Sweet Home 3
食後は作ってもらったお礼を兼ねて、皿洗いを申し出たんだけど、紅谷さんが洗ったお皿をふくという仕事しかさせてもらえなかった。
それから、食後の運動がてら紅谷さんのアパートの近くのDVDレンタルショップに行ってDVDを借りて部屋で見た。
DVDを観終わると、紅谷さんがなにか食べるって聞くから、ずっと渡し忘れていたものを思い出して、鞄の横に置いていた紙袋を引き寄せてくる。
「あの、これ……アップルパイなんですけど」
「ももが作ったの?」
感情の読みとれない静かな声で聞き返されて、ドキドキとする。
「はい、手作りなので美味しくないかもしれないんですけど……」
私はいちお家政学部に通っているから料理にはそれなりに自信があるけど、紅谷さんのとんでもなく美味しい手料理を食べた後では不安になってしまうのも無理はないと思うんだ……
「開けてみていい? おっ、一口サイズなんだね、うまそう。じゃー、紅茶でも入れるか」
言いながら紙袋を持ってキッチンに行く紅谷さんの後についていく。
今日、紅谷さんの部屋に遊びに来て、いろいろしてもらうばかりで私ぜんぜん役に立ってないし、お茶の準備くらいは手伝おうと思ったの。
小さいデザート皿と大きめの皿を取り出したのを見て、行動を先読みする。
「アップルパイ、お皿に乗せればいいですか?」
言いながら大きなお皿に紙袋からアップルパイ八個を取り出す。全部は食べれないかもしれいけど、一つが小さいから、いくつかは食べられるよね。そう思って、アップルパイを並べた大皿と、とりわけの小皿をテーブルに運ぶ。
キッチンに戻ってこれば、紅谷さんがやかんでお湯を沸かしティーポットを温め、やかんに水道水を入れ直して火にかける。その間にティーカップを用意し、ティーポットのお湯を捨てて茶葉を入れていた。その姿を後ろから見て、くすりと笑みをもらす。
だって、紅谷さんったらしっかりスプーンで量を計っているの。そんなところが喫茶店のマネージャーってカンジがして、その姿勢を見習いたくなる。
料理って手際も大事だから慣れたら分量とかは目算でだいたいってカンジでちゃんと計らなくなるけど、やっぱりちゃんと計る方が美味しいと思う。
やかんの口から湯気が立ち上り、ヒューッと音が鳴り火を止める。
「私がお湯いれますね」
言って、やかんのとってに触れようとして、目測が狂ってやかんに触れてしまう。
「きゃっ――!」
熱さに右手を引っ込めて、左手で隠すように握りしめる。瞬間、紅谷さんが血相を変えて私の側に近づく。
「ももっ!? 大丈夫か?」
「大丈夫です、ちょっとやかんに触れただけなので……」
そう言ったのに、ぱっと腕を掴まれて流し台の前に連れて行かれる。
「火傷はすぐに冷やさないと」
真剣な声で言った紅谷さんは、すぐに流しに水を出し、私の右手を大きな手で掴んで流水に当ててくれた。
しばらくして赤みもおさまり、痛みも感じなくなってきてほっと胸をなでおろしたら、にやりと意地の悪い笑みで見下ろされる。
「さすが、もも」
それがどう聞いても褒め言葉じゃなくてからかわれてることが分かって、ぷくっと頬を膨らませる。
「なんですか、それっ!」
不機嫌な声で言えば、ふんって鼻で笑った声が聞こえた気がする。
「ももが手伝うと必ずなにかヘマすると思ったから手伝わなくていいようにしていたのにな、ほんと、ももって可愛いな」
そうなことを甘やかな声で言われてドギマギしながらも、顔が引きつる。
「それって、かなり私のこと馬鹿にしてませんか? 私、そんなに失敗ばかりしてませんけどっ」
確かにバイト始めた頃は、喫茶店にも接客にも慣れなくて失敗ばかりして、紅谷さんにからかわれても仕方ないとは思ってたけど、最近はそうそう失敗しないし、私だって来年からは社会人になるのに。
心配してると言うか、あなどられてるような言葉に、プライドが刺激される。だけど。
「そう? いま、ドジしたのに?」
「うっ……」
ドジ――その言葉が胸にぐさりと刺さり、言葉につまる。
全くその通りです……そう認めてしまいそうになって、次いで出てきた紅谷さんの言葉に、かぁーっと顔が赤くなる。
「ほんと、可愛いね、もも」
うっとりするような甘やかな瞳で微笑まれて、ドキドキが止まらなくなる。
「どうしたら、この状況で、可愛いになるんですか……」
さっきは聞き流すことが出来たけど、言わずにはいられなかった。
もしかして、紅谷さんって私がドジなところが好きなの――!? 嫌ぁー、そんな好かれ方っ。
自分で自分がドジだと認めてしまったことに気づかず、わたわたする。
くすっと耳元に笑いが聞こえ、見上げると魅惑的な微笑みを称えた紅谷さんが私を見つめているから、息が止まりそうになる。
「好きだよ、もも。ありがとう――」
そう言って、紅谷さんが後ろから腕をまわして私を抱きしめる。優しく包み込むように抱かれて、心臓の音が聞こえてしまうんじゃないかって心配になる。だけど、紅谷さんの言葉が嬉しくて、抱きしめる腕を掴む。
「私も好きです、紅谷さん」
紅谷さんの腕がすっと顎にかかり、振り向きざま仰向かせられる。その視線の先に、艶やかにきらめいた漆黒の瞳があって、吸い込まれそうになる。
ゆっくりと紅谷さんが顔を傾けて降り注ぐように二人の距離が縮まる――
キスの予感に、体重を紅谷さんに預けたままゆっくりと瞼を閉じた。
だけど――
唇が触れる直前、ガチャガチャっと玄関から物音と誰かが部屋に入ってくる足音が聞こえて、すっと紅谷さんが私から顔を離して玄関につながるキッチンの扉に視線を向ける。
「雪路ー? いるのー?」
聞こえた女性の声にドキッとして、さっき見てしまった赤い箸が脳裏をよぎる。もしかして――不安に胸が押しつぶされそうになって、次の瞬間、目を見開く。
だって、扉を開けて部屋に入ってきたのは、茶色のさらさらの長い髪をなびかせた切れ長の瞳のすごい美女――紅谷さんのお姉さんの紫音さんだったの。
「紫音さん……」
紅谷さんの声は驚きに掠れていたんだけど、紫音さんの視線が紅谷さんの顔からその下にいる私、それから腰と首に回されている腕にいって、にんまりと妖艶な口元をほころばせる。
「あら、お邪魔しちゃったかしら?」
その声は紅谷さんをからかうような意地悪な声で、なんだか私をからかう時の紅谷さんに重なって、二人が姉弟なんだって実感してしまう。
まあ、紅谷さんは頭のあがらない紫音さんの突撃訪問に文句などは言わず、営業スマイルのように綺麗な笑みを浮かべる。
「いえ――ももが火傷したのを冷やしていただけですから」
さらっと意地悪な含みのある質問を交わして、紫音さんを招き入れる。
「今日はどういった用ですか?」
「ああ、明日取引先と打ち合わせを兼ねたパーティがあって、こっちに置いていたドレスを取りに来たんだけど、なにかいい匂いがするわね」
そう言った紫音さんはリビングの方へつかつかと進み、赤いローテーブルに置かれたアップルパイを見つける。
「これからティータイムだったのかしら?」
赤い紅がひかれた魅力的な口元に笑みを浮かべた紫音さんが、私を振り返る。
「あっ、はい。アップルパイを作ってきたので、食べようとしていたとこです……」
語尾が小さくなったのは、自分の失態を思い出して恥ずかしくなったから。
「私もご一緒させてもらっていいかしら?」
薔薇が微笑んだような妖艶な笑みに、私は首を縦に振った。
それから、紅谷さんが紅茶を入れ直し、紫音さんを入れて三人でアップルパイを食べ、紫音さんはドレスと小物を入れた黒いスーツケースを持って颯爽と帰って行ってしまった。
まるで突風のように突然現れて帰っていった紫音さんを呆然と見送っていた私は、背後で紅谷さんが盛大なため息をついているのを聞いてしまって、くすりと意地悪な笑みをもらす。
だってさ、いつもいじめられてばっかりで、やりかえせるチャンスなんて滅多にないんだもの。まあ、紅谷さんが女系家族に囲まれてお姉さんに頭が上がらないって知ってるから、あえては突っ込まないけど。それに――私、紫音さんのこと好きなんだよね。自立した大人の女性でとても魅力的だし、憧れというか。
「紫音さんって、よく紅谷さんの部屋に来るんですか?」
そう聞くと、紅谷さんはちょっと疲れたような笑顔を向けて、リビングに続く扉を開ける。
「あの人は俺の部屋を倉庫代わりに使ってるんですよ。スペアキーまでちゃかり作って」
そう言ってため息をもらした。
ついでに赤いお箸のことも聞いてみたら、あの箸は紫音さんが引越祝いに買ってきた夫婦箸だっていうから、笑ってしまった。
次話からは、バレンタイン編です。