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およずれごと  作者: もりおりさかな
お参り
7/23

閑話

 小路を曲がって姿が見えなくなると、小さな翁は姿を現すのを止めた。

 よくない噂が広がり、ここ最近お参りに来る人間はお鈴たち以外にいないが、万一ということもある。

 それにしても――と、小さな翁は噂のひとつを思い出して可笑しくなった。

 お参りすると妖怪に憑かれる。

 誰が言い出したのかは分からないが、当たらずと雖も遠からずなのが面白い。

 人間の噂にはたまにこういうことがある。姿は見えずとも、何かいると感じることはできる。そういう者もいるのかもしれない。

 ――これだから人間は面白い。

 口元を綻ばせながらそんなことを考えていると、すぐ近くで小さな翁を呼ぶ声が耳に届いた。

 声のした方を見ると、不機嫌そうな顔が目の前にあった。いつの間にか獣も姿を現すのを止めており、その足は地から離れている。

「ずいぶん近いですね。驚かさないでくださいよ。ただでさえあなたの顔は恐いんですから」

 そのようなこと、微塵も思っていないのは明らかだが、獣は異議を唱えることなく、ふわりと一歩後ろに下がった。

「……なぜ言わなんだ?」

「おや。そこはなぜ言った、の間違いではないですか?」

 獣の渋面と相反するように、小さな翁はにこやかな顔で向き合った。だがそれが不満だったのか、獣は小さく舌打ちする。

「そのことではないことぐらい判っておろう。たまには一回で答えを返してみろ」

「そんな面白くないこと、あなたに対してするはずもないでしょう」

 さらに笑みを深めた顔に獣は重ねて舌打ちし、口を開きかけた。だが、結局同じことの繰り返しにしかならないと思ったのか、諦めたように小さく息を吐くだけに変わった。

「あれだけ詳しく話しておきながら、なぜ、己が消滅する見込みについては話さなんだ?」

 小さな翁の片眉がほんの少し動いた。

「忘れていました」

「どうせならもっとましな返しをしろ。他のものの話をしておるのに、己のことのみ忘れるなど、そんな器用な忘れ方があるか」

 獣は真っ直ぐに見つめ、小さな翁も目をそらすことなくそれを受けた。

 だがそれも短い間のこと。小さな翁はゆっくり瞬きすると、小さく息を漏らし、肩を竦めて見せた。

「そんなに気にすることでもないでしょう? 全てのものに消滅の見込みがある。それはわかったはずです」

「そうだろうな。だがそれは言わなんだ理由にはならん」

「随分拘りますね……そんなに今の状態が心配ですか?」

 今度は小さな翁が獣を真っ直ぐに見る。だが獣はすぐにふいと横を向いてしまった。

 その態度に小さな翁は苦笑したが、そこにはほんの少し、嬉しさのようなものも垣間見えた。

「あなたは存外心配性ですね。そこまで気にせずとも、そのうちまた人は来るようになりますよ。季節が移ろう頃には噂も消えるでしょう」

 人の世は目まぐるしい。こんな小さな稲荷社の噂など、どうせすぐに忘れられるに違いないのだ。そうなれば、また自然と人の足も向くというものだ。

 だが、獣は顔の向きを戻そうとはしない。その頑固ともいえる様子に小さな翁は笑った。

「あなたと同じように、あの子たちは気が優しい。言えばこの先ずっと気にするのではないかと思っただけですよ」

 優しい、というところで獣の顔がぱっと動いた。憮然とした面持ちで「儂は別に……」と零しているが、それは小さな翁の笑いをさらに誘うだけだった。

「言えばあの子たちは通ってくれるでしょう。でももし、ここを離れることになったら? 離れた先でも、ここに人が来ているか心配しそうじゃないですか」

 特にお鈴は、嫁いでここに通えなくなることは多分にありえる。そしてそれは、年頃となった今、そう遠い先の話でもないはずだ。

 最後は問いかけるように紡いだ言葉に、獣の喉から肯定する音が漏れた。その音に、小さな翁は満足そうに頷く。

「あの子たちまで縛られる必要はありません。人の命は短い。憂いを抱くことなく、幸せになれる場所で、幸せに暮らしてほしいんです。それに、言わずとも通える間は通ってくれますよ」

 小さな翁はそう言いながら、先ほどまでここにいた兄妹の姿を思い浮かべた。

 幼子の頃から度々参りにここへ来ていた。初めは大人と。次第に二人で、ひとりで。その愛らしいともいえる姿に、いつからか訪れを嬉しいと思うようになっていたのだ。

 だが己と同じ、〈この世にあらざるもの〉がそんな二人の知り合いを唆し、その結果お鈴が襲われた。幸い怪我はなかったが、見知った者に襲われるというのは、心に大きな傷を負うだろう。

 そして襲った男も。本来なら、そのようなことをしでかすこともなかったはずの者なのだ。彼もまた、心に傷を負ったに違いない。

 それを思うと、罰なく男が牢から出られることを、そして件に関係した者の傷が癒えることを、願わずにはいられなかった。

「おぬしは人に肩入れしすぎではないか」

 己よりも人の心を心配する小さな翁に、獣は「儂には理解できん」と苦い顔をした。

 そもそも、程度の差はあれど、退屈しのぎに人をからかうものの方が多いのだ。人の心まで気にかけるようなものは珍しい。

「まぁ、こんな小さな場所の名を貰い受けるくらいですから。変わりものであることは否定できませんね……でも、きっとあなたなら理解できるようになりますよ」

 小さな翁は獣に近付くと、頭を優しく撫でた。その目には、いつものからかうような光はなく、優しい穏やかさを湛えていた。

 普段なら触れられる前にかわす獣だが、今回は逃げることなく、されるがままとなっている。ただし、その目は普段より少しだけ、大きく開かれていた。

 からかわれることには慣れているが、慈しまれることには慣れていないのだ。

 互いに無言のまま、しばらくその状態が続いたが、ついに耐えきれなくなった小さな翁が吹き出し、声を上げて笑い出した。

 それを合図にするかのように、獣もぱっと退き、小さな翁の手が届かない所まで離れた。

「いえ、すみません。あまりにも可愛らしい反応だったので、つい――」

「うるさい」

「褒めてるんですよ。それに、言ったことは本心ですし」

「だまれ」

 獣は毛を逆立てて抗議の声を上げたが、その姿はもはや恥ずかしさ故のものにしか見えない。

 尚も笑いが収まらない小さな翁は、再度すみませんと言いつつ、それを悪いと思う様子も、隠す仕草もなかった。

 今は何を言っても笑われる。結局、獣は喉の奥で小さく唸りながら、小さな翁の笑いが収まるのを大人しく待つしかなかった。


 ひとしきり笑って、やっと落ち着いた頃には、獣は完全にへそを曲げていた。それでも、この場を去らないあたり、獣の性格が窺えるというものである。

 小さな翁は、そのことに再度笑いが溢れそうになるのを何とか堪えて、離れた場所で背を向けて座る獣に声をかけた。

「あなたは相手を思いやることができる。まだ短いけれど、人間と同じ刻を過ごしている。だからきっと、私の考えも理解できると、本当にそう思っているんですよ?」

 ほんの少しは、笑ったことを悪いと思わなくもなかったので、その色を滲ませてみたが、獣は耳をぴくりと動かしただけで、振り返りはしなかった。

 どうすれば機嫌が直るのか。参りましたね、と呟きながら苦笑すると、獣は徐に立ち上がった。

「少なくとも、今の儂には理解できんことだ」

 振り返ることなく告げられた言葉には、怒りや恥ずかしさなどはもう感じられない。だからといって、笑みのあるものでもなく、ただ淡々と告げられたものだった。

「それは残念です」

 だが、言葉とは裏腹に、小さな翁は自分の口の端が上がるのを止められなかった。

「そういえば、あの子たちはそろそろ家に着く頃でしょうか。あなたも、あまり遅くなると心配されるのではないですか? あぁそれに、ご飯を貰い損ねてしまいますね」

「人間の飯など、食べずとも問題ない」

「でも、旨いのでしょう?」

 小さな翁の口調は、またからかいの含むものになっていた。

 〈この世にあらざるもの〉が存在し続けるのに、何かを食べるということは必要ない。だが、食べられないわけではないし、旨い不味いも感じられる。

 以前あの家に行ってすぐの頃、様子を尋ねた際に、ついでのように「飯の味付けが好みだ」と、ぽろりと漏らしたのを小さな翁は忘れてはいなかったのだ。もちろん、その時もさんざっぱらからかわれた獣が忘れるはずもない。

「…………また来る」

 今日はもうこの後も何を言ってもからかわれると思ったのか、げんなりといった空気を纏わせながら、獣は足を動かそうとした。

「そうですか。残念ですが気を付けて。また来るのを楽しみにしていますね」

 小さな翁は獣の背中に向かって笑顔で手を振った。その空気を察知したのか、獣はひとつ大きなため息を吐くと、それを最後に福屋の方角の空へと駆け出す。

 そしてその姿はすぐに見えなくなった。

 小さな翁は手を振るのはやめたが、弧を描く口元はなかなか戻らなかった。

 本当に優しいものだと、空を見て独り言ちた。昔からよくからかっているが、最後は必ず「また来る」と言って去っていき、その言葉通り、長く間を開けることなく顔を見せに来る。

 そして今は、己よりも消滅する見込みを心配してくれている。

 お鈴のことにしてもそうだ。

 小さな翁が、助けてやってくれと言ったわけではない。このままでは危ないと、自ら動こうとした時には横から飛び出していたのだ。

 嫌いなものの臭いがしていたから、などと言っていたが、はたしてそれだけで人間を助けるように動けるかどうか。

()()――ですか」

 このままあの兄妹たちと過ごしていけば、きっと自覚するに違いない。小さな翁はそう確信していた。

「どうか、あの子たちを見守ってあげて下さい。そして……あなたも縛られないで下さいね」

 目を閉じて、願うように呟いた言葉は、静かな境内に染み入るように消えていった。




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