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意味はあるの? こんなことして何になるの?
ねぇ、これって本当に美し過ぎる姉を持った不遇?
単純にあたし自身が、詩織ちゃんや他の女性達と比べて全く価値が無いだけじゃないの?
『磨いてこそ宝石』って晃さんは言ったけど。
磨く価値すらない、そもそも宝石ですらない、ただの石ころだったら?
胸元に手を当て、指先でエメラルドの指輪の形をお守りのように確かめる。
平気な仮面を外に見せながら。一生懸命に内側の痛みに耐えながら。
でもちょっと傷が大きかったのかな。痛みが、消えてくれないよ。
それでもなんとかあたしは健気に浮上しようと試みた。
このままじゃいけない。溜め息をつくと不幸が逃げていく。
いつも通りにしていれば、きっと前向きな気持ちになれる。
・・・・・・・・・・・・のに!
せっかくそう思ってるのにお偉いさんたちが、またぞろ余計な事を!
なんなのよ! チラチラチラチラあたしを盗み見る、その意味深な視線は!
『この子傷付いてるかな? 傷ついてるよな? まずいなー絶対これ傷付いてるよ。なんとかフォローしてあげなきゃな。あー傷付いてる』
・・・・・・って、あんたらの視線が物語ってるんですけど!
目でこれ見よがしに訴えるな! いっそハッキリ口で言え!
別に悪気じゃないくらい、あたしもちゃんと理解してるってば!
なのにいつまでも、そんな同情交じりの気まずそぉーな視線で見られてると、余計に惨めになるんですけど!
中年男ってなんでこうなの!? デリカシーが無いのって、ウチのお父さんだけじゃなかったのね!
頼むから、浮かび上がろうとする足を水中から思いっきり引っ張らないで!
休憩時間になって控え室に引っ込んだ時にはもう、同情視線にさらされ続けたあたしの精神状態は疲労困憊だった。
「どうせあたしなんて」っていう最低のコンプレックスに支配されてしまっている。
それが分かっていながら自分でもどうしようもできない。そんな感じ。
悪いことにスマホが振動して着信を知らせた。
こんな時に誰よ、タイミング最悪。今は誰とも話したくない気分なのに。
イライラしながら乱暴に確認すると、晃さんからの着信だった。
デイスプレイを見て、あたしは本格的に自分が落ち込んでいるのを自覚する。
実はあの食事の日から、彼は何度かあたしに電話をくれていた。
晃さんからの電話を受けるたびに、あたしの気持ちはボールのように軽やかに弾んでいたのに。
今、彼から電話をもらって逆に気持ちが沈んでる。これはかなりの重症だ・・・・・・。
空気の抜けたバスケットボールみたいに、気持ちが重くてたまらない。
「・・・・・・はい」
『聡美さん? 晃です。今お昼休みだよね? 電話して大丈夫?』
「はい。大丈夫です」
無視するわけにもいかずにいつも通りを装って電話に出たけど、どうにも張りの無い声しか出ない。
鋭い晃さんがそれに気付かないわけがない。・・・出ない方が良かったかな。
『聡美さん、なんだか元気が無いみたいだけど具合でも悪いの?』
「いえ、そんな事ないですよ。大丈夫です」
『そう? じゃあ食事に誘っても大丈夫かな?』
「・・・・・・え?」
『この前の店から新メニュー開始のお知らせが届いたんだ。良かったら今度一緒にいかない?』
晃さん、またあたしの事を誘ってくれるんだ。
驚きと一緒に戸惑いを感じる。どうしてまたあたしを?
・・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・すみませんけど、ちょっと最近忙しくて」
気付けばあたしは沈んだ声で晃さんの誘いを断っていた。
『別に急ぎじゃないんだ。聡美さんの時間が空いた時にでも行かない?』
「すみません。本当に忙しくて、いつ時間がとれるか分からないんです」
『・・・・・・・・・・・・』
「本当にすみません。ごめんなさい」
ほんの一瞬だけ流れる沈黙の時間が、ものすごく長く感じる。
ごめんなさい晃さん。でも・・・・・・。
『そうか、それなら仕方ないね。またいつか一緒に行こう』
「はい」
『忙しい時に、ごめん。それじゃまた』
「はい。それじゃ・・・・・・」
電話を切って、あたしは静かに思う。
また、なんてもう二度と無いだろう。晃さんはもう、誘ってなんてくれないだろう。
もちろんそれはとても残念だし、すごく寂しいし、本当に悲しいけれど。
でも・・・・・・もしこのままどんどん親しくなっていったとしても、どうするのよ?
そしたら彼はいずれ必ずお姉ちゃんの存在を知ってしまう。
まさに美しく輝く天然宝石のような姉を見た時、宝石鑑定士である晃さんの反応は・・・・・・。
想像するだけで胸が痛い。
子どもの頃から何度も味わってきた、心臓の中に異物が入り込んでしまったような鋭い痛みが襲ってくる。
こんな痛みを胸に抱えたままではとても耐えられない。
またそんな苦しい思いをさせられるくらいなら、拒絶してしまった方がよほど楽だ。
だから、こうするのが一番いいんだ。
今まであたしが男性達にとってきた態度のように、晃さんから距離を置いてしまうのが一番いい選択なんだ。
そうに決まっているんだ。
運がいいのか悪いのか、それから展示会が終わるまで講習会はお休みになった。
晃さんの顔を見なくて済むという安心と、このまま顔を合わせないまま気まずくなってしまうのを気に病む心と、ふたつの感情が混じり合う。
これでいいんだと自分で決めたクセしてグズグスしている。それがとっても情けない。
詩織ちゃんはあたしの落ち込みなんて気にも留めずに、連日やれ当日のドレスがどーのヘアメイクがどーのと煩いし。
はっきり言ってそんなのあたしに全然関係ないんだから、少し黙ってて欲しい!
そんなある日、店舗に夫婦のお客様がみえた。
仲良さそうに肩を並べてショーケースを覗き込むふたりに、栄子主任が声を掛ける。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか?」
「ああ、そのぉ・・・真珠を探しているんだけどね」
「来月、真珠婚式なものですから」
真珠婚式? ああ・・・・・・。
結婚記念日の周期ごとに、その名に因んだ品物をプレゼントして絆を深めるっていう習慣。
最近じゃ地域ごとに結婚周期の呼び名も、周期そのものも変化してきてたりするけど。
それでも普遍的なものはある。
結婚25周年が銀婚式。
30周年が真珠婚式。
35年が珊瑚婚式。
40年がルビー婚式。
45年がサファイア婚式。
50年が金婚式。
55年がエメラルド婚式。
60年がダイヤモンド婚式。
75年がプラチナ婚式。
75年って、ちょっとした近未来よね?
このご夫婦、真珠婚ってことは結婚30周年なんだ。
ひと口に30年っていっても凄い。あたしの人生よりもずっと長く一緒に生活しているんだもの。
「まあ羨ましい。仲がよろしくていらっしゃるのですね」
栄子主任の穏やかな笑顔につられて、ご主人も照れたように笑顔を見せた。
「銀婚式の時には、女房には何もしてやらなかったもんでねえ」
「今年こそは絶対にって、去年からずっと催促してたんですよ」
奥様は嬉しそうにニコニコしてる。
そんなご夫婦の前に、あたしと栄子主任は真珠の商品を並べた。
ネックレス、ペンダント、ピアス、リング、ブローチ。お値段も種類も様々だ。
「まあ! 白や黒だけじゃなくてピンクや銀色や金色もあるのね!」
「母貝の種類によって、様々な色の真珠ができるんです」
「真珠の良し悪しってどう決めるのかしら?」
奥様の質問に、栄子主任がよどみなく答える。
"巻き"と呼ばれる、長い時間をかけて育てた真珠層の厚み。
"てり"と呼ばれる、真珠層の結晶の滑らかさによるキメ細かい光沢。
"キズ"と呼ばれる、真珠にできる窪みの少なさ。
形は一般的には真円に近いほど良いとされている。
「つまり大きな真ん丸の、ツヤツヤしたのが良いの?」
「はい。ですがバロックパールと呼ばれる、円以外の形・・・例えばドロップ型のようなものは価値が高いです。それに窪みは、本真珠の個性のようなものですから」
「色もたくさんあるしねぇ」
「コンクパールという、非常に希少な真珠もございます。表面が火焔模様なんですよ」
「まあ、そんな真珠もあるの!?」
「おいおいやめてくれ。そんな高級品、とても手が出ないぞ」
「分かってますったら」
ご夫婦は顔を見合わせ、笑った。
本当に仲が良いご夫婦。30年間の幸せに満ちた結婚生活の証、か。
羨ましいな。生まれた時点から不運にみまわれたあたしには、手に入らないかもしれない。
幸運な人達っているのね。現実に。
「だけど少しぐらいは奮発してやるぞ? 珊瑚婚式は一緒に迎えられない可能性もあるからな」
「嫌だわあなた、人様の前でそんな」
・・・・・・? 珊瑚婚式を迎えられない?
「ああ、いえ、主人は胃癌を患っておりまして」
「今度全摘手術をするんです。その前に買ってやろうと思って来たんです」
う・・・・・・・・・・・・。
あたしはご夫婦の笑顔を前にして、顔面が固まってしまった。
が、癌? 胃の全摘手術って、それってかなり症状が進行してしまってるんじゃ?
だってこんなに元気で明るくて幸せそうなご夫婦なのに、そんな深刻な・・・・・・。
「お察しいたします。私の父も胃癌を患っておりますので」
「えっ!?」
思わず栄子主任を振り返りながら叫び声を上げてしまい、慌てて口を閉じる。
栄子主任のお父さんが? そんなの全然知らなかった! そんな事情、おくびにも出さないんだもの!
「長い人生、色々あるのよ聡美ちゃん」
「そうよお嬢さん。この30年の間にもずいぶん色々あったしねぇ。あなた」
「おー、なんだかチクチクと刺さってくる口調だな、おい」
「ええ、泣かされましたからね。ここぞとばかり仕返しです」
あははは。ホホホ・・・・・・。
澄んだ声で笑うご夫婦と栄子主任。
あたしは、言葉も無くただ見ている事しかできない。
「お客様、真珠はどうやってできるかご存じですか?」
「ええっと、確か中に何かが入るのよね?」
「はい。中に入って吐き出せない異物を長い時間をかけて包み込み、丸くなったものが真珠なんです」
栄子主任の言葉に、おふたりは顔を見合わせてまた微笑んだ。
30年。ひと言ではとても言い切れない、長い長い時間を歩んだふたり。
たくさんの痛みや苦しみを内に抱えながら、それを少しずつ少しずつ包み込み、まあるく輝いていく。
きっと・・・・・・・今度の痛みもまた・・・・・・
これまでのように包み込んで、さらに大きな輝きとなれるように・・・・・・。
ご夫婦は真珠のブローチをご購入された。
真珠は大変デリケートで傷付きやすいから、使用後は必ず専用のクロスで丁寧に拭く事、保存は他の宝石とは区分けしておくように等の説明を、真剣に聞いていた。
そして来店された時のように、やっぱり仲良く肩を並べて帰って行った。
あたしはご夫婦の背中を見送り、そして栄子主任を見た。
主任はいつも通り全く変わった様子を見せず、伝票に記入している。
痛いん・・・だろうな。とても。
顔では笑いながら、内側では本当はとても痛い思いをしているんだろう。
誰にも見せずに、密かに涙を流したことも、一度や二度ではないんだろう。
でもそうやって少しずつ少しずつ、丸く、大きく輝いていく。
・・・・・・・・・・・・。
あれから晃さんから電話はかかって来ない。当然だけど。
断らなければ良かった。食事の誘い、ウジウジせずに素直に受けるべきだった。
バカだな。あたっして本当に。
真珠の商品を元に戻しながら、自分の未熟さを痛感する。
あたしは後悔という名の痛みを、いつか真珠のような大きな輝きに変える事ができるんだろうか・・・・・・。