第2話 サクラの隣は梅がお似合いだ
翌日の土曜日。俺はその日も昼過ぎに店長と交代でシフトに入る。夕方の混雑が落ち着いた隙に休憩に入る。といっても、土曜日なのですぐに混み出すことを予想して、手早く食事を取り、一息する。
コンコンッ。
ロッカールームが叩かれ、扉から佐倉が入ってきた。
「紅谷さん、お疲れ様です。休憩ですか?」
俺は深く腰掛けたソファーから体を起こす。
「ああ、今空いてるから、黒沢がキッチンに入ってるよ」
佐倉は更衣室で着替えるとすぐにキッチンに向かった。その後ろ姿を見つめて、俺は深いため息を一つ。
昨日、嵐のように心をかき乱した気持ちは、穏やかな水面のようにちらりとも揺れず、心の一番深いところにしまうことができた。
よし!
大丈夫だ!
俺は苦笑してゆっくりと立ちあがり、まだ休憩時間は残っていたが、キッチンへと戻った。
※
俺が自分の気持ちを封じ込めてから数週間が経った頃、ある違和感を覚える。
佐倉が片思いしている男が、ぱったりと店に現れなくなったのだ。彼女自身も試験期間だからとバイトに来る日にちが減っていた。
俺はわずかに眉を寄せる。
もしかしたら、佐倉はあの男の告白して、それで両想いになったのかもしれない――
俺は、側で彼女の恋の応援をしてあげることももう出来ないのか――
不甲斐ない自分に、苦笑する。
※
三月になり、暖かい日が多くなってきた。
佐倉は試験期間を終えたのか、以前のように頻繁にシフトに入るようになった。その彼女がわずかな憂いを帯びているように見えるのは、恋をしているからだろうか。
両想いになって付き合いだしてからも、きっと悩みはあるだろう――
もし、そうならば、俺で相談にのれるだろうか――
そんな淡い期待を抱く。
その日も、普段どおり、昼過ぎからバイトに行き、キッチンに入る。
喫茶店の入り口にかけられてる鈴が鳴り、ホールから黒沢の声が聞こえる。
「いらっしゃいませー!」
俺はふっと仕込みの手を止め、顔を上げると、キッチンの前を見覚えのある男が通り過ぎた――それは佐倉の恋の相手、いつもは窓際角の席に座っていた男が、キッチンの前を過ぎ、奥にある禁煙席へと歩いて行った。
今日はまだ佐倉は来てない。確か、夕方からだったか……シフト票を確認していると、黒沢がキッチンに来て、グラスに水を注ぐ。
俺は、胸の中をうずうずと好奇心が駆けまわり、お冷をトレンチに乗せた黒沢を呼びとめる。
「黒沢、禁煙席に行ったお客様のとこに、俺がお冷持っていくよ」
黒沢は一瞬、きょとんと目を見開き、にかっと白い歯を見せて屈託なく笑う。
「いいっすよ、お願いします!」
何かあると気付きながらも、あえて詮索しない黒沢の穏やかな性格に感謝する。
「ありがとう」
そう言って、俺はお冷の乗ったトレンチを黒沢から受け取り、禁煙席へと向かった。
一段高くなった禁煙席に入り、その男を探す。男は中ほどにある四人がけの席に座っていた。
俺は静かに近づき、お冷をテーブルに置く。
「いらっしゃいませ」
そう言って、俺は初めてその男の顔を至近距離から見た。
男はメニューを開きながら、ちらっと店内を見回す。
「待ち合わせですか?」
「いえ……」
男は言いながら、やはり店内を気にしている様子だった。その様子は誰か探してるような――。
「失礼ですが、もしかして、店員の佐倉を探していますか?」
俺がそう言うと、男は苦笑した。
「ええ。佐倉さんは今日はいますか?」
「佐倉は、今日は夕方からですよ。聞いてないんですか?」
彼氏なのに聞いてないのか? そう含んだ言い方をした俺を、男はじーっと見つめる。
「もしかしてあなたが佐倉さんの……?」
「ん?」
俺が佐倉のなんだって?
男が何を言いたいのか分からなくて、首を傾げる。
「俺は梅田と言います。T大二年です。はじめまして」
なぜか自己紹介されて、俺もつられて名乗る。
「私はN大学三年の紅谷と言います」
「アイスコーヒーを一つお願いします。できれば、佐倉さんが来たら持ってきてもらえますか?」
俺は梅田をしばらくみつめ、頭を下げる。
「かしこまりました」
キッチンに戻ると、梅田の注文を三十三卓、客待ち、アイスコーヒーと伝票を打ち、カウンターに並べる。こうしておいて、佐倉が来た時に持って行かせればいいだろう。
きっと、梅田は突然やってきて佐倉を驚かせようというつもりなのだろう。いつも座っている窓側の席は入り口から見える、あえて奥の禁煙席に行ったのはそのためで。
俺に名乗ったことと、言いかけた言葉が少々引っ掛かるが、気にするほどのことではないだろう。
佐倉は突然やってきた梅田を見て驚くだろうか?
嬉しそうに頬を染めて笑うだろうか?
俺はそんなことを想像して頬が緩む。
しかし、後に、安易にそう考えたことを後悔する――
黒沢とキッチンで話していると、佐倉がやってきた。
「おはようございます……」
黒沢はぱっと佐倉に顔を向け、そして首をかしげる。
「おはよう、なんか最近、佐倉ちゃん元気ないよな? 大丈夫?」
そう言われて佐倉は苦笑する。
「そうかな? 大丈夫だよ」
大丈夫とは言うが、佐倉は本当に、目にみえて元気がなかった。もしかして、梅田と喧嘩した、とか。それで元気がないのか?
俺がそんなことを考えていると、タイマーが鳴り、トースターからパンを取り出し、手際良く切って皿に並べて、カウンターに置く。
「提供あがります」
「はい、行ってきます」
黒沢が言って受け取り、ホールに出て行った。
俺は黒沢の後ろ姿を見送ってから、佐倉に視線を向ける。
「もしかして彼のことが気になるの?」
付き合っているのだから、“彼氏”だよな。
佐倉は目を見開いて、その瞳が動揺に揺れる。そんな不安そうな顔しなくても、すぐに仲直りできるさ。
俺はくすっと笑って、棚からグラスを取り出しアイスコーヒーを注ぎ、カウンターに置く。
「これ、三十三卓にお願い」
佐倉は俺の視線から逃れるように、手際良くアイスコーヒー、コースター、ストロー、ガムシロとミルクをトレンチに乗せると、禁煙席に向かった。
きっと彼女は笑顔で戻ってくるだろう――俺は、確信する。
キッチンに戻ってきた佐倉を見て、俺はニヤニヤと頬が緩んでしまう。
「どうだった?」
「どうって……」
俺がそう聞くと、横を向いてため息をつく佐倉。
あれ?
予想と反応が違う……
「紅谷さん、首突っ込みすぎですよ」
そう言った佐倉が、ほんのりと笑ったのを見て、俺は顎に手を当てて笑う。
「だって、興味あるし」
それは本当。でも本当は――
その時に、黒沢が戻ってきて興味津々に尋ねる。
「なになに、面白い話?」
佐倉は俺を上目づかいで見、これ以上追及しないでくれと視線で語り、苦笑してホールに逃げて行った。
しばらくして、キッチンに戻ってきた佐倉はそわそわと落ち着きがなく、何度も腕時計で時間を確認していた。
「もしかして、彼、佐倉に話しがあるって?」
そう言うと、佐倉が眉間にしわを寄せて俺を見、俯いた。そういえば、さっき佐倉はこの話題には触れるなと視線で言ってたな……そう思った時、彼女が顔を上げた。その瞳には迷いが一切ない。
「実は休憩時間に少し話したいと言われてて」
頬を染めながら話す佐倉をみつめる。
「ふーん」
俺が笑うと、恐々といった感じで佐倉が俺を見上げてきた。
「じゃあ、そろそろ休憩行ってきていいよ」
俺は、パンを引き寄せ手早くミックスサンドを作る。
「そうします」
しばらく考え込んでいた佐倉が頷いたので、俺は作ったミックスサンドをカウンターに乗せ、カップにカフェオレを注ぐ。
「じゃあ、はい。ミックスサンドとカフェオレ、俺の奢り」
そう言って笑った俺に佐倉はにこっと笑い返して、ミックスサンドとカフェオレをトレンチに乗せるとロッカールームに向かった。
しばらくして、ロッカールームから私服で出てきた佐倉をみて、かすかに痛む胸に微笑んだ。
きっと、彼女は休憩を終えた時、笑って帰って来るだろう。
それだけで、俺はいいんだ――
本編第6話後半部分、第7話前半部分の裏側です。