第8話 遠く、長く、果てしない道しるべ
バイトに行きたくない……
そう思ったけど、心配して電話をかけてくれた紅谷さんの最後の言葉を思い出す。
『辛いとは思うけど、ちゃんと来いよ!』
これ以上あんなに優しい人に心配をかけてはいけない。その思いだけで体を奮い立たせ、バイトに向かった。
※
この日は土曜日で、バイトに入った時間からすでに喫茶店内は混雑してあわただしい様子だった。
ロッカールームに向かう途中、やっぱり窓側の席を無意識に見てしまったが、いないことがわかっていたからか、そんなに心は乱されなかった。
急いで着替えてキッチンに行くと、紅谷さんがほっとしたような顔をして笑った。
「おはよ」
「おはようございます……」
私は気恥かしいく思いながらも挨拶する。紅谷さんはすぐに表情が真剣になって提供を出す。
「これ、十八卓にお願いします」
そう言われてホールに出てからは、ほんとうに忙しかった。
鬱々とした気分で落ち込んでる暇なんてなくて、提供し、注文を聞き、お皿を下げてすぐにお客様を案内し、ウォッシャーを動かし……休む暇なく二時間ほど働いてやっと店内が落ちつく。キッチンに戻ると。
「佐倉、悪いけど、コーヒーのお代わり行ってから休憩入って」
そう言われて、私はコーヒーポットを持ってお代わりの注文の入ってる席へ向かう。それから他のお客様にもコーヒーのお代わりがいるか聞くために店内を歩き、窓側の席に座った常連の老齢の男性――松葉さんに話しかける。
「コーヒーのお代わりはいかがですか?」
「じゃあもう一杯入れてもらおうかな」
松葉さんは読んでいた小説から顔を上げて言う。私はカップを取りコーヒーを注ぐと静かにソーサーに置いてとっての向きを右に整え、松葉さんの前に置く。
「どうぞ」
私は言って笑いかける。
「ありがとう、佐倉ちゃん」
松葉さんは私の顔を見て、穏やかに笑いかける。
「なんか最近の佐倉ちゃん元気ないみたいだけど、大丈夫かい?」
そう言われて、私はビックリする。
「そう、ですか……?」
「ここのコーヒーは美味しい。それでその美味しいコーヒーを佐倉ちゃんが笑顔で淹れてくるともっと美味しい。何か悩み事があるのか知れないけど、早くいつもの元気な笑顔の佐倉ちゃんに戻ってくれるいいな」
松葉さんは独り言のように微笑んで言い、コーヒーをゆっくりとした動作で飲むとまた小説を読み始めた。
「ごゆっくりどうぞ……」
私はお辞儀をしてキッチンに戻る。
確かに最近の私はバイト中もどこか上の空で、それでも普通にしているつもりだったしそう出来ていると思っていた、松葉さんに指摘されるまでは。お客様に対してとても失礼な態度を取ってたと気づいて恥ずかしくなる。松葉さんに心配までかけて、私は何をやってるんだろう……どんどん思考は悪い方にいって自己嫌悪になる。
沈んだ顔でキッチンに戻ると、目の前に突然黒沢君が現れてぶつかりそうになり、あわてて顔を上げる。
「わっ! ごめん、黒沢君」
謝ると、黒沢君がぐいっと顔を近づけて覗きこんでくる。
ちっ、近い……!
私はビックリして、黒沢君から距離を取るように体をのけぞらせて彼の顔を見返す。
「うーん、やっぱり佐倉ちゃん元気ないなぁー」
黒沢君にまで元気がないと言われて、正直へこんでしまう。私、そんなにあからさまに元気がないかな……ちょっと泣きそうになってしまう。
「そっ、そんなことない、よ?」
できる限りの元気な声で言ってみるけど、声が震える。
「そう? ならいいんだけど。昨日はビックリしたしよ」
黒沢君にそう言われて、昨日、客席で泣き崩れた自分の行動を思い出してかぁーっと頬が赤くなる。私ってば、なんて恥ずかしいことしちゃったんだろう! 背中に冷や汗がにじむ。
「迷惑かけてごめんなさい!」
私は勢いよく頭を下げられるだけ下げて謝る。
「いや、迷惑だなんて思ってないけど……心配した。いつも元気な佐倉ちゃんがあんなに泣くなんて、よっぽど辛いことでもあったのかなって。大丈夫?」
言いながら、頬をかく黒沢君。
うぅ……黒沢君、あんなに迷惑かけたのに優しく接してくれて、なんて良い人なんだろう。でも、何があったかは……言えない、ううん、言葉にできないよ、悲しすぎて。目がじわっとにじんだのを感じて、慌てて下を向く。
「心配かけてごめんね、でももう大丈夫だから。私、休憩って言われてるから、お先に」
そう言ってタイムカードを押して、ロッカールームに駆けこんだ。パタンッと扉の閉まる音と同時に、頬を冷たいものがつたう。後から後から、涙があふれ出してくる……
あーあ、あんなに泣いたのにまだ涙は出るんだな……
せっかくバイト来る前に、濡れタオルで目元冷やしたのに、これじゃすぐに泣いたのがばれちゃう……
私はその場にしゃがみこみ、声を殺してすすり泣いた。
しばらくしてドンッと背中に扉が当たり、私は慌てて立ちあがる。扉の前にしゃがみこんだ私が邪魔で扉が開かなかったのだ。
「すみませんっ!」
そう言って扉を開けると、紅谷さんが立っていた。
「なんだ、佐倉か。ドア開かないからビックリしたよ……」
紅谷さんは、私の顔を見て表情が止まり、どうしたのだろうと首をかしげる私から視線をそらして歩きながら私の頭をぽんっと優しく撫でると、奥の冷蔵庫に向かった。
「……また、泣いてたのか?」
そう言われて、両手で顔を押さえると頬が濡れていて、さっきまで泣いていたことを思い出すと同時に、泣き顔を見られたことに動揺する。私は慌てて袖で顔を拭き、紅谷さんから顔をそらす。
「電話でも言ったけど、俺でよかったら相談にのるからな。たぶん……あいつのこと知ってるの俺だけだろうし……」
最後の方はよく聞きとれなかったけど紅谷さんは言って、冷蔵庫から野菜を取り出すと、私の方を見ないで扉に向かう。私は慌てて紅谷さんを呼びとめる。
「あの……! 後で話を聞いてもらってもいいですか?」
「ああ、わかったよ」
そう言って、紅谷さんは振り返らずにキッチンに戻って行った。
この恋はもう終わりにしなきゃいけないんだ……だから、紅谷さんに話を聞いてもらって、もうふっきらなきゃ……そう心の中で呪文のように唱える。
※
バイトを終えてから、駅の反対側にあるファミレスに向かう。そこで、紅谷さんが話を聞いてくれることになっていた。
私は紅谷さんの向かいに座り、今までの事をすべて話す。
彼と出会ったこと、私だけが知っている彼の秘密、いつのまにか恋をしていた自分、それでも伝えないと秘めた想い。
それがいつのまにか彼と接点を持って、自分の意志とは関係なくどんどん走りだしていた想い、そして彼との別れ……
「私は結局、振られるのが怖くて逃げていたんです。気持ちを伝える勇気もなかったくせに、彼に“サヨナラ”と言われたことがショックで。もう会えないって分かってるのに、もうこの恋を諦めなきゃいけないんだってわかってるのに……それでもまだ私の“心”には彼への想いがあふれてて……諦められないんです……」
私は心臓に両手をあてて、今の気持ちを話した。喋り終えて、またあふれてきた涙を手の甲で拭う。
紅谷さんはだらだらと喋る私を静かに見守っていてくれた。私が話し終わってから、しばらく黙っていた紅谷さんが口を開く。
「……いじゃない……」
その言葉が聞こえなくて、私は聞き返す。
「えっ?」
「無理やり忘れようって思うから辛いんじゃないか? 諦められないから、辛いんじゃないか?」
「それは……」
口ごもる私を、紅谷さんが真剣な瞳で見る。
「無理に気持ちを消そうとしないで、そのままを受け入れて……いつか自然と諦めがつく時を待てばいい」
その声はとても優しかった。
「それまではたくさん泣いてもいい。たくさん悩んで、何度も思い出して、また泣いて。いつか自然と次の恋をしたい、そう思う時まで今のままでいいんだよ」
紅谷さんは優しく、でもどこか寂しげな色の瞳で苦笑した。
そっか、無理に忘れようとしなくていいんだ……
いつか自然と次の恋をしたくなるその時まで、この恋を諦めなくてもいいのかな……
この後の数年間、紅谷さんのこの言葉が私を支えた。
諦めなきゃいけない……そう思いながら本当は、誰かに諦めなくていい、そう言ってほしかったのかもしれない。
もし、いつか彼と出会うことができた時、自分の気持ちをちゃんと言えるようにもっと成長したい。
もし、恋をあきらめたその時は、また新しい恋をしてもいいって思えるように、精一杯頑張れる自分になりたい。
この恋を思い出に変えていけるように、少しずつ心の整理をしていこう……