第27話 カフェの貴公子 2 <佐倉side>
「紫音さんは俺の姉だよ。あれ、言ってなかった?」
パスタを綺麗に巻いたフォークを口に運びながら、紅谷さんがさらりと言う。
「お、姉さん――!? 嘘……だって、紫音さんって名前で呼んでいたから、私、てっきり……」
そこまで言って、はっと手を口元にあてて口をつぐむ。私の言葉に、紅谷さんはキョトンと目を瞬かせ、くすりと笑う。
「ああ、紫音さんって呼んでるのは……というか呼ばされてるのは、紫音さんがそう呼べって言うからだよ。姉さんって言われると歳を感じるから嫌なんだって。だから佐倉も、“紫音さん”って呼んであげて」
紅谷さんは苦笑し、ちらりと奥の席に座る紫音さんに視線を向ける。つられて振り返ると、紫音さんはなにやら書類の様なものを机に広げ、仕事をしてる様子。
お姉さん……には、ぜんぜん見えないけど、目元とか壮絶美人なところが、言われてみれば似てるかも……
てっきり、恋人か、紅谷さんの片思いだと思っちゃったよ……
お姉さんと言われて、胸をほっとなでおろし安心してしまう。
なーんだ、そうなんだ。彼女じゃないんだ、よかった。……まあ、だからって彼女がいないということにはならないけど……
もう、質問ついでに、思い切って疑問に思ったことを聞いてしまおうと決意する。
「あの、紅谷さんに聞きたいことがあるんですけど?」
パスタを食べ終え、サラダを食べようとした紅谷さんがこちらを見ずに言う。
「なに? なんでも聞いて」
よっし……!
「私、ずっと紫音さんのこと紅谷さんの彼女だと思ってたんですけど……」
尋ねた瞬間、ゴホゴホとむせる紅谷さん。慌ててコップを掴んで、一気に飲み干す。
「紅谷さんって、彼女いるんですか?」
ゴットンっ! ゴロゴロ……
大きな音を響かせて、数秒前まで紅谷さんの手の中にあったコップが床を転がった。紅谷さんを見ると、目を見開き動きが止まっている。
その音に他のお客様は振り返り、唯子さんが駆けつけてきた。
「大丈夫? いま布きん持ってくるわね」
「すみません。床よごしてしまって……」
紅谷さんはぱっと椅子から降りると、床に落ちたコップを拾う。プラスチック製だったから割れたりせず、床に氷がばらまかれただけだった。唯子さんが持ってきた布きんを受け取り床を拭く紅谷さんを手伝うために、私も椅子から降りてしゃがみ、散らばった氷を拾う。
カウンターの下に入った氷を拾おうと伸ばした手が、同じく伸ばされた紅谷さんの手と触れて、ぱっと引っこめる。顔をあげると、片膝を立てて腰を下ろした紅谷さんと視線が合って。
「あっ……」
っと、情けない声が漏れる。
「ごめん……」
紅谷さんはそう言って、二人の間にある氷を拾おうとして手を滑らせ、さらに奥へ氷をとばしてしまう。
「あっ……」
おろおろとしてる紅谷さんの様子をマジマジと見てしまう。こんな風に取り乱してる紅谷さんを見るのは初めてで、私に見つめられた紅谷さんは何か言おうとして口を動かすけど、言葉は紡がれなくて。
床を片づけて座り直すと、コホンっと一つ咳払いした紅谷さんが口を開いた。
「その、誤解はいつから……?」
誤解? なんのことだろうと思って、首をかしげると。
「紫音さんが俺の彼女だと誤解してたのって」
紅谷さんが言いなおしたので、ああ、と思い至る。
「M駅で会った時からです。あの時の紅谷さん、すごい優しい瞳で紫音さんのこと見てたから、そうかなって。まさかお姉さんとは思いませんでした」
「あの日はごめん、家までちゃんと送れなくて」
「いえいえ、駅までで十分でしたよ。それに眼鏡借りたまま帰ってしまったし」
「紫音さんの言うことは断れないと言うか、断ったら酷い目にあうと言うか……」
紅谷さんは、はぁーっと大きなため息と一緒に話し始めた。
「俺の家、親父は単身赴任で滅多に家にいなくて母と姉二人が主導権握ってるからさ、逆らえないんだ……情けないだろ?」
首を傾げて私の方を見た紅谷さんの瞳は、憂いを秘めてなんだか、それが一段と色っぽく見えて、ドキリとしてしまう。
「そうなんですか。そっ、それで、彼女は……いるんですか?」
どもりながら、精一杯笑みを浮かべて尋ねる。この流れで、この質問を繰り返すのはどうかと思ったけど、さっきは答えを貰えなかったから……
紅谷さんは目を見開いて私を見、正面を向いて口元に手を当ててしばらく黙りこみ、ちらりと赤く染まった視線をよこして……
「いないよ……」
ぼそりと呟き、また正面を向いてしまった。
甘ったるい雰囲気が流れて、ドギマギする胸を抑える。隣同士に並んで座ってるのに、私も紅谷さんも正面を向いたまま黙り込んでしまった。
なんだろう……今なら、言えそうな気がする……っというか、言いたい言葉が喉まで出かかって。
「紅谷さん――!」
思い切って言った私の声と被さって、後ろから声をかけられる。
※
「あのー、貴公子の……紅谷雪路さんですよね?」
その声に振り返ると、さっき紅谷さんを見て“貴公子”と囁いていた女性二人が頬を染めて立っていた。
「はい、そうですけど」
紅谷さんが頷くと、女性は互いに手を取り合い、黄色い悲鳴を上げる。
(きゃー、やぱり貴公子よっ)
他のお客様も、こっちをちらちらと見て、頬を染めて目を輝かせてる。
「あの、握手してもらえますか?」
「写真一緒にとってもらえます?」
女性の一人は手を差し出し、もう一人は手にデジカメを持っている。
目の前で繰り広げられてる信じられない光景に、眉間にぎゅっと皺を寄せて、女性と紅谷さんを交互に見比べる。
紅谷さんは立ち上がり、にこりと魅惑的な“営業スマイル”を張り付け、女性の手を握る。
「私ずっと貴公子のファンで、このお店にもよく来るんです。このお店には、いつ戻られたんですか?」
手を握られた女性は目をうっとりととろけさせて尋ねる。
「ありがとうございます、カフェ・フルールをご贔屓にして頂き。でも、今日は客として来ているので、写真はすみませんが……」
「そーなんですか、残念……」
紅谷さんの言葉にデジカメを持った女性と、その様子を見てデジカメを持って近寄ってきた他のお客様が残念そうに肩を落とす。
布きんを洗いにキッチンに行ってた唯子さんとフライパンを持ったままのマスターが騒ぎに気づけ、キッチンから顔を出す。紅谷さんを取り囲んだ女性客を見てすぐに状況を理解したのか、マスターは片眉をあげる。
「マスター、貴公子はどうしてお店に戻ってこないんですか?」
最初に話しかけてきたデジカメを持った女性が、不満そうにマスターに問いかける。
マスターはため息をついてこめかみをガシガシと掻き、ちらりと紅谷さんに視線を向ける。
「あーそれはだなぁ……」
言葉を渋るマスターの声に被さって、鈴の音を転がしたような綺麗な声がした。
「それは、あなた達の様なプライバシーを守れない客が増えたせいよ」
「なっ、なんですって!?」
デジカメを持った女性が顔を真っ赤にして反論する。
「ちょっと、雑誌に載ったぐらいでカフェの“貴公子”と呼んで、芸能人でもないのに芸能人みたいに追いかけまわされたら、仕事の迷惑になるってわからないのね」
誰に言うでもなくそう言い、紅谷さんを囲んだ女性客を一瞥すると、手に持ってた黒革の伝票を肩の高さでちらつかせる。
「お会計お願いできるかしら、マスター」
紫音さんの言葉に反論できず悔しそうに唇を歪ませた女性はそそくさと席に戻っていく。その成り行きを呆然と見守っていたマスターと唯子さんは、はっと気がついてレジに向かった。
「ありがとうございました」
紅谷さんの方をちらりとも見ずに、颯爽と帰って行った紫音さん。
「佐倉、ちょっと待ってて」
そう言って、紅谷さんは紫音さんの後を追いかけて店の外に出た。紫音さんの登場で不穏な空気が収まり、それを鼻にかけるでもなく帰って行った彼女はとても強い女性に見えて格好良いと思った。