第29話 カフェの貴公子 4 <紅谷side>
夏休み、とある雑誌の取材を受けることになったカフェ・フルール。メインは“夫婦で営むカフェ”だったらしいのだが、発売された雑誌を見るといつ撮られたのか俺の写真が載っていて、横にはこんなことが書かれていた。
『夫婦で営むカフェ・フルールは心温まる料理と接客がウリだが、一番のポイントはバイトの美少年。“カフェの貴公子”とでも言おうか、彼はウンタラカンタラ……』
マスターは、出版社にすぐに抗議の電話をかけた、なぜ雪路の写真が載ってるのかと。出版社は承諾を得ずに勝手に写真を載せたことについて謝りはしたが、その雑誌の影響でお客様が増えたことも事実で……マスターも強硬な態度に出られなかった。俺は、謝罪されただけで充分だと思ったし、その件はそれで終わるはずだった……
俺目当てにくる女性客が増え、最初はほくほくとしてたマスター、唯子さんは申し訳なさそうな顔を向ける。と言っても、話しかけられるでもなく、盗み見られて、陰で貴公子よーとか囁かれてるだけだったから、俺も大して気にはしてなかった。時が経ちにつれ、騒ぎも落ち着くだろうと思ったし、実際そうだったんだけど――
雑誌に載ってから一年が過ぎようとした頃、事件は起きてしまった。雑誌を見て俺の写真を撮りたいと言ったお客様は、俺が断ると騒ぎ出し――
高三の夏、受験という時期だったというのも理由の一つだが、マスターと唯子さんに迷惑をかけないためカフェ・フルールにはいられなくて、バイトを辞めた――
※
それからは時々――ほんとうに時々しか行けなくなってしまった。大学に入ってからは違う喫茶店でバイトを始め、なにか報告のある時だけ足を運んだ。
だからこの日も、佐倉を連れて行くかどうか迷ったが――カフェ・フルールに連れて行きたいと思ったのだ。
食事を初めて少しして、“貴公子”――その言葉を囁いてるのが聞こえて、ドキリとする。雑誌が発売されて七年も経つのにその言葉を聞くとは思わなかった。だけど、あれから七年、もしあの時と同じことが起きても、もう少し上手くかわすことが今の俺ならできると思うし、あんな事態にさせない自信もあった。
「あの、紅谷さんに聞きたいことがあるんですけど?」
久しぶりのマスターのパスタに下鼓してる時に佐倉に聞かれる。
「なに? なんでも聞いて」
隠し味はなんだ……とか考えて、佐倉の方を見ずに聞いたのが、間違いだった。佐倉はその時、どんな顔をしてたのだろうか……
「私、ずっと紫音さんのこと紅谷さんの彼女だと思ってたんですけど……」
その言葉に、口に含んでたものを飲み込んでしまいむせる。慌ててコップを掴んで水を飲んで、呼吸を整えたんだけど、思いもよらない爆弾はその後に続いた。
「紅谷さんって、彼女いるんですか?」
ゴットンっ! ゴロゴロ……
気が付いたらコップを落としてた。まさか、そんなこと聞かれるとは思わなかったから、驚きで声すら出なかった。
コップを落とし氷をぶちまけた音に唯子さんが駆けつける、布きんを持ってきてくれた。俺はそれを受け取り、床を拭き始めた。コップの中身はほとんど空だったから、濡れた場所よりも散らばった氷をどうにかしようと手を伸ばした瞬間――横からぴょいっと出てきた佐倉の手と重なる。
佐倉はすっと手を引っこめ、顔をあげた。動揺して床を拭くのに夢中だったから、まさか佐倉が氷を拾ってるとは思わなくて。
「ごめん……」
そう言って氷を拾おうとしてが、つかみ損ねてさらに奥へと氷をとばしてしまった。
「あっ……」
ばつが悪く、下を向いて奥に飛んでいった氷を拾う。何か言わなければと思ったが、言葉が出てこなくて、情けない自分に嫌気がさす。
床を片し、カウンターに並んで座り直す。気を取り直すため、というか落ち着かせるため? コホンっと咳払いしてから話す。
「その、誤解はいつから……?」
突然、話を元に戻したからか、佐倉は首をかしげるてこっちを見る。
「紫音さんが俺の彼女だと誤解してたのって……?」
「M駅で会った時からです。あの時の紅谷さん、すごい優しい瞳で紫音さんのこと見てたから、そうかなって。まさかお姉さんとは思いませんでした」
「あの日はごめん、家までちゃんと送れなくて」
まだそのことを謝ってなかった事を思い出す。
「いえいえ、駅までで十分でしたよ。それに眼鏡借りたまま帰ってしまったし」
「紫音さんの言うことは断れないと言うか、断ったら酷い目にあうと言うか……」
奥の席に座る紫音さんを横目で見て、ため息が漏れる。姉に頭が上がらない弟って情けないよな。
「俺の家、親父は単身赴任で滅多に家にいなくて母と姉二人が主導権握ってるからさ、逆らえないんだ……情けないだろ?」
苦笑して、佐倉の方を向く。
「そうなんですか。そっ、それで、彼女は……いるんですか?」
頬を僅かに染めて聞いてくる佐倉の目線は泳いでて――なんだか、胸がざわついて仕様がなくて、まっすぐ佐倉を見れなくて、正面を向く。複雑な気持ちになって、カウンターに肘をつきその手で口元を押さえ黙り込む。
「いないよ……」
横目に佐倉を見て呟き、すぐに視線を外した。
こんなことを聞いてくるなんて、もしかしたら、少しでも佐倉は俺のこと意識してくれてるのだろうか――そんな淡い考えが浮かんで、動揺してて――だから。
「あのー、貴公子の……紅谷雪路さんですよね?」
声をかけられた時も、平静を装って手を握り返したけど、心の中は思った以上に動揺してて――写真の件は笑顔で上手く断れたのに。
「マスター、貴公子はどうしてお店に戻ってこないんですか?」
マスターに詰め寄る女性客に、不覚にも、六年前の記憶が蘇って目の前の光景にぐらりと視界が歪んで――
「あーそれはだなぁ」
困った声をあげるマスターを助けなければ、そう思うのに動けなくて――
その時、聞きなれた鈴の音を転がしたような声が響いて、歪んでいた視界が鮮明になった。
「それは、あなた達の様なプライバシーを守れない客が増えたせいよ」
素っ気ない口調でさらりと言い、去って行ったのは――俺がいつも頭が上がらない姉で――高飛車で、俺の迷惑も考えず、無理な事も押しつけてくるような人で、だけど――ここぞという時は、弟の盾になってくれる人。
扉についた鈴の音と共に、マスターと唯子さんの声が聞こえ。
「佐倉、ちょっと待ってて」
そう言って、紫音さんの後を追う。
※
カツンカツンと軽快にヒールの音を響かせて歩く紫音さんを追いかけ声をかける。
「紫音さん、ありがとうございます」
俺の言葉に、ちらっと振り向き足を止める。
「別に、思っていたことを言っただけよ。私はミーハーに騒ぎ立てる女って品がなくて嫌いなのよね」
そう言って道路に視線を向ける紫音さん。
「はは、紫音さんらしい」
我が姉ながら、なんて歪んでる正義なのか、苦笑が漏れる。そんな俺を見て、紫音さんは眉間に皺を刻んでため息をついて言った。
「まあ……雪路じゃ、店主に迷惑かけたくなくて強く言えないとは思っただけよ……、余計なことだった?」
俺の目をしっかり見て言う紫音さんに、首を横に振り、肩を上げる。
「それよりも雪路、ちゃんと好きな子なら自分に振り向かせる努力しなさい。ももちゃん……だったかしら? あんた、好きだってまだ伝えてないでしょ?」
いい姉を持って俺は幸せだな。一瞬前にそんなことを考えた俺を殴りたくなる。紫音さんだって、充分、人のプライバシーに足を踏み込んでるじゃないか……
「しっ、紫音さん……」
「まっ、頑張んなさい!」
だけどそんなこと言ったら、きっと紫音さんはこう言うんだ。
“弟の心配してるだけよ”
にやりと妖艶な笑みを浮かべながら――