第25話 恋がはじまる瞬間 <佐倉side>
心の奥深くに眠っていた、ちいさなちいさな蕾。
輝くような笑顔を向けられるたび、優しい言葉をかけられるたび、その蕾は徐々に膨らんでいって――
見ほれるほど綺麗な笑顔も、心に沁み込んで来る優しい言葉も、それは私だけに向けられたものじゃなくて、他の人にも平等に向けられてるものだと分かっている。それでもどこか心の奥で、私だけが特別なんじゃないか――そんなことを考えて、にんまり微笑んでる自分がいたのも事実で。
だけど、それが単なる思い込みで自惚れで――
合コンの帰りの駅で、紅谷さんにとってすごく大切な女性が他にいることを目の当たりにして、胸がはじけるように痛んで、わけもわからず泣きたくなって――その瞬間、きっと恋が始まったのだ。
どんなに切望しても、叶わない恋だと分かっていても、心で好きだと感じてしまったのだ。
前の恋をふっきってから約三ヵ月しか経ってないけど――だからこそ、前の恋とは違った。
会いたいと思ったら勝手に体が動いていて、デートにも誘ってしまった。紅谷さんにとって、私がただのバイトの後輩でしかなくても、何か行動を起こして少しでも女の子として見てもらいたいし、もっと紅谷さんのことを知りたいと思った。
こんなに激しい気持ちが自分の中にあるなんて、私は、知らなかった――
「佐倉、何にするか決まった?」
その言葉に、はっと飛んでいた思考が引き戻される。
「あっ、はい。このAセットで」
「A……伊達鶏とカボチャのクリームパスタね。すみません」
紅谷さんはメニュー表に視線を戻してから、キッチンにいる従業員に声をかけた。
「はいっ、今お伺いします」
そう言って顔を出したのは、肩より少し長い髪を後ろでまとめバンダナをした四十代前半くらいの恰幅の良い女性だった。
「あら、雪路君じゃない、久しぶりね」
「はい、ご無沙汰してます」
「ちょっとあんた、雪路君が来てるよ」
そう言って女性は、キッチンの奥に声をかける。しばらくして、奥から同じく四十代くらいの髭を生やした長身で体格の良い男性が現れた。
「マスター、お久しぶりです」
紅谷さんはそう言って頭を下げる。マスターと呼ばれた男性は、キッチンから客席に周り、紅谷さんの肩を抱いて、反対の手で頭をぐしゃぐしゃっと撫でまわした。
「おー、雪路、久しぶりじゃねーか。最近、顔出さないからどうしてるかって、話してたとこなんだぜ」
「ははは、すみません。就職してから忙しくて」
「そーいえば、就職したって挨拶に来て以来よね?」
女性がそう言って微笑んだ。
「そー……ですね」
「なんだ、今日は彼女とデートか?」
そう言ってじゃれついてくるマスターに、紅谷さんは苦笑するだけで――前回のように、即座に否定することはなかった。
「ほらほら、あんた、からかうんじゃないよ。久しぶりに来てくれたんだ。注文は決まってるかい?」
「はい、AとBを一つずつお願いします」
「おう、すっごく上手いの作ってやるから、待ってな」
「ゆっくりしていってね」
マスターと女性はそう言うと奥に戻っていった。紅谷さんは、あーっと言って、顔を手で覆った。見ると、耳がちょっと赤い。
ん? どうしたんだろう?
なんで、赤くなってるのか分からなくて、じーっと紅谷さんを見てると、ちらっとこっちを向いた紅谷さんと視線が合って、ドキリとする。
こっちを見た紅谷さんは、目元を僅かに潤ませ、うっとりするような甘く艶っぽい視線で苦笑した。その頬はわずかに火照っている。
「ごめん、彼女と誤解されちゃって。後で、ちゃんと紹介するから」
「あの、知り合いなんですか?」
そう聞くと、紅谷さんはメニューをメニュー立てに戻しながら頷いた。
「そう……」
そこで言葉を切った紅谷さんを訝しげに見ると、こちらを振り向いてにこりと笑った。
「俺、ここで高校生の時バイトしてたから」
「えっ、そうなんですか?」
驚きの情報に、思わず声が大きくなってしまう。
紅谷さんはそんな私をにやりと笑って立ち上がると、店内の奥を指さした。
「おいで。この店の、売りを教えてあげる」
そう言われて立ち、紅谷さんについて行く。ちょうどカウンター席とテーブル席の間にある空間にテーブルがあり、そこに数種類のサラダとドリンクが置いてあった。レタスやグリーンリーフの混ざった葉物系のサラダ、トマトやコーンやキュウリなどの生野菜、カボチャのサラダ、春雨サラダ、豆のサラダなどがガラスのボールに入ってる。ドリンクは、アイスコーヒー、アイスティー、オレンジ―ジュース、リンゴジュース、ローズヒップティー、アイスカフェオレ、ミルク、シトラスミルクがある。
たくさん種類がある上にどれも美味しそうで感激してると、紅谷さんが取り皿を取ってくれた。
「ランチ時はサラダもドリンクも食べ放題。サラダは全部、唯子さんの手作りだよ」
そう言って紅谷さんは、視線でさっきの女性を指した。話しながら、器用にサラダを盛っていく紅谷さんに続いて、私も話を聞きながらサラダをよそる。
「マスターと唯子さんは夫婦で、二人できりもりしている。この店は、俺の目標なんだ」
紅谷さんはそう言って、キッチンにいる二人に視線を向ける。
目標――以前、紅谷さんはいつか自分の喫茶店を持つのが夢だと言っていたのを思い出す。今、紅谷さんが喫茶店で働いてるのも、その夢を持ったのも、きっとこの喫茶店とマスターと唯子さんとの出会いがあったからこそなんだな。
そう思うと、この喫茶店に感謝したくなった。
だって、紅谷さんがこの喫茶店と出会ったから、chat blancで働いてて、私は紅谷さんと出会うことができたんだもの。いつか、初めてこの喫茶店に来た時の話を聞きたいと思った。
サラダとドリンクを取り席に戻って、食べ始めた。お腹がすいてるのもあるけど、ほんと美味しくて、サラダだけでもお腹が一杯になるくらい食べれそう。
さっき見た映画の話やたわいもない話をしながらサラダを食べてると、唯子さんがパスタを持ってやってきた。
「お待たせしました。こっちが伊達鶏とカボチャのクリームパスタで、こっちが梅とじゃことの和風パスタです」
そう言ってカウンターテーブルにお皿を置いた唯子さんと目が合い、にこりと笑いかけられたので、つられて笑顔を返す。
「雪路君がお友達連れてくるなんて初めてよね~」
唯子さんのその言葉にドキリとする。だってそれが本当なら――私、少し特別な存在だって自惚れてもいいのかな。
「唯子さん、彼女は大学時代のバイト先の後輩の佐倉ももさん」
紹介されてカウンター越しに軽く頭を下げる。
「はじめまして、佐倉です。このサラダ、どれもとってもおいしいです」
「そう言ってもらえると嬉しいわ、ありがとう。ももちゃん、ゆっくりしていってね」
そう言って、唯子さんはキッチンに戻って行った。
早速、フォークで麺をすくい口に運ぶ。カボチャの甘みと濃厚なクリームの味が絶妙で、麺ももちもちと弾力があって、口の中の麺がなくなると、またすぐ次を運ぶ。
美味しくって無言で食べ続けてると、くすりと笑われ、ぱっと横を向くと、紅谷さんが口元に拳をあてて笑いをこらえて、肩が小刻みに揺れている。
「紅谷さん……」
私がむくりと膨れて名を呼ぶと、ぷっと、こらえられずに笑い声を洩らた。
「あはは、ごめんごめん。あんまり夢中になって食べてるから、可愛いな――と思って」
途中まで馬鹿にされてたのに、ふっと甘やかな瞳になって“可愛い”とか言われたから。
キュンっ、と胸が締め付けられて、心臓がばくばくいっている。
うう……、眩しすぎる笑顔と言葉に、瞬間、顔が真っ赤になってしまう。
紅谷さんのこれって、素なのかな……? そうだとしたら、なんて恐ろしい……、こんなこと言われたら、好きになっちゃっても私のせいじゃなくない?