エメラルドな事件
それから何日かして。
あたしと詩織ちゃんは、店舗に立ちながら栄子主任の様子をチラチラと気にかけていた。
「ううーー・・・・・・」
「栄子主任、大丈夫ですか?」
「ううぅーー・・・・・・」
お腹を押さえる栄子主任の顔色が悪い。今日はアレの2日目だそうで。
「まいっちゃうわ。薬飲んだんだけど、ちょっとタイミングがずれたみたい・・・」
「かなり重そうですね?」
「なんかね、ここ数年で急に重くなってきたのよ。閉経へ向けてのラストスパートかしら」
「いや主任、ラストスパートってまだ若いですし」
「いいわよもう。あがっても構わないわ。これから子ども産むつもりも無いんだから」
「は、はぁ・・・。そんなもんですか?」
「なのに毎月毎月、まるでローンの催促みたいにキッチリくるのよ。まだ残ってるのかと思うとイラッとするわ」
栄子主任はお腹を押さえて、また唸り出した。
「ううおぉー・・・あ、ドッと来た来た来た・・・!」
「え、栄子主任、どうぞトイレ行って下さい」
「もう営業時間の終了まで、あと5分しかないですからー」
「・・・・・・ごめん! そうさせてもらうわ!」
そう言ってヘッピリ腰でトイレに向かう姿を、詩織ちゃんとふたりで見送った。
急げ頑張れ栄子主任ー!
まだ新人のあたし達が、お客様のお相手をする事は許されていない。
だから本当はあたしと詩織ちゃん以外にも、誰かがお店にいないとダメなんだけど・・・。
まぁいいか。もう営業終了まで五分切ったし。
まさか、たった五分間で宝石を衝動買いしようなんて変わり者の客もいないでしょ。
店内に流れる、営業時間終了を匂わせるクラシックのメロディー。
詩織ちゃんが鼻歌を歌いながらシャッターを閉めようと扉に近づいた。
その時・・・
――バターン!
「ああ良かった! 間に合ったわ!」
突然、ひとりの中年女性が店内に飛び込んできた。
・・・・・・げ、変わり者?
女性は、店内中に漂う本日閉店の雰囲気をものともせずに、ツカツカと近づいて来る。
「まだ時間大丈夫よね?」
そう言ってショーケースの上にバッグをドサッと置いた。あ、ヴィトンだ。
あたしは女性客の勢いに飲まれて目をパチパチ瞬かせる。
ど、どうしよう。もう終了時間だし、主任はいないし。
まさか「いつになるか分からないけど、主任がトイレから出てくるのを待ってくれ」って言うわけにもいかないし。
ここはやっぱり丁寧にお断りを・・・
「申し訳ありませんが、本日の営業時間・・・・・・」
「ちょっとお願いしたいのよねぇ、これなんだけど」
お断りを、できなかった・・・・・・。
女性はあたしの言葉を無視して、ヴィトンから高級感のあるスエード地のジュエリーケースを取り出し、蓋を開ける。
中には美しいエメラルドの指輪が入っていた。
へえぇぇ、結構大きなエメラルドじゃないの!
思わずマジマジと観察してしまった。
俗に言う「エメラルドカット」と呼ばれる、長方形の四隅の角を削ったステップカット。
ブリリアントカットほどには厚みも、複雑な角度も無い。
だから輝きという点では見劣りはするけど、そのぶん色合いと透明度が引き立つ。
これ、綺麗な緑色だなぁ・・・。濃い色だし。
石も大きい。これなら多分1カラット以上はあるんじゃないかな?
メインのエメラルドの脇を固める、装飾用の小粒なメレーダイヤも綺麗に輝いている。
小粒とはいえ、それなりの品質のダイヤを使っているんだ、きっと。
「これはとても良いお品ですね」
「この指輪をね、急いで綺麗にして欲しいのよ」
あたしの褒め言葉に気を良くしたのか、女性はニコッと笑ってそう言った。
「ずっとしまい込んでいたんだけどね、久しぶりに明日の息子の結婚式に着けようと思ってね!」
ほー? 言われて良く見れば、なんとなくリングの部分がくすんでいるような。
「これ、プラチナじゃなくて金のリングなんですね」
「最近じゃプラチナばっかりでしょ? 石付きの金のリングは、なかなか見ないわよねぇ」
お客様はちょっと自慢そうだ。
なるほど。大事な品を、大事な息子の結婚式に身に着けたいわけか。
晴れの日を迎える親心、女心ってやつよね。そういう事なら、ぜひお手伝いさせていただかないと。
それが、我が五百蔵宝飾店のモットー!
「分かりました。お預かりいたします。少しお時間をいただけますか?」
「ええ、いいわよ」
「詩織ちゃん、お客様をテーブルにご案内してください」
「はい。お客様、こちらでお待ちくださいー」
洗浄だけなら、新人のあたしがやっても問題ないでしょ。
主任はいつトイレから出てくるか分からないし、お客様もお忙しそうだし。
あたしはエメラルドの指輪を持って、超音波洗浄機の所へ行った。
せっかくなんだから、機械の力で細部まで丁寧に洗浄してあげたい。
15~400キロヘルツの超音波が発する微細な泡で、目に見えないほどの汚れも落とす。
専用洗浄液を垂らし、スイッチオン。
・・・・・・よし、ではここに指輪を入れ・・・・・・
――スッ・・・
その時、視界の端っこでお店の扉が開くのが見えた。
「お疲れ様です。まだシャッター閉まっていなかったので、どうしたのかと・・・」
「あ、晃さんだー!」
詩織ちゃんが嬉しそうな声を出す。
キョロキョロと店内の様子を伺う晃さんと、あたしの目が合った。
「お疲れ様です、晃さん」
「聡美さん、お疲れ様・・・・・・」
笑顔で挨拶を返してくれた晃さんの表情が、突然ビシリと固まった。
「・・・? 晃さん、どうしたんで・・・」
「・・・うわああ! やめろおぉーーー!!」
もの凄い形相で、晃さんが両手を伸ばしてこっちにドドドッと突っ込んでくる。
な・・・・・・なに!?
あたしは目を丸くして硬直してしまった。
「よせーーーーー!!」
そう叫ぶなり、晃さんがあたしの体を思い切りドーンと突き飛ばす。
反動であたしの手から吹っ飛んだエメラルドリングを、晃さんがパシッとキャッチした。
えぇぇ・・・・・・!?
あたしは当然、そのまま見事に後ろに引っくり返る。
――ゴォーーーーーン!
そして盛大に床と激突。後頭部に、除夜の鐘のような衝撃が走る。
ぐわんぐわんと痺れるような痛みが頭部の全体に広がった。
い・・・痛・・・いん・・・ですけど・・・・・・。
「なに考えてるんだ! エメラルドを超音波洗浄するなんて!」
「・・・・・・・・・・・・」
「多孔性で、傷の・・・フラクチャーの多い宝石を超音波にかけたら、割れるだろうが!」
「・・・・・・・・・・・・」
「オパールやトパーズやペリドット、タイザナイトなんかも、超音波は厳禁! 分かったか!?」
「あ、あのぉー、晃さん?」
「なんだ!?」
「聡美ちゃん、目ぇ回しちゃってるみたいですよ?」
詩織ちゃんの指摘に晃さんがハッと我に返って息を飲み、大慌てし始めた。
「さ、聡美さん! 大丈夫ですか!?」
「・・・大丈夫、です。多分・・・」
「すみません! 俺、すごく慌ててしまって!」
「はぁ・・・・・・」
あたしは晃さんに手助けされて、なんとか起き上がった。
・・・おぉ、頭がフラフラする。これが目まいというヤツなのね。初体験。
「ちょ、ちょっと!? 人がトイレに入っている間にこれは何の騒ぎなの!?」
トイレから出てきた栄子主任が、ポカンとした顔であたし達を見回している。
思いもよらぬ状況にあ然としているお客様の対応を、主任と詩織ちゃんに任せて、あたしは従業員控え室に下がった。
「本当にすみません。痛みますか?」
一緒に控え室に付き添ってきた晃さんが心配そうに覗き込む。
「いえ、もう平気ですから」
「病院へ行って検査しましょう。やっぱり脳外科かな?」
「そんな大げさですよ。もう大丈夫ですから」
「でもこんな時間だし、病院も閉まってるな。明日予約を入れて・・・」
「あの、聞いてます? 晃さん?」
「どうか無理しないでください、聡美さん」
真剣な表情で繰り返し、晃さんは謝り続けた。
「割れてしまったら取り返しがつかないので」
「あたしの頭がですか?」
「いえ、エメラルドがです。あ、いえいえ! 聡美さんの頭だったら割れてもいいとか、そういう意味ではないですけど!」
「はあ・・・・・・」
「ただ、弁償という事になれば、あのエメラルドは高価そうでしたから」
「そうですよね。あたしもそう感じました」
「大きさもありましたしから、きっとカラットもそれなりに。それに色味の深さに加えて、透明度もありました」
「・・・・・・ちなみに、お幾らぐらいでしょう?」
「うーん、推定ですけど五十万は下らないかと」
「ひえっ!?」
五十万!? そ、そんな金額弁償できない!
エメラルドって高品質なものだと、そんなに高いんだ!
「値段もそうですけど、宝石は世界でひとつですから。同じものを買って弁償、というわけにはいかない」
「そ、そうですよね・・・」
「紛失や破損してしまうと大変なんです。なので慌ててしまって」
申し訳なさそうな晃さんに、あたしは首を横にブンブン振った。
いえいえいえ! 逆に突き飛ばしていただいて助かりました!
「エメラルドは傷が非常に多いんです。だからオイルや樹脂に浸して改善処理をするんです」
「え? そうなんですか?」
「普通に出回ってる品は、まず全部が処理済品だと思って間違いないでしょう。処理無しでも美しい状態の大きなエメラルドだと値段が跳ね上がります」
「どれくらいですか?」
「数百万とか、数千万」
「嘘!? 絶対に手が出ない!」
「ですから、普通は人工処理をするんです。それはエメラルドに限りません。でも超音波洗浄するとオイルが抜けてしまうんですよ」
ひぇぇ、宝石のお手入れって注意が必要なんだ。
普段はジュエリー専用の柔らかい布で優しく丁寧に拭く程度。そのうちにお店でクリーニングしてもらうってのが、一番安全そうね。素人は。
「聡美さん、本当に念のために明日病院へ行ってくださいね」
「はい。もしも明日、何か異常があったらちゃんと行きますから」
「その時は連絡してください。これは俺の名刺です」
手渡された名刺を、あたしは丁重に受け取った。
「それと、異常がなくても連絡ください」
「はい?」
「明日、一緒に夕食をどうですか?」
「え?」
「仕事が終わったら電話ください。俺、迎えに来ますから」
「・・・・・・・・・・・・」
思わず無言で晃さんの顔を凝視してしまった。
一緒に? 食事? 迎えに来る?
・・・・・・えぇ!? それって・・・・・・!?
途端に心臓がドキドキ不規則に鳴り始める。
ぱぁっと全身に薄ら汗が滲んで、顔と頭の中がボッと熱くなった。
キョロキョロと視線を泳がせ、必死に平静を装う。
ど、どうしよう! あたしデートに誘われちゃった!
いや、これまでも誘われた回数だけなら、自慢じゃないけど多いのよ!
だけどそれって、基本お断わりが前提のお誘いばかりだったから!
でもこのお誘いは、晃さんは違う。
あたしの警察犬並みの嗅覚が、彼はクリアーだと告げている。
この人はいま純粋に、本当にあたしの事を誘ってくれているんだ!!