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 あたしはフルフルと首を横に振り、彼を拒絶した。


「無理です。ごめんなさい」


 そして身を翻し、反対方向へと小走りに駆け出した。


「待てよ!」

「来ないで! 来たら大騒ぎします! 警察呼びます! 晃さんがストーカーだって嘘つきます!」


 あたしの後を追おうとした晃さんが、グッと詰まって立ち止まる。


「本当に今までありがとうございました! ごめんなさい!」


 晃さんと向き合い、屈伸運動みたいに思い切り頭を下へと振り下げる。

 そして泣き顔を見られないよう、素早く反対方向へと走り出した。

 走りながら、頬を伝う涙を何度も手で拭う。


 好きだって言ってくれた! 晃さん、あたしの事が好きだって!

 その喜び。叶わぬ痛み。ふたつが切なく混じり合い、あたしの心を苦しめる。


 あたしが晃さんに恋してる事、ちゃんと分かってくれていた。

 それだけで・・・もう、いい。それ以上の贅沢は望めない。

 望んだら破滅する。いずれ必ず失って、不幸になる。


 晃さんが追ってくる気配はなさそうだ。あたしは走るのをやめて歩き始めた。

 しゃくり上げながら、ゴシゴシと頬を擦る。

 いくらでも涙が出てきて、濡れた頬が気持ち悪い。どこか明るい場所でしっかりメイクを直したい。


 フラフラと表通りに向かおうとしていると、前方に見覚えのある背中が見えた。

 それを見たあたしの足が地面に縫われたようにピタリと立ち止まる。


 ・・・・・・お姉ちゃんだ。


 すぐ分かる。たとえ暗がりであろうと距離があろうと、見間違えるはずもない。

 薄闇の中に浮かび上がる大輪の花のような、美しいあの後ろ姿を。


 最悪・・・よりにもよって、今? なぜこのタイミングで遭遇するの?

 あたしって生まれながらにどこまで運が無いんだろう。

 本当に、何もかも全てを姉に持っていかれてしまったんだ。きっと。


 別の道を通って帰ろう。他の通りでタクシー拾おうかな?


 そう思ってコッソリ進行方向を変えようとした時、ふと目に付いた。

 通りの角からスッと男が現れ、お姉ちゃんの背後を歩いている。


 その男の何かが・・・・・・引っ掛かった。


 男の歩き方、様子、全体の雰囲気。何かが変だ。気になる。

 訝しく思いながら足を止め、その様子を伺うあたしの頭の中に、今朝のお母さんとの会話が蘇った。


『満幸ね、また誰かに付き纏われてるみたいなのよ』


 ・・・・・・・・・・・・。


 まさか。


 心の中で不安が頭をもたげる。

 まさかあの人、お姉ちゃんに付き纏ってるストーカー?


 いやでも、後ろを歩いてるってだけの理由でストーカーと決めつけるのもどうかと。

 いやでも、もし本当にストーカーだったら・・・ああぁ! もう!


 とりあえずあたしは、急いでお姉ちゃんに追い付こうとした。


 お姉ちゃんたら! こんな時に夜間外出なんかしないでよね!

 物心ついた時から常に誰かに付き纏われるような生活してるもんだから、逆に油断みたいな感覚があるらしくて。

 たまに危機意識が薄れちゃう時があるんだから。


 わざとヒールの音を響かせて、存在を男にアピールする。

 でも男は気にする様子も全く見せない。

 ・・・ひょっとしてあたしの勘違い? ただの通行人なのかな?


 そう思った時、男の手元が薄く銀色に光るのを見た。

 あの光は・・・・・・?


 その光の正体が何なのかを知った時、あたしのノドがヒッ! と鳴った。


 あれは、刃物だ!!


 頭の中の警鐘が大音量で鳴り響く。ザッと血の気が引いて、全身が指先まで硬直する。

 次の瞬間、無我夢中で金切り声を上げながらあたしは全力で走り出していた。


「お姉ちゃああぁぁぁーーーん!!」


 お姉ちゃんと男が、同時にこっちを振り返る。

 あたしの血相変えた表情から状況を察したらしいお姉ちゃんが、とっさに逃げ出そうとした。


 男がお姉ちゃんの長く美しい黒髪を鷲掴みにし、乱暴に引っ張る。

 お姉ちゃんは体を捩りながら必死に抵抗したけど、すぐに地面に転んでしまった。

 男がそのお姉ちゃんの体の上に馬乗りになる。


 あたしにとってはまるでスローモーションの動画を見るようだった。

 恐怖の場面が、コマ送りみたいに逐一目に焼き付いていく。

 頭のてっぺんから金切り声を上げ続け、あたしは全力で走った。


 頭の中も、視界も、すべてが真っ白。

 壊れたレンズみたいにお姉ちゃんと男の姿以外、何も映らない。

 全力で、無心で突っ込んだあたしは・・・・・・


「わあぁぁぁーーー!!」


 気が付けば悲鳴を上げながら、バレリーナのように振り上げたパンプスのつま先で、男の頭を思い切り蹴り上げていた!


 男は仰向けになって派手に地面に転がる。


「お姉ちゃん! 逃げよう!」


 あたしはショック状態のお姉ちゃんの腕を引っ張り上げ、起こそうとした。

 女性が暴漢に襲われた時の鉄則。それは・・・・・・


 不意の一撃を食らわせ、相手が怯んだ隙に全速力で逃げる!!


 基本的に、女がどう足掻こうと男の力には勝てない。

 だから絶対に立ち向かって撃退してやろうなんて考えてはいけない。

 鼻や、ノドや、目を攻撃したり、相手の指一本を思い切り反り返したりして、相手が怯んだ隙に、とにかく逃げる。

 

そして逃げる際に重要な事は・・・・・・


「火事ですー! 火事ーー! 通報してーー!」


 逃げながら大声で周囲に助けを求めること。

 

 助けて! と叫んでも、若いモンのイタズラと思われがちで無視される可能性が高い。

 効果てきめんなのは「火事」のひと言。

 自分の家も被害に遭いかねないので、この単語を聞けば大抵の人は外の様子を気にかける。


 ・・・・・・って、テレビの護身術教室で教えてた!


「火事です! 火事! 火事ー! あと変態もーー!!」


 絶叫しながらお姉ちゃんの腕をグイグイ引っ張る。

 立ち上がろうとしたお姉ちゃんは、足でも捻ったか腰でも抜かしたか、ヘナヘナとその場に倒れてしまった。

 その間に男が立ち上がり、興奮した目で飛びかかってこようとした。


「きゃああぁーー! 来ないで変態ーー!!」


 あたしは悲鳴を上げながら、ショルダーバッグをぶんぶん音が鳴るほど力一杯に振り回す。

 見知らぬ男は目玉をギョロギョロさせ、音程の外れた叫び声をあげた。


「オレは変態じゃない! オレは槙原満幸の伴侶であり、支配者だ!」


 ・・・・・・やっぱり変態じゃないの!


「なに言ってんのよ! なんであんたがお姉ちゃんの伴侶なのよ! ただの他人でしょ!」

「他人じゃない! 満幸とオレは一度も話をした事がないだけだ!」

「だからそれを他人って言うのよ! 真っ赤な他人を通り越して、どす黒いほど完璧に他人よ!」


 男は完全に焦点を失った目をして叫び続け、刃物を振りかざしてきた。


「満幸! オレの満幸ー!」


 ――シュッ・・・・・・!


 頬に、ものすごく嫌な感覚が走った。

 新品の紙で指を切った時のような、とても気持ちの悪い感覚を感じて、反射的に頬に手を当てうずくまる。

 キリキリと鋭い痛みが走った。


 恐怖が込み上げて、頬に当てた手を離し、恐る恐る確認する。

 そして、あたしは短い悲鳴を上げた。


 あたしの手の平には・・・赤い、赤い・・・・・・血が!!

 顔を・・・・・・ナイフで切られてしまった!!


「聡美!? 聡美! 血・・・血が!!」


 お姉ちゃんが悲鳴を上げてあたしに抱き付いてきた。

 あたしは呆然としてしまって、痛みの走る自分の頬を両手で押さえるのが精一杯。

 ショックでボンヤリと霞む視界の中で、男が刃物を振り回して襲い掛かってくる。

 お姉ちゃんがあたしをギュッと抱きかかえ、身を丸くした。


「聡美さんーーーーー!!」


 あたしの名を呼ぶ声と、誰かが男に体当たりするのと同時だった。

 ふたりは勢いよく地面に転げて揉み合う。

 ワッと周囲から男の人達が数人駆け寄って来て、一斉に男を押さえ付けた。

 その中の一人が身を起こし、あたしに向かって叫ぶ。


「聡美さん! 大丈夫か!?」


 ・・・・・・晃さん!?


 あたしと晃さんの目が合った。

 あたしの顔を見た途端、彼の表情が驚愕に歪んだ。


「聡美さん! 血が!」

「・・・・・・・・・・・・!」


 晃さんのそのひと言で我に返った。


 そうだ・・・・・・あたし・・・・・・顔・・・・・・


 ・・・・・・・・・・・・。


 顔、切られたーーー!!


「嫌ああぁ! 嫌! 嫌だあぁぁーーーーー!!」

「聡美さん! しっかりするんだ!」

「聡美! 傷見せて! お姉ちゃんに見せなさい!」

「嫌あぁぁーーーーー!!」


 うずくまり、体を小さく丸めてギリギリと痛む顔を隠す。

 死にもの狂いで手で傷を押さえ、懸命に晃さんとお姉ちゃんから隠した。


 見ないで! 見ないで! 見られたくない!

 この世で、このふたりにだけは絶対に見られたくない!!

 傷付いたあたしの顔を見られたくないーー!!


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