第23話 雪は春の路にいざなう <佐倉side>
あれは、バイトを初めて二日目――
夕方、少し早めに従業員用のロッカールームに向かった。人生初めてのバイトは、喫茶店での接客。昔、母に連れられて何度か来たことのある喫茶店が大学のすぐ側にあって、そこでのバイトをすぐに決めた。慣れないYシャツを着て、鮮やかなナイルブルーの生地の長めのエプロンを身につける。
キッチンに行くと、初日に、接客の仕方、トレンチの持ち方、提供の仕方などを教えてくれた店長が顔を出す。その日も店長が色々と教えてくれると思ってたんだけど。
「佐倉君、おはよう!」
店長は三十代前半くらいで、“店長”としては若い方なんだろうなと思う。短髪長身、筋肉の付いたがっしりとした体格が店長というよりもスポーツマンという印象だった。私は頭を下げ、挨拶する。
「おはようございます」
顔を上げると、キッチンの中、店長の横に男の人がいるのに気づく。
「おはようございます」
彼はそう言って軽く頭を下げて、口角を上げて笑った。その笑顔は、春の風が吹いたように爽やかで、彼が笑うだけで辺りには匂い立つような満開の花が咲いたように眩しかった。
「おっ、紅谷君と会うのは初めてだったよね? 彼は紅谷君、うちでは長い方だから色々頼るといいよ」
店長は厳つい顔をにこにこと優しげにほころばせて、彼を紹介した。
「彼女は昨日から入ったバイトの子、佐倉もも君だ」
私に話しかけた後、店長はそう言って彼――紅谷さんに私を紹介し……
「紅谷君とはシフトが被ることが多いから、彼女の教育は、君に任せてもいいかな~」
そう言ってひらひらと手を振る店長を、もともと大きな目を少し見開いて呆然と見返した紅谷さんと、キッチンで鼻歌を歌いはじめた店長。
私も紅谷さんも店長は冗談で言ってると思ってたけど……キッチンからホールに追い出された紅谷さんについて、私は仕事を教わり――バイト二日目が終了した。
――それが、私と紅谷さんの初対面だった。
次の日からは、滅多に店長とシフトが重なることはなく、私の教育係に任命された紅谷さんから喫茶店での仕事のやり方をすべて教わった。
紅谷さんはきりっとした二重、通って高い鼻、均整のとれた顔立ちはとても格好良いけど、普段は澄ました顔でキッチンに入り、時々見せる笑顔は、悪戯っ子の様な、少し意地悪な笑いで――甘く眩しい笑顔を私に向けたのは、初めて会った時の一度だけだった。それがなんだか壁を感じさせて、ちょっと紅谷さんを苦手だと思ったのは最初の一ヵ月。
その後、あの甘い笑顔が営業スマイルだと言うことを知って、意外と笑う人だと知って、誇りを持って働いてる真摯な姿を見て、憧れて――
バイトの先輩、憧れの先輩、ライバルの様な――それが私と紅谷さんの関係だった。
それがいつからか私の中では――私と紅谷さんの関係は喫茶店から切り離れたところで動きだし始めていて。
胸をポカポカと温めてくれる存在で、悲しい時には支えてくれる存在で、会えないと思うと寂しく思う存在で、切なく胸が締めつけられるように恋しい存在で――
※
暗闇の中、隣の席に視線を向けると、スクリーンの白さで照らされた紅谷さんの横顔は真剣にスクリーンに向かっていた。
今日は紅谷さんと約束していた映画を見に来ている。
上映が始まってから、紅谷さんとの出会いを思いだして過去にトリップしていた思考が戻ってくる。
映画は中盤に差し掛かり、前半部分をほとんど見ていなかったので、ぜんぜん内容が分からなくて、ぼーっと考え事をしてた自分に呆れてしまう。こんな至近距離で隣に紅谷さんが座ってると思うと、なんだか緊張してぜんぜん映画に集中できなかった。結局、そのままぼんやりと思考をとばし、気が付いたらエンディングが流れ終わったとこだった。
館内はぱっと明かりが付き、客席に座ってた人達はぞろぞろと出口に向かって移動し始めた。
けっ……結局、映画の最初の部分しか見てなかった――
ふっと顔を上げると、横で立ちあがった紅谷さんが私を見下ろしている。
「佐倉?」
「あっ、はい。出ましょう」
私は慌てて座席の下に置いてた鞄を引き出して立ち、紅谷さんの後についていく。階段を下り上映室の外の通路に出ると、上映を待つ人、売店に並ぶ人、お手洗いに行く人などで混雑していた。まっすぐ出口に向かうのかと思うと、紅谷さんは通路を少し進んだところで振り返った。
「さて、この後はどうする?」
そう言って壁に背をつけ足を汲んでこちらを見てる紅谷さんは、なんとも色っぽい。私はそんな紅谷さんに見とれてしまいそうになり、頭を振って鞄から携帯を取り出す。
「えっと、もう十二時すぎてるので、どこかでランチ食べますか?」
携帯の画面を見ると十二時半をすぎていた。心なしか、お腹も減った様な。
「よし、じゃ、どっか食べに行こう。なに食べたい?」
そんな会話をする私達をちらちらと見て通り過ぎる人達の囁き声が聞こえた。こっちを見るのはだいたい女性で、その囁き声はどれも格好良いとか、イケメンとか、紅谷さんを称賛する声と、なにあの女、彼女のわけないか――そんな声。
私は聞きたくないことが聞こえてため息をつきつつ、横を向いてぼそりと答える。
「……紅谷さんの食べたいものでいいです」
分かってるよ、私と紅谷さんが釣り合わないことなんて。紅谷さんは格好よすぎだし――って、なに、釣り合わないとか考えてへこんでるんだろう、私……
「佐倉の食べたいものでいいよ。何が食べたい?」
一人へこんでる私とは違く、紅谷さんは眩しいばかりの笑顔で私を見る。
なんで紅谷さんはそんな笑顔を私に向けてくれるのかしら……バイトの後輩だから――っていうか、私、紅谷さんのことあんまり知らないんだな。そう考えたら、欲が出てきた――
「紅谷さんは、何が好きですか? いつもどんなとこで外食するんですか?」
じーっと紅谷さんを見上げて、聞いてみる。紅谷さんは一瞬、目を見開き、とんっと背中を壁から離し歩き出しながら言った。
「……わかった。俺がよく行くお店でいいかな?」
私は慌てて後に続き、紅谷さんの横に並ぶ。
「パスタのお店なんだけど、いい?」
「はいっ!」
そう言って、映画館を出た。