第3話 涙のワケ、俺が出来る唯一のこと
佐倉が休憩に入って三十分ほど経った頃だろうか、キッチンの前を梅田が通り過ぎながら会釈して帰って行った。
ずいぶん早く話しは終わったのだな……そう思いながら俺も会釈で返す。
レジから黒沢のありがとうございましたーという声が聞こえ、チリンチリンとドアの鈴が涼しげに鳴る。
それから数分後。
佐倉はまだ禁煙席にいるのかと首をかしげた時、禁煙席の方がざわついているのが聞こえ、黒沢がそこから慌ててキッチンに駆けこんできた。
「さっ……佐倉ちゃんが禁煙席で泣いているんだけど! どうしよう?」
その言葉に、片眉を上げる。
えっ?
泣いている……?
梅田は帰って行った。彼の様子は普通だった。佐倉に一体なにが起きたんだ?
焦る頭を落ち着かせるように、冷静な声で黒沢に言う。
「とにかく、佐倉をロッカールームへ連れて行くんだ」
「うん、わかった」
そう言って飛び出して行った黒沢に支えられて、泣きじゃくりながら引きずられるように佐倉はロッカールームへと消えて行った。
今すぐにでも側に行って、抱きしめてやりたい――
泣くな、何があったんだ、そう言ってなぐさめてやりたい――
湧きおこる感情を必死に抑え、俺はキッチンに踏みとどまる。
この時間のバイトは俺と黒沢と佐倉ともう一人、計四人だから、俺までロッカールームに行ってしまうわけにはいかなかった。
少しして、黒沢が困った顔でキッチンに戻ってくる。
「紅谷さーん、俺じゃどうしようもできないよー」
そんな泣きごとを言う。
黒沢が言うには、何を聞いても佐倉は泣いてて答えないと言う。
俺は黒沢にキッチンを任せ、ロッカールームに向かう。足早に近づきロッカールームに入ると、佐倉はパイプ椅子に座り、背中を丸めて足の上に顔を伏せて泣きじゃくっていた。
「佐倉……どうした?」
俺は優しい声でそう言い、そっと佐倉に近づいた。
「何があった?」
そう聞くと、僅かに顔を上げ、首を横に振り、また顔をうずめて泣きだした。
今は話せる状態じゃない、そう判断して、俺は佐倉が泣きやむまで無言で背中をさすり続けた。時々嗚咽をもらし、わんわん泣く彼女の頭をなで、背中をさすり……落ち着いて顔を上げた佐倉は、目が真っ赤にはれ、頬をいく筋も伝った涙の跡が残って、いまにもまた泣きだしそうな、はかなげな瞳だった。
一体なにがあったのか……
わからないだけに、どうしてやることもできなくて、もどかしい。
そんな彼女を見るのが辛くて、視線をそらして言う。
「佐倉、今日はもう上がれ……」
佐倉は小さく小さく、頷き、おぼつかない足取りで帰って行った。
ロッカールームから入り口まで、佐倉を支えるようにして一緒に行くと、黒沢や常連のお客様が心配そうに佐倉に声を駆ける。
佐倉は俯いて、今にも泣きそうだったので、俺が代わりに大丈夫と伝え、支えていた肩に少し力を入れ、ぽんっと叩いた。
※
次の日。
俺はバイトの休憩中に佐倉に電話をかけていた。
佐倉は今日もシフトに入っている。昨日の様子も気になったし、もしかしたら、バイトに来づらくなっているかもしれないと思って。
コールをしてもなかなか出ず、俺は眉根を寄せて、携帯の耳から話し、ディスプレイを見る。
『はい、もしもし。佐倉です』
切ろうかと思った時に、佐倉がやっと出て、安心する。
「おっ、やっと出たな。紅谷だけど、今いいか?」
『大丈夫ですよ、どうしたんですか?』
その声は、意外と落ち着いていて、昨日のことが嘘のように感じられた。
「ああ……佐倉こそ、大丈夫か?」
そう聞くと、受話器の向こうに沈黙が広がる。
俺は思い切って、言葉を口にする。
「俺で何か相談にのれることがあったら、聞くからな?」
俺を頼ってくれ!
俺にはそれぐらいしか、佐倉の力になれることはないのだから――
その時、コンコンっとロッカールームが叩かれ、黒沢がやってきた。
「紅谷さーん!」
開口一番、飛びつくようにして来た黒沢を俺は体をねじってよける。
「あっ、悪い。ちょっと待ってて……」
そう言って携帯を片手で押え、黒沢に向き直る。
「どうした、黒沢?」
「常連のお客様が、いつものって言ってて、俺じゃ何を作って出したらいいか分からなくて……」
俺はため息をつく。
お客様が常連になって通ってくれることはありがたい。だがたまに、“常連”と一人で思いあがり「いつもの」そういう風にしか注文をしないお客様がいる。
もちろん、それで通じる場合もある。お客様と店員とお互いに分かりあっている場合がそれだ。
しかし、客が自分は常連と思っていても店員が把握してなければ……その客の注文を取るのが初めての店員の場合は……いくら何度も店に来ているとしても「いつもの」で通じるわけがない。分からなくて、聞き直しても「いつもの」そう言い張る。
そういう我が儘な客がたまにいて……困ってしまう。
「わかった。俺がキッチンに戻るから……」
そう言って、もう一度ため息をつく。
「すみません、休憩中だったのに」
頭をさげる黒沢の肩を俺はぽんっと叩く。この場合、黒沢はまったく悪くない。
「今行くから、少し待ってて」
黒沢がロッカールームを出たのを確認して、携帯を耳元にあてる。
「お待たせ。ごめん、今休憩中だったんだけどちょっとキッチンに戻らないといけないから、切るわ」
『……はい』
そう言った佐倉の声は最初よりも少し元気がなくて、俺は眉間に皺を寄せる。
「それから、バイト……辛いとは思うけど、ちゃんと来いよ!」
苦笑して、それだけ言うと通話を切り、キッチンに戻った。
夕方、佐倉がちゃんとバイトに来たのでほっとする。
「おはよ」
「おはようございます……」
少し俯いて話す佐倉から、昨日のことには触れない方がいいと判断して視線をそらし黙々と手を動かした。
二時間後、切れた野菜を取りにロッカールームに行く。
佐倉が休憩に入っていたことを忘れて、ノックもせずに扉を勢いよく開こうとしたが……何かが扉に当たって、開かなかった。
怪訝に思い首をかしげていると、中から佐倉の声がした。
「すみませんっ!」
「なんだ、佐倉か。ドアが開かないからビックリしたよ……」
そう言って扉を開けた佐倉の顔を見て、本当にビックリした。心臓を鷲掴みにされたように痛み、顔から表情が消える。
そんな俺をみて、首をかしげる佐倉から、すっと視線をそらして奥の冷蔵庫に向かい、すれ違いざま彼女の頭をぽんっと優しく叩く。
「……また、泣いてたのか?」
そう言わずにはいられなかった。
そんなことを言えば、きっと佐倉はまた悩むだろう。しかし、一人で泣いているのなら、俺が話しを聞いてあげたかった。
佐倉は慌てて袖で顔を拭いて俯いた。
「電話でも言ったけど、俺でよかったら相談にのるからな。たぶん……あいつのこと知ってるの俺だけだろうし……」
後半は独り言のように呟き、冷蔵庫から目当ての野菜を数個取り出す。冷蔵庫を閉め、俺は佐倉の方を見ずに扉に向かう。
「あの……!」
慌てたように言う佐倉に、ドアノブにかけた手を止め、立ち止まる。
「後で話を聞いてもらってもいいですか?」
その言葉に、俺は胸が熱くなる。
「ああ、わかったよ」
振り向かずにそう言って、キッチンに戻った。
※
バイトを終え、駅の反対側にあるファミレスで、佐倉の話を聞くことになった。
佐倉が、常連の梅田に一目ぼれしたこと。
梅田には、他に好きな人がいると気付いたこと。
そして、自分の想いを伝えないと決めていたこと。
ひょんなことから梅田と話すようになり、一度だけ食事をしたということ。
俺はてっきり、佐倉と梅田は両思いで付き合っていると思っていたが、それは全くの見当外れだった。
昨日梅田が喫茶店に来たのは、佐倉に別れを告げるためで、梅田は実家の事情で退学するらしい。
「私は結局、振られるのが怖くて逃げていたんです。気持ちを伝える勇気もなかったくせに、彼に“サヨナラ”と言われたことがショックで。もう会えないって分かってるのに、もうこの恋を諦めなきゃいけないんだってわかってるのに……それでもまだ私の“心”には彼への想いがあふれてて……諦められないんです……」
佐倉は胸に両手をあてて、悲しみの溢れた瞳で喋る。
俺は、自分の思い違いのせいで、昨日佐倉に辛い思いをさせてしまったことに罪悪感を抱く。佐倉の恋の応援をしたつもりが、とんだアシストをしていたらしい――情けない自分にため息がもれる。
佐倉は、必死に梅田にした恋を諦めようとしてる。
俺はわずかに開いた口から言葉を絞り出す。
「……いじゃない……」
「えっ?」
聞こえなかったようで、佐倉が聞き返す。
俺は佐倉を見つめ、ゆっくりと言葉を選んで言った。
「無理やり忘れようって思うから辛いんじゃないか? 諦められないから、辛いんじゃないか?」
「それは……」
佐倉は口ごもり、俺は彼女を真剣な瞳で見つめた。
「無理に気持ちを消そうとしないで、そのままを受け入れて……いつか自然と諦めがつく時を待てばいい」
今の彼女に、俺がかけてあげられる言葉はこれだけだ……
佐倉が、恋を諦めると言うならば、そっと後ろから見守ろう。
「それまではたくさん泣いてもいい。たくさん悩んで、何度も思い出して、また泣いて」
悩んだ時は、また俺が話をきいてやる。
「いつか自然と次の恋をしたい、そう思う時まで今のままでいいんだよ」
俺はそう優しく言った。
他の男を想って泣く彼女は見たくなくて……胸がちくりと痛み、苦笑した。
本編第7話後半~第9話の裏側です。