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祈りが通じたのか、はたまた捻挫に良いと言われる、良質なタンパク質の大量摂取に努めたのが幸いしたか。
順調に足は回復していった。元々そんなに大した怪我じゃなかったし。
晃さんはあたしの回復を喜んでくれて、あたし達は目出度くふたりで会う予定を決める事ができた。
予定を決めたら決めたで何を着ていこうか、当日の天気はどうだろう、とか色々と考える。
いっそ一着、新しく買っちゃおうかなぁ!
財布は痛いけど、そんな事を考える自分が嬉しくて心はウキウキする。
その予定の日まで、何度か講習で晃さんと会った。
会議室で彼の講習を受けるたびに、ふたりの間の秘密が嬉し恥ずかしい。
まぁ、ふたりの秘密だなんて、そんな大げさなものでもないのかもしれないけれどさ。
でも素知らぬふりで仕事をしている自分達が、どうにも照れくさく感じて、心は弾み浮き立った。
晃さんから、しょっちゅう電話がかかってくるようになったし。
それを何よりの楽しみに、毎日待ち焦がれている自分がいる。
彼との電話は、まるで飛ぶように時間があっという間に過ぎていった。
『じゃあまた電話するよ。・・・・・・あのさ、聡美さん』
「はい? なんですか?」
『そろそろ、俺に敬語じゃなく・・・・・・いや、なんでもないごめん。おやすみ』
「・・・・・・おやすみ・・・・・・なさい」
熱い溜め息を吐く。
もどかしい。揺れ動く自分の気持ちがもどかしくて、疼く様に痛む。
その痛みが、囚われるように心地良い。
カレンダーを見ながら指折り数えて、あたしはその日を待った。
いよいよ迎えた当日、あたしは仕事がお休みの日で。
朝から緊張と興奮がMAXでも、周囲にそれほど実害が無くて幸いだった。
ヘアメイクサロンに行ってプロにバッチリ決めてもらおうか真剣に悩んだけど、熟慮の末にやめておいた。
あんまりキメすぎても男の人って引いちゃうらしいし。
あたしの場合、力み過ぎると失敗しやすい傾向がある。そんな自分の習性を鑑みた上、通常通りでいこうという結論に達した。
いつも通りのヘアスタイルを心がけ、いつも通りのメイクを心がけ。
そして身支度を整えて、約束の時間よりもずいぶん早めに家から出ようとした。
ちょっと早すぎるけど何があるか分からないから、待ち合わせの時間よりも余裕をもって出かけよう。
まるで試合にでも向かうような気持ちで「行ってきます」と玄関に手をかけた時・・・・・・
「あら聡美、どうかしたの?」
とお姉ちゃんが不思議そうに声を掛けてきた。
「え!? ど、どうもしないよ!? あたし今晩出かけるって言ってたでしょ!?」
「それは聞いてたけど・・・・・・」
「じゃあ、なによ!?」
「今日はずいぶん気合いが入ってるのね。やたらと化粧が濃いわよ?」
・・・・・・・・・・・・。
あたしは無言で洗面所に駆け込み、クレンジングした。
急げえぇぇーーーーー!! 最初っからやり直しだあぁぁ!!
丁寧に洗顔して、基礎化粧品を塗り込んで、それから気合いを入れてメイク・・・あぁ! 気合い入れちゃダメなんだ!
細心の注意を払いつつ普通のメイクを終えた時には、時間ギリギリだった。
い、急げえぇぇーーーーー!!
セカセカセカッ!っと両足を動かし、待ち合わせ場所へ向かってひたすら移動する。
できれば晃さんよりも先に到着したい! 彼が来る前に、ぜひメイクのチェックをしておきたい!
でもそんな祈りも虚しく、あたしの目は待ち合わせ人を発見してしまう。
あぁ・・・・・・くそう! 間に合わなかったか! いや、時間的には充分セーフなんだけど。
「晃さんすみません! お待たせしました!」
「いや、俺もいま来たとこだから」
そんな定番のやり取りが気恥ずかしくて、あたしは俯きがちに微笑んだ。
そしてあの日のように肩を並べてお店に向かって歩き出す。
あの時とは少しだけ状況の変わったあたし達。でもあたしの浮かれる心は、あの時以上かもしれない。
お店について席に案内されてメニューを開く。
新しいメニューって言ってたっけ。それにしようかな? でもあたしはこのお店まだ二回目だし。
どれも新メニューみたいなもんなんだよね。
「指輪」
「え?」
「指輪、はめてきてくれたんだ」
メニュー越しの晃さんの視線があたしの指に注がれている。
あたしの右手の薬指には、あの日彼からプレゼントされたエメラルドの指輪が輝いていた。
普段は堂々と身につけられないけど、今日ばかりは大手を振って指にはめてきた。
「嬉しいな。似合うよ、すごく」
「ありがとうございます・・・・・・」
彼の爽やかな笑顔が眩しくて、真っ直ぐ見返せない。
こっちこそ嬉しくて締まり無くニヤついてしまう顔を、慌ててメニューで隠した。
「・・・でね、実は『保証書』と『鑑別書』と『鑑定書』って違うんだよ」
食事しながらの会話はいつも通り、宝石関連の事。
あたしの疑問に対して晃さんはスラスラと答えてくれる。
「じゃあ"保証書"って何なんですか?」
「その宝石を販売した店が、独自で発行する物だよ。宝石の種類とかを保証する物さ」
それって鑑別書や鑑定書と何が違うんだろう?
三つとも結局おなじ物なんじゃないのかな?
「"鑑別書"っていうのは、その販売店以外の、独立した団体が発行する物」
宝石の鑑別や鑑定を専門にしている会社があって、その会社が販売店や個人から料金を受け取って鑑別する。
内容的は、まぁ、保証書と似たような意味だけど、販売店以外の第三者が発行するわけだから信用度は増す。
「そして"鑑定書"っていうのは、正式には『ダイヤモンド・グレーディングレポート』と呼ばれる」
その名の通り、天然ダイヤモンドだけを評価するのが鑑定書。
ダイヤ以外の宝石に対して、鑑定書なんて言葉は使用しない。
「日本で宝石を鑑別、鑑定する団体の有名どころだと、中央宝石研究所とか、AGTジェムラボラトリーとか」
「他にもたくさんあるんですか?」
「あるよ。宝石鑑別団体協議会(AGL)に所属している団体が、信用度が高いって一般的には言われてる」
「高いって・・・じゃあ、ぶっちゃけ低い所もあると?」
「うーん、これってあくまでも民間団体だからね。あ、因みに宝石鑑定士も国家資格じゃないんだ。民間資格」
「え!? そうだったんですか!?」
「専門の学校に入学したり、通信教育を受けたりして、試験に合格すれば個々の団体から資格がもらえるんだよ」
へー、知らなかった。てっきり国家資格なのかと。
でも民間資格とはいえ、専門の知識をお金も時間もかけてしっかり学ぶんだから大変ね。
試験に合格しなきゃ資格を貰えないわけだし。
「タイのバンコクに『AIGS』っていう教育組織があってさ。専門性の高い複数コースが設定されてるんだ。行ってみたいなあ!」
晃さんの目、すごく輝いて夢見る少年みたい。
本当に宝石が好きで、自分の仕事に誇りをもっているのね。そういう男性って素敵だなぁ。
そんな風に考えていると、晃さんがなんだか照れたような顔をした。
もしかしたらあたしが晃さんの事を素敵だって思ってたの、見抜かれちゃった?
・・・・・・やだ、恥ずかしいな。本当にいつも鋭いんだから。
でも「晃さんて素敵」なんてとても言えないし、それは見抜いてもらえてかえって嬉しいかも。
楽しい時間も食事もどんどん進み、それにつれて夜は深まっていく。
「そろそろ次の店に行こうか」
晃さんに誘われて、あたしは胸をときめかせながら頷いた。
そうだ。今夜はまだ、これから。これから彼と過ごせるひと時があるんだ・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
さて。
ここで出てくる永遠のテーマ。
『支払いをどうするか?』
今回はね、やっぱりあたしも支払うべきだと思うのよ! だってあたしから誘ったんだもの!
だからと言って全額払っちゃうと、なんていうか晃さんの男の立場、というものもあるし。
となれば・・・・・・自分の分は自分で払う! うん、ズバリこれでしょう!
しかし、ここで支払いどーのこーのと言い出すのはスマートじゃないよね。
よおぉーし、お店を出た所で「これ、あたしの分です」とかなんとか、さり気なく切り出して・・・・・・。
「聡美さん、なんだかさっきから凄い気迫が漂ってるけど支払いは俺に任せてね」
おおぉぉぉ!? そ、そんな晃さん!?
レジに向かおうとする彼に慌てて手を伸ばした。
「あの、今回はあたしにも払わせてほしいんですけど!」
「ダメ」
「いやあの、ダメってそんな・・・・・・」
「俺にカッコつけさせて。お願い」
ニコッと目を細め、妙に可愛げのある声でそう言う彼の笑顔は本当に魅力的で。
あたしはパッと顔を赤らめ、下を向いてモジモジしてしまった。
もう、晃さんてば・・・・・・。
そんな気を使わなくたって、充分カッコイイのに・・・・・・。
会計を済ませ、店の外に出る。そこで頭を下げてご馳走になったお礼を言った。
晃さんが手を上げて止めたタクシーに乗り込み、次の店に向かって移動する。
「聡美さん、今さらだけどアルコール大丈夫かな?」
「はい、ちゃんと飲めますよ。心配ないです」
タクシーの窓から、夜の街の景色とそこに行き交う人々の流れを眺めた。
どんなお店かな? すごく楽しみだな。
そういえば入社した時の歓迎会で、部長がみんなを連れてってくれたクラブ。
時間がちょっと早くて、女の子達がまだメイクしている真っ最中の時に来店しちゃって。
部長、ママに怒られてたっけ。
しかもトイレに立った時、酔った課長がお店の女の子をしつこく口説いてるシーンに遭遇しちゃって。
いやー、あん時はお互いバツが悪かった。
やっぱり社会人の男性って、そういうお店に行くものなのかな?
騒がしいお店も嫌だけど、そういうお店も、ちょっと・・・・・・。
そんな風に考えていると、間もなくタクシーがお店の前に停車する。
通りに面した、ガラス貼りの解放感のあるドアの周りに小さな観葉植物がたくさん飾ってあるお店だった。
晃さんがドアを開けてくれると、中から洒落たジャズのメロディーが聞こえくる。
各テーブルのお客が思い思いに傾けているアルコールの色が、まるで宝石のように目に飛び込んできた。
晃さんに背中を軽く押され、店の中に入る。
長いカウンターの向こうに、色や形の様々な、数えきれないほどの種類のボトルが並んでいるのを横目で眺めた。
スツールに並んで腰かけている男女の低い囁き声と、女性のヒールが印象的。
店の奥、シンプルな黒い革張りのソファーに晃さんと向かい合って座った。
テーブルの上のキャンドルが、店内の落とした照明の中で暖かく揺らめいている。
人々が交わす控えめな声の会話と、ジャズボーカルの女性のハスキーな声が気持ち良く耳をくすぐる。
「なに飲む?」
室内の雰囲気に気分を良くしていると晃さんが訪ねてきた。
「あ、そうですね、ええっと・・・・・・」
ここで「ウーロン茶あります?」なんて聞いたら雰囲気ぶち壊しよね。やはりアルコールを頼むべき。
うーん、カクテルが飲みたいな。・・・・・・あ、そうだ。
「バイオレットフィズを」
運ばれてきた背の高いグラスの中の、澄んだ紫色のカクテル。
バッグの中に忍ばせているアメジストを連想させてくれる綺麗な色だ。
晃さんはロックグラスを傾け、氷を入れた琥珀色の液体を味わっている。
初めて見る、アルコールを飲む彼の姿がとても新鮮に感じられて、すっごくドキドキしてしまう。
動揺を悟られないようにあたしもグラスに口をつけ、そっとカクテルを流し込んだ。




