平面の向こう側と、閉鎖世界
『本日未明、水代駅連続殺人事件の容疑者として警察が追っていた犯人が、駅構内で――』
テレビからニュースが流れてくる。
よくある報道のひとつだ。
事件の規模としては少し大きいかもしれないが、どっちにしろ、いつも通りだ。
この二次元の画面の向こうでは、毎日毎日、誰かしらが死んでいる。
内容の誤差こそあれど、そもそも事件ごとの違いなんて、次の日には忘れている。
つまり、どうでもいいのだ。
「ごちそうさま」
朝食を口の中に詰め込んで、合掌と共に一言いう。
水曜日。
学校へ行かねばならない。
週の中間ってのが、一番憂鬱だ。
◆◆◆
「行ってきます」
玄関口で靴を履いたあと、長年のルーティンと化した台詞を吐いて、外へ出た。中途半端な曜日にピッタリな、どんよりした天気模様が目に映った。
高校への通学路。
いつもの時間に、いつもの道を、いつもの歩調で歩く。
そうしろと言われたわけではないけれど、誰でもそんなものだろう。わざわざ毎日コースを変える奴なんていない。
信号待ちの長い横断歩道を渡り、出社前のサラリーマンに人気のコンビニの前を通り、建設途中のマンションの横を通る。
近頃の変わり映えと言えば、このマンションが日に日に、ゆっくりとだが天高くそびえたっていくことくらいだ。
今日はどこまで骨組みか積み上げられるのだろうか。
そう思って珍しく空を見上げてみたら、
「おい!! あぶねえぞ!!」
「え?」
野太い声が耳を打った。
空を見上げた自分の目に、落ちてくる『人の身体』が映った。
人が、落下してきたのだ。
「――」
建設途中の、ビルから、人が。――真っ逆さまに。ひらひらと舞っているのは『彼女』のスカートだろうか。
――。
次の瞬間、ばちん、と。
液体が地面に叩き付けられたような音が耳を覆った。
足元に、人間大の赤い物体が破裂していた。
「――大丈夫か!?」
その赤い物体を見下ろしていると、後ろから肩をつかまれた。
さっき自分に声をかけてくれたサラリーマン風の男の人が、寄ってきて心配してくれた。
「はい――大丈夫です」
足元の赤い物体を見ながら、適当に返す。
「飛び降りか……君も災難だったな……うわっ……」
声をかけてくれた男は、足元の赤い物体を見て、身と声を引かせた。
「じゃあ、僕は学校へ行くので――」
赤い物体を回り込むようによけて、歩を進めた。
◆◆◆
『本日、午前八時ごろ、水代市の国道沿いで市内の女子高校生が飛び降り自殺を――』
ラジオ。
平面の世界ではないが、似たようなものだ。
そのラジオから流れてくるニュースを、学校の昼休みにイヤホンで聞いていた。便利な携帯端末だ。知りたい情報がすぐに手に入る。
「やっぱり、女の子だったんだ」
朝の出来事を思い出す。
目の前に女の子が落ちてきて、弾けた。
――。
もしかしたら、十余年の人生の中でもっとも鮮烈な変化だったかもしれない。
目の前で、人が、死んだ。
「――」
平面の向こう側の異常な出来事が、こちら側へ飛び出してきた。
「――あれ?」
人が死んだ。
そのことよりも、
自分の平常が脅かされたことに対して、急に恐怖が湧いてきた。
いまさらになって、朝の出来事をどういう風に処理すればいいか、
わからなくなった。
「平面の、向こう側――」
全部、その記号にひとまとめにして、やり過ごす。
それが――できない。
記号化された平常。普通。
それが揺らいだ。
――やばい。
目の前に頭から落ちてきた今朝の女の顔が、脳裏によみがえった。
アレはどういう風に受け止めればいいんだ。
唐突に自分の『平常』に入り込んできた異常が、規定された自分の理性を突き崩した。
◆◆◆
変化が、入り込んできてしまった。
平面の向こう側の幻想が、こっち側へ入り込んできて、はじめて自分のこれまでの平常が――姿を現した。
平面のあっち側は自分には関係のない世界で。
こっち側は自分が生きる世界で。
それが、
交わった。
じゃあ、今まで幻想だと思ってた、向こう側の世界が本当だっていうのなら、
こっち側は――ちゃんと『本当』なのだろうか。
不安になった。
十余年を過ごしてきたこの街が、本当に自分にとっての平常たりえるのか、不安になった。
だから、初めて街の外に出てみようと思った。
◆◆◆
千円札数枚を財布につっこんで、駅までを走った。
水代駅。
朝のニュースで、手配中だった連続殺人犯が見つかったといっていた。
――どうでもいい情報だ。もうつかまったのなら、どうでもいいだろう。
切符を買った。
どこまで行こうかなんて決めていないから、適当な電子板のボタンを押して、出てきた切符を指に挟む。
とにかく、街の外にいければそれでいい。
自分のすべてだったこの街の『外』にいければそれでいい。
そうして外の位置を知って、この街の平常が確かめられればそれでいい。
ほかの街もこの街と同じように、なんともない世界で。平面の向こう側とは違う、平常の世界。そうであったらいい。
それを再度確信させてくれるなら、この衝動的な旅にも成果を見込めるだろう。
電車が来た。
自動で開く扉をまたいで、車両の中に入り込む。
何度か電車には乗ったことがあるけれど、遠出に使ったことはない。
そもそも遠出なんかしたことがないのだから。
――絶対に途中で降りてなるものか。
電車が駅を次々に跨いでいくごとに、心臓がきゅっと縮まった気がした。
外の景色を見ている余裕がないほど、切迫する。
なぜだ。
なんでこんなにも怖いのだろうか。
◆◆◆
いくつ駅を跨いだか。
窓から差しこんでくる日が橙色を含みはじめて、
――そろそろ降りようか。
知らない駅名が三つほど続いて、ついに胸中をおそいくる不安に耐えられなくなって、列車から降りる決意をした。
下車の決意を決めると、ふっと気が楽になった。
そうしてようやく車内放送の内容がまともに耳に入ってくるようになる。
聞こえてきた。
『次は■■ー、■■ー』
――。
車掌の声が、聞き取れない駅の名前をつむいでいた。
英語? ――いや。
まったく聞いたことのない、ぐにゃぐにゃした言葉。
心臓がまた高鳴った。
鼓動の音がうるさい。
『まもなく■■ー』
自分の後ろ側にある窓を振り向けない。
正面にある窓も、覗きこめない。
見たら目を離せなくなりそうで。
はやく降りたい。
降ろして。
◆◆◆
幾秒かして、ようやく列車は止まった。
意を決して立ち上がり、半目のまま列車の扉から降りた。
「嗚呼――」
扉の向こう側に広がったのは、
碧い、碧い、
一面の水面だった。
◆◆◆
海?
写真で見た海と全然違う。
携帯で映像に見た海と、全然違う。
水色で、底の底まで透き通っていて。
『まもなく列車が発車いたします』
「あっ――」
振り向いたときには、列車の扉は音を立てて閉まって、そして列車がゆっくりと動き始めた。
線路の無い水面の上を。
もうなにがなんだかわからない。
今まで知ってきた常識が、音をたてて崩れた気がした。
駅は金属造りで、武骨な形をしていた。
水色の海にぽつんと浮かぶ、鉄塊だ。
周りは一面を果てしない水面に囲まれている。
どこにもいけない。
いくなら、この水面の向こう側しかない。
水面の向こう側。
その水の平面のずっと奥の方には、『街』みたいなものが見えた。
自分の住んでいる街とは少し違うけれど、水の中にあること以外は、街らしい装いだ。
建物はあるし、街燈が光る様子も見える。
でも、水の中だ。
ふと、そこで自分と同じように列車を降りてきていた人物の姿に気付いた。
二人。
自分と同じように列車から降りてきた人。
でも、彼らには奇妙な姿態の違いがあった。
今までずっと下を向いていて、気付かなかった周りの乗客たちの変なところ。
彼らの顔には『えら』がついていた。
ぱっくりと割れたえらだ。
まるで魚のような。
すると、うち一人が水面へ飛び込んで行った。
そしてもう一人は、
こちらに気付いた。
「――あ? なんだよ、じろじろ見やがって」
言葉は同じだった。
「え、あっ、いや、なんでも――」
「あー? ……ああー」
そのどすの利いた声色に気圧されて、つい黙りこくってしまう。というより言葉がでてこない。
すると、彼のほうが何かに気付いたように言葉をつむぎだしていた。
「お前、別の世界から来たんだな。――遠出は初めてか?」
「あ……はい……」
「どこから来たんだ。えらも翼も、角もないって珍しいな」
どこから。
普通に市の名前をいって、果たして通じるのだろうか。
「――水代市の……水代駅から……」
「んー……あー……あの『閉鎖世界』からか。また珍しいな。あの世界に住んでるやつって、あんま外に出てくることないんだけどな。まあ、だから『閉鎖世界』なんだろうけど」
「閉鎖世界って……?」
「世界の名前だよ。そのまんまだ。ここは『水中世界』。あと三つ先にいけば、『空中世界』なんてのもある」
なにがなんだか。
「まあ、閉鎖世界の連中は外にでねえからわからねえだろうけど、この世界って、いろんな体系の世界が列車で繋がって出来てるんだぜ? ほかの世界のやつは結構早めにそれを知るんだけどな」
「俺はそんなこと……」
「閉鎖世界の奴は極端に変化を嫌うらしいからな。お前が閉鎖世界で生まれた生物なら、知らないのも当然だろうよ。――まあ、帰りたいならここでまってりゃ戻りの列車が来る。それまでおとなしくしてるんだな」
そういって、彼は前の一人と同じように水面に飛び込んで行った。
「……」
◆◆◆
自分の平常が、仮初のものであったことを知る。
◆◆◆
違う。
あれが自分にとっての平常だった。
規定された路線。
都市の世界観と、価値観によって規定された成長路線。生活路線。人生路線。
自分で選択した気になっていた道も、結局は世界観によって規定された選択の道だ。
自分の選択の、余地がない。
でも、
「心地よかった」
固定化された世界は、平穏だ。
自分の場合は、あのイレギュラーがないまでは、平穏だった。
「変化は――恐怖だ」
急激な変化を、身体と精神が全力で拒んでいる気がする。
昔、勢いだけで読んだ小難しい本の中に書いてあった一節を思い出した。
――『人間は、潜在的に変化への恐れを抱いている』
それを今まさに体感した気がした。
どうするべきか。
この新しい――別の『平常』を前にして、どうするべきか。
違う。
その思考も、「自分ならこうするべきだ」、「人間ならこうするべきだ」、そういう規定された記号に影響を受けている。
じゃあ、自分の価値観ってのはどうやって生まれるんだ。
自分の意志ってのは、どこにあるんだ。
なにものにも関与されない、ただそれのみで在る自分は、どこにあるのだ。
『街へ帰る』。
『水面へ飛び込む』。
――。
選択すらもできなくなって、
考えるのをやめた。
そうして、
ふと吹いた水上の風が身体を押したから、
――俺は水面へ飛び込んだ。
―――
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こうしていろいろな幻想都市を列車で旅する少年の物語がはじま……らない。