第6話 言えない・・・甘くほろ苦い魔法の言葉
初めから伝えないと決めていた、甘くほろ苦い魔法の言葉……言えない気持ち。
彼がいなくなってしまった今、伝えられなかったことが悔やまれる。それでも今となってはどうしようもなくて、ただ後悔するだけだった。
あの日から、一ヵ月が経った。
彼は一度も喫茶店にやって来ることはなくて、彼女に気持ちを伝えたことを確信する。その後どうなったのかは想像することはできなくて……ちょうど、大学の課題や試験が忙しくバイトの時間も減って、彼の事を極力考えないようにした。
三月になって、肌に吹き付ける風がほんのりと暖かくなる。まだ寒い日もあるけど、だんだんと暖かくなってきたのがわかる。大学の試験も無事に終わり、春休みも間近に迫って、バイト三昧の日々に戻る。でも、あんなに好きだったバイトに行くのが少し憂鬱。
喫茶店の入り口をくぐると、必ず、窓側角の席を見てしまう。いないと分かっているのに見て、いないことにがっかりする。バイトに来るたび、そんなことをしてしまう自分にため息をついて、ロッカールームに向かう。
着替えてキッチンに行くと、紅谷さんと黒沢君が談笑してた。
「おはようございます……」
「おはよう、なんか最近、佐倉ちゃん元気ないよな? 大丈夫?」
黒沢君にそう言われて、苦笑して答える。
「そうかな? 大丈夫だよ」
「提供あがります」
紅谷さんがサンドウィッチを綺麗にお皿に並べてカウンターに置く。
「はい、行ってきます」
黒沢君が受け取って、ホールに出て行った。黒沢君を見送ってから、紅谷さんが意味深な瞳で見てきて。
「もしかして“彼”のことが気になるの?」
紅谷さんが言う“彼”とは、蘇芳さんのこと。一ヵ月前、一度だけ喫茶店で彼と話してる私を見て、紅谷さんは私の言えない気持ちに気づいてしまったようだ。
私は何とも言えない気持ちで笑って、誤魔化す。彼がいない今、紅谷さんとその話をするのが苦痛で仕方がなかった。そんな私に、紅谷さんがくすっと笑ってカウンターにアイスコーヒーを置いた。
「これ、三十三卓にお願い」
三十三卓というのは、禁煙席の卓番号。喫茶店のすべての席に卓番がふってあって、どの席の注文提供か分かるようになっている。
私はトレンチにアイスコーヒー、コースター、ストロー、ガムシロとミルクを乗せ、伝票をトレンチの裏側で持つ。
喫茶店は名前の通り、喫煙と茶。最近の世の中の傾向として喫茶店も飲食店も喫煙席よりも禁煙席が増えているところが多いけど、うちの喫茶店は古くからある店で、構造上、店の奥の方に数席だけ禁煙席がある。禁煙席は一段、段差が高くなってて、私は段差を登って三十三卓に向った。
「おまたせしました。アイスコーヒーです」
そう言ってアイスコーヒーを置き、伝票を置こうとした時、三十三卓のお客様と目があって……びっくりして動きが止まる。
「こんにちは」
そこには、彼が座っていた。
アイスコーヒーと紅谷さんの含みのある笑いで気づくべきだったのかもしれない。彼はいつも窓側角の席に座ってるって、どこかで決め付けてて、まさか他の席に座ってるなんて思いもしなかった。
私は止まった体を動かすことがなかなかできなくて、しばらく目を見開いたまま彼をみつめた。
そんな私に、彼が苦笑する。
「ひさしぶり」
そう言われて、私は軽く頭を下げる。
「お久しぶりです……」
「よかったら、また一緒に餃子食べに行かない?」
一ヵ月ぶりに見る彼は、少しやつれて精彩に欠けているように見える。
「えっと、今日はラストまでバイトなので……」
「そっか。じゃあ……休憩時間とかに少しでいいから話せるかな?」
私は返事をする代わりにコクンっと頷いて、伝票を置いた。
突然消えた彼が、突然目の前に現れて、とんでもない早さで脈が打っている。禁煙席から見えないところまで行って、鼓動を落ち着かせるように大きく深呼吸する。
キッチンに戻ると、ニヤニヤした紅谷さんが待っていた。
「どうだった?」
「どうって……」
もうなんて切り返したらいいのかわからなくて、呆れてため息をつく。
「紅谷さん、首突っ込みすぎですよ」
「だって、興味あるし」
紅谷さんは言って、顎に手を当ててニヤニヤと笑う。そこに黒沢君が戻ってきて。
「なになに、面白い話?」
興味津々で訊ねてくる。これ以上、彼に関わる人が増えるのが嫌で、私は慌ててホールに逃げた。
その日はバイトの時間がすごく長く感じて、そわそわして何度も時計を見ていると、紅谷さんが言う。
「もしかして、彼、佐倉に話しがあるって?」
私は眉間にしわを寄せて紅谷さんを見て、事情を説明するかどうか迷って、それから思い切って打ち明けることにした。
「ふーん」
話を聞くと、そう言ってにやっとする紅谷さん。その笑みに背筋が震えて、私は恐る恐る紅谷さんを見上げる。
「じゃあ、そろそろ休憩行ってきていいよ」
そう言うの。
うーん。彼の話……聞きたいようで、聞きたくないのよね。私は自分の矛盾した気持ちに苦笑する。さっきは、もう一度彼が目の前に現れて嬉しかったけど、きっと彼の話は私が聞きたくないことだと思う。それでも、この一ヵ月あんなに後悔したのだから、彼と話すチャンスがもう一度あるのなら、行かないわけにはいかなくて……私は頷く。
「そうします」
「じゃあ、はい。ミックスサンドとカフェオレ、俺の奢り」
そう言ってにこっと笑った紅谷さんに笑い返して、ミックスサンドとカフェオレを受け取った。
休憩中に客席で飲食するのはいけないと思って、一度ロッカールームに行って私服に着替え、三十三卓に向った。今日の休憩は一時間だから時間はたっぷりある。
夕方の混雑する時間がすぎたとはいえ、喫煙席は窓側の席の次に人気があって、ほとんど席が埋まっていた。
「これ、差し入れです」
そう言ってトレンチに乗せたミックスサンドとカフェオレを机に置いて、彼の向かい側の席に座る。
彼は私に気づくと、やさしい笑みを浮かべた。
「久しぶりだね、元気だった?」
「はい。蘇芳さんは、少し痩せたんじゃないですか?」
「そうかな? ちょっとこの一ヵ月バタバタと忙しかったから……」
「そうなんですか……」
そこでお互い黙り込む。私はカフェオレを引き寄せて飲み、俯いた。
「桜に……」
その言葉に、私はぱっと顔を上げる。
「桜に、伝えてきたよ」
こっちをじっと見つめる彼の黒い瞳は、今までの切なさはなくて、でもほんのり寂しさがあって、息が止まりそうなほど綺麗だった。私は泣きたいような気持になって、彼から視線をそらして続きを聞く。
「それで、どうでしたか?」
「うん、振られたよ」
「そう、ですか……」
私は胸が痛くなる。分かっていて……振られることを分かっていて、彼に気持ちを伝えるように勧めたのは私だから。彼を傷つけたのは私も同然。それなのに。
「うん、でもこれで良かったんだと思う。ありがとう。佐倉さんのおかげだよ」
そう言った彼にビックリして、私は振り仰ぐ。
「そんな、お礼を言われるようなこと、何もしてないです……」
彼に“ありがとう”と言われて、胸が締め付けられるように痛み、辛くなる。そんな風に言ってもらう資格なんてないのに。
彼はふっと笑って、三十三卓からは見えない……窓側角の席に視線を向ける。
「俺、実家の事情で、大学中退して実家に戻ることになったんだ。だから、この喫茶店に来るのも今日で最後かな」
「えっ……?」
彼が今度こそ本当に、遠くへ行ってしまう。そのことに胸がざわつく。
「その前に桜にきっぱり振られて良かったと思う。ずっとそれだけが気がかりで、なかなか実家に帰れなかったけど、佐倉さんと話して勇気をもらって、告白することができたんだ。だから、ありがとう。佐倉さんと知り合えてよかった」
そう言われても……
私は下を向いてぎゅっと唇を噛む。
「どうしたの?」
そう彼に聞かれて、私はぱっと顔を上げて首を左右に振る。
「ううん、なんでもないですよ」
とっさにそう答えるしかなかった。今しか私の気持ちを伝えるチャンスはないと分かってるのに、後一歩が踏み出せなくて、伝えたい言葉がどうしても言えなかった。
「そう?」
不思議そうに首をかしげた彼は、優しい瞳でみつめて。
「それじゃ、俺、これから実家に戻るから。佐倉さんも元気で。さよなら」
“さよなら”
彼があっさりとその言葉を言ったので、絶望的な気持ちになる。
「さよなら……」
それでも、出来る限りの笑顔を作ってさよならを言う。
彼は立ちあがると、伝票を持ってレジの方へと歩き出した。私も立ちあがって、彼の後姿を見送る。レジの方で黒沢君の「ありがとうございました」と言う声とドアの開く音が聞こえて……すっと顔から笑顔が消える。
行ってしまった。
結局、言えなかった……
もう、会うことも出来ないのに……
そう思ったら、今まで堪えていたものが一気にあふれ出して、私はその場にしゃがみこむと声を出して泣きだしていた。
しばらくして、様子に気づいた黒沢君が私のとこに駆けつけて、ロッカールームまで支えて連れて行ってくれた。私はその間もしゃくりあげて泣き続けて、黒沢君がどうしたのと必死に聞いてきても答えることが出来なかった。
パイプ椅子に座っていると、バンッと扉の音を響かせて、紅谷さんが駆けつけてきた。紅谷さんもどうしたのかと尋ねてきたけど、私はただ泣くことしかできなくて、紅谷さんは私の座ったパイプ椅子のそばで心配そうな顔をしていた。
彼はどうした? そう聞かれても私は喋ることができなくて、首を左右に振ってひたすら泣き続けた。こんなに声を出して泣いたのは、初めてかもしれないというくらいわんわん言って泣いて、紅谷さんを困らせた。




