第17話 chat blanc 2 <紅谷side>
日曜日の喫茶店chat blanc。フランス語で白猫という意味の喫茶店で働く俺のことを聞いてきたお客様が置いていった小さな手提げの紙袋。その中に入っていた紙に書かれていたのは――
『紅谷さん
昨日は駅まで送っていただきありがとうございます。慌ててたので、紅谷さんに借りた眼鏡を返し忘れてしまいました。仕事で使うと聞いていたので、返すついでにK駅支店のchat blancの見学に来ました。
直接お礼と眼鏡を返したかったのですが、バイトの人にキッチンにいて忙しいと聞いたので、手紙と一緒に置いていきます。こんなことならメールして来ればよかったですね……驚かそうと思ったのですが、今日はお会いできなくて残念です。
眼鏡ケースはさっき駅で買ったものですが、お礼ということで受け取ってください。今度、ちゃんとお礼をさせて下さいね!
――佐倉』
紙袋の中に入っている手のひら大の箱を取り出すと、マリンブルーの眼鏡ケースが入っている。ケースを開けるとそこには、確かに昨日、俺が佐倉に貸した眼鏡が入っていた。
俺のことを聞いてきた客は――
この紙袋を席に置いて言ったのは――佐倉だった。
俺は今すぐ駆けだしたい衝動をぐっと抑えて、それでも長谷川さんに尋ねる声に焦りを隠せないで言った。
「このお客様はもう帰ったんだよね……?」
「はい、十分くらい前に」
「そう、か……」
十分前……それならば、今さら店の外に出ても、もう佐倉には追いつけないだろう……
もし、今日、少しでもホールに出てれば……
もし、長谷川さんが最初に知らせた時に、もっとその客のことを聞いていれば……
佐倉が来ているって、もっと早く分かっていれば……
そんな「もしも」なんて考えても仕方がないことを何度も何度も考えて、眉根に深い皺を寄せて黙り込んだ。
せっかく佐倉が俺に会いに来てくれたのに、会えずに帰してしまったことに、深い罪悪感と焦燥感が胸を締め付ける。
なんで、俺は肝心な時に、何も出来ないんだ――!
自分の不甲斐なさに打ちのめされていると、キッチンの奥から店長に呼ばれて、はっと我に返る。
「はいっ」
「紅谷マネージャー、休憩行ってきていいよ」
打ちひしがれていた俺には、その店長の言葉が天の助けに聞こえた。俺は返事もそこそこに従業員用ロッカールームに向かう。ロッカールームまではホールを通るので、走るわけにはいかず、残っている僅かな理性で急く気持ちを抑えて歩いた。
ロッカールームに着くと、すぐにズボンのポケットから携帯を取り出す。仕事中に携帯を使うことは滅多にないが、緊急用に音が出ない様にして持ち歩いている。取り出した携帯を開きアドレス帳を開いて、通話ボタンを押して耳にあてる。
プルルルル……
規則的な機械音が聞こえる。なかなか途切れない音に、祈る。
佐倉、気付いてくれ――!
プルル……
『はい、もしもし?』
何回目かのコールの途中で、聞きたかった声が聞こえ、ほっと安堵の息をつく。
「佐倉、今どこ? もうK駅出ちゃった?」
『紅谷さん? えっと、いえ、まだ駅前ですけど……どうしたんですか?』
「駅前? 北口?」
『えーっと……北口改札の前、です』
「わかった。ちょっとそこで待ってて」
『えっ、紅谷さん……?』
「佐倉、そこにいて!」
戸惑いがちに問い返してくる佐倉に、そう言って電話を切る。携帯を再びズボンに突っ込み、足早に店を出た。店の外、階段を駆け下り、駅前に向かって全速力で走る。こんなに走ったのはいつぶりかというくらい、夢中で走っていた。
佐倉がまだ駅前にいると聞いて、佐倉に会えると思ったら――考えるよりも先に走り出していた。ちょうどいいタイミングで休憩時間になったのは、神様も俺にいじわるばかりじゃかわいそうだとか思ったのかもしれない――
K駅北口改札付近で佐倉を見つけると、緊張してた糸が切れ、自然と頬が緩む。
佐倉はまだ俺には気づいてなくて、キョロキョロと辺りを見回している。俺は全速力で走ってきた足を緩め、小走りで佐倉に近づいた。
「佐倉っ!」
呼吸を整えながら、佐倉に声をかける。
「紅谷さん、どうして?」
そう言って振り向いた佐倉は、くりくりの大きな瞳を見開いて俺を見てる。俺は手に持ったままだった佐倉からもらった紙袋を見えるように少し持ち上げる。
「これ、持ってきてくれてありがと。それだけ言いたくて……」
「わざわざ、それだけ言うために……?」
あっけにとられたような顔で佐倉が俺を見てる。
「ああ」
俺が頷くと、佐倉の顔がすっと青ざめた。
「そんな、忙しいって聞いたから渡してもらえるように頼んだんですよ。仕事中にこんなとこまで来て、ダメですよっ、早く戻ってください!」
そう言って佐倉は両手で俺の背中を喫茶店の方へ押した。その必死な様子が可愛くて、くすりと笑みがこぼれる。
「佐倉、大丈夫だから。今、休憩中」
「えっ……」
俺の背中を押す佐倉の細い腕を掴んでそう言うと、佐倉がぽかんとして顔をあげた。
「だって、紅谷さん……」
そう言って、俺をじーっと見る佐倉の瞳を見つめ返す。その黒い瞳がゆらりと揺れて、見入ってしまった……胸がざわついた。
「……エプロンつけっぱなしです」
「えっ……」
そう言われてはっと見下ろすと、鮮やかなナイルブルーが視界いっぱいに広がった。chat blancの従業員がつけているエプロンは、ひざ丈まである長めのナイルブルーの生地に、胸元に小さくchat blancの文字と白猫が描かれている。ロッカールームで外してきたと思っていたが、焦っていたせいでそのまま店を出て駅前まで来てしまったらしい。
うわっ、恥ずかしー。
そう思った瞬間、かぁーっと顔が赤くなるのが自分でもわかって、それを隠すように前髪に手をかける。
「外すの忘れてた……。あー、すっげー恥ずかしい……」
言いながら横目で佐倉を見ると、頬を染めてぼーっと俺を見ていた。
なぜ、ここで頬を染める?
呆れた顔をしてると思ったのに、予想外の表情に、顔を隠していた事も忘れて手をおろす。
「佐倉……」
なんで、そんな顔で見るんだ?
そう聞きたかったが、言えなかった。そんなこと聞いてしまったら、いよいよ自分の気持ちを抑えられなくなりそうで……怖かった。
恋の次の段階に踏み出すには――まだ、自分には何かが足りない様に感じて、怯んでしまった。
口をつぐんだ俺を不審に思ったのか、首を傾げて佐倉が俺を見上げてる。
「いや、何でもない……」
聞かれる前にそう言って、俺はにこりと微笑んで佐倉を正面から見る。
「ほんとに眼鏡ありがとな。また、よかったら来て。俺、キッチンにいることが多いからその時は――」
俺の言葉にかぶって、佐倉が苦笑しながら言った。
「はい、今度来る時は、メールしてから来ますね」
まだ休憩時間もあるし、佐倉と話していたかったが、なんだか気恥ずかしくて。
「ああ……じゃ、俺戻るから」
言いながら、まだ着けたままだったエプロンを外し片手に持ち、もう片方の手をあげる。
「はい。仕事頑張って下さい」
軽くお辞儀をして、改札に向かって歩き出した佐倉の背中を数秒見つめ、踵を返した時。
「紅谷さんっ!」
呼ばれて振り返ると、もう改札をくぐったと思っていた佐倉がすぐ側に立っていた。




