楽園へと届く翼
クレスは空が好きだった。
己の青い空を自由に飛び回る純白の翼が好きだった。
空には全てがあったのだ。憎しみも、妬みも、この世の全ての悪感情がない綺麗な世界だった。
風が体に纏う。空は彼の世界だ。彼がいるべき世界だ。誰にも妨げられない、馬鹿にできない。クレスは誰よりも空の中を泳ぐのが得意だった。
――ああ、なんて気持ちがいい。
くるりと、玉のように回ると一瞬だけ天と地が反転する。
まさに、彼にとっては楽園と失楽園。
さあ上へ。もっと上へ飛ぼう。
大きく羽を羽ばたかせると、悲鳴が堪えられないほどの痛みが走った。羽だ。羽に不備が生じたのだ。信じられない思いで羽を見ると、そこには大きな穴と、空中へと飛び立つ血潮があった。それを視認すると同時に、大きな音が耳に入った。
重心が傾く。空が遠のく。羽が舞い散る。その様子は、まるで翼が彼を置いてどこかへ行ってしまうようにも見えた。
「そんな、いやだ……! 翼がなかったら、僕はどこへ行けるって言うんだ……ッ!」
手を伸ばす。届かない空に、手から滑り落ちてしまった翼に、彼は狂うように手を伸ばす。
――結局、空に手は届かなかった。
「はい、それじゃあまたよろしくお願いしますね。シディスくんもじゃあね」
「うん、また来てねユーリお姉さん」
ユーリは近所の子どもに手を振ってから、急いで自分の家へ向かって飛び立った。
いつもよりも多い収入にユーリはほくそ笑む。それに、今日は婚約者の好物も手に入ったのだ。きっと喜んでくれるはず。
家に着くと、ユーリはすぐさま地面に降り立って玄関口の扉を開け、愛しい人の名前を呼んで自身の帰宅を告げた。
彼の好物が手に入ったことも声を弾ませて告げたが、彼はベットの上で一切身動きしない。ユーリは仕方ないことだと思いながら、落胆の息を吐かざるおえなかった。
「あのね、今日はシディスくんの家に行ったの。うん、君を助けてもらったお礼をしにね。なのに、お礼のお礼をもらっちゃった」
鈴を鳴らすような笑い声を響かせて、ユーリは依然と態度を変えずに話しかける。
しかし、それでも彼は何も聞きたくないとばかりに、一つだけの翼でその体を抱きしめていた。よくよく見れば、その翼は震えているようにも見える。
「それとね、今度は君も連れてきなさいって……。――だからね、クレス」
一緒に行こう、とユーリは口にしようとした。
しかし、それから先は口にできなかった。否、発することを許されなかった。
「――っ頼むから、それ以上僕に話しかけないでくれ……!」
怒りを堪えた声だった。同時に、涙を堪えた声だった。
ユーリは視線を床に下げると、ごめんと小さく謝罪した。
彼を傷つけてしまった。自分の無神経な言葉が彼を傷つけたのだ。ユーリは、なにもできない自分を憎々しく思った。
「……もういいから、出てって」
ユーリはその言葉に何かを返そうとしたが、少し考えて口を閉じた。
きっと、きっとわたしの言葉を聞いてくれるクレスにいつか戻ってきてくれる。その時まで、彼がわたしを必要とする時まで待とう。
ユーリは扉を開けると、中にいるクレスのほうへ一度振り返った。何も変わらない。この先も変わらないだろう彼がそこにいるようで、ユーリは頭を振ることでその思考を打ち消した。
大丈夫。変わる。わたしが、クレスを変えてみせる。
一対の翼を翻して、今度こそユーリは外へと出た。
クレスは空から墜落した。いわゆる、人間の手によるものだった。
通常ならば死ぬ高さだったのだが、幸か不幸か仲間の救助により助かったのだ。だが、生き残りの対価は高い。クレスはこれからの一生涯を片割れだけの翼で――永遠に飛べない体で――過ごす羽目となったのだ。空のない世界など、クレスにとって息をするなと言われているも同然だった。
呆然としているクレスの前で、ユーリが泣いていることは覚えているが、クレスの中に湧いたのは絶望のみだった。人間を恨むよりも先に、己の未来に絶望したのだ。
翼族の住むここでは、翼のない者は冷遇される。クレスが翼を失った代償に得られたのは、同属からの憐憫の瞳だった。しかし、クレスにとってそんなことはどうでもよかった。クレスにとって重要だったのは空へ飛べない。楽園に行けない事実だったのだ。
外へ行けばそこには翼を持つ同属たち。己にないものを持っている彼らを見て、クレスは嫉妬に狂いそうになった。ゆえに、自然と外に出ることを止めた。
窓から覗ける空が恋しく、また憎い。
日々思うことは、なぜ自分はここにいるのかという疑問。飛べない僕は僕ではない。だというのに、クレスはここでこうして生きている。わかっている。理解しているのだ。あの時、あの瞬間、翼を撃ち落されたあの時に、クレスは死んだのだということに。
――では、ここにいる僕はなんなのか。
己という存在はなんなのか。ここで息をしている自分はなんなのか。
それこそ、とっくの昔に知っていることだった。
「僕は、置いていかれたんだ」
翼は楽園に飛び去ってしまった。ここにいる自分は抜け殻だ。なら、どうする。
腕の中には仕方なく切り取られ、穴の開いてしまっている自分の翼。背中に生えているものと揃えれば、偽者の一対の翼となる。
「――はっ」
クレスは笑った。嘲笑でも諦めのものでもない、喜びからでたものだった。
「そんなの、最初から決まってる」
クレスは宝物のように翼を抱きしめると、暗い笑みを浮かべながら数日ぶりに外に出た。
「クレス?」
ユーリが家に帰ると、そこにはもぬけの殻になったベットしかなかった。翼を失ってから一度も外に出たがらなかったクレスはどこへ行ったのか。
ユーリは混乱しながらも記憶の中を模索する。今にも倒れてしまいそうなほどの恐怖が全身を襲っていた。なぜ、今になって、いや今だからこそ彼は消えたのか。
―― 空だけが、僕の世界なんだ ――
この世が空だけであったのなら、どれほど素晴らしいだろう。
彼の言葉を思い出す。空に恋をしていた彼。誰よりも美しく飛んでいた彼。そんな彼だからこそ、ユーリはクレスを好きになった。
――その彼が、空を失ってしまったら?
思い当たった現実に、ユーリは震えを隠し通せない。自分がいるから平気だと思った。わたしが支えてあげれば、彼は大丈夫だと思ったのに。
「行かなきゃ」
ここらで一番高い場所に。
ユーリは、クレスにはない翼を羽ばたかせて上空へと舞い上がる。翼族は人間とは違って何倍も視力がいいのだ。辺りを見回すように探せば――いた。自分の体ほどもある翼を抱きしめ、疲れ果てた形相の男が。ただでさえ天使は飛んでばかりで歩くことに不慣れなのだ。クレスの苦労は尋常ではないはずである。
ユーリはクレスの姿を確認すると、まっすぐに彼がいるその丘の頂上に降り立った。
「――クレスっ!」
クレスは半ば崖のようになっている丘の端にいた。ユーリは駆け寄ろうと足を動かしたが、クレスの優しそうな笑みに、それを躊躇してしまう。
「やあユーリ。やっぱり来たんだ。来ると思ってたよ」
翼を失ってから見なくなった大好きな笑顔。しかし、その表情は以前見たものより幾分違っていた。まるで、全ての迷いから解き放たれたかのようだった。
「クレス、帰ろう? 今ならまだ間に合うよ」
ユーリの言葉に、クレスは耐え切れないと噴出した。
「間に合う? もう間に合わないよ。だって終わったことだ。間に合うもなにもないじゃないか」
「間に合うよ。だって、クレスはまだ生きてる。ここにいるじゃないっ」
クレスはユーリの言葉に首を振った。
「なにもない。なにもないんだよユーリ。もう僕にはなにもない。ここにいる僕だってそうだ。ここにいるのはただの抜け殻。たった一枚の羽でしかない。これから翼に帰ろうとしているだけの、諦めきれない羽なんだ」
泣きそうな表情で、クレスは己のもがれた翼に目を落とした。
「――っ違う! なにもないなんてことはない! わたしがいる! 空へ行きたいならわたしがクレスを連れて行ってあげる! だから――!」
「それじゃだめなんだ。……それじゃだめなんだよ、ユーリ」
あの風を、太陽を、空を、感じるのは己の翼でなければならない。他人の翼ではだめなのだ。
「君にはわからないだろう。人間が好きで、地上を闊歩できる君にはわからない。――ああそうだ。君が失えばよかったんだ……っ。君には居場所があるんだからっ。なのに、僕には空しか居場所がないのに! なんでなんだよぉ!」
クレスは蓋をしていた感情をぶちまけた。
一緒にいるたびに思った。なぜ自分なのだろうと、なぜ僕でなければならなかったのだろうと。あの時空を飛んでいたのがいけなかったのか? それともそういう運命だったのか? そんな事実は認めない。だって、それでは不公平ではないか。僕じゃなくたってよかったじゃないか。僕には空しかなかったのに。
泣き喚きながら、翼を決して手放さずに地面がなくなっている背後に向かって後退していく。
クレスは見る。恋人である女の泣き顔を。幸せにしてやろうと決めていた女の悲壮な表情を。
クレスはユーリに向かって微笑んだ。
「こんな惨めな姿で生きていくぐらいなら、死んだほうがましだ」
クレスは背後の空に飛び込んだ。
「クレスッ――!」
弱い恋人を許してくれ、ユーリ。
姿の見えない恋人の声を最後に、クレスは己の身を包む風に目を閉じた。
なんて心地がいい。そうだ、これだ。僕はここにいたんだ。
目蓋を上げると、そこには彼が焦がれた青い空と、それを被うように風に身を任せている一対の己の翼があった。もう失ったはずの純白の翼。あの頃に戻ったかのように傷一つない自慢の翼。
そう、羽は今こそ翼に戻ったのだ。
クレスは笑った。こここそが楽園であると。僕は帰ってきたのだ。
「――あぁ、やっぱり、ここに、あったんだ」
眩むような視界の中、クレスの意識はぐしゃりと砕ける音と共に漆黒の空に堕ちた。
――という夢を見たのです。私が。
実際、夢で出たものは恋人関係めちゃくちゃ悪かったんですけどね。女のほうが人間の男を連れてきて、主人公慰めにくるっていう。本当は主人公の自虐とか凄かったんですよ。人間大嫌いでしたし。人間嫌いだった僕が人間みたいに地面を這いずり回っているなんて皮肉だろうと笑ったりね。
女のほうがなんか冒険してたはずだけど、忘れちゃったw
ではではー、投稿しない宣言を破ってしまいましたが、お楽しみいただけたら満足でございます。最後まで読んでいただけてありがとうございました。




