第3話 燃える炎と消え始める炎
次の日のバイト。
やっぱり彼は一人で来ていた。ここ数日、彼が一人で来ていること……ううん、“彼女”が来ていないことに、その時初めて気づく。
もしかして、彼は彼女を待つ時間つぶしに、“彼女”と同じ名前の私に興味を持って話しかけてきたのかしら。
“彼女”、サクラさんっていう名前なのね……彼はなんていう名前なのかしら……
そこまで考えて、頭をぶんぶんと勢いよく左右に振って、思考の中から彼の存在を消そうとした。
「なにやってるの? 佐倉」
くすっと笑ってキッチンにいる紅谷さんが訪ねてくる。
私は苦笑いして、カウンターに寄りかかり。
「なんでもないですよ。注文、なにかあがりますか?」
「ああ。じゃあ、冷蔵庫からケーキ取って、このケーキセットを先に提供してきて」
紅谷さんは言って、手際良くコーヒーと紅茶を注ぐ。私はそのカップを受け取りソーサーに乗せ、ケーキ皿を出し冷蔵庫から取り出したケーキを並べる。それをトレンチにバランスよく乗せてホールに向かった。
ホールに出ている間は、極力、彼の方を見ず、考えない様に務める。そうしなければ、昨日顔を出した欲がどんどん膨らみ、私の意志を無視して勝手に走りだしそうだったから。
混む時間帯は、ひたすら注文と提供を繰り返してキッチンとホールを走り回り、手の空いた隙にお客様の帰ったテーブルの食器を下げウォッシャーを回し、また提供に戻る。その繰り返しで、彼の視線を意識しないようにした。
「じゃ、このサンドウィッチお願い」
そう言って紅谷さんが出したサンドウィッチを受け取りホールに出る。客席はほぼ満席で、お茶をしながら談笑している年配女性の団体がいくつか、英会話のレッスンをしている先生と生徒、何か打ち合わせの話をしているスーツを着た人達、一人で来てコーヒーを楽しむ人達、さまざまなお客様でガヤガヤと店内は賑わっていた。サンドウィッチを提供し、ホールに戻ってはぁーっとため息をつく。
「お疲れさん」
紅谷さんが私のため息を笑って言う。私はそれに笑い返し、ウォッシャーを動かし、洗い終わった食器を布きんで丁寧に拭きあげていく。ホールが見える位置に立ち、手は動かしながら紅谷さんに話しかける。
「やっと落ち着きましたね」
その時、ホールから食器を片づけて戻ってきた黒沢君が、食器を流し台に置きながら言う。
「一段落ですね」
黒沢君は私と同い歳の大学一年生だけど、高校生の時からここの喫茶店でバイトをしているため、バイト歴では蘇芳さんより先輩になる。
「ああ。でも今日は金曜だから、このまま空くことはないだろうな……あっ、佐倉か黒沢、先に休憩行ってきな」
紅谷さんがそう言った時。
「すみません」
ホールからお客様の呼ぶ声が聞こえた。
「あっ、私行くから黒沢君お先に休憩どうぞ」
そう言って私はホールに出た。
呼んでいたお客様はコーヒーのお代わりの注文で、私はキッチンからコーヒーポットを持ってそのお客さまのところに戻ってコーヒ―を注いだ。ついでに店内を一巡りしながら他にコーヒーのお代わりがいるお客様がいないかどうか見て回った。窓側の席に行った時、あえて角の席を見ないようにした。だって、彼はアイスコーヒーだから。コーヒーのお代わりはいらないでしょ。うちの喫茶店では、コーヒーのお代わりはあってもアイスコーヒーや紅茶のお代わりはないんだよね。
窓際の席を端から端まで歩いて、コーヒーのお代わりのお客様がいないようなのでキッチンに戻ろうとした時、またお客様に呼ばれる。
「すみません」
私は声のした方を振り返って、一瞬動きが止まる。
呼んでいたのは窓際に座った彼で、こちらをしっかりと見ていて、私はたじろぐ。後ろや横の席を振り返って見るが、そのどの席のお客様も談笑したり、新聞を読んでいてこっちを見ている人はいない。
私はゴクリっと唾を飲み込んで、ゆっくりと彼の座っている席へと近づいた。
「はい、お伺いします」
私は必死に平静を装い、彼に尋ねる。
「あっ……コーヒー1つ、お願いします」
そう言った彼に、私は聞き返す。
「アイスコーヒーじゃなくて……コーヒーですね?」
彼は私の目を見て頷き、無言で机の真ん中に置かれた空のアイスコーヒーのグラスを机の端まで動かした。私はその空のコップを受け取り、机に置かれた伝票を持ってキッチンへ戻り、追加の伝票を打ってキッチンカウンターに置く。
「コーヒー追加です」
キッチンの奥にいる紅谷さんに向かって言う。手に持ったままだったコーヒーポットをウォーマーに置くと、キッチンからひょこっと顔を出した紅谷さんが空のコーヒーカップをカウンターに置いた。
「はい、お願い」
そう言った紅谷さんはニヤニヤしてる。
「あの……」
私は眉間にぎゅっと皺を寄せて、紅谷さんを見た。
「いいから、いいから」
つまり……私にコーヒーを注がせようというのだ。私はホール担当のバイトで、ホールで淹れるお代わりのコーヒー以外は、厳密に言うと淹れてはいけないことになっている。キッチン担当の紅谷さんがいるのだから尚の事、私が淹れるのはおかしいのだけど、紅谷さんは昨日の事を何か誤解していて、変な気を利かせているようだ。
私はどうしたものかと躊躇い、がばっとカップとポットを引き寄せると、ジョボボボ……っと勢いよくコーヒーを注ぎ、いそいそとカップをトレンチに乗せホールに出た。
「お待たせしました」
私は動揺で震える声と手に気取られない様に、全神経を集中させてコーヒーカップを置いた。ちらっと彼の顔を見ると、こちらをじっと見つめてて、何か言おうと口を開いたので、あわてて伝票を置きキッチンに戻る。
キッチンに戻るなり。
「もう、変な気を効かせないでください!」
ほんのり染まった頬を隠すようにして、小声で紅谷さんに噛みつく。
「なんだ、もっとゆっくりして来ればいいのに」
「そんなことできないですよっ! 今はバイト中なんですからっ」
「大丈夫だって、いま注文も提供も落ち着いてるんだから」
そう言って、にやにやする紅谷さん。
「って、そういう問題じゃないですよ! 本当に、知り合いとかそんなんじゃないんですからっ!」
私は涙目になって必死に訴える。
お願いだから、けしかけるのはやめてください!
一生懸命、彼とは関わらない様にしているのに。なまじ彼に近づけば、どんどん欲が出てきてしまう。私自身が気付かないうちに、恋の炎がぼおぼおと勢いよく燃え始めてしまいそうで怖かった。
「でもさ、昨日バイト上がりに何か話してたでしょ?」
紅谷さんが興味津々に聞いてくる。私はため息をついて。
「本当に、なんでもないんですよー」
そう言う私を、やっぱりニヤニヤと見つめてくる紅谷さんから逃げるようにホールに出ていった。