第28話 カフェの貴公子 3 <紅谷side>
“カフェ・フルール”
俺の原点であり、心のよりどころで、失ってしまったなによりも大切な場所だった――
それは高校に進学してすぐの頃、どうしようもないことだとは分かっていても、心のやり場に困って、うらぶれて……
学校の帰り道、電車にも乗らず、とぼとぼと夕日の照らす街並みを歩き続けた。いつしか、知らない景色が完全に闇に染まりかけた時、目の前に小さな明かりを見つけて、吸い寄せられるようにその店に足を踏み入れた。
二人掛けの小さなテーブルが三台並んだテラスの横の扉をくぐると、店内は白と黒、所々に赤の三色を基調にした落ち着いた空間が漂っていた。俺の他には客はいなくて、扉から一番近い席に腰を下ろす。
メニューを見ようとしたら、テーブルにはメニューはなくて、どうしようと顔をあげた時、黒いエプロンを着けた三十くらいの女性が奥から顔を出した。
「あっ、いらっしゃいませ」
そう言って差し出したメニュー表はいかにも手作りといった雰囲気の暖かいものだった。メニュー表に一通り目を通し、顔をあげると、女性は俺をじーっと見ていて目が合った。
「あらっ、ごめんなさい」
にこりと笑った顔は、年齢よりも幼く見える。
「初めてのお客さまだったので、つい見入ってしまって……」
「えっ?」
「うちのお店、今日オープンしたばかりで、あなたがお客様一号なのよ」
その言葉に、なにか運命的な物を感じ、気が付いたらそう言ってた。
「一番のオススメのものを下さい」
挑戦的な注文をしてしまった俺に対して、にこやかにほほ笑んで女性は奥へ消えて行った。
ボーっと窓の外に広がるネオンを見つめてると、いい匂いが漂ってきて、お腹が空腹だと主張して鳴り響いた。
しばらくすると、ほかほかと白い湯気を漂わせたお皿を持った男性がやってきた。その男性は、森からさ迷い出た熊の様な厳つい顔に白いエプロンと帽子を身につけ、じろりと俺を見下ろした。
その視線に一瞬怯んだ俺は、机に頬杖をついていた体を引く。怒鳴られでもするかと思うと、その顔からは想像も出来ないようなふわりと優しい笑みを浮かべて皿をテーブルに乗せた。
「おまたせしました、カルボナーラです」
テーブルに置かれたのは白い楕円形の深い皿、艶やかなソースの中に麺と厚切りベーコンが並び、真ん中に温泉卵がのっている、ごくシンプルなカルボナーラ。
男性は皿を置いたのにキッチンには戻らず、笑顔のまま立っている。促されるようにフォークを手に取り、よくソースをからめて一口運ぶ。
その瞬間、口の中に広がった濃厚なハーモニー。麺類全般好きで、カルボナーラもよく食べるが、今まで食べた中で一番美味しかった。
「おいしぃ……」
思わず言葉に出してしまって、ぱっと男性を振り仰ぐと、糸のように目を細めて微笑んで、お辞儀する。
「ありがとうございます」
それから、振り返って。
「唯子ー」
そう叫ぶと、奥から注文を受けた女性が駆けてきた。その手には、サラダの入った皿とショートケーキの載った皿。
「あの……」
「あっ、これはサービスだから気にしないでね。ほんとはランチのサラダバー用に作ったんだけど。ケーキもどうぞ」
その言葉に甘えて、パスタとサラダとケーキとすべてを平らげる。俺が食べている間、カウンターに座った二人は子供を見守るような暖かい笑顔で俺をずっと見ていた。
「あなた、学生さんよね? このあたりの高校かしら?」
「俺達、この街には最近引っ越してきたばかりで、あまり土地勘なくてな」
「よかったらまた来てね。お客様第一号だから、いつでもサービスするわ!」
気さくに話しかけてくる二人に、胸が一杯になって……知らず嗚咽が込み上げてた――
それからというもの、俺は学校帰りに毎日のようにその喫茶店に赴いた。毎回食事をするわけには行かなかったから、コーヒーを飲むだけだったり、学校の課題をしたり、ゆったりとした時間を過ごした。マスターと唯子さんも暇な時は、俺の話相手になってくれて、そこは俺の憩いの場だった。
マスターと唯子さんは夫婦で、マスターは以前は機械系の技術職だったらしいが、リストラにあい、二人で夢だった喫茶店を開くことにしたという。
俺が初めて店を訪れてから数ヵ月もすると、お店はそれなりに人が入るようになり繁盛し始めた時。
「そろそろ、一人くらいアルバイト雇ってもいいかしら?」
「いや、まだ必要ないだろ?」
そんな会話を聞いて、俺はそのバイトに立候補する。
「そうね、雪路君が働いてくれたらうれしいわ」
「おぅ、雪路ならイケメンだし、ばっちりだぜ!」
マスターは言いながらウインクし、ぐっと親指を立てて見せた。
そうしてカフェ・フルールでのバイトの日々が始まる。初めは、接客業もろくにできなくて、初歩的なことからマスターと唯子さんに教わる。料理は、時々家でやっていることをマスターが知ると、簡単な下ごしらえとか盛りつけを任されるようになる。いつしか、俺もカフェ・フルールのような喫茶店でちゃんと働きたいという夢を抱くようになる。そのことをマスターに言うと。
「おお、いいねぇ。大学卒業する時は、ここで雇ってやるさ」
マスターの言葉は優しかったけど、高校卒業したらではなくて、「大学卒業したら」と言われたのが、なんだか突き放されたようにも感じた。早くてもあと六年、大学に進学せずに、すぐに就職してもいいと思った。だけどマスターは、ちゃんと大学に行け。そう言ったんだった。
その言葉のおかげか、高二の頃には大学は商学部に決め、受験勉強の準備に取り掛かる。まだ先だけど、確かに目の前にある夢に向かって、俺は走りだしていた――まさか、とんでもない事態になるとは思わずに。