第4話 不器用な恋、だからこそ優しい強さ
下げてもいい食器はないかとホールを歩いていると、じぃーっとコーヒーカップを眺めたままの彼に視線がいく。
彼は両手でコーヒーカップ包むようにして、ふぅーっと優しく吐息をかけコーヒーカップを口元に持ってきて飲もうとして、慌ててソーサーにカップを戻した。
何やってるのかしら? 私は首をかしげて……もしかして、猫舌なのかしら? だから、いつもアイスコーヒーなの?
そこまで考えて、また勢いよく頭を左右に振る。
ダメ! 考えちゃダメよ、私! そう必死に自分に言い聞かせる。
もやもやと考えながら食器を片づけてキッチンに戻ると、黒沢君が休憩から戻っていて、交代で休憩をしに従業員のロッカールームに向かった。
ロッカールームは、奥に更衣室が二つ、その横の壁に細長いロッカーと食材用の冷凍庫と冷蔵庫が置かれ、部屋の真ん中に机とソファーとパイプ椅子が二つ並んでいる。
ふぁーっと大きな欠伸が出て、手で口を押さえて、パイプ椅子に座る。大学では課題の締め切りが近付き、最近はバイト後、夜遅くまで課題を仕上げていた。眠い……そう思ったら机に両腕を枕代わりにして顔を突っ伏して睡眠体勢に入る。すぐに睡魔に襲われて寝入り、あっという間に三十分の休憩時間が終わり、私はあわててキッチンに戻ってタイムカードを押した。
店内はまた混み始め、あわただしく駆けまわる。気がつくと、いつの間にか彼は帰っていて、私はその席を片づけてキッチンへと戻った。
彼はだいたい、混み始める前に店にやってきて閉店間際までいるのが常だ。っといっても私自身、閉店までバイトをする日は少なく、だいたいは彼よりも先にバイトを終えて店をでる。だから、珍しいと思った。それでも、忙しい時間帯だったので深く考えることもせず時間が立ち九時になって、バイトを終えて店を出た。
※
私がバイトしてる喫茶店は二階にあり、一階にはチェーン店の本屋が入っている。私は、いつも読んでるファッション誌を買おうと思って、階段を降り切ると本屋の自動ドアに向かった。その時。
私と入れ違いに本屋から出てきた彼と目が合う。
「あっ……」
彼はそう言って立ち止まり、私もつられて立ち止まる。自動ドアが閉まりかかり、音を立ててまた開く。
私が軽く頭を下げて本屋の中に入ろうとすると、彼がすれ違いざまに私を振り返って声をかけてきた。
「サクラさん!」
名前を呼ばれて私はもう一度立ち止まり、彼を見上げた。立って並ぶと彼の身長が思ったより高いことに気づく。
「あの……餃子は好きですか?」
私は首をかしげて、彼をまじまじと見た。
餃子? そう疑問に思ったのだけど、餃子と言う単語にお腹が空腹感を訴え、まだ夕食を食べてなかったことに気づく。
「時間があったら、一緒に餃子食べませんか? 奢るので」
お腹が空いていて思考力が鈍っていたのか、私は深く考えずに頷いていた。あんなに彼に近づいてはダメだって自分に言い聞かせてたのに、いつも見てたといってもほとんど話したことがない他人なのに、全く警戒せずに彼の後について大手餃子チェーン店へと向かった。っと言っても、喫茶店の入っているビルの二つ隣のビルなんだけど。
餃子屋さんに入ると、九時過ぎだというのにスーツを着たサラリーマン達でほとんどの席が埋まっていたが、テーブル席は空いていたのですぐに席に通される。
席に座ると、彼がメニュー表を取って渡してくれた。私はお礼を言って受け取ると、何にしようか考える。からあげが美味しそうだったけど、定番の餃子定食に決めると顔を上げて彼を見た。彼はメニュー表も広げずにじぃーっと私を見ていて、私の視線に気づくと小首を傾げる。
「決まった? すみません」
店員さんを呼んだ。
「はい、ご注文はお決まりですか?」
店員さんに聞かれ、私は注文を言う。
「餃子定食を一つ」
そう言った、私の声にかぶさるように彼が言う。
「それ、二つで」
「はい。餃子定食二つですね」
店員さんは営業スマイルで、注文を繰り返すとキッチンへと戻っていった。
彼は、テーブルの上に置かれたピッチャーから手際よく二つのコップに水を注ぎ、一つを私の方へ置いた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
そう言って私はコップを受け取り、口をつける。彼も水の注がれたコップを持ってぐいっと一気に飲み干すと、私の方を見た。
「自己紹介がまだだったね、俺は梅田 蘇芳、大学2年」
梅田 蘇芳……
初めて聞く彼の名前に胸が高鳴る。いままでひたすら彼と深く関わらない様にしていたけど、実際話してしまうとどんどんと欲求が大きくなって仕方がなかった。彼の名前を知れて嬉しいし、もっともっといっぱい話したい、そう思ってしまった。昨日は話しかけられて動揺するだけだったけど、今は、本屋での偶然の出会いを喜ばずにはいられなかった。
「サクラさんの名前は?」
「佐倉 ももです。サクラは名字で佐賀のサに倉庫のクラで佐倉。大学1年生です」
だけど、そう言った私を見つめる彼の瞳がふっと、せつなさに揺れたのを見逃さなかった。彼と話せて喜んでいたけど、彼の心の中には大好きな“彼女”がいることを思い知らされて、さっきまで浮かれていた気持ちがどんっと沈む。私の気持ちの行き場がなくなってしまって、聞かずにはいられなかった。
「彼女さんは……サクラさんって名前なんですか? 最近、彼女さん来てないですよね?」
彼……蘇芳さんは、くすっと苦笑する。そんな彼を見て、聞いてしまったことを後悔する。
「ほんとによく知ってるね。彼女の名前は山吹 桜、同じ大学の後輩なんだ」
やっぱり彼女さんの名前は“サクラ”だった。私は苦笑する。
ちょうどその時、料理が運ばれてきた。店員さんは餃子定食の乗ったお盆を二つと伝票をテーブルに置くと下がって行った。
彼は、割り箸を割りながら言う。
「桜は、今はちょっと事情があって来られないんだ」
彼女の事を話す彼の瞳が優しい色を帯びていて、胸が締め付けられるように痛んだ。この恋が報われないことを思い知らされて、苛立って……嫌みの一つも言いたくなる。
「本当に彼女さんのことが大好きなんですね」
私は満面の笑みで言う。それから。
「でも“彼女さん”って、本当は彼女じゃなくて、蘇芳さんの片思いなんでしょう?」
笑みを保ったまま、話し続ける。
「彼女さんには他にちゃんと好きな人がいて、蘇芳さんは自分の片思いが叶わないってもう諦めてるんじゃないですか? それなのに、彼女への気持ちが捨てられないで、ずっと彼女さんが喫茶店に来るのを待ってる」
「どうして、それを……」
彼が唖然として、こっちを見ている。
「本当は、もう来ないって分かってるんじゃないですか? 事情があって来られないって言ってたけど……本当はただ、彼女さんは本命の彼氏さんとデートとかで忙しくって、もう蘇芳さんとは会う気がないんですよ。まんまと悪女に引っ掛かったんですね」
私はくすっと笑って、彼を見た。彼は下を向いてて表情は分からなかったけど、わしゃわしゃと髪を掻きむしる仕草から苛立ちが伝わってきた。私は言いすぎたかと思って、罪悪感を覚える。
顔を上げた彼は無表情で、いつもの優しい雰囲気もせつない瞳の揺れもなくて、だけど……その瞳に私が映っていたことに、ドキンとする。彼の瞳はいつも、喫茶店の従業員としてか、彼女の“サクラ”さんを通しての私しか映ってなかったから、嬉しくてうずうずする気持ちが生まれる。でも、私を見てたのは一瞬で、彼は目線をそらして静かに言った。
「彼女はそんな子じゃない。桜に彼氏がいることは最初から知ってるし、ただ彼氏の相談をされてただけで、桜が俺の事を恋愛対象として見てなかったことも知ってる。それなのに、俺が勝手に好きになっただけだ。だから、彼女のことを悪く言うのは許さない」
そう言った彼の瞳は真剣な光に満ちて、とても綺麗で、鮮やかで、せつなくて……優しかった。
私は彼をなじったことを後悔する。彼がどんな気持ちで彼女を想い、待っていたのかを思うと泣きたくなった。彼は初めから、自分の恋を叶えようとかそんなことは考えもしなかったのだろう。ただ、彼女の幸せを誰よりも願うだけ。来ない彼女を想って、彼女の幸せな笑顔を思い浮かべて……彼がそんな優しい人なんだと思い知る。
「……だから、君には関係ないことだ」
それなのに、彼のその言葉を聞いて頭にくる。
「関係ない……? 関係なくなんかないですよ、彼女さんと同じ名前だからって声をかけてきたのは、そっちでしょ!?」
思わずそう言うと、私は立ちあがった。すっかり冷めてしまったであろう手つかずの餃子定食をちらっと見て。
「関係ないって言うなら、金輪際、話しかけてこないでください。失礼します」
私は勢いで言って、鞄を掴んで席を出ようとする。
「待って、ごめん! 関係ないは言い過ぎだった、俺から話しかけたのに……」
そう言われて、私はしばらく考えて静かに席に座り直しそっぽを向いた。
「ね、ご飯もまだ食べてないんだし、食べよ」
私は渋々、黙って箸を手にとると、餃子を食べ始めた。
沈黙のまま、お互い餃子定食を食べてると、彼が静かに口を開いた。
「さっきのは、違うから……」
「えっ?」
なんのことかわからなくて、私は餃子をほおばりながら、首をかしげる。
「桜と同じ名前だから声をかけたっていうのは、違うから。確かに、最初は同じ名前で興味を惹かれたんだけど、声をかけたのは……ただ単純に話してみたいと思ったからなんだ」
彼は、こちらを見ずにぼそぼそと言った。そんな彼の優しさに、おもわず笑みがこぼれる。
「いいえ、私の方こそごめんなさい。さっきは憶測で言いすぎました」
さっきは自分の恋が報われないと思い知らされて苛立ったけど、初めからこの気持ちを伝えようとかそんなことは考えてなかったことを思い出す。
言えない気持ちを胸に抱いているのは私も彼も同じなのに、決定的に彼とは違っていることに気づく。さっき彼に言った言葉、恋を諦めてるのは……恋に向き合う強さを持てないのは、私。無理だと知っているから、失うことを恐れて、必死に彼に近づかない様にしてた。でも、彼は違う。言えない気持ちのままでも、彼女さんの側で優しく見守って、優しい強さを持っている。
それでも、お互い不器用な恋の仕方しかできないことに呆れてしまう。ただ、恋をしたことを後悔だけはしたくないし、彼にも後悔してほしくない。
彼の恋が報われないとしても、彼がこの恋をあきらめた時、いつかまた新しい恋をしてもいいかな、そう思えることを願った。