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「あれ? お客さん、あんたこの前の人じゃないか?」
この前!? どの前よ!?
悪いけど今は物凄くせっぱ詰ってるの! 世間話してないで運転に集中してちょうだ・・・・・・
と、叫びかけたあたしの口がポカンと開く。
「・・・あ! この前の運転手さん!?」
「おお、やっぱりお客さんだったか。あの後どうだい? あの男に着け狙われてないか?」
晃さんから逃げ出した時に乗ったタクシーの、やたら警察行きを勧めてた運転手さん!? すごい偶然!
「奇遇だなあ。どうしたんだい? そんなに慌てて」
「そうだ! 運転手さん急いでお願い!」
「なんだい? やっぱり警察行くのか?」
「警察なら別件でもう行って来・・・いや、そんな事はどうでもいいから、空港へ!」
「空港?」
あたしのただ事ではない様子に気付いて、運転手さんは眉を寄せる。
「いったいどうしたんだ? また何かあったんだね?」
「あの彼が空港にいるの! 彼が外国へ行ってしまうのよ!」
「あいつが空港・・・? 外国・・・・・・?」
キョトンとしながらオウム返しに繰り返していた運転手さんが、ハッとして叫んだ。
「・・・高飛びかっ!?」
なんで!? なんでそうなる!?
「あの野郎! 女に悪さしておいて、さっさと逃げ出すつもりなのか!? そうはさせねえぞ!」
「・・・と、とにかく急いで!」
「まかしとけ! オレにも年頃の娘がいるからよ! 他人事じゃねえんだよ!」
気合いの入った運転手さんがガンガン飛ばしてくれる。
あたしは両手をグッと握りしめ、額に当てて懸命に祈った。
どうか間に合いますように・・・!!
お願い! どうか、どうか・・・・・・!!
あたしのこれまでの人生の全てを変えてくれた晃さん。
だからあなたと一緒に、これからの人生を歩んでいきたい。
どうかあたしをひとりにしないで。このままお別れなんて絶対に嫌。
握りしめる手に爪が食い込み、指先が震える。
彼を失う恐怖に震え慄きながら、それでも諦めずに全身全霊で祈り続けた。
大丈夫だ。信じよう。
あの時の運転手さんと、今ここで再会したことはきっと偶然じゃない。
運命が味方してくれているんだと強く信じよう。
あたしはまだ彼に、この気持ちを伝えていない。
彼があたしの心をいつも読んでくれるのに甘えて、一度も自分から伝えようとはしなかった。
今こそ、伝えるんだ。
この口で、この声で、この言葉で、この心で。
絶対に・・・・・・!!
ところが空港に近づいたところで、突然タクシーの動きが止まってしまった。
見ると前方に渋滞ができている。
「なに!? どうしたの!?」
「ありゃりゃ~~・・・こりゃあ、前の方で事故ったな?」
「ええっ!?」
「当分動きそうにないぞ」
ザッと顔から血の気が引いた。
そんな! あと少しで空港なのに!
運命、あたしに味方してくれてるんじゃなかったの!?
中途半端に味方しないでよ! やるなら最後までキチンと責任もってやってちょうだい!
「運転手さん! あたしここで降りる! ここから走るから!」
そう叫んでお金を払おうとして、あたしは再び血の気が引いた。
しまったあぁ! 財布持ってきてない! ロッカーのバッグの中ーー!!
そういえば詩織ちゃんから話を聞いて、その足で飛び出してきちゃったんだ!!
青くなったり赤くなったりしているあたしを見て、運転手さんが怪訝な顔をする。
「どうした?」
「お金・・・忘れちゃった・・・」
「へ?」
「御免なさい! お財布持ってないの!」
ブンッと勢いよく頭を下げ、運転手さんに謝った。
どうしよう! あたしって本当にバカ! しかも運勢最悪!
やっぱり出がらしの絞りカス? いいとこ全部お姉ちゃんに持っていかれちゃってるのかな!?
でもこれは・・・あたしの責任だ。
「すみません! 本当に申し訳ないんですけど、今すごく急いでいるんです!」
そう言ってあたしは自分の名刺を差し出した。
「後で必ず、必ず払いますから!」
詳しい説明もできないで御免なさい。
でもお願いですから、どうかあたしを行かせて下さい!
あたしの今までの人生と、これからの人生がかかっているんです!
決死の訴えをするあたしの真剣な表情と名刺を、運転手さんは交互に見る。
そしてすぐにニカッと笑って頷いてくれた。
「おお、いいよ。信用するよ。行きな行きな」
「あ・・・ありがとう!!」
「いいっていいって。何度も言ってるだろ? オレにも年頃の娘がいるからさ」
運転手さんの親切が有難くて、涙が出た。
こんなに親切にしてくれる人が世の中にはいるんだ。
あたしの事、信用するって言ってくれた。
誰にも認められないなんてウジウジ僻んで、暗い顔してメイクに固執していた自分が恥ずかしい。
まるきり、ただの僻み根性だ。
タクシーのドアから降りて、その場で何度もブンブンお辞儀をする。
御免なさい御免なさい。ありがとうございます。
「いいから早く行きなよ。急いでるんだろ?」
「はい! ありがとうございます!」
「お客さん、負けるなよ!」
空港に向かって走り出したあたしの背中に、運転手さんの威勢の良い声が追いかけてきた。
「絶対にあの男、逃がすんじゃねーぞ!!」
・・・・・・・・・・・・。
「はいっ!!」
大声で返事をしながら、あたしは両目が嬉し涙で潤むのを感じていた。
うん!! 絶対絶対、逃がさないから!!
息を切らし、道路を駆け抜ける。
全力で突っ走るあたしの額から汗が流れ、目に入った。
次々と流れてくる汗を腕でゴシゴシ拭う。当然、プレストパウダーだけのメイクは簡単に落ちてしまった。
凄い形相で走り続けるあたしの顔に、渋滞に嵌った車の中からたくさんの視線が突き刺さる。
見られてる。すごく注目されてる。
スッピンの、しかも傷物の顔をさらした女。
でも気にならない。そんなことはどうでもいい。
どうでもいいんだよ! あたしにとってそんなことは、もうどうだっていいんだ!!
目の前に空港が見えた時には、ゼエゼエ息が切れて心臓はバクバク波打ち、爆発寸前だ。
足はフラフラして病人みたい。顔も背中も汗みどろでダラダラ。
髪もボサボサ。たしか大学の学園祭のお化け屋敷で、こんなカツラ被ったっけ。
呼吸困難で意識がすぅっと遠のく。
も、もうあたし、走れ、ない・・・・・・。
いや! 走れないなら・・・急ぎ歩きだ! 競歩よ競歩! さぁ腰をひねろー!
あたしは今にも倒れそうになりながら、正面玄関に向かって懸命に進む。
当然ながら周り中から、ものすごい不審な目で見られてしまった。
通報されて警備員に捕まったらどうしよう。捕獲されてる時間なんかないわ。
中に入ったら、どうやって晃さんを探そうか。
そうだ、アナウンスをしてもらえばいい。呼び出してもらうんだ。
親戚が危篤だとか何とか言って、泣きながら情に訴えて3分おきに放送してもらおう。
いっそあたしが危篤って内容にしてもいい。
我ながら今の状況、半分危篤になりかけてる気がするから、あながち嘘でもないと思うし。
正面玄関・・・・・・正面玄関・・・・・・。
夢遊病みたいにフラフラと進むあたしの前方に、一台のタクシーが反対方向から走ってきて止まった。
そのタクシーから降りた人物を見て、あたしの心臓も一瞬止まる。
(あ・・・・・・)
どぉっと涙が噴き出した。
顔がクシャクシャになってむせび泣きそうになり、呼吸が震える。
あたしは胸いっぱいに吸い込んだ息を吐き出しながら、涙声でその人の名を全力で叫んだ。
「晃さああぁぁーーーーーん!!」
晃さんが振り返る。
そしてあたしの姿を見て、目を丸くして呆然と突っ立った。
あたしは奇声を発しながら夢中で彼に駆け寄り、周りの目も憚らずに思い切り抱き付いた。
そして、わあわあ大声で泣いた。
「晃さん! 晃さん! 晃さん!」
「さ、聡美さん!? いったいどうしたの!? なにがあった!?」
あたしは泣き喚き、子どものようにイヤイヤをするばかり。
涙も鼻水も大放出。髪はボサボサ顔はスッピン。しかも頬には傷のオマケ付き。
彼に会えて嬉しい気持ちと、彼が黙って行ってしまおうとした事に対する責める気持ちが、ぶつかり合って嵐のように暴れている。
晃さんはそんなあたしを、力一杯抱きしめてくれた。
「行かないで! 晃さん!」
「え!? なんだって!?」
「タイに移住なんて嫌だ! ・・・ううん違う! 行ってもいいの!」
「聡美さん! どうしたんだよ!?」
「行ってもいいから・・・あたしも連れてって! 晃さんが好きなの!」
「・・・・・・・・・・・・!」
「晃さんのことが好き! 大好き! だから離れたくないし、この恋を諦めたくない! あなたを諦めるなんて、絶対に嫌だ!」
あたしは泣きながら、声を張り上げて伝えた。
伝えたくて伝えたくて伝えたくてどうしようもなかった、あたしにとって一番大切なことを。
「あたし、晃さんの事を愛してる! 何があっても絶対にあなたを諦めない!」
晃さんは目を丸くしてあたしを見つめている。
そうよ、あたしは晃さんを愛しているの。
だから、あなたの夢ならそれを叶えるために応援したい。でも離れたくない。
だったら・・・・・・
一緒に行くしかないでしょう!?
「あたしも連れて行って! あたしもタイで一緒に暮らすわ!」
「ちょ、ちょっと聡美さん?」
「タイ語は全然話せないけど、大丈夫よ心配ない! 人間、為せば成るわよ!」
「聡美さん、落ち着いて頼むから」
「日本大使館はどこですか? と、トイレどこですか? さえ教えてくれれば、後は自分でなんとか・・・」
「タイで暮らすってどういうこと? 移住って言った? 誰かタイに移住でもするの??」
「・・・・・・・・・・・・」
はい?
あまりにも意外性に満ちた、晃さんの言葉に、滝のように流れていた涙と鼻水がピタリと止まった。
あたしは目を瞬かせながら、あたしを抱きしめている晃さんを見上げる。
なんか・・・話の最大重要ポイントが、お互い微妙に噛み合っていない気がするんですが?
「晃さん、タイに移住するんじゃなかったの?」
「俺が? しないよ?」
「・・・・・・・・・・・・」
へ!?
「晃さん、タイに行くんじゃなかったの!?」
「行くよ? これから。一週間くらい出張で」
「出・・・・・・!?」
出張ーーーーー!?
出張って、なにそれ! 出張と海外移住じゃまったく違うんですけど!?
ふたつの間には、深くて大きな河が横たわっているんですが!?
「だ、だって、詩織ちゃんにタイに移住して留学するって言ったんでしょ!?」
「言ってないよ! 見学できるならしたいとは言ったけど、移住も留学も俺はひと言も言ってない!」
「し・・・・・・!」
詩織ちゃんーーーーー!!
あなたまた、人の話ちゃんと聞いてなかったでしょおぉぉぉーーー!?




