第9話 零歩の距離で <紅谷side>
どこかで会ったことがある。
そう思った目の前の女は――佐倉だった。
照明が薄暗いせいか、化粧のせいか、すぐに佐倉だとは気付かなかった。
「……佐倉?」
そう問いかけた俺に、返ってきた言葉は意外なものだった。
「えっと、どちら様ですか?」
佐倉だと思った女の子が眉根を寄せて不審げにこちらを見て言うから、たじろいでしまう。他人の空似か?
「喫茶店で一緒にバイトしてた紅谷だけど……佐倉、だよね?」
そう聞くと、佐倉に似ている子はぱっと顔を輝かせて。
「えっ、紅谷さん?」
俺に一歩近づいて上目づかいで見上げる顔に、ドキンっとする。
「やっぱり、佐倉……?」
佐倉だったことに安堵のため息をついて、首をかしげる。でもさっき「どちら様ですか」って言ったよな?
沈黙で俺の疑問を悟ったのか、佐倉が苦笑して俯く。
「実は、コンタクトを落としてしまって……」
「えっ? コンタクト落としたって、大丈夫か?」
俺はあわててしゃがみ込んで床に落ちているはずのコンタクトを探すが、暗い照明のせいでよく見えない。俺の横にしゃがんだ佐倉が苦笑して言う。
「あー、見つからないみたいなので、諦めました。反対側も取っちゃったし、とりあえずコンタクトなしで帰ります」
「なしって、大丈夫なのか?」
お互い、立ち上がりながら言う。
「まあ、大丈夫かと言われると自信はありませんが、仕方ないので。この距離でも顔がぼやけて見えないんですが、人影くらいはわかるので、なんとかします!」
そう言った佐倉と俺の距離は二歩の距離しかない。この距離で見えないって、そうとう目が悪いんだな。
俺は一歩近づいて、佐倉に顔を近づける。
「ここで見える?」
「いえ……」
「じゃあ、ここなら?」
言いながら、更に一歩近づく。
「えっと、さすがにこの距離では見えます……」
零歩の距離で見下ろした佐倉の頬がみるみる赤くなって、ふいっと顔をそむけた。俺はその仕草に胸がチリチリと痛み、一歩距離を取る。どのくらい視力が悪いのかという好奇心から、不用意に佐倉に近づいてしまったことを後悔する。
「あっ、戻りますか……?」
そう言って歩き出した佐倉を追い越して、一歩先を歩く。
「でも、こんなところで紅谷さんに会うなんて偶然ですね。あっ、もしかして紅谷さんも合コンですか?」
佐倉が真面目な顔で見つめてくる。
「いや、俺は大学の同期と飲み会で」
「そうですよねー、紅谷さんに合コンとか似合わないです! っというか、合コンなんてしなくてもモテモテですよね」
へらっと笑う佐倉。一体、佐倉は俺のこと、どんな風に見てるんだ……?
「私も本当は友達と飲み会だったんですけど……、付いてきったら、びっくり! 合コンでした」
えへへ、と笑う佐倉に気づかれないようにため息をつく。
「でもー、合コンなんて……」
先導して歩いてたつもりが、佐倉は曲がり角に来ても気づかずにそのまま壁に突撃しそうで、とっさに腕を掴み、壁にぶつからない様に引き寄せる。
「危ない! そのまま進むと壁……」
あははー、と佐倉は誤魔化すようにあどけない笑顔を見せる。
佐倉は笑っているけど、よく見えていないのかふらふらと歩く佐倉が心配だった。こんなんで無事に帰れるのか……
「あのさ……」
俺は胸に抱いた望みを、そう切り出す。
「佐倉が嫌じゃなかったら、家まで送ってくよ? その視力じゃ心配だから」
心配なのは、本当。佐倉は、うんと言ってくれるだろうか……
少しためらって口を開いた佐倉は。
「えっと、嫌じゃないです。でも、紅谷さんにそこまでしてもらうのは悪いです」
「悪くないよ」
間髪入れずに言う。
「見えないのも心配だけど、そのまま合コンに戻るのも心配だから……」
おそらく、佐倉に絡んでいた男は合コンの席にいるだろう。さっきは俺が止めたから良かったが、また佐倉に迫らないとは限らない。それに、合コンに引き続き参加させるのが嫌だったから。これは俺のわがままだろうか……
「それは、私も! 心配して連れてきてくれた友達には悪いけど、合コンには戻りたくないです! でも……紅谷さんはいいんですか? 飲み会、途中で抜けて……」
「ああ、大丈夫。俺にとって、佐倉を無事に帰すことのが大事だから」
俺の言葉にかぶって。
「あっ、ここの部屋です」
佐倉が前方の扉を指さした。
俺は、その扉をノックしてから開いて部屋に入る。中にいた七人の男女――さっきの男もいた――の視線が一気に俺に集まる。
「誰……?」
女が言って、俺の後ろから付いて部屋に入った佐倉を見て、はっとする。
「もも! 遅いから心配したよー」
「亜美、心配かけてごめん。ちょっと色々あって……」
そう言った佐倉はちらっと男を見て、すぐに亜美と呼んだ友達に笑いかける。
「そうなの? それで、その人は、誰……?」
俺は爽やかな笑みを作って、お辞儀する。
「こんばんは、佐倉さんのバイト仲間の紅谷と言います。佐倉さんがコンタクトをなくしてしまったと言うので、家まで送っていこうと思うのですが、いいですか?」
首をかしげて、にこっと微笑む。俺を見てる三人の女が、少し頬を染めてぼーっと見上げてるのを見て、にやっと笑う。そんな俺を、佐倉に絡んだ男は苛立った顔で睨み、佐倉は呆然と見上げている。
「……え、ええ。ももをお願いします」
しばらく固まっていた亜美さんは、はっと我に返り勢いよく頷きながら言った。俺は、彼女に微笑み返し、荷物を取った佐倉を促して、部屋を出た。
扉を閉めると、眉間に皺を寄せて佐倉が俺をじーっと見ていた。
「なに? どうした?」
そう聞くと、ぶんぶんと音が鳴りそうな勢いで首を左右に振って俯いた。俺はその行動に首をかしげつつ、自分の荷物を取りに同期のいる部屋へと足を向けた。