第1話 凍てついた心を溶かすのは・・・
「恋をあきらめたその時は・・・」の紅谷視点のお話です。
楽しんで読んで頂けたら、嬉しいです。
どうして、雪には色がないのだろう――
どうして、雪はこんなに冷たいのだろう――
サクラがあまりにも鮮やかに色づいて咲いているから、心が苦しいほどに深く恋い慕って――あまりにも熱い気持ちを抱えて、心が溶けてしまうかもしれない。
※
俺の名前は紅谷 雪路、大学三年。少し伸びた癖のある黒髪、母親譲りの均整のとれた顔立ち、自分でもそれなりにもてると思う。今までの人生、自分から告白したり、告白されたりして何人かの女性とも付き合ってきた。
みんな初めはこう言う。雪路って優しいね、って。
だけど付き合いだしてしばらくすると、必ずこう言って彼女は去っていく。
「雪路はみんなに優しくて、その優しさが、時々すごく寂しくなる。優しいけど……雪みたいに冷たいね」
優しいのに冷たい?
俺にはその言葉の意味が理解できなかった。
別に、冷たくしている覚えはない。ただ、俺には彼女よりも叶えたい夢があったから――去っていく彼女を止めはしなかった。
その時の彼女は、とても寂しそうな顔をしていたが、俺には引き止めるだけの理由がなかったのだ。
※
その年、バイト先に大学一年の女の子――佐倉 もも――が新しく入ってきた。
佐倉は初め失敗ばかりしていて、心配で目が離せないと思った。しかし失敗はするものの覚えはとても早く、不器用なのか要領がいいのか、よくわからない不思議な子だった。ホールでは元気いっぱいの笑顔を振りまいて、周りの人を明るくさせ、気難しい常連のお客様にもすぐに名前を覚えてもらっていた。
俺と佐倉はシフトが重なることが多く、キッチンを任されている俺が必然的に仕事を教えることとなり、すぐに仲良くなった。彼女と話すのはとても楽しく、子供の頃からの夢だった喫茶店での仕事がより一層楽しいものとなる。
歳が二つ離れているからか、佐倉は少し子供っぽく、からかうとすぐに顔を真っ赤にする。その顔が可愛くて、ついついいじめたくなってしまう。
ある日、ホールから戻ってきた佐倉がめずらしくぼーっとしているのでからかってみる。
「どうした? ホールにカッコイイ男でもいたか?」
冗談で言ったのに、佐倉はいつものように顔を真っ赤にして怒るのではなく――切なげに苦笑して去って行った。
そんな佐倉を見るのは初めてで、胸を鷲掴みにされたような衝動がはしる。
その時、俺は、彼女に恋に落ちてしまったのだろう。
でも、俺は将来、この喫茶店で社員として働きたいと真剣に考えている。今年は大学三年、秋には就職活動も始まる。恋にうつつを抜かしている暇はないし、そんな感情を持って喫茶店で働くのは嫌だった。
だから、俺は自分の気持ちに気づかないふりをすることにした。
恋ならいつでも出来る、最初はそんな簡単な気持ちだった。
俺は佐倉に対して抱いてしまった自分の気持ちを封じ込め、今までどおり普通に彼女に接した。それはそんなに苦なことではなく、自分でも忘れてしまうくらいの気持ちだったのに――
※
胸に淡い気持ちを抱いてから九ヵ月が経った年明けの一月。
俺は無事にバイト先から内定をもらい就職活動を終わらせ、佐倉に抱いた気持ちもすっかり忘れて、その日もバイトに明け暮れていた。
夕方の混雑する時間帯がやっと終わり、一息ついてホールを覗いた時、佐倉が窓側のお客様に頭を下げ、首をかしげながら通路を歩きだしたのが目に入った。俺は、何かトラブルでもあったのかとその客に視線を向けると、同年代くらい男が一人座っていて、去っていく彼女をじぃーっと見つめていた。その視線が気になって、俺はなんだか落ち着かない気分になる。
佐倉がトレンチを片手にキッチンに戻るなり、大きなため息を一つつく。俺はそんな佐倉に話しかける。
「なぁ、あの客……」
目線で窓際、角の席を指し、言う。
「佐倉の知り合い?」
俺がそう聞くと、佐倉は目を大きく見開いてビックリする。
「えっと……」
「さっきからずっと、佐倉の事見てる気がするんだけど、俺の気のせいかな?」
俺は気になったことを言葉にする。気のせいならそれでいいのだが、そう思いながら佐倉を見ると、彼女は眉根を寄せて定まらない視線でぼーっとし、はっとしたように顔を上げ。
「気のせいですよー」
佐倉はそう言うと、ぎこちない動きでホールへと出て行った。俺は佐倉の後ろ姿を見て、彼女と窓際の客の間に何かあると確信を持った。
九時を過ぎ、佐倉は上がりの時間になり、お疲れさまでした、と言って帰って行く。平日のこの時間から閉店の時間までは、そんなに客も多くないのでバイトが二人だけになる。彼女が帰ってしばらくして、もう一人のバイトの黒沢がトイレに行ってしまったので、俺は食器でも下げようかとホールに向かう。
出入り口とキッチンの近くの席で食器を下げていると、常連のお客様がやってきた。
「いらっしゃいませ!」
そう言ってお辞儀をし、どの席に座るかを確認しながらお冷を取りにキッチンに戻ろうとした時、お客様の声に振り返る。
「おっ、佐倉ちゃん、デートかい?」
窓側の席に視線を向けると、今日佐倉に意味深な視線を送っていた男の席に彼女が一緒に座っていて、目を見張る。
彼女は、顔を真っ赤にして立ちあがると、そそくさと出口に向かい喫茶店を出て行ってしまった。
キッチンの入り口で、その成り行きを呆然と眺めていたところに、黒沢がトイレから戻ってきた。
「紅谷さん、どうかしました?」
「……なんでもない。お客様が二卓に来たから、お冷頼む」
そう言って黒沢にホールを任せ、キッチンに戻る。
俺はカウンターに両手をつき、俯く。
胸がじりじりと焼けるように痛む。
忘れたと思っていた感情がすごい勢いで胸に渦巻き、数ヵ月ぶりに痛む胸に手を当て、俺は嘆息をもらした――
※
次の日のバイト。
ウォッシャーから出したばかりの洗われて熱くなった食器を布きんで包むように持ち拭いていると、佐倉がやってきた。彼女はぼーっとした足取りでキッチンに入り、立ち止まると目をつむり、勢いよく頭を左右に振る。その様子があまりに可愛くて、ふっと頬が緩む。
昨日、改めて自分の気持ちに気づいてしまった俺は、それでも気づかなかったことにしようと決めた。
もし、佐倉にその気持ちを伝えて付き合うことになったとしても、一年後にはおそらく違う支店に配属されるだろう。社会人として働きだす俺には、恋と仕事を両立させられるだけの器用さを持ち合わせていなかった。
過去に付き合ってきた彼女との経験から、そう実感している。
俺は緩んだ口元を引き締め、さりげなく佐倉に話しかけた。
「なにやってるの? 佐倉」
そう尋ねると、佐倉は苦笑いしてカウンターに寄りかかり、上目づかいに聞く。
「なんでもないですよ。注文、なにかあがりますか?」
「ああ。じゃあ、冷蔵庫からケーキ取って、このケーキセットを先に提供してきて」
俺は言って、拭いたばかりのティーカップを二つ置き、コーヒーと紅茶を注いでカウンターに置く。佐倉はそれを受け取り、トレンチにバランスよく乗せてホールに出て行った。
夕方の混む時間帯は無駄口をたたく暇もなく、ひたすら上がって来る注文を手際よく作っていく。サンドウィッチ、パスタ、飲み物、パフェ……エトセトラ。
カウンターにずらっと並んだ伝票が提供を出すごとに一つずつ減り、最後の伝票を持って、佐倉がホールに向かう。俺はサンドウィッチを作った時に手についたマーガリンを布きんで拭い、両手を組んで上にあげ、大きく伸びをする。
提供を終えた佐倉がキッチンに戻ってくるなり、大きなため息をした。
「お疲れさん」
俺はそう言ってふっと笑う。佐倉は笑い返し、ウォッシャーに皿を並べながら言う。
「やっと落ち着きましたね」
「一段落ですね」
ホールから戻ってきた黒沢もそう言って、下げてきた食器を流しに置いた。
「ああ。でも今日は金曜だから、このまま空くことはないだろうな……あっ、佐倉か黒沢、先に休憩行ってきな」
落ち着いた今のうちに交代で休憩に、そう言った時、ホールからお客様の呼ぶ声がする。
「すみません」
「あっ、私行くから黒沢君お先に休憩どうぞ」
その声に、佐倉がすぐに反応してホールに出ていった。
どうやら、コーヒーのお代わりだったようで、佐倉はすぐにキッチンに戻ってきてコーヒーポットを持ってまたホールへと出ていった。その様子を確認して、黒沢が先に休憩に入る。
俺は止まったウォッシャーから洗い終わった食器を出し、次に洗う食器の入った入れ物をウォッシャーにかけ、洗い終わった食器をふきあげ、拭き終わった食器を片しにキッチンの奥に向かう。
「コーヒー追加です」
しばらくして戻ってきた佐倉の声が、わずかに上ずっていて不審に思いながら、顔を上げてキッチンに取り付けられた画面に視線を向ける。打たれた伝票は、このキッチンの画面に表示され、キッチンの中からでも注文が分かるようになっている。見ると、一卓にコーヒーが追加だった。
一卓――それは、窓側角の席。昨日、佐倉に意味深な視線を投げかけ、バイトを終えた彼女と何か話していた男が座っていた席で、その男は今日も来ている。
彼女の声が僅かに動揺していたのに納得する。
思い出してみると、その男は週に三~四回ほど来るそれなりに常連の客だった。
昨日、俺が知り合いかと聞いた時、佐倉は否定をしなかった。
つまりそれは、知り合いか、佐倉の片思いということ。なんとなく、昨日の佐倉の様子を見てそう感じた。
もしかしたら、佐倉はあの客のことが好きなのかな――と。
俺はキッチンの奥から顔を出し、空のコーヒーカップをカウンターに置いた。
「はい、お願い」
そう言って口角を上げて笑う。
「あの……」
佐倉は眉間にぎゅっと皺を寄せて、俺を見る。
「いいから、いいから」
俺はニヤニヤと笑いながら、カウンターに片肘をつきその上に顎を乗せて、佐倉をじーっとみつめる。
もし、佐倉がその客のことを好きなら、協力してもいいかな、そんなことが頭をよぎる。彼女の恋なら応援してあげたいし、実って彼女が幸せなら、それもいい。
恋にしどろもどろする彼女は見ていて可愛かった。
だから俺は、本来ならキッチン担当の俺が淹れなければならないコーヒーを、彼女に任せようとしたのだ。
もし、彼女が躊躇えば、それは俺の予想が当たっている証拠。それなら応援しようと思って――
彼女はおろおろとカップと俺を交互に見比べ……がしっとカップを勢いよく引き寄せ、一気にコーヒーを注ぎ、それをトレンチに乗せ、よろめきながらホールに出て行った。
その彼女の後ろ姿を見つめ、俺はちくんっと痛む胸に気づかないふりをして、そっと微笑んだ。
しばらくはホールから戻って来ないだろうと思っていたのに、佐倉は予想に反して、ぱたぱたっとすぐにキッチンに戻ってくる。
俺が驚いて佐倉を見ると。
「もう、変な気を効かせないでください!」
佐倉はほんのり染まった頬を隠すようにして、小声で怒る。俺はその姿に知らず頬が緩み、優しく言った。
「なんだ、もっとゆっくりして来ればいいのに」
「そんなことできないですよっ! 今はバイト中なんですからっ」
「大丈夫だって、いま注文も提供も落ち着いてるんだから」
「って、そういう問題じゃないですよ! 本当に、知り合いとかそんなんじゃないんですからっ!」
そう言って、佐倉は涙目になって必死に訴える。
そっか、きっと片思いなんだな。
俺はそう心の中で思って、話しかける。
「でもさ、昨日バイト上がりに何か話してたでしょ?」
俺が聞くと、佐倉は大きなため息をついて。
「本当に、なんでもないんですよー」
そう言った佐倉の頬が真っ赤になっていたのに気づいて、俺がニヤニヤと見ていると、彼女は逃げるようにホールに行ってしまった。
今の俺は、胸に宿るこの小さな気持ちを“恋”と認めてしまうだけの勇気がなかった。
だから俺は自分の気持ちを殺す代わりに、彼女の恋を少しでも支えて上げることが出来ればいい――そう思い、苦笑した。
本編第1話~4話の裏側です。
紅谷はこんな感じで、佐倉を見つめていました。