黒幕
ことの始まりは約二年半前である。
俺のもとに次期妖長者の名があがった。それは即ち、自らの死を意味した。自分はまだ二十歳にもなっていないのに、死ぬのかと考えた。五年以内。それが俺に与えられた残りの時間である。ただ、五年以内というだけあって、明日死ぬかもしれないし、四年先に死ぬのかもしれないという大雑把なものであるが故に、好きに動くことは出来そうになかった。
俺は柊に、酒々井空汰のことを探るように命じた。次期妖長者がどんな人物なのか知っておきたかった。最初は、本当にただの純粋な興味だけだったのかもしれない。妖長者に相応しい人間かどうか自ら、見極めてみたいと思っただけなのかもしれない。
あの日記を読むまでは、そんな気持ちがあったのかもしれない。
俺は、柊が持ってきた橙色の日記を最初から最後まで読んだ。幼く若いころから、今に至るまでを読んだ。
読み終わって、俺は思った。
――――あぁ、こいつは妖長者に向いていない……
感情的になるところ、優しすぎるところ、俺よりもはるかにバカなところ、俺は、酒々井空汰が嫌いになった。
こんな馬鹿げたやつに、妖長者の座を渡したくなかった。俺は確かに、妖世界に無理矢理連れてこられ、無理矢理妖長者となった。だが、妖長者として仕事をしていくなかで、俺は、一人ではないのだと感じ始めた。両親を亡くし、施設ともあまり馴染めていなかった俺に友達はいなかった。もちろん、話し相手や相談相手さえもいなかった。
でも、ここは違った。
俺が風邪をひけば、本気で心配してくれた。
俺が悩んでいれば、親身になって相談にのってくれた。
俺がわがままを言えば、怒りながらもたまに許してくれた。
俺の話をきちんと聞いてくれた。
俺の味方になってくれた。
例え、俺が妖長者という価値しかなかったとしても、それを理由に俺の周りにはひとが溢れた。俺を慕い、俺を敬った。俺に媚びへつらい、頭を下げた。今まで足蹴にされてきた人間界の人生が嘘のようだった。
この世界にいれば、俺は自由に生きられる。この世界にいれば、俺は頂点に立てる。人間界に戻りたくはない。そして、死にたくもない。
俺は考えた。次期妖長者が先に死んでしまったらどうなるだろうかと。
次期妖長者が生まれる条件は、明確にされている。だけど、もしその次期妖長者が死んでしまったらどうなるのだろうか。新たな妖長者となる者が生まれるのだろうか。じゃあ、その新たな妖長者を殺したらどうなるのだろうか。なかなか育たない次期妖長者の成長を待つために、俺の命は延びるのではないだろうか。俺はもっと長生きできるのではないだろうかと……。
この世界で一番偉いのは俺だ。折角手に入れた居場所を、酒々井空汰ごときにとられるくらいなら、俺はお前を殺してやる。お前を殺してそれでも俺が死ぬというのなら、それが宿命なのだろう。
俺は酒々井空汰について、深く調べていった。柊が言っていた通り、空汰の両親は生きていた。空汰の友達に成りすまし、空汰の両親のもとへ行った。
「突然押しかけてしまい、申し訳ありません」
「空汰の友達なのね。はじめまして、何くんかな?」
「裕也と言います」
「裕也くん。今日はどうしたのかしら?」
二人を目の前にすると、案外普通の夫婦である。
古びた和室がいい感じの雰囲気だ。変に落ち着く。
空汰の母の名を、明美、父の名を、剛史といった。
二人は空汰の友達だと偽る俺を、快く受け入れてくれた。もう少し毛嫌いされるのかと思っていたが、どうやら本当に嫌いなのは空汰だけであり、その周りはどうでもいいらしかった。逆に言えば、当人以外に害を成さないということである。
「佳奈ちゃんに聞いて確認しに来ました」
「佳奈に? あの子ったら、話しちゃダメよって言っているのに」
「怒らないであげてください。俺が無理矢理聞いただけなので」
「佳奈はどうしてる? 元気かしら?」
「えぇ、元気ですよ」
「そうですか!? それはよかったですわ」
「それで、お聞きしたいのですが」
「あ、裕也くんと言ったかしら。空汰には私たちが生きていることは秘密にしておいてもらえるかしら」
「どうしてですか? 親なら一緒に居るべきでは?」
「私はあんな子の親ではないの。だからいい?」
「……分かりました」
「で、何かしら。聞きたいことって」
「空汰はどんな子でしょうか?」
「私達より、お友達のあなたならよく知っているんじゃなくて?」
「学校での空汰しか知りません。素の空汰を知りたいのです」
「裕也くんは空汰と同級生?」
「はい」
「それにしては大人びているのね。あ、いえ、褒め言葉よ?」
それもそのはずである。空汰と俺では三歳離れているのだから。
「ありがとうございます」
「そうねぇ。あの子は昔から気味の悪い子で、大嘘吐きだったわね」
「今もでしょうか」
「今はしらないわ。会ってないから。でも、何もいないのにそこになにかいるよとか誰もいないのに誰かと話しているふうだったり、遊びに行けば必ずと言ってもいいほど服を汚してきたりする子で、とても気持ちが悪かったわ。なんであんな子を産んじゃったのかしら」
「そうですか……」
「学校での空汰はどうなの?」
「普通の学生だと思いますよ(会ったことないので)。普通に友達もいて、笑い合って、今度高校に進学します(聞いた話では)。でも、時々奇妙なことも言っています(何故か知っているけれど)」
「やっぱり? もう、ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫ですよ」
「あんな子と今後関わらなくていいですから」
両親と別れ、妖世界に戻ってきた俺のもとにフィリッツがやってきた。この頃、俺はフィリッツを毛嫌いするようになっていた。ここに連れてこられたときは、あんなに懐き好きだった俺はどこにもいない。
「どうした」
「大した用はないのですが」
大した用が無いのなら来るな。
「なんだ」
「いえ、ただ、何を企んでいるのかと思いまして」
企む? そんなもの決まっている。
立ち上がり、本棚から一冊の本を取り出しフィリッツの前に放り投げた。フィリッツはそれを手に取り、不思議そうに首を傾げる。
「四百十一ページ」
フィリッツは掌を本にあてた。すると、本はひとりでに四百十一ページを開いた。
「『翡翠琉生、計画……』これは何ですか?」
「俺の命はもってあと五年もない。次期妖長者の名があがり、俺は死ぬ運命にある。妖石は持ち主がいなければ前の主に執着する。つまり、俺が死ぬとき、妖石は次期妖長者の手にあるということだ。ということは、どういうことになるのか俺は考えた。
次期妖長者の手に妖石がいきわたらなかったら、現妖長者の俺はどうなるのだろうか。
次期妖長者は何らかの理由で必ず、妖長者の俺の前に現れる。俺が期限よりもはやく死ななければ……俺の前にあいつは必ず現れる。
そのとき、妖石を俺が何らかの理由で譲渡する。だが、俺が死ぬとき、俺の手に妖石が握られたままだったらどうだ? 次期妖長者は妖石も妖長者の印も持たず、この世界に留まることになれば、また何らかの理由で、妖石が譲渡されるのを待つはずだ。つまり、現妖長者から次期妖長者に妖石が動かない限りは、俺が死ぬことはないということだ」
このとき、フィリッツの瞳が揺らいだことは今でも覚えている。
こんな傲慢なやつでも、動揺することはあるのだと初めて思ったくらいだ。
「簡単に言えば、次期妖長者がいなくなれば、俺はその分生きられる。最高だと思わないか?」
しばらく沈黙が流れた。気づけば夕暮れは過ぎ、夜になっていた。いつの間にか姿を現していた澪はひらひらと窓際で休んでいる。
その静けさを破ったのはフィリッツであった。フィリッツは至って冷静に装っているつもりだったのだろうが、残念ながら見え透いたものである。
「……つまり、酒々井空汰様を殺すおつもりですか?」
「そうだと言ったらお前はどうするんだ? 俺に歯向かうか? この世界に無理矢理連れてこられ、今までこき使ってきたこの俺のわがままを今度は全く聞かずに! 俺に楯突くのか!? 長老如きが、俺に」
「翡翠様」
「黙れ」
「次期妖長者を殺めるなどあってはなりません」
嘲笑し、背の高いフィリッツを睨み付けるが、フィリッツは表情一つ壊さない。
「だから何? この世界を統治しているのは俺だし、この世界のことを決めるのもこの俺」
「あなた様ひとりでは出来ません」
「お前らがいるだろ!?」
「私達は自らこの世界を壊すことは出来ません」
「でも、妖長者を殺したよな? だったら出来るだろ!?」
フィリッツの顔が一瞬曇るが、それでもすぐに無表情に戻った。
「あれは……」
「私はやっていない、彼らが勝手にしただけ……とか言い出すの!?」
どうやら図星だったらしい。
本当にふざけたやつだ。
「お前さぁ、いい加減自分のバカさに気付いたら? 無能さとさ」
「少なくても人間より無能ではありません。私は誰にでも勝てる自信だけはあります」
「自信だけな、憐れだな、長老となったが故に俺にこき使われることになるんだ」
「今までその立場だったあなた様の言う言葉ですか?」
「お前は素晴らしいな。その強気を褒めてやる」
「お褒めの言葉などいりません」
「いいこと教えてやるよ」
「……」
「この世界で、長老の命令を妖長者は必ず従う必要はないが、妖長者の命令を長老は必ず従う必要がある。分かるか? お前は長老。そして、この俺がこの世界の王。妖長者様だ」
この計画を一番初めに考えたのは誰か分からない。だが、それを一番考えていたのは前妖長者である翡翠琉生であった。フィリッツに渡した本の四百十一ページからそれは記されていた。次期妖長者が死ねば、たぶん、現妖長者は死なないのだと。だが、それを試すほどの勇気を翡翠琉生は持っていなかった。彼が優しい人間だったから。
俺と違って。
不幸だったこと。俺がこの世界の妖長者となったこと。
幸福だったこと。俺がこの世界の妖長者となったこと。
俺が妖長者にならなければ、きっとこの世界は朽ちていた。でも、俺が妖長者になったことでこの計画が本格始動した。まあ、遅かれ早かれこうなっていたのだろうと俺は思う。
数日後、俺は長老を呼び集めた。
「これより、次期妖長者殺しを始める。計画立案者は前妖長者の翡翠琉生。それに伴って、黒幕の名をルイと名乗ることにする。もちろん、口調もルイ同然で」
ここから俺たちの計画は始まった。
長老を手駒にとることは簡単だった。妖長者の命に逆らえない長老など、ただのマリオネット同然である。
そしてそれから約二年後。この計画は本格始動した。それが、妖長者、翡翠裕也と次期妖長者酒々井空汰との出会いであった。
俺は計画通り人間界に出て、わざと空汰が帰ってくるころに妖石を玄関先に落とした。他人が妖石に触れると激痛が伴うというものは本当だったらしく、空汰が触っている間、死ぬかと思うほど苦しんだ。でも、そんな弱音を吐いている場合ではない。
深夜、家に侵入し妖石に手を伸ばしかけたところで酒々井空汰が目を覚ました。
「だ、誰だ!?」
石を手に取り、振り返るとそこには眠そうにしている空汰がいた。
「それは、君の石?」
演技だけは意外と得意である。
「この石、どんな風に見える?」
「……不思議な感じに光っています」
「……そうか」
空汰は何故か立ち上がり、部屋の電気をつけた。そして、俺をじっくりと観察しているようだった。俺は、空汰を見て無邪気な笑みを浮かべ、片手をあげた。
「やあ、初めまして。俺、翡翠裕也って言います。これからどうぞよろしくお願いします」
出会いは整った。俺のことを説明し、あえて適当に妖石、妖長者の説明をすると、空汰は馬鹿らしく快く俺の申し出を引き受けた。ここで引き受けなかったら無理矢理でも連れていこうと思っていたが、その必要はなくなった。
しかし、長老との計画の行き違いか柊が迎えに来てしまった。まあ、それくらいは想定の範疇に入る。
無事に柊の手によって空汰は妖世界に連れてこられ、妖長者として見られるようになった。オーガイはあからさまに裏切り者を演じ、ケンジはその右腕を演じた。ジンとナクは、出来るだけ目立たないように、最後までとっておいた。フィリッツは監視ともしものための手を回すようになっていた。それから俺は翡翠裕也として、空汰のそばにずっといた。自分が黒幕だとばれないように、空汰が俺を心から信じるように、空汰の良きパートナーとしていられるように。そして、最期真実を知ったときの空汰の顔を拝むために……。
俺は酒々井空汰が嫌いだった。出会って、もっと嫌いになった。
何もできない。泣いてばかりいる空汰が大嫌いだった。こんなやつが、まだ何も知らないとはいえ、次期妖長者なのだと思うだけで反吐が出る。絶対にこんなやつにだけは譲り渡さないそう決めた。
俺は……酒々井空汰が、一番大嫌いだ。
❦
空汰が妖長者として過ごし始めて、初めての外出の公務は、暁月記学園となった。
暁月記学園での事は終わり、俺はアンジュといた。
「アンジュ様……」
「ユウ様、大丈夫です。……寧ろ私は、スカイ……空汰の事が気になります」
「名を……」
「知っていますよ。会った時から」
「そうでしたか……。土地神様の領域には安易に入れませんね」
「入ってらっしゃい。また、新たな私に会えるわよ」
「そうですね。隠れて会いに行きましょう」
「空汰の事はきちんと守ってあげなさい。黒い影が近づいている」
「黒い影……」
「貴方達が追い求めている何かかもしれないわね」
「そうだと……良いのですが……」
黒い影。アンジュが気付いていないわけがない。
「ユウ様、何をお考えですか?」
「アンジュ様は……どこまでお見通しなのでしょうか」
「黒い影の話かしら?」
「……はい」
アンジュは哀しげに微笑んだ。
「そうね」
アンジュは俺の頬に触れ、今にも泣きそうな笑みを浮かべた。冷たい……。よく人間は昔から手が冷たい人は心の温かい人だといった。神もそうなのだろうか。
「翡翠裕也……。私があなた様を止められるとしたら、あなた様は自ずと自分から立ち止まるはずですよ。大丈夫……私はあなたを信じています」
あぁ……また信じている……。空汰、お前も俺を信じると言ったな。フッ……、面白い。
「ディリーをよろしくね」
❦
空汰と出会って、八ヶ月……。そろそろ、終わりが見えてきた。
オーガイとケンジに襲われた空汰は五日後に目を覚ました。しかし、俺を空汰は無視していた。少し気付くのが早いが、まあこのくらいの誤差、お前にしたら上等だ。
「空汰、どうした?」
「……翡翠」
「何だ? 痛むか? 妖石のおかげで傷は治っているはずだけど……」
「翡翠」
「あ、それとも、やっぱりお腹空いたか? 何か食べ物でも持っ」
「翡翠ッ!」
空汰の声に少し驚き、空汰に向き直る。
良いよ、正々堂々と戦ってやろう。真実を知ったお前はなにを思う? 俺を嫌いになったか? 信じていた相手に裏切られた気持ちはどうだ? 哀しいくらい儚いものだろう? それが人間というものだよ、空汰。
「何だよ」
「お前は、俺を信じてると言ったよな?」
「言った」
上辺だけでな。
「お前は、俺に妖長者として裏切り者を探して欲しいと言ったよな?」
「言った」
計画でな。
「お前は…………俺の親友だよな!?」
空汰は大号泣していた。瞳から涙をあふれさせ、布団を濡らしていった。こういう感情的になるところが大嫌いだというのに、こいつは半年以上俺と過ごしていて、結局俺のことを何もわかっていない。
「お前はっ……、俺の……親友だろ!? なあ、翡翠っ……」
「……違う」
さらに泣き出す空汰に少し嫌気がさしはじめた。しかし、ここの隅で少し楽しんでいる自分がいるのもまた事実である。
「翡翠は……俺の…………ことを……」
俺は涙を拭う空汰を冷ややかな視線で見下していた。こんなやつ、やっぱりはじめから殺しておけばよかった。
「お前なんか大嫌いだと言っただろう? 空汰」
「ひ……すい……。お前……」
「悪いな、空汰」
「そんな…………。だって、翡翠は……」
「お前がずっと探し求めていた黒幕は、この俺だ」
「ふざけるなッ!」
空汰は勢いよく立ち上がり、俺の胸倉を掴んだ。
「ふざけるなッ! お前は俺に裏切り者を探せと言ったんだ! お前が黒幕なはずはないだろ!?」
「事実は事実だ」
「なんでッ……なんで……なん……で…………。俺を騙したんだ!」
「お前が次期妖長者だからだ」
「は!?」
俺は空汰を睨みつけ、空汰の肩を押した。その反動で空汰は床に倒れ、その振動でベッドわきに置いていた机上から水差しが落ち、バリンッと音をたてて割れた。
「いいか、空汰。俺ははじめから、お前を殺すつもりでこの妖世界に連れてきた」
「何で…………」
「邪魔なんだよ」
「……え……」
「俺にとってお前は、ただの邪魔な存在でしかないんだよ」
「意味が分からねぇよ。だったら、連れてこなければいいだけの話だろ!?」
「お前が生きていたら、俺は死ぬんだッ!」
人間は、死を目の前に初めて生きていることを実感する。死にたいというやるほど死にたくないやつ……。自分を傷つけるやつは、生きている実感をしたいやつ……。
俺は死にたくない…………。
空汰は俺の勝手な言い分に腹を立て、割れた水差しの破片を手に俺に襲い掛かった。
しかし、俺との力の差は著しかった。
俺が手をスッと動かせば、空汰は壁に身体を強く打ち付けた。空汰の身体が床に転がれば、触らずして立ち上がらせることもできる。
空汰の首をわしづかみにし、ベッドに抑えつけた。
「ガッ……ハゥ………………」
「空汰。お前は俺を信じていたのか? お前は俺を一度でも疑わなかったのか? 違うだろ? お前だって、黒幕は俺じゃないかと疑ったはずだ。所詮、お前も弱虫だってことだ」
「ひ…………すい……」
「俺は翡翠ではない。本当の名も取り戻した」
空汰は明らかに驚いた表情をしていた。
「ふざけっ……アッ…………」
「お前になにが分かる? お前に、俺の何が分かるんだッ!?」
そのまま空汰の身体を持ち上げ、床に叩き付けた。
「ガハッ!」
足で身体を仰向けにすると、空汰は未だに泣いていた。
「空汰……」
「翡翠ッ!」
「死ねよ……」
「死なれては困りますね」
二人は反射的に声の方に振り返った。そこにはしらけた顔をしたフィリッツが立っていた。フィリッツは翡翠と空汰の様子を見て、小さく笑みを浮かべた。
「場所をうつしませんか? 妖長者の書斎に」
❦
翡翠は書斎の椅子に、空汰は扉の前に立っていた。何故かその周りには妖長者の式、長老のフィリッツ、ジン、ナク、フィリッツの式、栖愁が立ち並んでいた。勢ぞろいである。しかし、ひとつだけ気になることがある。
翡翠はずっと奇妙な笑みを浮かべている。
「オーガイと……ケンジはどうした……」
「ん?」
「オーガイとケンジはどうしたんだ!」
「殺したよ」
驚きのあまり声が出なかった。黒猫族を殺した翡翠の顔が脳裏に浮かぶ。身震いし翡翠を睨み付けた。
「何だよ。当たり前だろ? お前は俺が直々に殺す予定だった。だけど、あいつらが勝手に手を下すからだ。俺は、あいつらに確かに『翡翠裕也を殺せ』とは言った。だが、その意味を取り間違えるとはな」
「お前はそんなことができる奴じゃないだろ!」
「どうだかなぁ?」
憫笑する翡翠に恐怖を感じた。
『そ、空汰!? 空汰! 起きろ、空汰! ここまできておいて、死ぬなんか許さないぞッ! 起きろよ……空汰……。頼むから、起きろ!』
ピチャ
ハッとして振り返ると、そこには短刀片手に佇むオーガイとケンジがいた。
『オーガイ……ケンジ……』
『翡翠様』
『何故殺したんだッ!』
『翡翠様……』
オーガイとケンジは翡翠の前に手にしていた短刀を静かに置いた。
翡翠は空汰を抱えたまま向き直った。すると、オーガイとケンジは跪いた。
『空汰様を殺せとの命でしたので』
『は!?』
オーガイの言葉に翡翠はキレていた。
『意味が分からないんだけど』
『で、ですが……』
翡翠はそっと空汰を床に置き、振り返りざまにオーガイを蹴飛ばした。オーガイの身体は檻にぶつかり鈍く高い音を立てた。
『も、申し訳……ござい』
『お前らの謝罪なんていらねぇよ』
ケンジは跪いたまま身体を震わせていた。それに気づいた翡翠は、ケンジの服をわしづかみにして立ち上がらせた。
『お前はどうした?』
『そ、そ、その……』
『まあいいや。お前らこのまま空汰が死んだらどうするんだ?』
オーガイはゆっくりと身体を起こしていた。それを見た翡翠は笑みを浮かべ床に抑えつけた。
『オーガイ。正直お前ははじめから用無しだったんだよ。ここまで生かしてあげていただけ良いと思え』
『ひ、翡翠様!』
『明らかに裏切り者っていう役を背負ってくれて、ありがとう。俺はお前が長老の中で二番目に嫌いだったから、これで会わなくなると思うと最高な気分さ』
『ひ、翡翠様! お、お、おま、お待ちを!』
『嫌だね』
翡翠はオーガイから離れ、オーガイとケンジが置いた短刀を手に取った。オーガイとケンジはそれを見て、逃げ出した。しかし、澪によって地下牢の鍵は閉ざされ袋の鼠状態である。
『お、お願いです……! な、何でも! 何でも! 何でもしますから!』
『じゃあ死ねよ』
翡翠は二人の足元に短刀を投げた。
オーガイとケンジはがくがくと震えながらも短刀を手に取った。そして、もちろんのこと自分に向けるわけもなく翡翠に襲い掛かった。
しかし、翡翠は変わらず笑みを浮かべたままオーガイとケンジの腕を掴むと笑みを深めた。
『馬鹿だな』
オーガイとケンジの身体は弾け飛んだ。
考えるだけでも悍ましい光景である。翡翠はこんなに酷いことが出来る人間だったのかと恐怖を感じるだけで、身体が震えていた。確かにオーガイとケンジはあのとき、身体を刺してきた。でも、オーガイとケンジは俺に助けを求めてきていた。
それは嘘ではない。オーガイとケンジは……翡翠に無理矢理動かされていただけのただの被害者に過ぎない。
『空汰様。あなたに頼みがある。それを呑んでくれたら、助けてやる』
『頼み……?』
『俺らは好きであなたたちを狙っているわけではない。もうすぐこの計画も終わる。最期のチャンスだ』
『最期の……』
『黒幕の正体を教えてやる。だから、俺らを助けてくれ』
『黒……ま……く…………』
『信じてくれ』
『誰……なんだ』
『真の名は知らない。でも、その名を……翡翠裕也という』
オーガイとケンジは俺を殺さなかった。致命傷を負わせることもなく、少し傷をあらかじめ癒し、翡翠と鉢合わせた。会話は耳に入っていないが、翡翠が俺を呼ぶ声は聞こえた。でもあれはきっと、……きっと……お前の演技なのだろう?
「お前は……俺の何なんだ」
「敵だな」
「翡翠……本当のことを教えてくれ……」
「教えてやるよ。お前が死ぬ前に、俺の知っているすべてをお前に話そう」
翡翠は語りはじめた。この計画の全貌を……。
その日は、最悪な夜だった。
フィリッツは机上においてある妖石に視線を向けていた。あのころよりもヒビは更に大きくなっている。
――――なるほど……死因はこれですか……
現在、妖石の所持者は酒々井空汰である。
そして、翡翠が死ぬまで残り二十四時間を切ったのだった……。