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「素敵なお店ですね」
友達と連れ立ってよく行く、賑やかだけど騒々しいお店とは違って大人の社交場な雰囲気が漂う。
もちろんお客はめいめい自分達の会話を楽しんでいるけど、タガを外している人はひとりもいない。
「ここのオーナーと知り合いなんだ。以前ちょっと、仕事でね」
「そうなんですか」
「ところで詩織さん、今日アメジスト持ってきてる?」
「はい。ちゃんと持ってきました」
あたしはバッグを開けてアメジストのルースを取り出し、手の平に乗せて晃さんに見せた。
晃さんが手を伸ばしてきてヒョイッとアメジストを取り上げる。
「ちょっと没収」
「え?」
あたしは首を傾げる。
だってこれ、あたしの酔い防止の為のお守りにくれたんじゃなかったの?
「これ持ってるせいで、本当に聡美さんが酔わなかったら嫌だから」
「・・・・・・?」
「俺、キミを酔わせたいの」
「・・・・・・・・・・・・!」
ニコリと微笑みながらグラスを傾ける晃さんを見ながら、あたしは固まってしまう。
あ、あたしに酔わせたいって・・・・・・どうして?
「さあ、どうしてでしょう?」
またあたしの心の中を読んだ彼は、イタズラな顔と声でそんな事を言う。
「酔ってみたら、その答えが分かるかもしれないよ?」
胸が・・・心臓が・・・・・・。
バイオレットフィズのソーダのように泡立つ。
緊張してしまって、目の前の自分のグラスに手を伸ばすこともできない。
彼の唇に当てられるグラス。氷の音。揺れる琥珀の色。
それを見つめながらあたしは、戸惑いと高揚の混じった不思議な気持ちを味わっていた。
思い切ってグラスに手を伸ばし、爽やかなレモンの風味と仄かな甘みを一気にノドに流し込む。
アルコール特有の風味が頭を突き抜けた。
晃さんの言う通り、酔ってしまいたい。酔ってこの気恥ずかしさを忘れたい。
そう、思った。
「アメジストっていうのはね、石英なんだよね」
グラスを傾けながら晃さんがそう切り出した。
いつもの宝石談義に話が動いてくれたことに、あたしはホッとする。
「石英って水晶ですよね?」
「そう。石英の中で無色透明なものを水晶と呼ぶ。だからアメジストは紫水晶」
「綺麗な色ですよね。あたし、この色好きです」
「でも実はアメジストって、熱や光で退色しちゃうんだよ」
退職!?
あ、いや退色!? つまり色が抜けちゃうってこと!?
じゃあ直射日光のガンガンあたる場所にずーっとほったらかしにしてるとマズイよね!?
ここで晃さんが手を上げてオーダーする。自分のグラスの替えと、ワインを注文した。
運ばれてきたワインは、琥珀色とオレンジ色が混じったような色合いをしている。
「シトリンって宝石、知ってる?」
「はい。薄黄色の透き通った宝石です」
「あれはね、黄水晶。水晶の中に鉄イオンが混じったものだ。あの天然石はなかなか手に入らないんだ」
晃さんは新しいグラスを傾ける。あたしもそれにつられて自分のグラスを傾けた。
「黄水晶のシトリンの中でも、特別に希少な『マディラ』ってのがある。ポルトガルのマディラワインの色に因んで名づけられた。このワインが、そのマディラワインだよ」
あたしはグラスの中の液体を眺める。
この美しい、なんともいえない色が宝石の・・・・・・。
「さあ飲んでみて。マディラシトリンを飲み干すように」
晃さんの言葉が魔法の呪文のように聞こえる。
あたしはワイングラスに唇を寄せ、その甘さを味わった。
いつの間にかバイオレットフィズの入ったグラスはもう空になってしまっている。
あたしはワイングラスを続けて傾け、ノドを潤した。
甘くて口当たりがいいから抵抗なく飲める。酔いが回って来たのか、体がフワリとした。
・・・・・・そろそろ危険信号かな?
「ちょっと失礼します」
そう断ってバッグを手に御手洗いへ立つ。
もうメイク直ししなきゃ。酔うと崩れやすいから気を抜かないようにしないと。
洗面台の前へ立ち、鏡を真剣に覗き込んだ。
あぁやっぱり崩れてきてる。対策はしてるけど顔が火照るからどうしても崩れるんだよね。
ファンデは薄塗りすれば汚く崩れないけど、あたしに薄塗りしろなんて無理な話だし。
何があっても100パーセント崩れない、永久不変のメイク用品ってそろそろ開発されないかな?
・・・・・・それじゃほとんどイレズミか。
長々とトイレに籠ってメイク直しはしていられない。手早く済ませよう。
出来上がりは正直不服だけど仕方ない。晃さんを延々待たせるわけにいかないし、この程度で手を打たなきゃ。
席に戻ると、今度は入れ違いに晃さんが席を立った。
あたしはふぅっと息を吐き、手で顔をパタパタと仰ぐ。
顔、冷えろ冷えろ。皮脂、出でくるな。あんまり飲まないようにしなきゃね。
晃さんが戻って来て、自分のグラスを持ってさり気なくあたしの隣に座る。
てっきり向かいの席に座るとばかり思っていたあたしは、あれ? と彼を見上げた。
「聡美さん、遠慮しないで飲んで」
「あ、はいあの、飲んでます」
「もっと」
晃さんはワイングラスを持ち上げ、あたしに差し出す。
「言ったろ? 俺、キミを酔わせるつもりだから」
ドキッとして、彼の顔とワイングラスを見比べる。
いつまでも彼にあたしのグラスを持たせたままでいるわけにもいかず、受け取った。
晃さんはあたしがワインを飲むのを待ち構えているような目で見ている。
その目を見ながらグラスを両手で持ち、オロオロと逡巡した。
よ、酔わせるって、酔わせるって、そんな。
そ、そんなことに・・・・・・。
そんな事になったら、メイクが崩れちゃうんだってば!!
心の中でひたすら煩悶する。
だ、だいたい何で、あたしを酔わせたいわけ!?
お酒の席で、男が女に対して『キミを酔わせたい』なんて、そんな・・・・・・!
酔わせてどうするつもりなんだっつーの! それって卑怯でしょ!?
「うん。俺って結構ズルい男だよ?」
晃さんがソファの背もたれにヒジを乗せ、首を傾げてニコリと笑う。
ま、また読まれた!
彼は足を組み、ロックグラスを唇に運んでクィッと傾ける。
アルコールのせいか、いつもよりもずっとくだけた感じがする。
それがすごくカッコ良くて魅力的で。色っぽくて・・・・・・あたしの心拍数を上げている。
あ、汗が、顔に・・・・・・。
あぁ、崩れる崩れる!
「でね、アメジストの話に戻るんだけど・・・・・・」
も、戻るの!? いきなりここでアッサリと真面目な講義に戻りますか!?
こっちの心境、一切お構いなしですか!?
「アメジストは熱や光で退色するって言ったろ? 黄色に変化するんだ。そしてさらに高温で熱し続けると、色が完全に抜けてしまう」
だから紫水晶のアメジストを加熱して黄色っぽく変色させ、手に入りにくい黄水晶のシトリンとして販売していることがある。
または無色の水晶に放射線を当てて黄色に変色させ、シトリンとして販売するケースもある。
「えっと、それって・・・・・・」
「珍しい事じゃない。一般的だ。それになんだかすごく意味深だと思わない?」
「意味深?」
「激しい熱で身を焼かれて、全てを忘れてしまうなんて」
晃さんは胸ポケットから、さっき没収したアメジストのルースを取り出す。
「"熱されてみたい"・・・この石はもしかしたら、それを望んでるかもしれない」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺は・・・・・・熱してみたいと思う」
晃さんはそう言いながら、アメジストには目もくれずにじっとあたしを見つめている。
お酒のせいで潤んだように光る瞳で、真っ直ぐに。
あたしはカァッ! と顔に血が集まり、また額に汗が滲んできた。
崩れる。メイク崩れちゃう。
そんな顔を晃さんに見られたくない!
でもさっきメイク直してきたばかりだし、そんなに何度も席を立てない。どうしよう!
俯き、顔を軽く晃さんから背けて見られないようにするのが精一杯。
不自然にならないよう、そっとグラスに口を寄せワインを飲み込んだ。
胃に染み渡るアルコールに、火照った頬がさらに熱く染まる感覚。
お蔭でますますメイク崩れが気になって、もうどうしようもない。
どうしよう悪循環だ。鉄仮面ストレスの限界が近づいている。不安で、不安で、恐ろしくてたまらない。
パニックを起こしかけているのが自分で分かる。ギャーッて悲鳴をあげてしまいそう。
今ほどこのトラウマを恨めしく思った事は無い。
今、メイクなんか気にしたくないのに。
彼から顔を背けたくなんか、ないのに。
晃さんの事だけを・・・彼の事だけを考えて、彼の目を本気で見つめ返したいのに!
ただ俯き、無言のまま、顔を背けてワインをあおるだけのあたし。
傍から見たらどんな風に見える? まるでやさぐれた酔っ払い女そのもの。
これじゃ嫌がっているようにしか見えない。
せっかくの彼からのアプローチを、あたしが迷惑がっているように思われていたらどうしよう。
彼にソッポを向きながら、心はひどい焦燥感に駆られる。
どうか気付いてほしい。いつものように、あたしの心を読んで欲しい。
こんな態度をとってはいても本心は正反対なんだって。
どうかお願い、晃さん。あたしの心を読んで、察して・・・・・・。
気まずい思いと鉄仮面ストレスに思いっきり板挟みされ、ギリギリと全身を擦り付けられている。
痛いほどの葛藤に翻弄されていると、テーブルにグラスが運ばれてきた。
晃さんのお代わりかな・・・・・・?
チラッと目に入ったそのグラスの中の色彩に、一瞬状況も忘れてあたしの目は釘付けになった。
うわっ!? なにこれ!?
「失礼いたします。プースカフェでございます」
プースカフェ!? それがこのカクテルの名前なの!?
それにしてもこれって・・・・・・!
食い入るようにカクテルを眺めるあたしに、晃さんが明るい声で話しかけてくる。
「聡美さん、このカクテル見るの初めて? 面白いだろ?」
「は、はい。初めて見ます!」
あたしの態度をまるで気に病んでいなさそうな彼の声の調子に、あたしの心は安堵して軽くなった。
それでもやっぱり顎を斜め引き気味に、できるだけ注意深く顔を隠しながらカクテルを眺める。
赤、緑、無色、紫、黄色、青、茶。
七色のお酒がクッキリと、まるで地層のように完全に分かれているカクテルだった。




