
「言わなくていい」
やはり、フィリッツは敵だ。
「翡翠様は少し黙っていてください」
「言うな! 前に言っただろ!」
「スカイ。暁月記学園にはスカイとして通していた」
空汰の様子にフィリッツは諦めの表情を浮かべ、俺を見た。
「貴方様を縛ることは出来るのですよ?」
手を握りしめ、震えていた。
あぁ、こいつはやっぱり殺そう……。
「だったら……。だったらなぜ! 一度も俺を縛ろうとしなかったんだ! 俺は自分の本名を忘れ、唯一お前だけが俺の名を知っていた。唯一、お前だけが俺の名を縛れた! 俺が逆らったとき、俺が逃げ出したとき、俺を捕まえて監禁したとき、何故俺の名を縛らなかったんだ!」
「良い名です」
やっぱりこいつだった。俺の本名を唯一知る人物は……。こいつが俺の名前を知っている限り俺はこいつに勝てない。
なるほど……面白い。
「は!?」
フィリッツは優しく穏やかな笑みを浮かべていた。
「長老は皆、貴方様の言う裏切り者です」
「……大体予想は付いていた。そして、お前が黒幕だ!」
「いいえ。確かに私は、長老の長として裏切り者としてあの四人と共に計画を実行しています」
「フィリッツは裏切り者だと、俺も思っていた」
フィリッツは空汰に笑みを向けた。
「スカイがそう思うのも当然ですね。私もそう演じてきましたから」
「何が言いたい」
空汰より一歩前に出るとフィリッツを睨んだ。
風が吹き、森の木々がざわめく音が聞こえてくる。
「翡翠様、私は貴方様を守るために裏切り者となったのです」
フィリッツのこの言葉。これは、妖長者である俺、翡翠裕也に向けられたものではなかった。仮の妖長者として、翡翠と呼ばれてきた空汰への言葉だった。
フィリッツははじめからか途中からかは知らないが、俺の計画にのったふりをして、裏切り者となった。その立場に気付いたのはきっとこの俺だけで、他のバカな長老は気づいていないだろう。
晴れて裏切り者となったフィリッツは、それを逆手にとって、俺に殺されないように空汰を助けようとしていた。もちろん、それに気付かない俺ではない。だから、フィリッツを処分すると言ったのだから。ただ、フィリッツが俺の真の名を持っていると確信した時点で、フィリッツにどんなに戦いを挑んでも無意味なものとなる。俺の名さえ縛ってしまえば、俺の敗北は呆気なく決まってしまうのだから。これではフィリッツを殺すに殺せない。つまり、フィリッツはこの状況を見越して俺に打ち明けたのだ。俺が空汰にもフィリッツにも手出しできない……このタイミングで……。
誰にも気付かれないほどの小さな嘲笑を浮かべた。
――――フッ……。本当に面白くなりそうだ。せいぜい、俺を楽しませてみろよ
❦
生誕祭翌日。
酒々井空汰が妖長者となって半年。
俺は早朝、ジンのもとを訪れていた。
「な~に~?」
俺にどんなに脅されてもあまり恐怖を感じないようで、唯一俺に二つ返事で計画を実行しない。少々面倒なやつではある。
「今後の予定を教えろ」
「今後の予定? 他の長老に聞けばいいのに」
「教えろ」
「えっと~、今日から明日まで長老会議が開かれるよ」
「長老会議?」
「内容なら僕は知らないよ」
「フィリッツに聞けと?」
「そうそう」
俺は仕方なくフィリッツの仕事部屋に向かった。
ノックもせず無遠慮に部屋に入れば、フィリッツはいつものごとく窓際で本を読んでいた。こちらに気付くと、本を閉じた。
「なんでしょう?」
「長老会議の内容は!? まさか、俺たちのことを話すのか!」
机をバンッと叩く。苛立ちを隠せない俺とは違い、至って冷静に本を机上にそっと置きいった。
「いいえ。スカイ様の次の公務のことについての話をするだけです」
「本当にそれだけか!?」
「少しくらいは計画のことについて触れるかもしれませんが、今日、明日のメインは公務の話です」
苛立ちを隠せないままフィリッツの部屋を後にした。
妖長者の部屋の前で深呼吸をして部屋に入ると空汰がぐったりと机に伏せ眠っていた。
❦
数日後、図書室にいた俺たちのもとにフィリッツがやってきた。フィリッツが手にしている紙の束は『妖長者 翡翠裕也 暗殺計画 極秘文書』と書かれていた。
フィリッツを睨むと、フィリッツは薄ら笑みを浮かべた。
――――こいつ……
「これが、計画の全てですか?」
「残念ながら違います。この文書は長老と他の裏切り者ならば全員が持っています。それ故、あまり詳しくは書かれていません」
「その詳しい文書は?」
気付けばフィリッツよりも先に答えていた。
「長老会議室奥書庫」
これは使える。そう思ったから。
話をしていくうちに空汰が驚きの言葉を口にした。
「裏切り者は長老だけではない!?」
フィリッツは空汰が気付かない一瞬だけ俺に視線を向けた。この時点で、言うまでもないがフィリッツは俺が黒幕であることを知っている。
「……私もすべてを把握しているわけではありません。ただ、ここまでのことを長老だけですべて行えてきたわけがありません。誰が裏切り者だと今までの中で確定しましたか?」
「オーガイ」
「一人だけですか?」
「皆が怪しく、疑心暗鬼になっていても仕方がない。珀巳の証言から、オーガイは裏切り者であると思っている」
「珀巳……。あぁ、そういえばそんな計画もしていましたね」
そんな計画とは何だ。珀巳を助けるための計画に、お前は参加をほとんどしていないじゃないか。
「他人事だな」
「申し訳ありません。あれは、ほぼオーガイの勝手な行動なのです」
どうやらフィリッツは嘘が上手らしかった。俺のことをそこまでして隠す必要があるのだろうか。自分で言うのもなんだが、ここで空汰に俺が実は黒幕だと打ち明けてしまえば早い話である。しかしそれをしない理由があるのだとしたら、……こいつは何を考えている!?
「ツェペシ家をまさか脅しているとは思ってもみなかった」
「ツェペシ家も裏切り者だと思いましたか?」
「まぁ、少し」
「彼らは、根はいい人ですよ」
適当に話をしたあと、俺から空汰へ妖石と妖長者の印が返された。
フィリッツが何を企んでいるのかは分からない。ただ、これだけは言えた。
フィリッツは俺の最大の敵となる。
❦
フィリッツは空汰と翡翠と別れたあと、地下牢に来ていた。柵越しに顔を覗かせれば、クロイが近寄ってきた。
「ふぃ、フィリッツ様?」
「大丈夫ですか?」
「閉じ込めたのは貴方様です!」
「確かにそうです。このままでは反逆者として処罰されます」
「お、俺殺されるのか!?」
「現妖長者の翡翠様なら、そんなことはしないでしょう」
もちろん、空汰のことである。
「よ、よかった……」
「妖長者様が何を提示してくるのかはわかりませんが、その提示条件を呑んでください。その後は、私の下に付いていただけますか?」
「え? 何故です?」
「諸事情がありまして」
「そ、そうですか……。別にいいですよ」
「約束を果たしてくださった暁には、私がクロイ様をお助けしましょう」
❦
俺は妖長者の屋敷の屋根上にいた。寝転がり暗い空を眺めていると一羽の蝶が飛んできた。
「澪」
名を呼ぶと、蝶は白い光に包まれ、人型となった。
「どうしたのですか?」
「計画が少しずれるかもしれない」
「フィリッツ様?」
「あぁ。あいつはやっぱり殺しておくべきだった」
「……殺しますか?」
「いや。……澪には別に殺してほしいやつがいるんだ」
「誰です?」
「……クロイを殺して欲しい」
❦
その夕暮れ時、翡翠と空汰はクロイと話をするために空き部屋に入った。
澪はクロイたちが入った空き部屋近くの木の上で待機していた。
『……クロイを殺して欲しい』
ゆっくりとまぶたを閉じる。手には弓矢が握られていた。
翡翠裕也、私はあなたには逆らえない。あなたは私、私はあなた。あなたから生まれた私は、あなたの望みを叶えるために生きている。ですが、私には今のこの状況に疑問しか浮かばない。クロイを殺して欲しい、そう言われたときの私の気持ちはどこにあるのか。私はあなたの気持ちのままに、動いていればいいだけ……なのだろうか。
「すべてはあなたのために……」
部屋の奥で、何を考えているのか分からない翡翠がこちらを見ていた。椅子に座り、窓際に佇む空汰とクロイの様子を時々窺っているようだった。
覚悟を決め、弓に矢をつがえる。
翡翠裕也……。あなたは、華の道を歩むのか? それとも、茨の道を歩むのか?
翡翠が席を立ち、矢を放った。
❦
「クロイ!」
空汰が事態に気付いたときにはもうすでに遅かった。致命傷だった。
空汰はクロイの矢にあまり触れぬようにそっと抱え上げクロイの名を呼んだ。
「クロイ! クロイ! 大丈夫か!?」
唖然と立ち尽くしているふりをしていた俺は、スッと窓の外に木の上に視線を向けた。そこに澪の姿はない。空汰の死角をぬって、澪は俺の影の中に戻っていった。
クロイがうめき声をあげた。
「ウッ……」
「クロイ!」
「は、ははっ……。守護者になる前に……ゲホッ…陛下を守ってしまいました……」
「クロイ……何で……」
「気づいたから……」
「何に!?」
クロイはフッと笑みを浮かべた。
「俺……フィリ…ッツ……」
クロイが力尽きたのを見て、空汰はクロイの名を呼んだ。しかし、その呼び声に答える声は無かった。
クロイは何故フィリッツの名を口にしたのか、これは俺の憶測であるが、フィリッツはクロイと何かしらの話をしたのだろうと思う。フィリッツは、……このことを見越していたのかもしれない。
❦
妖世界の裏世界、裏通りを進んだところにある俺の居住地。
店に入ると、美空屡が手招きをしていた。
「何だ」
「いい品が入ったんだよ。いかがかい?」
「だから、俺は薬はいらんと言っているだろ」
「致死性の薬さ」
「いらない」
美空屡を無視して階段を昇りかけたところで、美空屡は小さく微笑んだ。
「計画に必要ではないのかい?」
足をとめ、静かな時間が数秒間過ぎていく。美空屡にも聞こえないほど小さなため息を吐いた。
「……いくらだ」
美空屡との取引のあと、階段を昇り二階に着いた。
「陛下、お帰りなさいませ」
「……誰?」
「……聖と申します。お初にお目に掛かります」
「聖? 表世界では?」
「上級妖として、時々お屋敷でお世話になっております」
「ふ~ん」
そこに流がやってきた。
「聖殿、お久しぶりですな」
「流殿! お久しぶりでございます」
話に花を咲かせ始めた二人をじっと見据えていた。
「お二方」
二人は同時に俺を見た。
「悪いが、少々退いていただけないか」
鋭い視線で睨むと、二人は肩をビクッとさせ後退った。その間を通り、三階へ向かうと澪が影から姿を現した。
「どうしたのです?」
「イライラする」
「どうされたのです? なにかあったのですか?」
『翡翠様がスカイ様と何を企んでいるのかは知りませんが、その企みに終止符が打たれたとき、貴方様はその後どうなさるおつもりですか?』
俺にとってお前が一番何を考えているのか分からない。フィリッツ……お前こそ、何を企んでいる!? 俺を殺したいのか? 空汰を殺したいのか? お前は、誰が本当の妖長者だと思うのだろうな……。
深いため息を吐けば、澪は心配そうに俺を見た。俺の分身とはいえ、俺の感情や考えていることまでは分からない。それくらい意思疎通が出来れば、お互いに少しは気持ちが楽になるのかもしれない。
畳に寝転がり、少し古びた天井を見つめる。
俺はこれから二週間、空汰の前から姿を消す。最期のときに向けての準備をしたい、そう考えたからである。いろいろとしなくてはならないことがやまほどある。
目を閉じ、数回呼吸を繰り返したときには、俺は夢の中に入っていた。
❦
目を覚ますと辺りは相変わらずの暗さがあった。だが、空を見上げれば夜であることが窺えた。
ふと隣を見ると、テーブルにうつ伏せ眠っている澪がいた。
自分の着ていた羽織を掛け、一階へと降りた。店内はある意味賑わっていた。俺はその間をぬうようにして、店を後にした。
わずかな結界の隙間から妖長者の屋敷の敷地内に入り込み、窓から屋敷内に入る。廊下に明かりはなく、窓から差し込むわずかな明るさだけが頼りであった。ただの人間ではこれを真っ暗ととらえるほどの暗闇だが、この妖世界では十分な明かりである。
廊下を進み、階段を昇って行った。ある部屋にスッと入る。そこには面倒くさそうに資料に目を通していたジンがいた。
ジンは俺に気付くと、一瞬こちらを見ただけですぐに資料に視線を戻してしまった。
「ジン」
「こんな夜中になんです?」
「俺に脅されている身の上のくせに、その余裕の態度は何だ?」
「脅されている? 僕がですか? 有り得ませんねぇ」
「脅されていないというのか?」
「僕は翡翠様が嫌いだと言っているだろう? 翡翠様翡翠様ってさ」
「そんな俺に脅されてここまで計画にのってきたのはどこのどいつだ?」
「ほかの愚かな長老どもだけだよ。僕は自分の目的のためにここまでのってきたまで」
無言でカーテンを閉める。部屋にあるろうそくの炎だけがジンと俺をみせていた。
「大体、なんで、翡翠様自らこんな部屋にッ」
ジンは資料を持っていた手を見つめた。赤い線がじんわりと浮かび上がってきた。視線をあげれば、手には短剣が握られていた。それで切りつけられたのだと分かるのに時間はかからなかった。
「痛いなぁ」
「黙れよ」
「急に切りつけるなんて」
「かすっただけだ。あまり俺を怒らせない方が身のためだぞ」
ジンは資料を置いて、立ち上がり、傷口を舐める。
「あなた様を怒らせたところで何ら変わらないさ。どうしてみんながあんなに怯えているのか、僕にはとても不思議だよ」
呆れて手を広げ、首を傾げるジンに、俺は薄ら笑みを浮かべていた。
胸倉を掴み上げると、ジンは蔑むように俺を見下ろした。
「なに? 僕を殺すの?」
殺してもよかったのかもしれない。でも、今殺してしまえば今後こいつらの役目の部分が空いてしまう。それを見越しての発言か……。
ジンをそのまま壁に投げ飛ばした。鈍い音が響き、ジンがゆっくりと身体を起こす。乱れた髪をあげながら見上げれば鋭い視線で見下ろされていた。ジンは鼻であしらう。
「何だ」
「翡翠様ってさぁ、実は弱虫なんだね」
その言葉にジンの腹に強い蹴りが入った。
「ウッ」
それでもジンの顔には薄ら笑みが浮かんでいた。
「何をそんなに苛立ってるの?」
「お前らには分からないだろうな」
「あの子? スカイっていう」
「だから何だ」
「あの子を殺すことに躊躇し始めた頃かなぁと思ってね」
「生意気な口を叩くな」
「そうやって上から目線で言ってくるのが嫌なのに」
妖術でスッとジンを持ち上げ、人差し指を右に動かせばジンは右の壁に激突し、左に動かせば左に激突していった。ボールが跳ね回るように、ジンの身体は跳ねていた。最後に床に叩き付けられ、息を荒げながら仰向けになる。身体が痛み、ミシミシと音を立てているのが聞こえた。
そこにカツカツと足音を鳴らして近づいてくるのは、翡翠だった。
ジンは額に手を置き、微笑んだ。
――――あぁ、これが恐怖の足音か……
「ジン、どうして今こんな状態になっているんだ」
「こんな状態って……?」
翡翠はジンを踏みつけていた。そこには普段の翡翠の笑顔はなく、冷徹な目と無表情な翡翠がいるだけだった。
「フィリッツが何故こちら側に来ているんだ」
「知らない」
「ふざけるな」
そう言った瞬間ジンを蹴飛ばすと天井に身体は打ち付けられ、床にドサッと落ちた。
流石のジンも翡翠に恐怖を抱き始めていた。
身体を起こそうと試みるもうまく手が動かない。
「何だ? もう終わりか?」
「ひ、翡翠様……」
「殺しはしない。死ぬ方が楽なほど痛めつけることはするかもしれないがなぁ」
そういう翡翠の手には短剣が握られていた。翡翠は嘲笑を浮かべると、短剣を振りおろした。その剣先はジンの顔の真横の床に突き刺さっていた。
身体が自然と震え出し、額には冷や汗が滲む。本気で死を覚悟した瞬間でもあった。
短剣を鞘に戻した翡翠は、小刻みに震えるジンを掴み、投げ飛ばした。
本棚に身体を強く打ち付け数々の本が落ちてきた。
「も、申し訳ありませんッ!」
ジンは荒い息を吐きながら、背を本棚に押し付ける。これ以上逃げられないことは分かっているが、無意識に逃げようとしていた。
「ま、まさか、こういう形になってしまうとは思わず……」
「こういう形になってしまうとは思わなかった……。よくあるセリフだな。実に可笑しな話だ」
「そ、それは……」
「なあ、ジン。お前は俺を恐れないのじゃなかったのか?」
ジンには既に、翡翠の恐ろしさが分かっていた。今までなめてかかっていた自分に恐怖すら感じる。
「まあ、フィリッツの件はお前だけの話ではないが……。だがな、ジン。俺はお前に少々怒っているのだよ。何故か分かるか?」
ジンは精一杯に首を横に振った。暗闇の中、その行動が翡翠に見えていたかは分からない。でも、それが今のジンに出来る精一杯のことだった。
「生誕祭で、クロイが屋敷内に入っていることを知りながら放置したのはお前だろう?」
ジンは唇を堅く結んだ。
その様子に翡翠はフッと笑った。
「殺したくなってきた……。お前のおかげで俺の信頼は減った。信頼を得るのには多大な時間が必要だが、失うのは一瞬だ。よくやってくれたな、ジン……」
翡翠は不敵な笑みを浮かべたままジンに近づいていった。
そして、本が崩れ落ちた床の一歩前で立ち止まり、一冊本を拾い上げた。それを読むわけでも開くわけでもなく、静かに本棚に戻すと手を置いたまま、ジンを見下ろしていた。ジンは恐怖のあまり、見上げることも出来ず体を震わせながら、床に落ちている本を見据えていた。何も言わない翡翠に、恐怖の最高潮を迎えるその時、無造作に部屋の扉が開いた。二人は反射的に扉を見た。そこには、オーガイが立っていた。
「……ゆ、許してあげてください」
翡翠はジンから離れると首をぽきぽきと鳴らしオーガイを真っ直ぐ見据えた。オーガイはその鋭い視線に悪寒がはしる。
「ッ! あッ……」
翡翠の表情は暗く読み取れないが、フッと笑ったことだけは分かった。
「裏切り者と気づかれたお前に、もう用はない」
翡翠はジンを一瞥すると、オーガイの隣をスッと通り過ぎていった。
❦
翡翠は裏社会を散策していた。
店からは売り子の声が飛び交う。人身売買、遊興、男娼、遊女、殺し、呪々、薬……汚らわしいすべてのものがこの世界にある。通りをあるけば、当たり前のように男も女も声を掛けてきた。もちろん、誘惑するためだが、そんなものに全く興味はない。いや、全くないというわけではないが、あまりの汚らわしさに避けたいと思うのは必然だろう。
懐に両手を直し、居住地へと足を踏み入れる。のれんをくぐり、いつものように三階へ向かい、窓を開ける。窓際に座り、懐から手を出す。左手には懐に忍ばせていた美空屡から買った薬が入っていた。上級妖でもこれをひとつ飲んでしまえば二十四時間以内に死に至るという死の薬……。手にあるのは二粒だけ……。上手に利用しなければならない。決して安価なわけではないのだ。
ため息を吐き、袋に入った二粒の毒薬を懐に戻した。
深く息を吐き、目を閉じる。
この二週間、ずっと妖長者の屋敷内で計画を練っていた。オーガイ、ケンジ、ジン、ナクの四人と度々顔を合わせては、計画をより念入りに練った。これが、凶と出るか吉と出るかは分からない。ただただ……うまくいくようにと願った……。ただただ…………俺の気が変わらないようにと……祈った……。
そして、俺はひとつ決めた。
酒々井空汰の死に場所は、妖長者の屋敷しかないと。
❦
酒々井空汰が妖長者となって半年と数週間。
空汰に次の公務が舞い込み始めた。それは、泊りでの公務となる。そのときに、知らぬ輩が妖長者を殺そうと暗殺を企むに違いなかった。そうなる前にことを終わらせなければならない。俺も正直、どこまで生きられるか分からない。もしかしたらもう、数日のうちに死んでしまうのかもしれないし、案外長生きなんてこともあるかもしれない。
フィリッツによって『妖長者 翡翠裕也 暗殺計画 極秘文書』の内容があぶりだされ始めた。長老に成りたての頃の話を聞く限り、本当に妖長者を殺す気であったことも確かである。しかし、それを逆手にとったのが張本人の妖長者であった。
長老にとっては最悪だろう。でも、俺は少し楽しい。
フィリッツの話を聞き終えた俺は淡々といった。
「その話が本当なら、長老全員が裏切り者だということになる」
「その通りです、翡翠様」
「そして、お前も」
「……確かにそうなります。しかし、私の気持ちははじめから翡翠様に向いておりました」
心底嫌味を込めて言ったつもりだったが、フィリッツはそれを気にもしていないようだった。無論、言うまでもないが、フィリッツの言う翡翠は空汰のことである。
「では、重要なことを教えましょう」
「重要なこと?」
「それは、私が単独で調べたことです。信憑性があるかないかは分かりません。しかし、それに賭けてみる価値はあります」
しびれを切らしかけ、ため息交じりにフィリッツを見据えた。
「それで? その価値あるものとは?」
「以前話しました。長老会議室奥書庫の話です」
「あぁ、話したな。でも、お前はその番号をすべて知らないのだろ?」
「はい。私は知りません」
「……まさかとは思うが、他の四人なら知っているから聞いてくれとでも言うんじゃないだろうな?」
「確かに聞いてくれた方が速い話ですが、無理でしょう」
「だろうな」
「ではどうする?」
フィリッツは空汰に視線を向けると、隠し持っていた小さな日記帳のようなものを取り出した。
「彼らの自室に、これと色違いの本があります。これは必ず部屋のどこかにあるはずです。この本は代々長老が受け継ぐもので、様々なことが記されており、その最後のページのところに番号が書かれています」
フィリッツは二人に最後のページを開いて見せた。そこには、妖文字で『4』と書かれていた。どうやらフィリッツの知っている番号は『4』のようだった。
「この本を全員分探せば、全員分が分かる?」
「はい、分かります」
「でも……部屋に行くって言ったって、どうやって? 監視の目があるかもしれない。式がいるかもしれない。かなりのリスクを伴う」
「それはお任せ下さい。今度別件で再度長老会議を開きます。その時間、二日間、合せて四時間です」
「四時間!? 四時間で四人の部屋を探す!?」
「それくらいしか、時間が持てなかったのです。各一時間と考えて、探してください。その間は私の力を使い、結界も監視の目も無効にしておきます」
俺はあらかじめ、長老四人に日記帳の隠し場所を聞いておいた。あんなに速く見つかるはずがない。馬鹿な空汰なら気付かないとは思っていたが、本当に気付かないとは……笑わせる。
「フィリッツ」
空汰の呼び声にフィリッツは立ち止まり振り返った。
「何故、翡翠を守ろうとしたのです? フィリッツだって、妖だ。人間を庇う必要はない。オーガイやケンジ側についても可笑しくない」
フィリッツは空汰の言葉を聞き終わるなり笑い出した。大笑いというほどではなかったが、それでも、フィリッツにしては珍しくかなり笑っていた。
やがて笑いが収まると、空汰と翡翠を交互に見た。
「すみません、スカイ様があまりに面白いのでつい……。そうですね、確かに私は彼ら側でも可笑しくありません。しかし、スカイ様。私は貴方様を守りたいのです。守りたいということに理由は必要ですか?」
「……いえ」
このとき、もしも俺がフィリッツを睨んでいることに空汰が少しでも気づいていたら、終わりは少しでも違ったのかもしれなかった。
❦
日記帳を探し出した俺たちは順番について考えていた。長老内でも順位というものがあり、一番にフィリッツ、続くのがオーガイ、ケンジ、ジン、ナクという順番であった。長老会議室奥書庫の番号は『42025』であった。
この数字の意味を知っているのは、俺とフィリッツだけであった。フィリッツはこの数字を自分の持っている数字から割り出していたが、あえて、俺らには教えなかった。長老が5人でも7人でもこの数字は変わらない。この数字は、妖世界を人間が統べ始めた最初の王が、妖長者となった日と歳である。四月二十日、二十五歳の年に、妖長者となったという。
❦
それから数日後、俺はオーガイの部屋を訪れていた。長老の中で、俺に一番恐怖を抱いているのがオーガイだった。
「ひ、翡翠様!?」
結局、俺はルイではなく翡翠の方が定着していた。
俺が無言で何も思わず見据えているだけで、オーガイは勝手に怯んでくれる。そう、それでいい。俺を怖がり、俺に服従しろ……。
「明日、俺とフィリッツで長老会議室奥書庫に行く。お前らは明日たまたま重なって出掛けるのだろ?」
「え、えぇ」
「お前だけ帰ってこい」
「……はい? 何故です?」
「出かけたとみせかけて、帰ってきて、俺とフィリッツ、それからスカイを捕まえる。その後、俺だけ解放しろ。理由は任せる」
「で、ですが」
「そのあと、襲撃を行う」
「襲撃ですか?」
「それはまた追って話す。それまでは、少し自由にしてみろ」
オーガイの明らかに晴れた顔を見て、横目に見る。
「解放するわけではない。お前たちなりに、俺らを追いつめてみろと言っているのだ。俺は少し思案の時間が欲しいからな」
翌日、予定通り俺とフィリッツは長老会議室へと向かった。その後、オーガイが約束通り帰ってきた。俺とフィリッツ、スカイを捕らえ俺だけ解放し二人を牢に閉じ込めた。
妖長者の部屋に戻ってきた俺は懐に入れられた小石のようなものを手に取る。
机に静かに置いて、見据える。
――――俺は……どうしたいのだろうな…………