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・・・・・・・・・・・・!
一瞬、胸に鉄の玉を投げつけられたような鈍い痛みを感じる。
不意打ちにうろたえて、なんと答えればいいのか分からず、思考停止状態で詩織ちゃんを見つめ返した。
『鉄仮面』
そのあだ名、どこから漏れたんだろ。本当に最近は、どこで誰がどんな風に繋がってるか分からない。
プライバシーって言葉と概念って、日本から消滅したの?
「聡美ちゃんって、絶対に人前でスッピンにならないんだってね?」
「・・・・・・・・・・・・」
「お風呂入る時も、寝る時も、どんな時も絶対にスッピンにならないんだって?」
「・・・・・・・・・・・・」
「どうして? 聡美ちゃんすっごく可愛いのに。あたしなんかよりもずっとさ」
嘘つけこのヤロー!!
思わず心の中で突っ込んだ。
絶対に、ぜーったいにそんな事、爪の先ほども思ってないだろが!
反射的な突っ込みのお蔭で、停止していたあたしの思考が動き出した。
そう。あたしはどんな時も、なにがあっても、決して人前ではメイクを落とさない。素顔をさらさない。
夏の大学イベントのスポーツ大会で大汗をかいてシャワーを浴びた時も、メイクだけは落とさなかった。
仲間と旅行に行って温泉に入った時も、メイクだけは落とさなかった。
完全ウォータープルーフ。ファンデもシャドーもアイラインもなにもかも全部。
おまけに眠るときもフルメイクのまま。死角は一切なし。
寝起きの化粧崩れ防止のために、布団に入る前に丹念に重ね塗りして。
当然ウワサになった。そしてついたあだ名が・・・『鉄仮面』
だってメイクはあたしの防御壁。これを剥がしてしまったらあたしの心を守る物は・・・何ひとつ無くなってしまうんだもの。
あの美しい姉の威光にさらされて、あたしの心は今度こそ完全に・・・。
――ガチャ・・・
扉の開く音がして、詩織ちゃんの顔がパッと輝いた。
あたしとの会話なんざ、もうどーでもいいわとばかりに満面笑顔で挨拶する。
「近藤さあーん、おはようございますぅー」
「おはようございます」
入り口で軽く頭を下げ、近藤さんは笑顔で顔を上げた。
無理に手を入れていない、ナチュラルなヘアスタイル。カラーも自然な黒。
目鼻立ちがはっきり整っていて意志の強さを感じさせるけれど、全体が醸し出す雰囲気がとても穏やか。
思わず見ているこっちも笑顔になってしまう。
やっぱりイイ男だなぁ。爽やか系って感じで癒される。それに、見るからに知性的。
専門職の資格を取るぐらいだし、スクールの講師してるぐらいだし、優秀なんだろうな。
「それじゃあ始めます。槙原さん、中川さん、今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
あたし達の向かいのイスに座った近藤さんが頭を下げるのを見て、あたしも頭を下げて挨拶を返した。
すると早速、詩織ちゃんがアプローチを始める。
「近藤さん! あたし達のこと、苗字じゃなくて下の名前で呼んでください!」
・・・・・・へ? なんですと?
あたしも近藤さんも、思わず同時に詩織ちゃんの顔を見た。
「下の名前? あ、いやでも、それは・・・」
いきなりそんな事を申し出されて、近藤さんは少々困惑気味。
そりゃそうだろう。なに考えてんのよ詩織ちゃんてば。
「この店のルールなんです。社員同士の連帯感を高めるために、みんな下の名前で呼び合っているんですよー」
あぁ、それね? それは確かに事実なんだけど。
だからあたし達も、別段そんなに親しくもないのに「詩織ちゃん」「聡美ちゃん」って呼び合ってるわけで。
でもそれはあくまでも、この店の従業員の話であって。
部外者の近藤さんがそのルールに引きずり込まれても、迷惑にしか感じないと思うんですけど・・・。
「こっちも近藤さんのこと、晃さんって呼びますから。遠慮しないでいいんですよー」
詩織ちゃん・・・。あなた基本的に『遠慮』の意味を、よく分かっていないと思うの・・・。
「あたし達だって堅苦しくない方が嬉しいしー」
詩織ちゃん・・・。『あたし達』って、勝手に仲間にしないで欲しいの・・・。
「そう? じゃあ聡美さん、詩織さん、今日もよろしくお願いします」
「はーい、晃さん! ・・・なんちゃて。アハハ!」
小首を傾げて明るく笑う詩織ちゃんに、近藤さんは苦笑気味の笑顔を返した。
あたし達よりも2~3歳年上らしいから、いろんなケースの対応の仕方も慣れているんだろう。
・・・・・・すみません近藤さん。ご迷惑をおかけします・・・・・・。
目で謝罪するあたしに対して、やっぱり近藤さんも目で『いいんですよ』と返してくれた。
詩織ちゃんは全くそれを読み取る気配も無く、ニコニコして近藤さんを見ている。
悪い子では・・・ない、とは思うんだけれど・・・・・・。
なんなんだろうか。この・・・
『あたしに親しげに振る舞われて、嬉しくない男がいるはずがない! 』的な、絶大な自信は。
すごいな。蓄積された自信の持つパワーって。周囲に及ぼす影響なんて、考えも及ばないんだろうな・・・。
「それではまず、前回の復習から。二人とも誕生石は覚えたね?」
「はい。覚えました」
「はーい。バッチリです」
「じゃあ言ってみて」
あたしと詩織ちゃんが声を揃えて宝石の名前を暗唱する。
1月はガーネット。
2月はアメジスト。
3月はアクアマリン、サンゴ、ブラッドストーン。
4月はダイヤモンド。
5月はエメラルド、翡翠。
6月は真珠、ムーンストーン。
7月はルビー。
8月はペリドット、サードニックス。
9月はサファイヤ。
10月はオパール、トルマリン。
11月はトパーズ、シトリン。
12月はターコイズ、ラピスラズリ、タンザナイト。
近藤さんが満足そうに頷いた。
「はい。正解。その上で注意すべき点は・・・」
「各国共通の誕生石は、1月のガーネットと2月のアメジストぐらい。あとは各国が独自で設定しちゃってます」
「はい。それも正解です」
そう。誕生石の割り当てって実は、各国で違うの。今あたし達が暗唱したのは、あくまで日本独自の設定。
例えば3月のサンゴは桃の節句に因んだピンク色を表してるし、5月はエメラルドの緑と並んで、日本の誇る翡翠の緑を設定している。
それに8月の誕生石は、以前の日本では、サードニックスしか一般的に知られていなかった。
サードニックス=紅縞瑪瑙。
紅色と白色の縞模様が綺麗なんだけど・・・見た目、ただの石。
ほら、宝石ってね、透き通るような色でキラキラ輝くってイメージでしょ?
それが8月に生まれた人は・・・・・・
石。
いや! もちろんちゃんと価値のあるものなのよ!? 瑪瑙って!
でもやっぱりダイヤモンドとか、ルビーとかエメラルドとかに比べると、どうしても見た目の点で・・・。
今でこそ婚約指輪は、猫も杓子もダイヤモンドだけど、昔は女性の誕生石を送る習慣も根強かった。
片やダイヤモンドを送られて、片や・・・・・・
石。
・・・いや、だから! ちゃんと価値はあるんだけどね!
そういった若い女性の微妙な心理を上手く汲み取って、颯爽と登場したのがペリドット。
オリーブグリーンと称される明るい黄緑色の輝きは、悩める若き日本女性を救ったの。
ほんの20~30年くらい前の話よ。これって。
結構ね、誕生石の設定って業界の販売事情に左右されてるんだ。
個人のお店で、勝手に『我が店オリジナル設定の誕生石』なんて銘打って、フェアーとかしてる所もある。
「わりと適当なんですねー。日本の宝石界って」
目をクリクリッとさせて、詩織ちゃんが屈託なく言う。
ちょっと、宝石鑑定士の近藤さんを前にしてそんな、『適当』って・・・。
あたしは内心ヒヤヒヤしたけど、近藤さんは詩織ちゃんの言葉をアッサリ受けた。
「うーん。見ようによってはそう見えるかもね」
「・・・・・・へ?」
「二人とも、『貴石』と『半貴石』って知ってる?」
一般的に『貴石』とは、ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、エメラルド。
この四つを『四大貴石』と呼ぶ。
それ以外の宝石は、全部ひっくるめて、まるめて『半貴石』のグループに突っ込んでしまう。
「ところがね、この貴石と半貴石の分け方も、国や専門家によって違うんだ」
「へー・・・・・・」
「産出が非常に希少なアレキサンドライトを貴石に加えて『五大貴石』に設定してたりするし」
アレキサンドライト。
昼の太陽光では青緑色の宝石。夜の人口照明の下では赤色に変色する。
エメラルド鉱山で発見された経緯から、当初はエメラルドと勘違いされていたという、異色な経歴の持ち主。
変色の程度はまちまちで、石全体が鮮やかに変色する物は皆無に等しい。
よって、良質なアレキサンドライトの価格は天井知らず。
人工宝石も流通してるけど、素人に天然ものと見分けることはまず不可能。