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 パニック状態で何が何だか全然分からない。

「警察」とか「救急車」とか周囲で大勢が騒いでるみたいだけど、あたしは顔を隠すので無我夢中だった。


 ずっとお姉ちゃんに頭を抱きかかえられていた気がする。

 そして晃さんに抱きしめられていた気がする。


 気が付けば、救急の夜間外来らしき場所に運び込まれていた。


「聡美! 聡美!」

「聡美さん!」


 扉の向こうから、晃さんとお姉ちゃんの取り乱した声が聞こえる。

 あたしは、周囲が力ずくであたしの手を頬から外そうとするのに抵抗していた。


「大丈夫ですから。ね?」

「治療できませんよ? 手を離してください」

「落ち着いてください。分かりますか?」


 まるで小さな子供が診察を怖がるように、いつまでもわぁわぁ泣きながら抵抗するあたしに、先生が業を煮やしたように言った。


「治療できないと、傷が治りませんよ?」


 あたしはビクッと震える。

 傷・・・・・・。


 その言葉を聞いた途端、嘘のように体から力が抜けてしまった。

 ホッとしたように先生が診察を始め、看護師さん達が手当の用意を始める。


 化粧を拭き落とされ、傷口を丁寧に丁寧に洗われた。

 あたしの素顔が人前でさらけ出されている。いつものあたしなら狂ったように絶叫していただろう。

 なのに今のあたしは別人のようだった。

 まるで魂が抜け出てしまったように、何も感じなかった。


 傷。傷。傷。


 顔に、傷が。


 傷が・・・・・・。


 まるで強烈な呪文のように、その言葉があたしの全てを支配していた。


 心も体も弛緩した状態で、あたしは治療を受けた。

 顔にパッドのような物を貼られている気がするけど、良く分からない。

 本当に魂がどこかへ飛んで行ってしまったように完全に呆けてしまっていた。


 治療が済んでから、看護師さんに待合室に連れて行かれた。

 あたしの姿を見つけたお姉ちゃんと晃さんが、ソファーから飛びあがるようにして立ち上がる。

 いつの間に呼び出されたものか、お父さんとお母さんもいた。


 みんな恐ろしく強張った表情で、まるで怖いものでも見るような目であたしを見ていた。


「槙原聡美さんのご両親ですか?」

「は、はい」

「ちょっとこちらへ。ご説明がありますので」


 お父さんとお母さんが看護師さんへ連れて行かれて、あたしとお姉ちゃんと晃さんの三人だけになる。

 お姉ちゃんは顔面蒼白で今にも失神しそうだった。

 晃さんはひどく深刻な顔をして、あたしの頬に視線を注いでいる。


 ふたり共、何も言わなかった。

 あたしは並んでいる二人の姿を交互に見比べ、そして、話しかけた。


「・・・・・・お姉ちゃん」


 あたしの声に、お姉ちゃんの体が目に見えてギクリとする。

 なんだか怯えているようなその態度が、ちょっと可笑しかった。


「お姉ちゃん、怪我、しなかった?」

「・・・・・・・・・・・・」

「ダメだよ? 夜間の外出には注意しなきゃ」


 お姉ちゃんの美しい目に、クリスタルのような涙が盛り上がる。

 真珠のように滑らかな頬を、花びらが落ちるように涙がホロホロ伝った。


 泣かないで、お姉ちゃん・・・・・・。


「晃さん」


 次にあたしは晃さんに向かって話しかけた。

 彼は真剣な表情のまま睫毛一本も動かさずに、あたしを見つめている。


「これ、あたしの姉なんです。あんまり綺麗で驚いたでしょう?」

「・・・・・・・・・・・・」

「この姉を見れば、もう解ったでしょう? 晃さんが知りたがっていた、あたしの中の隠し事」


 あたしは柔らかく微笑んでいた。

 別に何が楽しいわけでもなく、何が嬉しいわけでもない。

 ただ、気が抜けたように安心していた。


 隠したままでいたかった。知られないままでいたかった。

 でもいつかはバレる、きっとバレると恐れながら、ずーっとずーっと怯え続けていた。

 ああ・・・でも・・・・・・。


 あたしは心の中で、大きな大きな息を吐いた。

 もう・・・・・・怯えなくてもいいんだ・・・・・・。


 並んだふたりを眺めながら、あたしは思う。


 やっぱりこうなった。なるべくして、こうなった。

 本物を追い求める者と、紛れもない本物が出会う事は、きっと決められた運命だったと思う。

 あたしが・・・・・・ずっと邪魔しちゃってたけど。


「分かったでしょ? あたし、イミテーションなんですよ」


 これは天罰かもしれない。

 イミテーションのくせに本物のフリして、優しい晃さんを偽っていた罰。

 もっとちゃんと早くに自覚していれば、こんな目に遭う事もなかったろうに。

 自分が恐れていた最悪な状況よりもなお酷い状況を、あたしは、自分で招き寄せてしまったんだ。


 そう思いながら微笑むあたし。

 表情の動かない晃さん。

 あたし達は言葉も無く、じっと見つめ合う。

 しばらくして、やっと晃さんの唇が動いた。


「・・・・・・分かった」


 彼はそのひと言だけを言い、あたしは再び、微笑んだ。

 そして彼に向かって深々と頭を下げる。


 これまで彼が見せてくれた夢に対しての、大きな感謝と、謝罪を込めて。


 ちょうどその時、話を聞き終えたらしいお父さんとお母さんが戻って来た。

 あたしの様子を伺うように、恐る恐る話しかけてくる。


「聡美、あのね・・・」

「お父さん、お母さん、あたしなんだか疲れちゃった」


 自分でも妙なくらい、感情の無い声だと思う。

 色んなものがスポンと抜け落ちてしまったようで、声に力も何も入らない。


 ・・・・・・あ、そういえばあたし、治療の時に化粧落とされたんだっけ。

 あー・・・ついに晃さんに見られちゃったなぁ・・・。素顔。


「あたし、帰りたい。ダメかな?」


 お父さんとお母さんがお互いの顔を見合わせる。

 そして慰めるような優しい声で言った。


「いいわよ。もちろん」

「警察への説明は明日にしてもらうよう、お父さんがちゃんと言っておくからな」


 あたしはコクンと小さく頷き、玄関に向かって歩き始めた。

 お母さんがあたしの肩を抱いて、一緒に歩いてくれる。


 ゆっくり、ゆっくり、あたしはその場から立ち去る。

 晃さんの視線を背中に感じながら。


 でも何も思うことは無かった。

 素顔も、イミテーションの事実も曝け出し、そして顔を切られ、そのうえ姉の存在も知られて。

 これ以上、今さら何をどう取り乱せと言うのか。自嘲の笑いすら出てこない。


 玄関のガラス戸の向こうに広がる闇。

 あたしは立ち止まり、無意識に口を動かした。


「ブラッドストーン・・・・・・」

「なに? 聡美、なにか言った?」


 お母さんが聞き返してきたけど、あたしは何も答えなかった。

 闇のように濃い緑の石の表面に、赤い血が飛び散ったような玉。

 暗闇の中で鮮烈に赤かった、あたしの血。


 闇と、血。・・・・・・お似合いだ。


 あたしは再び歩き始め、闇の中へと踏み出した。


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