瞬く間に、もう。1
朝野浩一は、悩んでいる。
恋人を怒らせてしまった。きのうは特別な日になる予定だったのに。
わかってる、俺が悪い。
鍋の中にはゆうに10皿分を超えるほどのクリームシチュー。それをゆっくりとかき混ぜながら、昨晩のことを思い返してみた。
浩一の恋人は、神谷澄彦という、れっきとした男である。
知り合ったのは、3年ほど前。その手の人々が集まる店で、浩一は客として、澄彦は店員として出会った。
当時26歳だった浩一は、まだ学生だった澄彦に、よく恋愛相談を持ち掛けたものだった。
澄彦は都内の私大に通っていて、成人したばかりで初々しい感じがまだ残っていたけれど、恋愛の相談役としてなぜだかしっくりくるやつだった。
やくたいもないグチめいたものを、うんうん、と聞いていてくれるときと、それはこうだろう、と意見を投げ掛けてくれるときのタイミングが、恋愛相談を持ち掛けるときの浩一―つまりは大概フラれた直後だった―にはちょうどよかった。
ちなみに相談ごとの結論は、いつも決まっていた。
「朝野さんの、その口の悪さがいけないんだと思います」
激しく口が悪いわけではない。しかし相手に言わせれば、何気ない一言で地雷を踏む、のだそうだ。
そんなこんなで、澄彦がバイトをしている店にたまに行って、飲んでは話を聞いてもらう、という関係は、2年近くも続いた。
しかしとうとう、そんな安穏とした関係も終わりにしなければならなくなった。
澄彦の就職である。
出会った当時は20歳になったばかりだった彼も、次の春には新社会人となる歳にまでなっていた。
成績もよく積極的な澄彦は、早々と広告代理店に就職を決め、店でのバイトは年内でやめることになった。
おかしな話だ。
いや、もしかしたらよくある話なのかもしれないが、浩一はもう会えなくなるとわかって初めて、澄彦を相談相手という以外の目で見るようになった。
そうして見た彼は、実に魅力的だった。
ものすごく美形とまではいかないものの、十分整った容姿に、性格はこの2年で保障済みだ。
浩一は焦った。
自分の気持ちが、単なる相談役の友人がいなくなるという焦燥感からくるものなのか。
それとも今になって、別の感情を彼にもち始めたとでもいうのか。
相手は6歳も年下で、男同士ということは互いに問題ないとしていても、浩一はそれまで相当に遊び鳴らしていたほうだったし、しかもそれを逐一澄彦に相談していたのだから最悪だ。
澄彦の中で俺は、ほぼ恋愛対象外となってるんじゃないだろうか。
そもそも俺はあいつに恋愛遍歴を知られていても、あいつのことは全然知らない。
いや、そんなことを考えている時点で俺はもうあいつを好きなんじゃないだろうか。
悩む日々が続いたが、その間もタイムリミットは刻々と近付いている。
澄彦がバイトを辞める日。
気持ちに結論が出る前に会うのも、最後になにを言えばいいのかもわからず、意気地無しの浩一は店に行くことができなかった。
安堵と後悔、半々の気分で悶々とたばこをふかしていると、ふいに玄関のチャイムがなった。
時計を見れば、いつの間にかもう夜中の12時近く、一体誰だと出てみれば、そこに立っていたのは澄彦だった。
「ごめんなさい夜中に…寝てた?」
いや…とあいまいな答えを返し中に上がるよう促すが、澄彦は、いいんだここで、と固辞した。
「俺が辞める日だってんで、みんなが就職祝いしてくれて。だけど朝野さん来なかったから、店のママに無理矢理住所聞いてきたんです」
常連だから、ママとも住んでいるところの話になったこともある。
だけど詳しいことまでは言ってない。せいぜいどの建物の近くのマンションだ、ぐらいのもので、その情報だけを頼りにこの寒い中歩いてきたのだろうか?澄彦の耳は真っ赤だ。
「なんか、こんなことするのもどうなんだって感じですけど。でも朝野さんにはお世話になったから、最後にこれ」
そう言って差し出されたのは、飾り気のない紙袋だった。
「ほんと、口に合わなかったら捨てちゃっていいんで。…それじゃ」
引き止める間もなく、澄彦は早口で言うことだけ言ってエレベーターに乗り込んだ。
なんだ一体、と思いつつも紙袋の中をのぞく。
そこに入っていたのは、これまた飾り気のない大きなタッパーに入ったビーフシチューだった。
浩一は、以前店で、澄彦と好きな食べ物の話になったことを思い出した。
澄彦はクリームシチューが好きで、好きだが高くてなかなか買えない某有名パン屋のパンと一緒に食べられたら最高だ、と言っていた。
後日浩一は、いつも相談にのってもらってるお礼と言って、そのパン屋のパンを渡した。
澄彦はとても喜んで、1人じゃめったにシチューなんて作る気にはなれないんだけど、今日は頑張って作ります、と言った。
じゃあ俺の分もついでに作って、と答えた浩一に、澄彦は、朝野さんもシチュー好きなんですか、と聞いてきた。
あぁ、シチューってなんか、暖かい家庭の匂いがするだろ。懐かしくなるよな。でもどちらかといえば、ビーフシチューのほうが好きかな。パンのお礼はビーフシチューでもいいぞ。
そのうちね、と澄彦は笑って返した。
そんな会話をしたことを、紙袋の中身を見て思い出した。
タッパーを出して開けてみると、いびつで不揃いな形の野菜や肉がたくさん入っているビーフシチューが、なみなみといれてある。
どんな思いでこれを作って、もう会えなくなる日に、あんなに凍えてまで、届けにきてくれたのだろう。
そう思うと、いてもたってもいられなくなった。
エレベーターの下に行くボタンを押すのももどかしく1階のフロントに降りると、携帯を片手にした澄彦がまだそこにいた。
「おい………おい!!」
呼ばれて澄彦はハッと振り向いた。
逃がしはしないとでもいうように思わず掴んだ澄彦の手はとても冷たく、耳もまだ赤いままだった。
そのままもう一度自分の部屋まで連れてきて、ドアをしめる。
「……馬鹿野郎が」
え、という澄彦を、感情のままに抱き寄せた。
抗いもせず腕に収まる、自分よりかなり細い身体を抱きしめながら、やっぱり俺は澄彦が好きだったんじゃないかと強く感じた。
しばらくそうしていたが、ふいに澄彦が
「…だから、その口の悪いのどうにかしなさいって、言ったじゃないですか」
言われたことがよくわからず浩一が身体を離すと
「あんなもの渡して、馬鹿野郎なんて言われて。やっぱり迷惑だったんだと思った」
うつむきながらそう言われて、浩一は焦った。
「いや、迷惑じゃない、そんなわけない。あれは口が滑ったというか口ぐせというか」
わかってる、と澄彦は言った。
「わかってます、朝野さんの口悪いのが、別に悪気がないことは。それだけじゃなくて、ほんとは優しいのに照れ屋だから素直になれないのも、意外と真面目なとこも、仕事に一生懸命なのも、知ってます」
うつむいた顔をのぞきこむと、今にも泣いてしまいそうな目をしていた。
その表情にもグッと胸をつかまれて、しばらく逡巡したあと
「えっと。……それは、澄彦は俺を好き、ってことでいい、のか?」
情けない問い掛けに、澄彦は自分から抱きついてくることで応えた。
浩一はその身体をもう一度強く抱くと、堪らずキスをした。何度も何度も、深く浅く繰り返される口づけに澄彦があえかな声をもらすと、浩一は自分の寝室へと、澄彦をいざなった。
あの夜のことが澄彦にとって初めての経験だったと、しばらくたって照れながら告げられたときのなんとも言えない喜びは、今も忘れていない。
そうして恋人になって1年。
色々なことがあったが、浩一は澄彦を掛け替えのない存在だと感じていた。
長く時を過ごしていれば、思うように会えないときも、不安になるときもある。
そのたびに澄彦の大切さを思い、その気持ちは1年で確固たるものになっていった。
だからこそ…だからこそきのう、澄彦の誕生日は、お互いにとって特別な日になる予定だった。
それを台無しにしたのは、他でもない浩一の口の悪さである。
澄彦の誕生日なので、彼の好きなクリームシチューを浩一が作ることにしていた。
その流れで、1年前の告白の日に澄彦が作ってきたビーフシチューの話になったのだ。
「野菜の形はバラバラで、生煮えのもあったけどな」
浩一は、それでもうれしかったし、むしろそれを可愛いと思った、ということを伝えたかったのだ。
しかしいかんせん、選びもうまくなければ言葉も足りない。浩一自身、あれは最低な一言だったと思う。
もちろん澄彦は
「悪かったね、マズいもん食べさせて!でもよりによって、今それを言うことないんじゃない!?」
といって帰っていった。
そして1年前と変わらず意気地無しな浩一は、澄彦のために作ったクリームシチューを温め直しながらまたしても悶々としているのだ。
今までにも幾度となくケンカはしたが、大半は浩一のほうに原因がある。そして大半は澄彦のほうが折れてくれる。
それを自覚しているだけに浩一は、いつ呆れられるだろう、いつあいそをつかされるだろう、という思いを拭いきれないでいた。
相変わらず口が悪いのも直らずにいたが、しかし浩一は誰よりも澄彦を大切に思っている自信はある。
きれいで聡明で寛容な彼を、この先誰かに渡す気もなければ、自分の相手としてこれ以上の人もいないと、この1年の間に強く思うようになった。
だからきのうは気合いを入れて臨んだのに…あのざまである。そして自分が悪いとわかっていながら、どうしていいのかわからないでいるのだ。
つくづく自分が、澄彦に頼って甘えていることを思い知り、大きくため息をつく。
もう8時をまわっている。いつもなら澄彦の仕事も終わり、電話かメールが入っているはずの時間だ。
もう一度ため息をつき、鍋の火を消そうと立ち上がったとき、玄関のチャイムがなった。
「……はい」
「俺。…上がってもいい?」
澄彦だった。合鍵を渡してあるのに、遠慮がちな彼は、浩一がいるときは必ずチャイムをならしてから入る。
部屋に入ってきた澄彦は、硬い表情のままだった。
(まだ怒ってるのか…?)
いま一つはかりきれない浩一は
「仕事だったんだろ?お疲れ。」
「……うん」
会話が続かない。目線を下に向けたまま、澄彦は黙っている。
なんと言って謝ればいいのか、澄彦がどう思っているのかもわからず、沈黙に耐えかねた浩一は飲み物でも取りに行こうかと席を立ちかけたとき
「きのうは、ごめんなさい」
と、澄彦から謝られた。
「おい…そうじゃないだろ、俺が謝るべきだろう、きのうのことは」
「ううん……ううん、違うんだ」
謝られて浩一は慌てたが、澄彦は続けた。
「浩一さんの口の悪いのなんか、始めっから…付き合う前から知ってた。付き合ってた人、とかの話を店でするときも、必ずそれが原因だったじゃん」
浩一とは目を合せようとしないまま、続ける。
「でも俺、そういう口の悪さも好きだったんだ。この人ほんとに不器用な人なんだって…俺ならそれ、わかってあげられるのにって、ずっと、思ってた。………なのにダメだな。もっともっと、浩一さんのこと全部包んじゃえるような人になりたいのに。なろうって、決めてたのに」
あぁ、本当に。
俺はこの人に、なんて甘えているのだろう。
「澄彦。……ちょっと、ちょっと待ってて」
そう言うと浩一は、きのうから用意してあったあるものを取ってきた。
四角い包みに入ったそれは。
「これ、誕生日プレゼントっていうか。…シンプルなのを選んだんだ」
それは、2つの輪が絡んでいるデザインの指環だった。
「大切に、本当に大切に思ってる。こういうの渡したくなるくらいに。ずっと一緒にいたいし、本気で大好きだ。もっと俺のこと甘やかして。俺も澄彦のこと、まるごと引き受けられるぐらいいい男になるから」
浩一は一気にそう言うと、澄彦の左手をとって、薬指に指環をはめた。
「一応、エンゲージのつもりなんだ…俺もおそろいの買って。あんまり高くなくて悪いんだけど。普段はほら、チェーンで首から下げておけばいいさ。結婚はできないけど、気持ちの上では、俺は澄彦と、そういうつもりだし…」
そこまで言って、澄彦からなんの反応もないのが不安になった。「澄彦?迷惑だったか?そうだよな、受ける受けないは、澄彦に権利があるんだし。勝手にはめて…」
浩一の言葉を遮るように、澄彦が首を振った。
「……これってプロポーズってこと」
「…………一応」
「浩一さんの分は?」
「え?」
「指環。浩一さんの分の」
浩一が揃いの指環を出すと、澄彦はそれを手にとり、浩一の左の薬指にはめた。
うれしい。ありがとう。
そのまま握られた浩一の手に、涙が一粒落ちてきた。
そのあまりのかわいさに、そのまま寝室につれていきそうになった浩一に、明日も朝早いんだからダメ、と言ってみたり。
忘れられて火にかけられっぱなしだった、焦げたクリームシチューを澄彦が朝食に食べているのを見て、そんなの食べるの止めろよ、という浩一に、浩一さんの作ってくれたものを捨てられないよ、と言って、朝からどきどきさせてみたり。
浩一が主導権を握っているように見えて、実はベタボレされている澄彦が手綱をとっている。
お互いがお互いを大好き同士でちょうどいいな、などと、朝から胸焼けしそうなことを思いつつ出勤する2人の手には、絶対に離れないというようにかたく結ばれた2本の輪の指環が、光を浴びて輝いていた。